アリス物語は、英国のルウヰス・カロルと云ふ数学者の書いた有名な童話です。英国のヴヰクトリヤ女王がお読みになつて大変感心遊ばされ、此の作者の他の著作をもお求めになつて見たところ、それらはみんな数学書であつたと云ふ逸話さへ伝はつてゐます。「ピーターパン」などと併称され、英国の児童に最も人気のある童話です。日本の童話などとはまた違つた夢幻的な奇抜な奔放な味のある面白い物語です。
かうした童話も、一冊だけでは本全集(注:「興文社 小学生全集」のこと)に入れねばならぬと思ひます。
アリス物語には、「不思議国めぐり」と「鏡の国めぐり」と二つありますが、後者は紙数の都合で入れることが出来ませんでした。だが、前者の方がはるかに面白いのです。
この「アリス物語」と「ピーターパン」とは、芥川龍之介氏の担任のもので、生前多少手をつけてゐてくれたものを、僕が後を引き受けて、完成したものです。故人の記念のため、これと「ピーターパン」とは共訳と云ふことにして置きました。
はしがき
アリス物語は、一つの夢であります。読んでゐるうちに、児童の心を知らず知らず、夢の国へつれて行つてしまふ、物語であります。
かうしたものも、本全集に、是非一冊だけは収録することが、必要であると思ひます。
昭和二年十一月
アリス物語
一 兎の穴に落ちて
アリスは姉様と一緒に、土手に登つてゐましたが、何にもすることがないので、すつかり厭(あ)き厭きして来ました。一二度姉様の読んで居た本を覗いて見ましたけれど、それには絵も、お話もありませんでした。「こんな御本、何になるのだらう。絵もお話もないなんて。」と、アリスは考へました。
それでアリスは、暑さにからだがだらけて、睡くなつて来るのをおさへるために、出来るだけ一生懸命心の内で、一つ起き上つて花環(はなわ)を作る雛菊を摘みにでも行かうか、どうしようかと考へて居ました。するとその時、突然(だしぬけ)に桃色の目をした白兎が、アリスのすぐ傍を駈けていきました。
しかし、これだけのことなら、別に大して吃驚(びつくり)するほどの事はありませんでした。又アリスはその時兎が独語(ひとりごと)に「おやおや大変、遅れてしまふ。」と言つたのを聞いても、「おや変だな。」とも思ひもしませんでした。(後でよく考へて見ると、このことは不思議なことに違ひなかつたのですが、その時は全く当りまへのやうに思つたのでした。)けれども兎がほんとに、チヨツキのポケツトから、懐中時計をとりだして、それを見てから、急いで走つていきましたとき、思はずアリスは飛起きました。何故といつてアリスは、兎がチヨツキを着てゐたり、それから時計をとりだすなんて、生れて初めて見たのだと云ふことに気がつきましたから。で、珍らしいこともあればあるものだと思つて、兎の後を追つて、野原を走つていきました。そして兎が丁度、生垣の下の大きな兎の穴の中に、入りこんだのをうまく見とどけました。
すぐにアリスは兎の後をつけて、入つていきました。しかしその時は、後でどうして出るなんてことは、少しも考へて居ませんでした。
兎の穴は、少し許りトンネルのやうに、真直に通つて居ましたが、それから急に、ずぶりと陥(すべ)り込みました。あまりだしぬけなものですから、アリスは自分の身を止めようと思ふ間もなく、ずるずると、その大層深い井戸のやうなところへと、落ち込んでいきました。
井戸が大変深かつたためか、それともアリスの落ちて行くのが、ゆつくりだつたせゐか、兎に角、下りて行く間、アリスはあたりを見廻したり、これから先、どんな事が起るのかしらと、不審がつたりする暇が沢山ありました。先づ第一に、アリスは下を見て、どんなところへ来たのか、知らうとしましたけれど、余り暗いものですから、何にも見ることが、できませんでした。そこで、井戸の周囲を見ると、そこは、戸棚だの本棚だので、一杯でして、あちらこちらには、地図や絵が、釘にかけてありました。アリスが通りすがりに、一つの棚から壺を下すと、それには「橙の砂糖漬」と云ふ札が貼つてありましたが、アリスが残念に思ひましたことには、空つぽなのでした。アリスはその壺を、下にはふり込まうと思ひましたけれど、下に生物でも居たら殺す心配がありましたので、止めて落ちて行きながら、途中にある戸棚に、やつとそれを載つけました。
「まあ。」とアリスは独りで考へました。「こんな落ちかたをすれば、これからは二階から落つこちることなんか、平気の平左だわ。さうするとうちの人なんか、わたしをずゐぶん強いと思ふことでせうねえ。まあ、わたし屋根の頂辺(てつぺ)から落ちたつて何にも言やしないわ。」(これは実際ほんとでせう。と云ふのは屋根から落ちたら何にも言ふどころではありませんから。)
下へ、下へ、下へ。一体どこまで落ちて行つても、限(きり)がないのぢやないか知ら。「もう何哩(マイル)位落ちて来たのかしら。」と、アリスは大きな声で言ひました。
「きつと、地球の真中近くに来かかつて居るに違ひないわ。ええと、たしか、四千哩下が、真中だつたけ――。」(ちやうどアリスは学校の課業でこんな風なことを習つたばかりでした。けれども誰も聞いてくれる人なんか居ませんでしたから、アリスの学問のあることを見せるに、大層良い機会ではありませんでしたけれども、矢張りそれを繰返すといふことは、よいお復習(さらひ)でした。)「さうだ、もう丁度その位の距離になるわ――けれど一体、わたしはどの辺の緯度と経度に居るのか知ら。」(アリスは緯度や軽度が、どんなものであるか少しも分つては居ないのでしたけれども、さう云ふ言葉は大層素晴らしいものだと思つたからでした。)
そして直ぐ又、アリスは独語を続け始めました。「わたし地球を真直にぬけて落ちるのか知ら。逆立して歩いて居る人たちの間へ、ひよつこり出たら随分面白いだらうな。あれは反対人(アンテイパシイーズ)だわ(対蹠人(アンテイボデイーズ)とまちがへた)——(何だかその言葉が間違つて居る様でしたから、今度は誰も聞き手がないのをアリスは幸だと思ひました。)「けれど、わたしその人達に、その国の名は何といふのですかと、尋ねなければならないわ。もし奥様、この国はニユウジーランドですか、それともオーストラリヤですかつて。」(かう言ひながら、アリスは腰をかがめてお辞儀をしました。あなた方が宙を落ちて居るときに、お辞儀をすると、仮に思つてごらんなさい。そんなことができると思ひますか。)
「でも、そんな事訊いたら、向ふぢやわたしを何にも物を知らない娘だと思ふわ。いいえ、訊いたりなんかしちやいけない。多分どこかに書いてあるのが、見つかるに違ひないわ。」
下へ、下へ、下へ。外にすることがありませんでしたから、また直にアリスは、お話を始めました。「デイナーは、今夜わたしが居ないので、ずゐぶん淋しがつてるでせうね。(デイナーは猫の名でした。)お茶の時に家の者が、牛乳をやることを忘れないでくれればいいけれど、ディナー、お前も今此処でわたしと一緒にゐてくれるんだと、いいんだけれどねえ。宙には鼠は居ないかも知れないが、蝙蝠なら捕へられるわ。蝙蝠は鼠によく似て居るのよ。けれど猫(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。」するとかう言つて居る時アリスは、少し睡くなりだしたので、夢心地でしやべり続けて居ました。「猫(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。猫は蝙蝠を食べるか知ら。」そして時時「蝙蝠(バツト)は猫(キヤツト)を食べるか知ら。」と言ひました。アリスにはどちらの質問にも、答へができないのでしたから、どう言つても、大して変りはありませんでした。アリスはそのとき、うとうとと眠りに入(い)つた気がしましたが、その中デイナーと手をつないで歩いて居る夢を見て、大層まじめくさつて、こんな事を云つてゐました、「さあ、デイナー、ほんとのことをお言ひ、お前蝙蝠を食べたことがあつて。」このときアリスは、突然、枝だの、枯葉だの積んである上へと、どしんと落ちました。これで落ちるのもおしまひになりました。
アリスは、少しの怪我もしませんでした。そしてすぐに起ち上つて、上の方を見ましたが、真暗でした。アリスの眼の前に長い道が、一つ通つて居りました。そしてやはり例の白兎が、急いで其処を下りて行くのが見えました。一分だつてぐづぐづして居られません。風のやうに、アリスは飛んで行きました。すると丁度兎が角を曲るとき、かう呟いたのが聞えました。
「おお耳よ、鬚よ。何と遅れたことだらう。」アリスは、兎が角を曲るまでは、直ぐその後に居たのでしたが、曲つてみると、もうその影も形もありませんでした。そしてアリスは、自分が今長つ細くて、天井の低い広間に居るのを知りました。そしてその広間は、屋根から下つて居る一列のラムプで照らされて居りました。
広間の四方には、扉がありましたが、すつかり錠がかかつて居りました。そしてアリスは、あちこちの扉の処に行つて、開けようとして見ましたけれど、開きませんので、どうしたらまた外に出られるか知ら、と思ひながら、しをしをと真中の座に帰りました。と、不意にアリスは、小さい三本脚のテーブルにぶつかりました。それは全部硝子で出来てゐて、小さい金の鍵の外には、何にも載つて居りませんでした。アリスが先づ考へついたことは、この鍵は広間の扉のどれかに、合ふだらうといふことでしたが、まあ残念にも、どの穴も余り大き過ぎ、そして鍵が小さ過ぎて、とにかくどの扉も開けられませんでした。けれども二度目に広間を廻つたとき、以前(まへ)には気がつかなかつた低いカーテンに、目が留りました。カーテンの後には、約一尺五寸位の、小さい扉がありました。そこで小さい金の鍵を、穴に入れて見ますと、しつくり合ひましたので、もうアリスは大喜びでした。アリスは扉をあけました。すると、そこは鼠の穴位の、小さい出入口につづいて居りました。アリスが跪いて見ると、その出入口の向ふには、今まで見たことのない程の、立派な庭園がありました。アリスはどんなにこの暗い広間から出て、綺麗な花床の間をぶらついたり、冷たい泉の中を歩いたりしたかつたでせう。けれども、扉口(とぐち)から頭をだすことさへも、できないのでした。「わたしの頭がでたつて、肩が出なければ、何の役にも立たないわ。まあ望遠鏡のやうにのびたり、ちぢんだりできるといいんだけれども、初めのやり方さへ、どうすればいいのだかわかれば、あとはわたし出来ると思ふわ。」と可愛想なアリスは考へました。何故と云つて、いろいろ珍らしいことが、たつた今しがたまでぞくぞく起つたのですから。アリスはほんとに、できないものなんて、この世の中にはめつたにないものと、考へ始めたのです。
この小さい扉の処にいつまでゐても、何の役にも立たないやうに思ひましたので、アリスは、テーブルの処へ戻つていきました。ひよつとして、テーブルの上にもう一つ鍵が載つてゐたら有難いのだが、でなければ望遠鏡のやうに、人間をちぢめる規則が書いてある本があれば、などと思ひながら、近づいてみました。すると、今度アリスがテーブルの上に見つけたものは、小さな瓶(かめ)でした。(「これは確かに前にやなかつたわ。」と、アリスは言ひました。)そしてその瓶の首には、大文字で綺麗に印刷された紙の札が貼つてあつて、それには「お飲みなさい」と書いてありました。
「お飲みなさい」と書いてあるのは、大層有難いことでしたが、悧巧なアリスは、あわてて、そんなことをしようとはしませんでした。「いいえ、わたし先づ初めにしらべて見なくちや、「毒薬」と書いてあるかどうか。」と、アリスは言ひました。何故ならば、アリスはこれまでに、火傷をしたり、怖ろしい獣に食はれたりした子供の、いろいろなお話や、又は其の他のいやなことの書いてあるお話を、読んで居ました。そしてこんな出来事は、みんなその子供がお友達から教へられた分り易い法則を、覚えて居なかつたからなのでした。その法則と云ふのは、たとへて言へば、赤い焼火箸を長く持つて居ると、火傷をするとか、ナイフで指を大層深く切れば、いつも血が出るのだと云ふことなのです。ところでアリスは「毒薬」と書いてある瓶(びん)の水を、沢山飲めば、遅かれ早かれきつと身体をこはすと云ふことを、決して忘れずに居りました。
けれども、此の瓶には「毒薬」と書いてありませんでしたから、アリスは思ひ切つて、嘗めて見ました。すると、大層うまいものですから(それは桜桃(さくらんぼ)の饅頭だの、カスタードやパインアップルや七面鳥の焼肉や、トフヰー、それからバタ附パンなどを、混ぜ合せたやうな味でした。)アリスはすぐにすつかり飲んでしまひました。
「あら、何だか変な気がしてきた! わたし望遠鏡のやうにちぢまるに違ひないわ。」とアリスは呟きました。
それは、実際その通りなのでした。アリスは今ではほんの一尺程しか丈がありませんでした。そして、アリスはこの大きさなら、小さな扉を通つて綺麗なお庭に行けると思つたものですから、アリスの顔は、ニコニコして居りました。けれども最初の中アリスは、自分はこれより小さくちぢむのぢやないかと知らと思つて、一寸の間様子を見て居りました。アリスにとつて、それは一寸気懸りな事でした。「なぜつて、ことによると、おしまひには、私は蝋燭みたいに消えてしまふんぢやないかしら。さうしたら一体何ういふ事になるのだらう。」と、独語を言つて居りました。そして、アリスは、蝋燭が燃えてしまつてからは、蝋燭の炎は、どんな風に見えるか知ら、といろいろ頭の中で骨を折つて考へてみました。それもその筈です。何しろアリスはそんな物を、今までに見た覚えがありませんでしたから、しばらくしてから、もう何も起らないのを知つて、アリスは直ぐに庭園へ出ることにしました。ところが、まあ可哀想にアリスは、戸口に行きましたとき、小さな金の鍵を忘れて居るのに、気がつきました。で、それを取りにテーブルの処へ引返しました。が、その時アリスは、鍵に手がとどかないのに気がつきました。しかもテーブルが硝子で出来て居るものですから、鍵はそのガラスを透かして、アリスに全くよく見えるのです。アリスはテーブルの脚の一本に攀じ上らうと、一生懸命にやつて見ましたけれど、つるつるしてゐて上れません。それで疲れ切つて、可哀想にもアリスは、坐り込んで泣き出しました。
「まあ、そんなに泣いたつて仕様がないぢやないの。」とアリスは一寸鋭い声で自分に云ひました。「たつた今お止め!」アリスは大抵、自分にかう云ふよい忠告をするのでした。(けれども滅多に従つたことはありませんでした。)時によると、自分の眼に涙が出る程、手きびしく自分を叱ることがありました。アリスが或時自分相手に、珠投げ遊びをやつて居りましたとき、自分が自分を騙したと云つて、耳打をくらはせたことがありました。何故つて、この変りものの子供は、自分を二人の人間のやうに取り扱ふのが、好きなのでした。「でも、今は二人の人間のやうに、振舞ふのは駄目だわ。」と、可哀想なアリスは考へました。「何故つて、一人の立派な人間だけの、振舞もできないんだもの。」
不図、アリスはテーブルの下に、小さな硝子の箱があるのに目をつけました。それを明けると、中には、大層小さな菓子が入つて居て、それには乾葡萄で綺麗に「お食べなさい」と書いてありました。「え、食べるわ。」と、アリスは言ひました。「これを食べて、わたしがモツト大きくなるのなら、鍵に手が届くし、もつと小さくなれば、扉の下の隙間にもぐり込めるわ。どちらにしても、お庭に出られることになる。どつちになつたつて構やしないわ。」
アリスは一寸食べました。そして心配になつて独語をいひました。「どつちかしら、どつちかしら。」さう言ひながら、どつちになるのだか知るために、頭の上に手を載せて居りましたが、驚いた事に、ちつとも変りが起らないのでした。真実のところ、人がお菓子を食べた時、そんな風に何も起らないのが当前なのですが、アリスは今何かすれば、変つたことが起るもののやうに、待ちうける癖がついてしまつたものですから、何でもあたり前通りになつて行くと、全く退屈で馬鹿らしく思ふのでした。
そこでアリスは又、せつせと食べだして、間もなくすつかり食べてしまひました。
二 涙の池
「変ちきりん、変ちきりん。」とアリスは叫びました。(余り驚いたものですから、アリスはその時、もつと正しい言葉を使ふことを忘れてしまつたのでした。)「今度は世界一の大きな望遠鏡のやうに、むやみと伸びるわ。足さん、左様なら。」(何故つて、アリスが下を見ると、足は最(も)う見えなくなるほど、ズツと遠くへ行つて居りました。)「まあ、可哀想な足さん、誰がおまへに、これからは靴や靴下をはかせてくれるのか知ら。わたしにはできないと思ふわ。わたしお前と余り遠く離れ過ぎてしまつたら、面倒なんか見て上げられないわ。お前はお前で、出来るだけ旨くやつていかなければ駄目よ。——でもわたし間違ひなく親切にして上げなけりや。」とアリスは思ひました。「それでないと、わたしの歩きたい方へ歩いてくれなくなるから。さうねえ、わたしクリスマスの度毎に、新しい靴を買つて上げよう。」
そこで、アリスはどういふ風に贈物をしようかと、独りでその方法を考へてみました。「配達屋さんに、持つて行つてもらはなきやならないわ。」とアリスは考へました。「自分の足に贈物をとどけるなんて、まあ何んなに滑稽だらう。その名宛ときたら、ずゐぶんヘンテコなものだわ。
炉格子附近敷物町
アリスの右足様
アリスより
「まあ、なんてつまらないことを言つて居るのだらう。」
丁度この時、アリスの頭が広間の天井にぶつかりました。実際アリスはこの時、九尺以上も背(せい)がのびてゐたのでした。アリスは早速小さな金の鍵をとり上げて、庭の戸口へと急いでいきました。
可哀想に、アリスは、今では横に寝ころんで、片目で庭をのぞくのが関の山でした。ぬけだすことなど、ますますむづかしいことでした。それでアリスは坐り込んで又泣き始めました。
「お前恥づかしく思はないかい。」とアリスは言ひました。「お前のやうな大きな女の子が、こんなに泣くなんて。すぐと泣くのをお止め。」そのくせアリスは相変らず、何升となく涙を流しながら、泣きつづけました。それでとうとうアリスの身の廻りに、一つの大きな池ができて、四寸位の深さになりました。そして広間の半分位までとどいて行きました。
しばらくすると、遠くでバタバタと小さな足音がするのを、アリスは聞きました。それで、アリスはあわてて目を拭いて、何が来たかと見つめました。それは例の白兎なのでした。片手に白のキツド皮の手袋をもち、片手には大きな扇子を持つて、立派な服を着て戻つて来たのでした。兎はぶつぶつ独語を云ひながら、大急ぎでピヨンピヨン跳んで来ました。「オオ、侯爵夫人、侯爵夫人、オオ、あの方を待たしたら、お怒りが大変だらうな。」
アリスはもうその時すつかり困り切つて、誰でもよい、助けを頼まうと思つて居たところでした。それで兎がアリスの側へ近くやつて来ましたとき、低いビクビクした声で、「もしお願ひですが——」と言ひ始めました。兎はびつくりして、ひどく跳び上つて、そのはずみにキツドの手袋と扇子を落して、一生懸命暗闇の中へ、駈け出して行きました。
アリスは扇子と手袋を、拾ひ上げました。広間の中が大層暑いものですから、アリスは、始終扇子で煽ぎながら、話つづけました。「まあ、まあ、今日は、何て珍らしいことばかりあるんだらう。昨日なんかは、何もかも、いつもと変りなかつたわ、わたし一晩の中に、別の者に変つてしまつたのか知ら。ええと、わたし今朝起きたとき、いつもと同じだつたか知ら、何だか少し違つた気持がして居たやうにも思へるけど。でもわたし、同じ人間でないとしたら、それぢやわたしは、一体誰だといふことが、問題になつてくるわ。アア、それは大変な考へ物だ。」それでアリスは、自分と同じ年頃の子供の中、誰と変つたのかと思つて、知つて居る子供達を、あれかこれかと考へてみました。
「わたしアダ(エイダ)でないことは確かよ。」とアリスは言ひました。「何故つて、あの方の髪は、長い捲毛だけれど、わたしのはちつとも捲毛でないんだもの、それかといつてわたしメーベルでもないわよ。だつてわたし、こんなに物識(ものしり)なのに、ほら、あの子はほんのぽつちしか物を識つてゐないぢやないの。それに、あの人はあの人で、わたしはわたしだわ――マア何だかすつかり分らなくなつて来た。ええと私、今まで知つてゐた事をちやんと知つてゐるか、試してみよう。四五の十二、四六の十三、それから四七の――おやおや、こんな割合ぢや二十にとどかないぢやないの。でも、九九なんか面白くないわ。地理をやりませう。ロンドンはパリーの都で、パリーはローマの都で、ローマは――だめだわ、みんな間違つて居るわ。わたしメーベルと変つてしまつたに違ひないわ。わたし「小さな鰐が――」を唄つて見よう。」さう言つて、アリスは両手を前垂の上で組合せて、丁度学校で本でも読むように、歌をくり返し始めました。けれどもアリスの声はしやがれた妙な声で、文句がいつものやうにでてきませんでした。
小さい鰐がピカピカと、
光る尻尾をうごかして、
ナイルの水をかけまする、
金の鱗の一枚づつに、
さも嬉しげに歯をむいて、
きちんと拡げる肢の爪、
小さい魚を喜び迎へる、
につこりやさしい顎開けて。
「これでは確かに文句が違つてるわ。」と可哀想にアリスは言ひました。そして、眼の中には涙を一杯ためて、又言ひつづけました。「わたしとうとう(ママ)メーベルになつたに違ひないわ。わたしこれからは、あの汚い小さい家に行つて暮さなければならないのかしら、そしておもちやなんて、ろくにありやしないのだ。そしてまあいつでも沢山御本を読まされるんだわ。いいえ、わたし決心しちまつた。若しわたしがメーベルになつたのなら、ここに坐つたままで居るわ。みんなが頭を下げて『さあ、こちらへお出で。』と言つても、言ふことを聞いてやらないわ。わたしは上を向いたきりで言つてやらう。『でもわたしは誰なのですか。それを先に言つて下さい。そしてわたしが好きな人になつて居たのだつたら、わたし行くわ。さうでないなら、わたし誰か他の人になるまで、ここに坐つたままで居るわ。』つて。——でも、ああ何て事だ。」アリスは急に涙をドツと出して泣き出しました。「みんなお辞儀をして来てくれるといいんだが。わたし此処に独りぼつちで居ることは、あきあきしてしまつたわ。」
かう言つてアリスは、ふと自分の手を見ました。すると驚いた事には、喋つて居る内に、自分が兎の小さいキツドの白手袋をはめてしまつて居るのを知りました。「わたしどうしてこんなことができたのだらう。」とアリスは考へました。「わたし又小さくなつたに違ひないわ。」アリスは起ち上つて丈をはかりに、テーブルの処へと行きました。するとなるほど、思つた通りに二尺ばかりの背に、なつて居りました。そしてまだずんずん縮みかけて居りました。アリスは直ちに、これは扇子を持つて居るからだといふことに気がつきましたので、あわてて扇子を投げだして、身体がすつかり縮みこんでしまふのを、やつと免かれました。
「まあ、ほんとにあぶないところだつた。」と、アリスはこの急な変り方に、大層驚きながらも、自分の身体がまだなくなつてしまはなかつたのを、喜んで言ひました。「さあ、それぢやお庭に行かう。」アリスは大急ぎで、小さな扉口の処へ引返して来ました。ところが、おや! その戸は又、元通りに閉まつて、小さな金の鍵は前のやうに、ガラスのテーブルの上に載つてゐるではありませんか。「これでは前より悪くなつたことになるわ。」と可哀想な、この子は考へました。「わたしこんなに小さくなつたことなんか、決してありやしないわ。ほんとに、これぢやあんまりひどいわ。」
かう言つたとき、思はずアリスはするつと、足を滑らしたものです。そして、そのままポチヤンと、顎まで塩水の中に入つてしまひました。初めアリスの頭に浮んだのは、自分がどこか海にでも落ちたのだらう、といふ考へでした。「さうだつたら、わたし汽車ででも帰れるわ。」と独語を言ひました。(アリスは生れてから一度海岸に行つたことがありました。それでアリスは、英国の海岸なら、何処に行つてもそこにはいろいろの遊泳(およぎ)の道具があつて、子供たちが気の鍬(くは)で砂を掘つたり、それから宿屋が一列に並んで居たり、その後の方には、停車場があるものだと、大体思ひこんで居りました。)けれども、間もなくアリスは、自分が先き程背の高さ九尺程もあつたときに流した涙の池に、落ちて居るのだと云ふことに気がつきました。
「わたし、こんなに泣かなければよかつたわ。」とアリスは何うかして、上らうと思つて、泳ぎまはりながら言ひました。「あんまり泣いたので、自分の涙で溺れるやうな罰をうけるんだわ。でも随分妙な事があるもんだ。兎に角、今日は何から何まで変てこなことだらけだわ。」
丁度其の時、アリスは此の池で、自分から一寸離れたところで、何かが水をばちやばちややつてゐる音を聞きました。アリスは「何だらう。」と思つて、傍へズツと泳いでいきました。最初アリスはそれは海象(かいぞう)か河馬に違ひないと思つたものです。けれどもそれから自分が今では、どんなに小さくなつて居るかといふことを思ひだしました。それでアリスは直ぐに、それが自分と同じやうに、池の中に落ち込んだただの鼠なのだといふことが分りました。
「さうだ、この鼠に話しかけたら、何かの役に立つかも知れない。」と考へました。「何もかもここでは変つて居るんだから、鼠だつてお話ができるかも知れないわ。とにかくためしてみたつて、何の損にもならないんだから。」そこでアリスは言ひ始めました。「もし鼠よ、この池の出口を知つて居るの、わたし最う泳ぎ廻るのに、すつかり疲れちやつたの。もし鼠よ。」(アリスはもし鼠よと、かう言つて鼠に話しかけるのが正しいに違ひないと思ひました。何故つて今までに、こんなことをしたことがありませんでしたけれども、兄さんのラテン文法の文に「鼠が――鼠の——鼠に――鼠を――もし鼠よ。」と書いてあるのを思ひ出したのでした。)鼠はアリスの顔を穴のあく程見つめました。そして片方の可愛らしい目で、アリスに目くばせしたやうでしたが、何にもものは言ひませんでした。「多分英語が分らないんだわ。」とアリスは思ひました。「ウヰリアム大王と一緒に、渡つて来たフランスの鼠かも知れないわ。」(アリスがこんなをかしな考へ方をしたのも、一体歴史に就いてアリスは、何とか彼(かん)とか聞き齧つてはゐましたけれども、何が何年前に起つたのだと云ふやうな、明瞭(はつきり)した考へは持つてゐなかつたからです。)そこでアリスは、又言ひ始めました。「Ou est ma chatle?」(わたしの猫は、何処に居ますか。)これはアリスのフランス語の読本の最初に、あつた文章でした。すると突然鼠は池から跳び上り、その上まだおどろきで身体中を、震はせてゐるやうにみえました。「まあ、ごめんなさい。」と、アリスは可哀想な動物の気持を悪くしたと思つて、急いで言ひました。「わたしお前さんが猫をお好きでないといふことを、すつかり忘れて居ましたわ。」
「猫は好きでない。」と鼠は憤つた金切声で言ひました。「若し、お前さんがわたしだつたら、猫が好きになれるかい。」
「うん、さうなりや多分好きにならないわ。」とアリスは宥めるやうな声で言ひました。「おこらないでね、けれどわたし家(うち)のデイナーだけは、お前さんにだつて見せたい位よ。お前さん、デイナーを一目見た日にや、きつと猫が好きになるにきまつてるわ。それは可愛らしい、おとなしい猫なのよ。」と、アリスはぐづぐづ池の中を泳ぎ廻りながら、独語のやうに、話して居りました。「その猫は、暖炉の側でやさしい声でゴロゴロ云つたり、前足をなめたり、顔を洗つたりするのよ――それから子供のお守をさせるのに、優しくつてとてもいいの。——そして鼠をとることなんか、素敵に旨いのよ――あらつ、かんにんしてね。」とアリスはまた叫びました。何故なら、今度こそは鼠が身体中の毛を逆立てたので、もうすつかり怒らしてしまつたと感じたからです。「お前さんがいやなら、わたし猫達の話なんか止めませう。」
「わたし達だつて? ふん。」と鼠は尻尾の先まで、ぶるぶるふるはせていひました。「まるでわたしまでが、そんな話を一緒にやつてるやうに聞えるぢやないか。わたしの一家の者は、むかしから猫が大嫌ひだつたのだ。あんな汚らしい下等な賤しいものなんか、もう二度とあいつの名なんか聞かせて貰ひたくないもんだ。」
「ほんとにお聞かせしないわよ。」とアリスは大層あわてて、話の題を変へようとしました。「お前さんは――あの前さんは――好きかい――あの、犬は。」鼠は返事をしませんでした。それでアリスは、熱心に話つづけました。「家の近所に大層可愛らしい小さい犬が居るのよ。お前さんに見せて上げたいわ。」
「目の光つて居る小さいテリアなの。そしてまあ、こんなに長い茶色の捲毛をして居るのよ。そして何か投げてやると、すぐにとつてくるし、そして御馳走をせがむ時には、チンチンもするの。何でも、いろんなことをするのよ。——わたし半分位しか覚えて居ないわ。——その犬は百姓のよ――あんまり役に立つんで、その百姓は千円の価値があると言つて居るわ。そして鼠なんかすつかりかみ殺してしまふんだつて、——あら、また!」悲しい声でアリスは叫びました。「又怒らしてしまつたか知ら。」なぜなら、鼠は一生懸命アリスの側から、泳ぎ去らうとして、池中を騒騒しく掻きまはしたからです。
そこでアリスはやさしく後から、呼びかけました。「もし、鼠さん、戻つていらつしやいよ。お前さんが嫌なら、猫の話も、犬の話もしませんから。」鼠はこれを聞いて振り返つて、静かにアリスの所に泳いで来ました。鼠の顔は全く青くなつてしまひました。(怒つてゐるのだとアリスは考へました。)鼠は低いオロオロ声でいひました。「向ふの岸に行きませう、あすこでわたしは身の上ばなしをしませう。さうすれば、何故わたしが猫や犬が嫌ひだかお分りになります。」
丁度出かけるのによい時でした。何故といつて、池の中は、落ち込んだ鳥や獣でガヤガヤしはじめて居りましたから。鴨や、ドードー(昔印度洋の Mauritius に住んで居た大きな鳥)や、ローリー(一種の鸚鵡)だの、子鷲だの、いろいろな奇妙な動物が、集つて居りました。アリスが先になつて泳ぐと、みんな後から岸に泳いでいきました。
三 コーカスレースと長い話
池の土手に集つたものは、ほんとに奇妙な格好をした者たちでした。——尾を引きずつた鳥だの、ベツタリと毛皮が身体にまきついて居る獣たちで、みんなずぶ濡れで、不機嫌な、不愉快らしい様子をして居りました。
勿論、第一の問題になつたのは、どうして元通りに、身体を乾かすかといふことでした。みんなはこの事に就いて、相談を始めました。しばらくする中、アリスは、自分がこの者達と、馴れ馴れしく話をしてゐるといふ事が、全く当り前のことのやうに思はれました。まるで、皆と小さい時分から、知り合だつたかのやうに。で、実際アリスは、ローリーと随分長いこと議論をしましたので、とうとうローリーは不機嫌になつてしまつて、「わしはお前より年をとつてゐる。だからお前より、よく物を知つて居るに違ひないんだ。」と言ひました。しかしアリスは、ローリーの年がいくつだか知らないうちは、承知ができませんでした。ところがローリーは、自分の年を云ふことを、はつきりと断りましたので、議論はそれつきりになつてしまひました。
最後に、仲間の中で、幾分幅の利くらしい鼠が言ひ出しました。「みなさん、坐つてわたしの云ふことを、聞いて下さい。わたしは直ぐに皆さんをよく乾かして上げます。」みんなは、一人残らず坐つて、大きな環をつくりました。そしてその真中には鼠が坐りました。アリスは心配さうに、鼠をヂツと見て居ました。何故なら、早く乾かしてもらはないと、ひどい風邪でも引きさうで、しやうがありませんでしたから。
「エヘン。」と鼠は、勿体ぶつた様子をしました。「皆さん初めてよろしいですか。これはわたしの知つて居るかぎりでは、一番干からびた面白くない話です。どうか皆さんお静かに――さて法王より許しを得たウヰリアム大王は、やがてイギリス人の帰順をうけたのであります。その時イギリス人は指導者を必要として居ました。そして専制と征服には、その当時馴らされて居りました。ヱドウヰンとモルカー、即ちマーシヤ及びノーザムブリアの両伯爵は――。」
「うふ。」とローリーは、身慄ひをして言ひました。
「一寸伺ひますが。」と鼠は顔をしかめながら、しかし叮嚀に「君は何か言ひましたか。」
「いいえ。」とローリーはあわてて答へました。
「わたしはまた、何か言はれたと思つたのでした。」と鼠は言ひました。「では、先をお話しませう。エドウヰンとモルカー、即ちマーシャ及びノーザムブリアの両伯爵は、王のための宣言をしました。愛国者であるカンタベリーの大僧正、スタイガンド(Stigand)ですらも、それを適当なことと知りました――。」
「何を見つけたつて?」と鴨が言ひました。(英語で今の「知りました。」といふ言葉は、普通「見つけた。」といふ意味に、使はれるものだからです。)
「それを知つたのだ。」と鼠は一寸おこつて答へました。「勿論のこと、君は『それ』が何のことだか知つて居るだらう。」
「わたしは自分で何か見つけるとき、『それ』が何であるか、よく分るんだよ。」と鴨が言ひました。「大抵のところ、それは蛙か、みみずなんだよ。それで問題はだね、大僧正が何を見つけたかといふことだ。」
しかし鼠は、此の問にかまはないで、急いで話を続けました。「——エドガア・アスリングと一緒に、ウヰリアムに会つて、王冠を捧げることを、よいことだと知つたのでした。ウヰリアムの行ひは初めの中は穏かでした。けれども、ノルマン人の無礼な――、ねえ、どうです。お工合は。」と鼠はアリスの方を向いて言ひました。
「まだやつぱり、びしよびしよよ。」とアリスは悲しさうな声で言ひました。「そんな話なんか、ちつともわたしを乾かしてくれさうもないわ。」
「左様な、場合には。」とドードーは、偉さうな風をして、立ち上りながら言ひました。「わたしは此の会議を延ばすことを申し出ます。その理由は、一層有効なる救済法を、直ちに採用せんがためであります。」
「英語で言つてくれ。」と子鷲が言ひました。「わたしにや、今の長い言葉の意味が半分も分らないや。第一お前さんだつて分つて居さうもないね。」
かう言つて子鷲は頭を下げ、うすら笑ひをかくしました。外の鳥たちは聞えるほど大きな声で笑ひました。
「わたしが言はうとしたことは。」とドードーは、怒つた声で言ひだしました。「われわれを乾かすためには、コーカスレースをやるのが一番いいといふことだつたのです。」
「コーカスレースつて、何のことですか。」とアリスが言ひました。そのことをアリスはひどく知りたいと思つた訳ではないのです。ただドードーが、あとは誰か他の者が、口を利くべきだとでも思つたやうに、一寸口をやすめたのに、誰も話しだす様子が、見えなかつたからなのです。
「ウン。」とドードーは言ひ出しました。「それを一番よく分るやうにする方法は、それをやつて見ることだ。」(みなさんの中、冬になつて、これをやつて見たいと思ふ人が、あるかも知れませんから、ドードーがやつて見せた通りを、お話する事にします。)
まづドードーは、輪の形に競走場を仕切りました(「さうキチンとした輪の形でなくてもよい。」とドードーは言ひました。)それから仲間達を、仕切に沿うて、あちら、こちらに並べました。そして競走は「一・二・三よし。」の合図なんかなしで、みんな思ひ思ひの時に走り始め、好きなときに止めるのでした。それですから競走がいつ済んだかなどといふ事は、一寸分りませんでした。けれども皆が三十分かそこら走つて、もうすつかり身体が乾いてしまひました。そのとき、ドードーが急に「競走終り。」とどなりました。で、みんなはドードーの周りに集まつて、呼吸を切らせながら「だけど誰が勝つたんだ。」と訊きました。
この問にはドードーは、よほど考へなければ返事をすることができませんでした。それで長い間一本の指を額にあてて、(これはシエークスピヤの画像で、みなさんがよく見る姿勢です。)坐りこんで居ました。其の間他のものは黙つて待つて居ました。やがてドードーは、やつとかう言ひました。
「みんなが勝つたんだ、だからみんなが賞品をもらふのだ。」
「では誰が賞品をくれるのですか。」とみんなは一斉に訊きました。
「うん、あの子だよ無論のこと。」とドードーは一本の指で、アリスを指さしながら言ひました。そしてみんなは、直ぐにアリスの周囲に集まつて、あちらからも、こちらからも「賞品を、賞品を。」とワアワア言ひました。
アリスはどうしてよいか、考へがつきませんでした。で、困りきつた揚句、ポケツトに手を突込んで、ボンボンの入つた箱をひつぱり出しました。(幸ひにもそれには塩水が入つて居りませんでした。)そしてこれを賞品として、みんなに渡しました。丁度一人に一つづつありました。
「だがあの子だつて、賞品を貰はなければならないよ。ねえ。」と、鼠が言ひました。
「勿論さ。」とドードーは、大層真面目くさつて答へました。「外には何がポケツトに入つて居ますか。」とアリスの方を向きながら、鼠に言ひました。
「指貫だけ。」とアリスは悲しさうに言ひました。
「それをここへお渡し。」とドードーが言ひました。
それからみんなは、最う一度アリスのぐるりに、集まつてきました。それからドードーは、おごそかに指貫をアリスに贈つて言ひました。「わたし達は、あなたがこの立派な指貫を、お受取り下さることをお願ひします。」この短い演説が終(す)むと、一同は拍手をしました。
アリスはこの様子を、随分馬鹿らしいと思ひましたが、みんなが真面目くさつた顔をして居るものですから、笑ふことも出来ませんでしたし、それに何も云ふことを考へつきませんでしたから、ただ一寸お辞儀をしたきりで、出来るだけしかつめらしい顔をして、指貫を受取りました。
さて、次にすることは、みんながボンボンを食ふことでした。このことはかなりの騒ぎを起して、ガヤガヤしました。何しろ大きな鳥はこれぢや味も分らないと言つて、ブツブツ不平を言ひますし、小さい鳥は喉につかへて、背中をたたいて貰ふ有様でした。けれどもやつとその騒ぎも終んで、みんなは車座に坐つて、鼠にもつとお話しをして呉れと頼みました。
「お前さんは、身の上話をするつて約束したでせう。」とアリスが言ひました。「そして――あの、ネの字とイの字が、何故嫌ひだかつていふことをね。」とアリスはまたおこられやしないかと思つて、小さい声で言ひました。
「わたしのお話は長い、そして悲しいものなんです。」と鼠はアリスの方を向いて、溜息をつきながら言ひました。
「全く長い尾だわ。」とアリスは、不審さうに、鼠の尻尾を見て言ひました。「けれどもそれが何故悲しいといふんですか。」(英語で「おはなし」といふ語は「尻尾」といふ言葉と音が同じに聞えるのです。)そして鼠がお話をする間も、アリスはその謎を一心に考へ解かうとしてゐました。ですからアリスの頭の中では、鼠のお話が一寸次のやうな風になりました。
やま犬が、お家で
会つた 鼠に
いひました。
「裁判遊びを二人
でしようぢやないか。
そしておれはおまへを
訴へてやる――。」
「うん、わたしは
いやとは言はぬ。
今朝はわしは
仕事がないか
ら裁判遊びを
してもよい。
と鼠が言ひ
ました。
「ねえ、君
陪審官もない
判事もない
そんな裁判は
息が切れてしま
ふ「だらうて。」
「なにわたしは
判事にもなつ
たり、陪審官
にもなつた
りする。」
と年をとつた
ずるい犬
は言ひまし
た「わしが
ひとりで裁判
をやつて
お前に
死刑の
宣告をしてやる。
「お前は聞いて居ないな。」と鼠はきびしい声で、アリスに言ひました。「お前は、何を考へて居るのだい。」
「ごめん遊ばせ。」とアリスは大層へり下つて申しました。「お前さんは、五番目の曲処(まがりめ)に来たんだつたねえ。」
「さうでない。」と鼠は強く大層怒つてどなりました。
「難問ね。」とアリスはいつも、自分を役に立てさせようと思つて、心配らしく周囲を見ながら言ひました。「まあ、わたしにその難問を、解く手伝ひをさせて下さいな。」
「わたしはそんなことは知らんよ。」と鼠は立ち上つて、歩きながら言ひました。「お前はこんなつまらないことを言つて、わしを馬鹿にしてゐる。」
「わたしそんなつもりではなかつたのよ。」とアリスは可哀想にも、言ひ訳をしました。「けれど、あなたはあんまり怒りつぽいわ。」
鼠は答へる代りに唸つた許りでした。
「どうか戻つて来て、お話をすつかり済ませて下さい。」とアリスは後から、呼びかけました。そして外のものも、一緒に声を合せて言ひました。
「さうです、どうかさうして下さい。」けれども鼠は、がまんして居られないやうに、ただ首を振つただけで、前より足を早めて歩いて行きました。
「鼠君がここに留つてゐてくれないとは、全く残念なことだ。」とローリーは、鼠が見えなくなると、直ぐさま溜息をして言ひました。この時、年をとつた蟹が自分の娘の蟹に言ひました。「ねえ、お前、これを手本にして、決して怒るものぢやないよ。」
「言はなくつてもいいわよ。母さん。」と若い蟹は少し怒つて言ひました。
「牡蠣の我慢強いのを真似れば十分だわ。」
「家のデイナーがここに居ればよいんだけれど。」とアリスは大きな声で、別に誰に話しかけるともなしに言ひました。「デイナーなら、鼠をぢきに連れてかへるわ。」
「デイナーつて誰ですか、お聞かせいただけませんでせうか。」とローリーが言ひました。
アリスは夢中になつて答へました。何しろこの秘蔵の猫の事ときたら、いつでも話したくて、むづむづしてゐるのですから。「デイナーつて云ふのは、家の猫ですわ。そして鼠をつかまへるのが、お前さん考へもつかない程に、随分上手なのよ。それにまあ鳥を追つかけるところなんか、本当に見せたいわ。鳥なぞ狙つたと思つてると、もう食べてしまつてゐる位よ。」
このお話は、仲間に大変な騒ぎを起させました。鳥の中には、あわてて逃げだしたものもありました。年をとつたみそさざいは、注意深く、羽づくろひをしていひました。「わしはほんとに家に帰らなければならない。夜の空気は喉をいためていけない。」すると金絲鳥は、声をふるはしながら、子供たちに言ひました。
「さあお帰り、寝る時刻ですよ。」いろいろと口実を作つて、みんな去つてしまひました。それでアリスが独ぼつち遺されてしまひました。
「わたしデイナーの事なんか、言はなければよかつたわ。」と悲しい調子で独語を言ひました。「此処では誰もデイナーが嫌ひらしいわ。デイナーは確かに世界中で一番好い猫だと思ふんだけれど。まあ、わたしの可愛いデイナー、わたしまた、お飴に会へるかしら。」さう言つてアリスは、又泣き始めました。アリスは大層淋しくて心細くなつたからでした。けれどもしばらくすると、遠くの方から、又もぱたぱたといふ小さい足音が聞えてきました。アリスは事によつたら、鼠が機嫌をなほして、お話をスツカリ済ませに帰つて来たのではないかと思つて、熱心に上を見て居りました。
四 兎が蜥蜴(とかげ)のビルを送出す
それは白兎でした。ノロノロと歩いて来ながら、まるで何か落し物でもしたやうに、周囲(まはり)を、ヂロヂロと見て居ました。そしてアリスは、兎が独で、次のやうにぶつぶつ言つて居るのを耳にしました。「侯爵夫人、侯爵夫人、まあ、わたしの足、まあ、わたしの毛皮と鬚、夫人はわたしをきつと死刑になさることだらう。わたしどこで落したんだらうかなあ。」アリスは直ぐに兎が、扇子と白いキツドの手袋を探して居るのだと考へました。そこで、親切気を出して、探してやりましたが、どこにも見当りません。——アリスが池の中で泳いでからは、すつかり何もかも変つてしまつたやうに見えました。ガラスのテーブルや、小さな扉のある例の大きな広間は、すつかり消えてなくなつてゐるのでした。
アリスが探し廻つて居ます中、兎はすぐにアリスを見つけて怒つた声でどなりました。「おい、メーリー・アン、お前はここで何をして居るのだ。直ぐ家へ走つて帰つて、手袋と扇子を持つてこい。さあ早く。」
アリスはこの言葉に驚いて、人違ひだと言訳をするひまもなく、兎の指ざした方へと、直ぐに走つて行きました。
「あの人、わたしを女中と思つたんだわ。」と、アリスは走りながら、独語を言ひました。「わたしが、誰だか分つたら、どんなに驚くことでせう。でも、手袋と扇子をとつて来てやつた方がいいわ――もし手袋と扇子が見つかるものならねえ。」かう言つて居るとき、アリスは小さいキチンとした家の前に出ました。その家の玄関の戸には、ピカピカする真鍮の名札に「W. Rabbit」と、彫りつけてありました。アリスは案内も乞はずに、あわてて二階へ上りました。それは手袋や扇子を見つけない中に、ほんたうのメーリー・アンに会つて、追ひ出されるといけないと思つたからでした。
「ずゐぶん妙ねえ。」とアリスは、独語をいひました。「兎のお使ひをするなんて。此の次にやデイナーがわたしを、お使ひに出すかも知れないわ。」かう言つてアリスは、これから先き起つて来ない事でもない、さういふ事を考へて居りました。
「アリス嬢さん、すぐいらつしやい。御散歩(ごさんぽ)のお支度をなさいませ。」「ばあや、直きに行つてよ、でもね、わたしデイナーが帰るまで、此の鼠の穴を見張りしてやる事にしたの。鼠が出ないやうにね。」——などとアリスはしやべり続けました。「だけれど、もしデイナーがうちの人達にこんなに用をいひ付けるやうになつたら、うちの人達はデイナーを内には、おかないでせうねえ。」
この時アリスは、小綺麗な室に入つていきました。窓際にテーブルが、一つ置いてありました。その上には「アリスが望んだやうに」一本の扇子と小さい白のキツドの手袋が、二三対置いてありました。アリスは扇子と手袋を、とり上げて、室を出て行かうとしましたとき、鏡のそばにあつた小さな壜に、ふと目を留めました。今度は「お飲み下さい」と云ふ札は、貼つてありませんでしたが、それでも構はず栓を抜いて、唇にもつていきました。そして独語に「何かしら、面白いことがきつと起るのね、何か食べたり、飲んだりするといつも。だから今に此の壜のおかげで、どうなるか試してやらう。わたし元通りに大きくなりたいわ。こんなちつぽけなものになつて居ることなんか、あきあきしてしまつたんだもの。」そして実際その飲物は、力をあらはしました。しかもそれはアリスが思つたよりズツと早く、半分も飲んでしまはないうちに、アリスの頭は天井につかへてしまつて、首を曲げないと、折れてしまふほどになりました。アリスは、急いで壜を下に置き、独語をいひました。「もう沢山、——わたしこれ以上もう大きくなりたくないわ。これでは戸口を通つて出られやしない。——わたしこんなに飲まなければよかつた!」
ああしかし、もう間に合ひませんでした。アリスはズンズン大きくなつて、間もなく、床に膝をつかなければなりませんでした。しかしもう、それでも窮屈になつてしまひましたから、片肘を戸口に支へて、片腕を頭にまきつけて、寝そべつてみました。ところがそれでもズンズン延びていきましたので、仕方なくアリスは、窓から片腕を出して、片足を煙突の中に入れて、独語をいひました。
「これぢやあとどうなつても、もう何にも仕様がないわ。一体わたしどうなることだらう。」
ところが運よく、魔法の壜の効力は丁度此の時で、すつかり尽きたのでした。で、アリスはもうその上、大きくはなりませんでした。でも相変らず不便でした。そしてもう室から出て、いけさうにもないと思ひましたので、アリスはしみじみ、不幸(ふしあはせ)なことだと思ひました。
「おうちに居た時の方が、ずつと気が楽だつたわ。」と可哀想なアリスは思ひました。「大きくなつたり、小さくなつたり、なんかしないし、又、鼠や兎に用をいひつけられることなんかないから。わたし兎の穴に入らなければよかつたんだわ。でも――でも――こんな目に逢ふのも、一寸めづらしい事だわねえ。どうしてこんなことになつたのか知ら。わたし、いつそお伽噺を読んでも、そんな事があるなんて思つた事なんてないのに。それが今では、わたしがその中に入つて居るんだもの。きつとわたしのことを書いた本が、できると思ふわ。きつと。わたしが大きくなつたら、書いて見ようかしら。——でも、わたし今では大きくなつて居るのねえ。」と、悲しさうな声でアリスは云ひました。「兎に角ここではもう、これ以上大きくならうつたつて、なりやうがないわ。」
「でも、さうなれば。」とアリスは考へました。「わたしは今より決して年をとらないで、居られるんぢやないかしら。さうなら有難いわ。とにかく、決しておばあさんに、ならないなんて――でもさうすると――いつも御本を教はらなければならないのねえ。ああ、わたし、それは御免だわ。」
「まあ、馬鹿なアリス。」とアリスは自分で返事をしました。「どうしてお前こんなところで、勉強ができて? お前の居るだけがやつとなのに、教科書を置くところなんか何処にあるの!」
かう云ふ風にアリスは、一人で、こつちの話手、あつちの話手になつてお話をして居ましたが、少し経つて外で声がしましたので、自分のお話を止めて、耳をすませました。
「メーリー・アン、メーリー・アン。」とその声は言ひました。「すぐにわたしの手袋を持つて来てくれ。」それからパタパタといふ小さい足音が、階段に聞えました。アリスは兎が自分を、さがしにやつてきたのだといふことを知りました。それでアリスは自分の身体が、今では兎の大きさの千倍程もあり、兎なんか怖がる理由はないなんていふことを、すつかり忘れてしまつて、家がゆらぐ程身ぶるひをしました。
やがて兎が入口のところまで上つて来て、戸を開けようとしましたが、その戸は部屋の中の方へ押すやうになつて居て、アリスの肘が、それを強くつつぱつて居ましたので、開けようたつて駄目でした。このとき、アリスは「廻つて、窓から入らう。」と兎が言つて居るのを聞きました。
「それも駄目だわ。」と、アリスは考へました。しばらく待つて居ると、窓下に丁度兎が来たやうな足音が聞えましたので、アリスは、だしぬけに、手を出して一掴みしました。けれどもアリスは何もつかまへられないで、小さいキヤツと云ふ声と、ドタンと落ちた音と、ガラスの破壊れた音を聞きました。その音でアリスは、胡瓜の温室か何かの上に、兎が落ちたのだと考へました。
すると怒つた声が聞えてきました。——それは兎の声でした。——「パツト、パツト。お前は何処に居るのだ。」するとこれまでに聞いたことのない声が「ここに居ますよ、御主人様、林檎の植付けをやつて居るんですよ。」と言ひました。
「何だ、林檎の植付けだつて。」と兎は怒つて言ひました。「さあ、ここへ来てわたしを、ここからだして呉れ。」(ガラスのこはれる音が又しました。)
「おい、パツト、窓のところにあるのは、あれは何んだい?」
「御主人様、あれは確に腕ですよ。」(その人は「う、うで」と腕のことを言ひました。)
「腕だつて? 馬鹿! あんな大きな腕があるかい。窓中一杯になつて居るぢやないか。」
「御主人様、全くさやうでございます。でも、なんと言つても腕でございます。」
「ウン、だが兎に角、此処には用がない。行つて出してしまへ。」
それから長い間、シンと静まり返つてゐました。アリスは時時次のやうな囁き声をきくだけでした。「ほんとに、御主人様、実際嫌ですよ。全くのこと」——「わしの云ふ通りにしろ、この臆病者め!」そこでアリスはとうとう又手を延ばしだして、もう一度空をつかみました。今度は二つの小さいキヤツと云ふ声がして、ガラスの破壊れる音がまたしました。「まあ随分沢山胡瓜の温室があるらしいわねえ。」とアリスは考へました。「あの人達、今度は何するか知ら。わたしを窓から引張りだすつて、さうして呉れれば仕合せだわ、わたしはもうこれ以上、ここに居たくなんかないんだもの。」
アリスは暫らくの間、待つて居ましたが、何にももう聞えませんでした。やがて小さな手押車の輪の音が、聞えて来ました。そして多勢(おほぜい)の声が、がやがや話合つて居るのが聞えました。アリスは、その言葉を聞き分けてみました。
「別の梯子は、どこにある。——一つしかありませんでした。ビルが一つもつて行つたんです。——ビル、ここへそれを持つて来い。——それをこの隅へ立てかけろ。——さうぢやない、先づしつかり一緒に縛りつけるんだ。——まだ半分にもとどかない。——まあ、これでも十分ですよ。そんなに口やかましく云はないで下さい。——おい、ビル。この縄をしつかりつかまへるんだ。——屋根は大丈夫かい。——そのブラブラの瓦に気つけろ。——やあ落ちかかつて来た。真逆様に(大きな音がしました)——これ、誰がしたんだ。——ビルらしいなあ。——誰が煙突を下りるのだい。——いやだ、おれはいやだ。——お前やれ。——そんなことはいやだよ。——ビルが下りなきやいけない。——おいビル、御主人がお前に下りろと云ふ、御言ひ付けだよ。」
「まあ、それではビルが、煙突を下りることになつたのねえ。」とアリスは独語をいひました。「まあ何もかも、ビルに押しつけるのねえ。わたしなら何をもらつたつて、ビルになりたくないわ。この炉はほんとに狭くるしいのねえ。でも、少し位なら、蹴られさうに思へるけれど。」
アリスは煙突の下まで足をのばして、待つて居ると、やがて小さな動物が(それはどんな種類のものだか、分りませんでしたが)アリスのすぐ頭の上で、煙突の内側を引つかいたり、這ひまはつたりする音が聞えはじめました。その時アリスは「それがビルだな。」と独語をいつて、きつく蹴つてみました。そして次にどんな事が起るかと、待ち構へて居りました。
最初にアリスの聞いた事は「や! ビルが出て来た」と云ふ大勢の声でした。それからは例の兎の声だけになつて「あいつをうけてやれ、そら垣根の傍にゐるお前が。」といひました。それから一寸静かになり、その中又ガヤガヤと声がしだしました。——あいつの頭を上にしてやれ。——さあ、ブランデーだ。——喉につかへさせないやうにしろ。——どうだい、おい。どうしたんだ。のこらず話して聞かせてくれ。」
すると、小さな元気のないしはがれた声がしました。(「あれがビルだな。」とアリスは思ひました)「うん、どうもわからないんだ。——いや、もういいんだよ、ありがたう。もうよくなつたよ。——けれどわしはすつかり面喰つちまつたんで、お話ができないよ。——わしの覚えて居ることは、何かびつくり箱のやうなものが、わしにぶつかつて来て、わしは煙火(はなび)みたいに、うち上げられたつて事だけだ。」
「うん、そんな具合にとび出して来たつけ。」と、外(ほか)の者たちが言ひました。
「この家を焼き払つてしまはなければならん。」と兎の声が言ひました。それでアリスは出来るだけ大きな声で「そんな事したら、デイナーをけしかけてやるわよ。」と言ひました。
すると、忽ちあたりがしんと静まりかへつてしまひました。アリスは独考へました。「皆達、今度は何んな事をするだらう。みんなが少し智慧があるなら、屋根でもめくるだらうが。」二三分の後みんなは再び動き廻りはじめました。そしてアリスは兎が「初めは車一杯でいいや。」と云ふのを聞きました。
「何を車一杯なんだらう。」とアリスは思ひました。けれども永くそれをいぶかつてゐる暇もなく、すぐと小砂利の雨が、窓からパラパラと入つて来ました。中にはアリスの顔に当るものもありました。「わたし止めさせて見せるから。」と、アリスは独語をいつて、大きな声でどなりました。「お前たち、そんなことをしない方が身のためだよ。」すると、すぐに又シンと静になつてしまひました。ふとアリスは砂利が床の上に落ちたまま、小さなお菓子に変つてゐるのに気付いて、びつくりしてしまひました。が、そのときアリスの頭に、愉快な考へが浮びました。「わたしこのお菓子を一つでも食べると、身体の大きさが、変るに違ひないわ。そしてこれ以上もう大きくはできまいから、きつと小さくなる方なんだわ。」
そこでアリスはお菓子を一つのみこみました。すると直ぐさま小さくなり出したので、アリスは大喜びでした。入口を通れる位、小さくなると直ぐ様、アリスは家から駆け出しました。すると小さい獣や鳥が、ウヨウヨとして外で、アリスを待つて居るのでした。可哀想な小さい蜥蜴のビルがその真中にゐて、二匹の豚鼠(ギニアピツグ)に身体を支へられ、それに壜の中の何かをのませてもらつて居ました。アリスが出てくると、みんなは一斉にアリスめがけて詰めよせて来ました。しかしアリスは一生懸命馳けだして、直ぐにコンモリ繁つた森の中へ、避難してしまひました。
「まづわたしが、しなければならないことは。」とアリスは、森の中をブラブラ歩きながら、独語をいひました。「もと通りのほんとの大きさになることだわ。その次には、あの綺麗なお庭に行く道を見つけること。わたしこれが一番いいやりかただと思ふわ。」
これは疑ひもなく、大層すぐれた、そしてやさしい計画のやうでした。ただむづかしいことは、アリスは、それをどう手をつけてよいか、少しも考へのないことでした。アリスが樹と樹の間を、キヨロキヨロして覗き見してゐますと、頭の上で小さい鋭い吠声がしますので、アリスはあわてて上を向いて見ました。すると大きな犬ころがアリスに触はらうとでもするやうに前足をそつと出し、大きな丸い目で、アリスを見下して居ました。
「まあかはいい犬だこと。」とアリスはやさしい声で言つて、一生懸命口笛を吹かうとしました。が、アリスはこの犬は御仲をへらして居るかも知れない、もしさうだといくら御機嫌をとつても、自分が食べられると思つて、内心びくびくして居ました。
アリスは殆んど夢中で、小さな一本の棒を拾ひ、犬ころの方に突きだしました。すると犬ころはキヤンキヤン嬉しがつて、ただちに四足をそろへて宙にとび上つて、棒にとびかかり、噛み付きさうな風をしました。そのときアリスは、頭の上をとびこされないやうにと、大きな薊(あざみ)の後にかくれました。そしてアリスは向ふ側に出たとき、犬ころは棒にとびつきました。そしてそれを、つかまへようとして、でんぐり返りました。このときアリスは、この犬ころとふざけるのは、荷馬車ひきの馬と、遊んで居るやうなものだと思ふと、今にもその足の下に踏みつけられさうなので、また薊のぐるりをかけだしました。それから犬ころは棒切めがけて、何度も小攻撃をやりだし、その度に一寸進み出ては、ぐつと後退りして、その間たえずキヤンキヤン吠え立ててゐましたが、とうとう息をハアハアきらせ、口から舌をだらりとだし、大きな目を半分とぢて、ずつと向ふで坐りこんでしまひました。
こりや逃げるのに、有難い仕合せとアリスは直ちに、駈けだしました。余り駈け過ぎたので、すつかりくたびれて、息が切れてしまひました。が、もうその時は犬ころの吠声は、遠くの方で、微かに聞えるだけになつてゐました。
「でもまあ、なんて可愛らしい犬ころだつたらう!」とアリスは一本の金鳳花に、よりかかつて休みながら、一枚の葉を扇子がはりにして、煽ぐのでした。「わたし、あたり前の背(せい)でさへあれば、いろんな芸をしこんでやるんだけれど。さうさう、わたし元通り、大きくならなければならないといふことを、すつかり忘れてゐたわ。——さうねえ――どうしたら大きくなれるんだらう。わたし何か飲むか食べるか、しなければならないと思ふわ。けれども『何を』といふことが大問題なんだわ。」
たしかに、大問題は『何を』と云ふことでした。アリスは身のまはりの、花や草の葉を見まはして見ましたが、この場合、飲んだり食べたりしてよささうなものが、見つかりませんでした。
アリスの近くに、大きな蕈(きのこ)が生えて居りました。それは丁度アリスの大きさ程でありました。アリスはその蕈の裏を見たり、両側から見たり、うしろへまはつて見たりしましたが、今度はその上に何があるか、見たくなつて来ました。
アリスはつまさきで立つて、蕈の端から見ました。すると直ぐにアリスの目は、大きな青い芋虫の目にはたと、ぶつかりました。芋虫は頂辺に腕組みで坐つて静かに長い水煙管(みづぎせる)を吸つて、アリスにも又は外の何にも、少しも気をとめて居ない様子でした。