エドガー・アラン・ポー著、江戸川乱歩訳「黒猫譚」
私がこれから書き綴らうとするのは、世にも不気味な、而も極めてありきたりな物語であるが、私は読者にそれを信じて貰ふこと、を予期しもしなければ歎願しもしない。かう言ふ私自身の五感すらが吾れと吾が経験を信じようとはしないのだから、他人にこれを強ふるのは狂気の沙汰であるかも知れない。然し私は狂人でもなければ、夢みてゐるのでもない。唯、明日死ぬべき身の私は今日こそ懺悔をして魂の重荷を軽くしたいと思ふのである。私の直接の願ひは、単なる家庭の出来事を発端から終結まで率直に手短に注釈なしに世の中に曝け出したいと言ふに過ぎない。その出来事は私をして恐怖せしめ、懊悩せしめ、遂に破滅せしめるに到つた。然し私はその出来事を説明しようとは思はない。何故ならばそれは私にとつてただ一途に恐怖そのものである。後になつて頭の良い人たちが私の幻想を日常茶飯事と見做すかも知れない。もつと落着いてゐて論理的にさうしてたやすく物に激しない人たちが出て、私が怖しさに駆られてかきつづる物語をただありきたりの原因結果の月並な連鎖に過ぎないと言ふかも知れない。
私は小さい時から素直で憐み深い性質をもつてゐた。私の心根のやさしさは却つてそれが仲間の嘲笑の種となる程際立つてゐた。とりわけ動物が好きで両親に甘へては種々様々の生物を飼ふことを許された。私はこれらの生物と終日遊びくらした。私は彼等に餌をやつたり撫つてやつたりする時ほど幸福なことはなかつた。この性質は年齢と共に激しくなつて行つた。成人してからはこれが、唯一の娯楽のやうであつた。忠実で怜悧(りかう)な犬を愛育したことのある人達に向つて私は、さうして得られた楽しみの性質や強度がどんなものか今さら説明する必要もあるまい。単なる「人間」の絲遊のやうな真実や御座なりの友情を、ふんだんに味つた人たちは、けだものの忘我的な献身的な愛情の中になにかしんと胸に徹(こた)へるものを感ずる筈である。
私は早婚であつた。さうして幸にも妻の心根は私の性向と相(あひ)和するものをもつてゐた。私が一方ならず動物を愛するのをみてとつて妻は、機会あぐ毎に最も好ましい生物を手に入れて来た。鳥類、金魚、犬、兎、小猿、それから「猫」を私達は飼つた。この猫と言ふのが非常に大きく美しく全身漆黒で怖しいまでに怜悧であつた。この猫の賢さといふ点になると日頃迷信などを信ずる気質でない私の妻も、昔から言ひ古された猫は魔法使の化身——と、言ふ伝説にしばしば言及するほどであつた。もとより妻がこんな事を真面目に信じてゐた訳ではない。私といへどここでたまたま思ひ出したから書いてみたまでの事である。
プルトウ(陰府の神)——これが猫の名であつた——は私の心をこめての愛物(ペツト)であり親友であつた。彼に食物(しよくもつ)をやるのはいつも私で、彼も亦家中どこでも私のゆく先々に付き纏うた。私が街へ出ようとする時でもついて来ようとするのだが、これを追ひ返すのは生やさしい事ではなかつた。
かうした状態で私たちの友情は長年続いた。この間、私の気質や性格は、飲酒の悪癖の為に(恥(はづか)しながら)すつかりこじれてしまつてゐた。私は日毎に悒鬱になり、苛立ち、他人の感情をいささかも省みなくなつた。妻に対しても乱暴な言葉を放つやうになつた。遂には妻の身体に手をかけるやうにさへなつた。こんな風で飼はれてゐる動物たちに至つてはもとより私の性質の変化をまざまざと感じさせられたのである。私は彼等をなほざりにしたのみならず進んで彼等を虐待した。兎なり、猿なり、犬なり、が偶然に或は私を慕ふ心から、私の足下にやつて来たりすると私は遠慮なしに酷くどやしつけてやるのであつたが、プルトウだけは流石に未だ労(いた)はる心が消えてゐなかつたものと見えてさうした虐待を受けずにすんだ。だが私の病気は日毎に深み――アルコホルの病ほど可怕(こは)いものがまたとあらうか――たうとうプルトウすら、彼も漸く年老けて、怒りぽくなつてゐた所為もあるか、私の癇癪の結果を経験するやうになつて来た。
ある夜、街の行きつけの酒場から酷く酩酊して私は家に帰つて来た。その時私は猫が妙に私を避けたがるやうに気を廻した。私は彼をギュッと抑へつけた。と猫は私の乱暴に不意を啖(くら)つていきなり私の手に咬みついて擦傷を負はせた。すると、忽ち悪鬼(デーモン)の怒が私の総身にいきりたつて来た。さうなると私は最早自分で自分が解らなくなつてしまふのである。私の生れながらの優しい魂は私の身内から飛び去つてしまつた。そのかはり悪酒に育くまれた地獄の感情が私の体ひとつびとつの繊維を震はせた。私はいきなりチョッキの褱(ふところ)からナイフを取り出すとそれを開いて猫の喉許をつかまへたままその片方の目玉を丹念に眼窩(めあな)から、抉り抜いた! 私はこの悪鬼のやうな惨行を筆にするにあたつてみづから身をののき顔の熱し来たるのを覚える次第である。
夜明と共に理性が甦つて来た。一夜の熟睡は前夜の酔をすつかり消してしまつた。私は前夜の犯行を想ひ、なかば怖れ、なかば悔に満ちた感情を経験した。だが其感情も高が一時的の影の薄いものであつたから、心底(しんてい)の性根には何の触れるところもなかつた。私は再び羽目を外した。酒に酔ひ痴れてその罪の記憶を忘れてしまつた。さうしてゐるうちに猫の傷も徐に癒えて行つた。眼玉の抜け落ちた眼窩はまことになんとも言へぬ怖しい相好であつた。然し今では別に苦痛はないらしかつた。彼はこれまで通り家の中を歩き廻つた。が私が近づくと案の定極度に怖れて逃げてしまふのである。あんなに私を慕つてゐた猫がかくも自分を忌み怖れてゐるのをまざまざと見せつけられると、私の遠い昔の心がいくらか残つてゐると見えて初めは随分哀しく思つた。だがかうした感情もすぐに癇癪に変つて行つた。さうして引続いて妙にひねくれた天邪鬼な精神が頭を擡げて来た。それは恰も決定的に私を打ち仆しにやつて来たやうなものであつた。かう言ふ精神状態について学問は何も説明してゐない。でも私は此意固地な感情こそ、人間の心の最も原始的な衝動の一つであり人間の性格を決定するところの分ち難き根本的な性能の一つであることを、自分の魂の存在を信ずる以上に深く信じて疑はぬものである。実際、外に何の理由もなく、ただそれをしてはいけないものだと言ふ事を知つてゐる為に、何遍となく、卑劣な或は愚かな行ひをやつてのけてしまふと言ふやうな事は何人にも経験するところではなからうか。ただ犯してはならぬ事を知つてゐる為にわざわざその「律法」を理性に逆らつて犯して見たい気持を経験しないだらうか。
このひねくれた天邪鬼な気持ちこそ、前にも言つたとほり私を全く破滅させてしまつたのである。自らの魂を虐げてみたい気持ち、吾とわが本性に暴虐を加へて見たい、ただ悪なる故に悪をして見たいと言ふ測りがたい心のあこがれ、——それがたうとう私を駆つてこの従順なけものにこれまで加へて来た危害を更に引続いて完成させて仕舞つたのである。ある朝、酷くも私は猫の首に索の輪をひつかけて、木の枝に吊した。心に激しい悔恨の痛みを感じ、涙を流しつつも、私はそれを縊り殺してしまつた。——ただ、彼が私を愛してゐたことを知つてゐたが故に、彼は私に対して殺すべき何の理由をも与えなかつたが故に彼を縊り殺したのである。さうする事が正しく罪であり、こよなく恵み深く、畏るべき天帝の限りなき憐さへ届かぬ地球に自分の魂を拋げ出すべき、万死に相当する罪を犯すことになると知つてゐた為にわざわざ縊り殺したのである。
この酷い行ひの果たされたその日、夜も闌けて、私は火事と言ふ魂消(たまぎ)る叫びに眠をさまされた。私の寝台の帷がめらめらと炎え最早家中一面火を被(かぶ)つてゐた。私と妻と召使とが、やつとの事で焔をくぐつて遁れ出た。が家は丸焼けになつた。私の全財産はことごとく烏有に帰した。それで私はいよいよ自暴に身を持ち崩した。
私は自分の残虐な行為と火事とを因果律で結びつける程心弱いものではない。だが私は事件の連鎖を詳く話してゐるのである。私はその一鎖をも不完全に残しては置きたくない。その火事の次の日、私は焼跡を訪れた。ただ一個所を除いて壁はすべて焼け落ちてゐた。この個所は家の中程にある余り厚くない仕切壁であつた。私の寝台の頭の方はこの壁に向つてゐた。此処の漆喰だけが火勢にかくも頑強に抵抗したのであるが、私はこれは最近此処が塗り換へられたといふ事実に帰した。この壁の周囲には真黒に人群りがして多くの人々が非常に綿密にまた容易ならぬ熱心さをもつてその特別な部分を調べてゐるやうであつた。
「変だね。」「奇妙だ。」或はそれと同意義な言葉がしきりにとり交されてゐるので私も遂に好奇心を唆られた。私は壁際に近寄つた。ところが真白な壁の上にまるで薄肉彫(bas-relief)でもあるかのやうに浮き出てゐる巨大な猫の形を見たのである。その姿は誠に驚くばかり雋永(せんえい)に描き出されてゐた。さうして索までがその頭に附いてゐるのではないか。
この幽霊——さうとしか思へない――を見た時の最初の私の驚きと怖れは非常なものであつた。がいろいろ考へてやつと心を鎮めた。想ひ出して見ると猫を吊したのはこの家に近接してゐる庭園であつた。火事の報らせでこの庭園はすぐ群衆で一杯になつた。この群衆の中の誰かが猫を木から引ずりおろして開け放しの窓から私の部屋の中に拋り込んだのに違ひない。これは多分眠つてゐる私を起す目的でやつたものと思はれる。そこへ他の側の壁が倒れて来てこの猫の死骸を、塗りたての漆喰にめり込せてしまつたのであらう。その壁の石灰(いしばい)が焔と死骸のアンモニヤとに作用されて今見るが如き画像を完成するに到つたものであらう。
かくて私は此処に詳述したやうな驚くべき事実に就いて、私の良心は、ともかくも、理性だけは納得させる説明を楽々と作り上げはしたが脳裏に写しこまれた印象は依然として消ゆるべくもなかつた。数ケ月の間、私は猫の幻から逃れることができなかつた。その間悔恨に似た――けれどさうではなかつた――一種の感情が胸の中に湧くやうになつた。かくて猫を失つたことを心さびしく感ずるやうにもなつた。今では病み付きとなつてしまつた。魔窟の中にゐても前の猫に代るべき、似たやうな恰好の猫を探すやうな心にさへなつた。
ある夜穢れた魔窟の中で酔ひ痴れてゐた時、ジン酒か、ラム酒かの、とにかくその部屋の主要な家具をなしてゐるところの巨大な酒樽の上に載つかつてゐる何やら黒いものが突然私の酔眼に映じた。私はしばらくこの酒樽のてつぺんを瞶(みつ)めてゐた筈である。然し、不思議でならなかつたことは、その時までどうしてこの黒いものに、気が付かなかつたかと言ふ事であつた。私は近付いていつた。手で触つて見た。それは一匹の黒猫であつた。非常に大きい奴で、丁度プルトウと同じ位であつた。見れば見る程プルトウによく似てゐた。只一個所違つてゐた。プルトウの斑(ぶち)は何処の部分にも白い毛は一本もなかつた。然し今度の猫ははつきりとはしないけれど白いぶちが殆ど胸許全体を覆うてゐた。
私が触ると、猫はいきなり起き上つてゴロゴロと喉を鳴らしながら体を私の手に擦り付けて来た。私に見付けられたのをひどく悦ぶかのやうに見えた。これこそ私の註文通りの猫であつた。私は直ぐに酒場の主人からそれを買ひ取らうとした。けれど主人はその猫は自分のものではないし、また見知り越しのものでもないし今見るのが初めてだと言ふのであつた。
私はなほも猫を静かに撫でてやつた。私が帰へらうとすると従いて来たさうな気振を示した。私は猫のするままに任せた。私は時折跼(かが)んでは彼を撫でてやつた。家に着くと、猫はそのまま居付いてしまつて、すぐと私の妻の並々ならぬお気に入りとなつてしまつた。
ところが私の方はすぐにこの猫に、嫌気がさして来た。これは私の期待したものとはまるで正反対であつたが、それがどう言ふ訳か皆目判らなかつた。只猫が私に対して愛慕の情を見せれば見せるほど胸がむかつくやうに嫌ひになつてくるのであつた。この嫌ひな煩はしい感情は次第に昂じて苦々しい憎悪に変つて行つた。私はこの猫を避けるやうになつた。羞ぢ怖れる感情と過ぎにし無残な振舞の思出があるのでこの猫を肉体的に苛めつけることは敢へてし得なかつた。私は何週間も彼を殴ぐつたり踏み蹂つたりするやうな事はなかつた。然し徐ろに実に徐ろではあるが名状しがたき嫌悪の情が募つて来てこの嫌らしい猫の姿を見ると、私は呪はしい疫(えやみ)の息吹から逭れでもするやうにしのび足で逃げ廻るのであつた。更にこの猫を怖れ憎む心を一層煽るに到つたのは、私が猫を連れ帰つた翌日、気が付いて見ると、矢張りプルトウと同じくこの猫も片目が抉りとられてゐると言ふ事を発見したからであつた。だがこの事は却つて私の妻をして益々猫を愛撫せしめる機縁となつた。私の妻は前にも言つたやうに以前私の性格の特徴であり、且つ素朴で清純な幾多の楽しみの源であつたところのあの憐み深い心を多分に持つてゐた。
ところが猫に対する私の嫌悪が次第に激しくなつて行くのに反して猫の方では愈々私に慕ひ寄るのであつた。私の足許に絡みつくその執拗さ加減は到底読者に了解するところではない。私が腰かけてゐると、必ず猫は椅子の下に跼み込むか、或は私の膝に飛び上つて、ところ嫌はずその呪はしい体を摩りつけるのである。私が立ち上つて行かうとすると両足の間に纏ひ付くので私は思はずよろめくのであつた。また、その長い鋭い爪を私の着物に引鈎けて胸の辺まで攀つてくるのである。
こんな時、私は一撃のもとに打倒したらと思ふのだけれど、それが如何しても断行出来ないのである。一つは以前犯した罪の記憶があるからでもあるが主な理由は(思ひ切つて白状してしまふが)この猫がただもう無性にこはかつたからである。
この恐怖はあながち身体的危害に対する恐れでもなかつた。と言つてそれを別にはつきり定義する事も出来なかつた。かかる事を告白するのはこの死刑囚の監房の中に居る身ですら恥しい限りである。がこの猫に対する恐怖は全く何の言はれもないただの妄想に依つて深められて行つたのである。妻も一再ならずこの猫の白い斑点に就いて私に話し掛けた。実際見たところではこれのみが私の前に殺した猫と異つてゐる唯一の目印であつた。読者はこの斑点が大きくはあるけれど、もとは非常に不明瞭なものであると私の言つたのを記憶されてゐるであらう。然し、殆んど目にわからぬ程度で、且つ私の理性は長い間それを空想として極力否定して来たのであるがその斑点が日増しに明瞭な輪郭を現して来るのであつた。その形は名を呼ぶさへ恐しい物の姿であつた。その為に私は一層この怪獣を憎み怖れて若し勇気さへあるならば一思ひに其奴を除いてしまひたいと願つたのである。
それは世にも不気味な異形の相――絞首の首形であつた。それは恐怖と罪悪、苦痛と死の悲しくも怖しい機械の形であつた。
かうして私は今や全く惨(みじめ)であつた。それは只物の哀れを覚える人間としてのみじめさだけではなかつた。このけだもの――其奴の仲間を私は手もなく殺してやつたではないか――そのけだものが、至上の神の御姿に擬(なぞ)らへて作られた人間の私にかくも堪へがたい苦痛を与へるのに到つたのだ――ああ、私はかくて昼も夜も安らかな休息のめぐみを受けずに過ぎねばならなくなつた。昼は昼で、この猫は一瞬も私の側を離れなかつた。夜は夜で私は口に言はれぬ怖しい夢を見た。ギョッとして目をさますと顔の上には生温かい其奴の息吹がかかつてくるのであつた。どう踠(あが)いても振り落し切れない夢魔(ナイトメア)の化身が胸板の上に無限の重さでのしかかつてゐるのであつた。
このやうな日夜を分かたぬ責苦の下に、微かながら残つてゐた私の善良な分子さへすつかり痺れてしまつたのである。邪(よこしま)な考——真暗な最も邪悪な考のみが跳梁するやうになつた。平常から気むづかしい私の疳癖が、いよいよあらゆる物、あらゆる人間へのにくしみと昂じて行つた。とりわけかうして突発的にただもう行きあたりばつたりに、何の抑制もなしに爆発する私の疳癖の最も頻繁な被害者は不平一つ言はぬ可哀想な私の妻であつた。彼女はいつもぢつと辛抱に辛抱を重ねてゐた。
ある日、彼女は何か家事向の用で、私達が貧乏から余儀なく住むやうになつた古い建物の穴蔵まで私の後をついて降りて来た。猫も私の後からその急な階段を降りて来たが危く私を真逆様に突き落すところだつた。私は嚇(かつ)として狂気のやうになつた。私は斧を翳して今の日まで私の手を止めてゐたあの子供ぢみた恐怖を腹立ちのあまり打忘れていきなり猫をめがけて打落した。実際それがそのまま行けば間違ひなく唐竹割になるところであつたが、この一撃は妻の手に依つて受け止められた。私はこの思はぬ邪魔だてに一層激昂して、悪鬼のやうに猛りたつと、抑へた妻の手から斧をぐいと引外していきなりそいつを妻の頭にめりこませた。妻は呻声一つ立て得ずそのまま息絶えてしまつた。
この忌はしい殺人に引続いて私は更に綿密な注意を以つて死体隠匿に取掛つた。昼でも寄るでもとにかく死骸を人目にかからず戸外に運び出す事は到底出来さうもなかつた。様々な計画が胸に浮んで来た。ある時は死体を細々に切り刻んで燃して仕舞はうかとも思つた。或は穴蔵の床を掘り下げて其処に埋めてやらうかとも考へた。又ある時は、庭園の井戸の中に、投げ込んでやらうと思つたり、いつそ商品かなんぞの体裁に箱詰にして運搬人に運び出して貰はつかと考へたりした。だが遂々(とうとう)最も打つて付けの妙案に思ひ当つた。中世の僧侶が彼等の犠牲を僧院の壁の中に塗り込んだと伝へられてゐるが丁度そんな工合に妻の死体も壁に塗り籠めてやらうと決心した。
かう言ふ目的にはこの穴蔵はもつて来いであつた。其処の壁は元々ぞんざいに作つてあつた上に最近粗末な漆喰を全体に塗つたばかりで且つこの穴蔵の淀んだ湿気のせゐで容易に固らなかつた。更にその壁の一つには向うに突き出した個所があつてそれは見せかけの煙突或は暖炉の為に作られたものであるがそこは塞げられてあつて穴蔵の他の部分と一見違はないやうにしてあつた。この個所の煉瓦を取り除いて其処へ死体を隠匿し、また元通りに塞いで何人の目にも怪しまれないやうにするのは易々(いい)たるものであると私は信じて疑はなかつた。
さうしてこれは全く思惑どほり成功した。私は鉄挺(かなてこ)で煉瓦を易々と取崩した。それから丹念に内側の壁に死体をたてかけて、その上に元通り煉瓦を積み上げたが一向手数はかからなかつた。私は灰泥(はひどろ)、砂、毛髪等を手に入れて極て周到な用意を以つて古い壁と区別(けぢめ)のつかぬやうな壁土を練上げた。さうしてこれを新しい煉瓦の上に綿密に塗り立てた。すつかり出来上つてしまふと私自らその仕上げの手際良さに満足した。壁は何処にも手を入れたやうな所は少しも無かつた。床の上に散らばつた塵屑は出来るだけ気を付けて一つびとつ拾ひ上げた。私は勝利を感じた。「これでやつと骨折の験(しるし)が見えて来たわい」私は独言を言つた。
その次の仕事は、この惨(いた)ましい行為の原因であるところの例の猫を探し廻る事であつた。
今度こそ猫を殺さうと決心したからである。若しこの時猫の姿が目に止まらうものなら其運命は知るべきであつた。然し敏感なこの獣は私の先刻の激怒に怖れをなして私の感情の和まぬ中は姿を現すまいと心をきめてゐるかのやうであつた。その嫌な猫がゐなくなつたのでホッとした私の深いしみじみとした嬉しさをなんと言つて告げたらよいであらう。夜になつても猫は出て来なかつた。初めて、この家に移つてから実に初めてこの一夜を私は安らかに、ぐつすり眠ることが出来たのである。さうだ、自らの魂の上に殺人の重荷を負うてゐながらもぐつすりと眠りを貪る事が出来たのである。
かくて二日目も過ぎ三日目も過ぎた。が私を苛むかの猫は猶も姿を現さなかつた。私は再び元の自由な人間に立ち還つてホッと息を吐(つ)いた。怪獣は私の権幕に怖れて永久に此家から立去つたのだ! もう二度とあの猫をみる事はないのだ! 私の幸福感は絶頂に達した。私の後暗い行為はいささかも私の心を乱さなかつた。二三の訊問も為されたが容易に言ひ開きが出来た。家宅捜索も行はれた。けれど、もとより、何の手掛りも発見されなかつた。この分なら未来も安全だと私は確信した。
殺人の四日目。全く不意に警察の一行がやつて来た。さうして再び屋敷内を非常な厳密さで捜索し始めた。然し死体隠匿の場所は到底判る筈はないと言ふ自信があつたので私は何ら動揺を感じなかつた。警官は私に捜索の先々に同行を命じた。彼等はあらゆる隅々を隈なく捜した。遂に彼等は穴蔵にも降りて行つた。それは三度か四度目であつた。私は筋一つ震はせなかつた。私の心臓の鼓動は何の罪もなく安らかに睡(まどろ)む人達のそれのやうに落着いてゐた。私はその穴蔵を端から端へと歩いてみせた。私は腕組をして平然とゆきつ戻りつした。警官達はすつかり満足した。で立去らうとした。然し私の心の悦びは抑制するべく余りに強かつた。私は、一つには勝利感を味ふ為には、二つには私の無罪を飽くまで彼等に確信させる為に只一言いはせて貰ひたかつた。
「皆さん!」私は一行が階段を昇りかけた時たうとう口を開いて仕舞つた。「私は皆さんの疑念を晴すことを得たのを心より嬉しく思ひます。私は皆様の御健康を祈ると同時に今少しく礼儀深くあらむことをも併せて望む者であります。それはさて措き、これは――これは実に頑丈(しつかり)した家でありまして――」(ただ私は無性に能弁を捲し立てたいと言ふ熱望のあまり自分で自分が何を饒舌るのやら少しも別らなかった)「全く素敵によく出来た家と申して宜しからうと存じますこの壁と来たら――おや皆さんもう行らつしやるのですか――この壁と来たら、芯から頑丈に塗上げてあるんですよ」此処で私は逆上した空元気を見せる為に手にした杖で、愛妻を埋めて煉瓦を積み重ねてある個所をトントンと可成り強く叩いた。
天帝よ、願はくば悪魔の顎(あぎと)より我を護らせ給へ! 杖の響が未だ消えもやらざる中にこれに応じて墓の中から一つの声が聞えて来た。
初めはどうやら、物を隔てて聞くやうな杜絶(とぎ)れ杜絶れの子供の啜り泣きとも思へたが、それが忽ちきりきりと高まつて長く引つぱつた叫び声、いやもうこの世ならぬ、人の声とも思へない――呻き、怒号となり、果ては、恐怖とも凱歌とも付さぬ慟哭に変つてゆくのであつた。かかる悲鳴は地獄に堕ちて苦しむ者と苦しめて自ら喜ぶ悪魔達の喉笛から、一緒になつて流れ出る陰府の声としか思はれなかつた。
その時私の心は語るも愚かである。私は殆んど気を失つてよろよろと向う側の壁までよろけて行つた。警官の一行は驚愕と畏怖とで一瞬間、階段の上にそのまま釘付けになつてしまつた。だが次の瞬間数本の腕がその壁をせつせつと毀しにかかつてゐた。壁は諸共にゴットリと落ちて来た。死体はもう可成り腐乱して、血が凝(こび) りついたまま、見てゐる人の前にすつくと立つてゐた。この死体の頭の上には、真赤な口をカッと開いて、隻眼をランランと光らせたかの猫――私を到々その術中に陥れ、人殺しをさせ、今また呻き声を立てて私を絞首人の手に渡したかの猫が坐つてゐた。
私はこの怪獣をも一緒に墓場の中に塗り込めてしまつたのだ!