東溪日記

聖読庸行

小説

【東渓文庫】芥川・菊池共訳「不思議の国のアリス」(中)

カロル著、芥川龍之介・菊池寛共訳「アリス物語」 五 芋虫の忠告 六 豚と胡椒 七 気違ひの茶話会 八 女王の球打場 五 芋虫の忠告 芋虫とアリスは、暫くの間黙り込んで見合つてゐました。しかしとうとう芋虫が口から水煙管をとつて、だるいねむさうな声で、ア…

【東渓文庫】芥川・菊池共訳「不思議の国のアリス」(上)

カロル著、芥川龍之介・菊池寛共訳「アリス物語」 一 兎の穴に落ちて 二 涙の池 三 コーカスレースと長い話 四 兎が蜥蜴(とかげ)のビルを送出す アリス物語は、英国のルウヰス・カロルと云ふ数学者の書いた有名な童話です。英国のヴヰクトリヤ女王がお読み…

【東渓文庫】梶井基次郎「瀬戸内海の夜」

瀬戸内海の夜(断片) 船は岬から岬へ、島から島へと麗しい航路を進んでゐた。瀬戸内海の日没——艫の一条の泡が白い路となつて消えゆく西には太陽の栄光はもう大方は濃い青に染んでしまつた雲の縁を彩つてゐたが、船の進んでゆく東の方はもう全く暮れてしまつ…

【東渓文庫】梶井基次郎「筧の話」

梶井基次郎「筧の話」 私は散歩に出るのに二つの路を持つてゐた。一つは渓に沿つた街道で、もう一つは街道の傍から渓に懸かつた吊橋を渡つて入つてゆく山径だつた。街道は展望を持つてゐたがそんな道の性質として気が散り易かつた。それに比べて山径の方は陰…

【東渓文庫】森鷗外「高瀬舟」

森鷗外「高瀬舟」 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護…

【東渓文庫】梶井基次郎「蒼穹」

梶井基次郎「蒼穹」 ある晩春の午後、私は村の街道に沿つた土堤の上で日を浴びてゐた。空にはながらく動かないでゐる巨きな雲があつた。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳を持つてゐた。そしてその尨大な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら…

【東渓文庫】ポー「黒猫」乱歩訳

エドガー・アラン・ポー著、江戸川乱歩訳「黒猫譚」 私がこれから書き綴らうとするのは、世にも不気味な、而も極めてありきたりな物語であるが、私は読者にそれを信じて貰ふこと、を予期しもしなければ歎願しもしない。かう言ふ私自身の五感すらが吾れと吾が…

【東渓文庫】広津和郎「或る夜」

広津和郎「或る夜」 或る夜、家人が寝鎮まってから、私がひとりで机に向って起きていると、何ものかが畳の上をカサコソと這う小さな音がした。私は読んでいた雑誌から眼をその音の方へ移すと、そこには足の辺りに気味の悪い赤味を帯びた大きなげじげじが一疋…

【東渓文庫】横光利一「鞭」

横光利一「鞭」 (入力者注:以下の内容は自殺の要素を含みます) 船が長崎を出てからの最初の夜になって私が夕食をとろうとしていると、急に無線電信がかかって来て一等船客の乙竹順吉と云う青年に自殺の虞れがあるから監視を頼むと云って来た。私が事務長…

【東渓文庫】金史良「蛇」

金史良「蛇」 築地通りの空地のほとりに、或る霧の深い夏の朝六時、見る目にも壮大な体をした一人の男が、のっそりと現われ出た。朝霧も彼には恐れをなしたかのように、しらじらと薄らぎ始める。上服は灰色のよれよれの折襟の下はコールテンズボンだった。 …

【東渓文庫】梶井基次郎「鼠」

俺が戯れに遁してやつた鼠よ。可愛い鼠よ。貴様はほんたうに可愛らしかつた。若い肥えた身体、それから茶色の毛。溝の鼠なら靴ふき毛のやうにきたないのにお前の毛は一本一本磨いたやうだつた。清潔だつた。そして貴様は十七の娘のやうな身体をしてゐたのだ…