東溪日記

聖読庸行

【東渓文庫】プラトン「ソクラテスの弁明」(3/3)

プラトン著、久保勉・阿部次郎訳「ソクラテスの弁明」

 

(二十一)これでも諸君は信じ得られるか――私が政治に携はつて、而も善良な人にふさはしきことを為し、正義に与して、これを何者よりも(それは当然の事であるが)重視したとして、それでも私は猶こんなに長い歳月を無事に生き通すことが出来たらうといふことを。思ひも寄らぬこと、アテナイ人諸君。思ふに他の何人にもそれは出来なかつたであらう。然るに私は、私の一生を通じて、公けに活動するときも私人として生活するときも、この態度を変へぬ一人の男である。私は未だ曾て他の何人に対しても、又誹謗者が私の弟子と呼んでゐる人達の一人に対しても、正義に反して譲歩したことはないのである。而も私は、実際何人の師にもなりはしなかつた。ただ私は、私が口を開いて自分の使命を行ふとき、誰かそれを聴くことを望む者があれば、青年であれ老人であれ何人に対してもこれを拒むやうなことはしなかつたのである。又私は報酬を得る時にのみ語つて他の場合には語らぬといふやうなことはなく、寧ろ貧富の差別なく何人の質問にも応じて、又彼が望むときには私に答へたり、それから又私の意見をきいたりすることをもその人の心任せにしたのだつた。さうしてこの人達の或者が世を益する人にならうとなるまいと、公正に言へば、私が責任を負ふ訳はないのである。何となれば、私は嘗て何人にも、授業を約束したり授けたりしたことがないのだから。若し誰か、他に誰もきいたことがないやうなことを、嘗て私から個人的に学んだとか聴いたとか主張する者があるならば、彼は真実を語るのではないことを信じて戴きたい。

(二十二)併し長年月を私の仲間になつて暮すことが或る人達を喜ばせるのは抑々何故であるか。アテナイ人諸君、諸君はそれを聴かれた。私は諸君に向つて充分なる真実を告げた、即ち賢者と自惚れながら賢者でない人達が吟味にかけられるところを傍聴することを彼等は興がるのである。蓋しそれは決して不愉快なことではないのだから。併し私にとつては、私の主張するやうに、これは神から授けられた使命である、それは神託や夢想やその他凡そ神意が或人に命ずるあらゆる方法によつて授けられたのである。アテナイ人諸君、これは真実である。さうして容易に証明することが出来る。何となれば、実際私が若し青年の或者を腐敗させる者若くは腐敗させた者であるならば、彼等の中既に壮年に達して、その若年時代に私から悪い助言を受けたことを悟つた者は、今や此処に来て、私を告訴して、私に復讐しなければならない筈である。若し又彼等自身はこれを欲しないにしても、その家族の或者、即ち父や兄や他の親戚などは、彼等の一族の者が果して私から禍を蒙つてゐるのならば、今それを想起して復讐するに相違ないであらう。誠に、見受けるところ、此処には其等の人が随分沢山居る。最初にはクリトン、私と同年輩同閭の旧友、其処にゐるクリトブロスの父。次にはスフェットス人リュザニアス、彼処ににゐるアイスヒネスの父。それから其処にゐるケフィジア人アンティフオン、エピゲエンスの父。又此処には私と交があつた人達の兄弟諸君も見える——ニコステトラス、テオヅォティデスの子、テオドトスの兄、テオドトスは死んでしまつたから、此場合には彼が兄にせがんで起訴をやめて貰つた訳はないのである。それから彼処にゐるパラロス、テモドコスの子、彼の兄弟はテアゲスであつた。此方にゐるアデイマントス、アリストンの子、此処にゐるプラトンの兄。それからアイアントドロス、此処にゐるアポロドロスの兄、さうしてこの他にも、私は諸君に多くの人の名を挙げることが出来る。誰かその中の一人を最も有力な証人として、メレトスはその演説中に挙ぐべき筈であつた。彼が若し前にそれを忘れたのならば、彼は今でもいいからそれを挙げるがよい。私はそれを承認する。彼にさういふ者の持合せがあるならば、言ふが好い。諸君、諸君はこれに正反対の事実を発見されるであらう、彼等は皆寧ろ私を、メレトスやアニュトスの主張に従へば彼等を腐敗させる者を——私を、彼等の一族の者に禍を与へる者を、援助しようとして居るのである。腐敗させられた者自身は、或ひは私を援助すべき理由を持つてゐるかも知れない。併し腐敗せぬ者は、既に年歯の進める者は、彼等の親族は、真実にして公正なる理由以外、私を援助すべき他の如何なる理由を持つてゐようぞ。それは即ち、メレトスは嘘を吐いて私は真実を言つてゐることを、彼等が知てゐるからに外ならないのである。

(二十三)諸君、もうこれでよからう。私が弁明として云ふ可きところは、ほぼ此事及び比類の事である。尤も諸君の中には、自分の態度に顧みて、私に不快を抱く人があるかもしれない。彼は之より遥に軽き訴訟事件に際しても、頻りに涙を流して法官に嘆願哀求し、又出来得る限り同情を惹くために子供や他の親族や友人等を多く法廷に連れ出すのに、私は、現に最大の危険に瀕してゐるらしく見えるにも拘らず、ちつともそんなことをしようとはしないからである。一部の人は恐らく、此事を考へて威厳を傷つけらるることを覚え、これを憤つて憤りの裡に石票を投ずるであらう。若し諸君の中にさういふ気持の人があるならば——私はさう前提する者ではないけれども——仮にそれが事実であるとするならば、私は正当の理由を以て、彼にかう言ふことが出来るだらうと思ふ——善き友よ、私にも数人の家族はある、何となれば、ホメロスの言葉にもある通り、我は槲よりにもあらず岩よりにもあらず、人より生れたる者であるからである。されば私にも家族もあれば息子もある、アテナイ人諸君よ、それは三人で、一人は既に成人し、他の二人はまだ子供でもあるのである。それにも拘らず、私は無罪放免の投票を諸君に哀願するために、彼等の誰一人をも、此処に連れ出さうとは思はない。然らば何故に私はそのやうなことをしようとはしないのか。アテナイ人諸君よ、それは高慢からでもなければ、諸君を蔑視するからでもない。私が自若として死に対するかしないか、それは別問題であるが、私は、私と諸君と並びに国家全体の名誉のために、私がそんなことをするのはふさはしくないと思ふのである——況して私はこの年になつて、而も、それが当つてゐるにせよゐぬにせよ、兎に角名声を持つてゐるのだから。実際ソクラテスが何かの点に於いて衆人に優れてゐることは定評になつてしまつてゐる。今、諸君の中、智慧勇気若しくはその他の徳に於いて卓越せりといふ世評ある人が、若し此の如く行動するならば、それは恥辱と謂ふべきであらう。実際私は、相当の人間らしい顔をした者が、法廷に立つと奇怪な真似をするのを幾度か見た——死ぬことになると恐ろしい苦悩に逢ふものと想像してゐるらしく、又、諸君によつて死に処せられなければ不死でもあるかのやうに。思ふに此種の輩は国会に不名誉を齎す者である。外来者は皆、アテナイ人中優秀の士にして市民が自ら選任して官職やその他の名誉を与へた者も寸毫も婦女子と選ぶところがない、と考へるに違ひないのである。アテナイ人諸君、我等にして若し苟も自ら恃む所があるならば、我々はそんな行為をすべきではない。さうして我等が若しそんなことをしたならば、諸君はこれを容赦せずに、寧ろそんな憐れつぽい芝居を演じて国家を物笑ひの種とする者は、自若たる態度を持する者よりも遥か以上に処罰することを実証すべきである。

(二十四)諸君、併し名誉のことは姑く置いても、尚ほ裁判官に哀願して、哀願によつて赦罪を得るが如きは、私には正しいと思はれない。寧ろそれは教示と説得とによるべきである。蓋し裁判官がその席に在るは、好悪によつて公正を曲げるためではなくて、公正に準じて裁判するためだからである。彼は御気に入る者に恩恵を施す如きことなく、国にその誓言を破るやうな習慣をつけさすべきではないし、諸君も亦自らそんな習慣をつけるべきではない、それは我々隻方にとつて敬虔な行為とは云へないからである。それ故に、アテナイ人諸君、私が諸君に対して、自ら美しいとも正しいとも敬虔だとも考へないやうな態度を採ることを期待し給ふな、特に、ヅェウスにかけて、私は此処にゐるメレトスから神を無みする故を以て起訴されてゐるのだから。蓋し私が若し諸君を云ひくろめて、誓を立てた諸君を哀願によつて強制するならば、私は明かにこれによつて、諸君に神々の存在を信ぜぬことを教をへることとなり、従つて、自ら弁明せむとして、却つて自分が神々を信ぜぬことを出訴する者となるであらう。併しそんな事は思ひも寄らない。アテナイ人諸君、実際私は私の告訴者の何人よりも神々を信じてゐる者である、さうして私は、私にも諸君にも最も善いやうに私を裁判することを、諸君と神々とに委ねるのである。

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(二十五)アテナイ人諸君、この結果が、即ち諸君が私に有罪を宣告したことが、私の憤懣を喚起しないのには多くの理由がある。併しその重なるものは、この結果が私の予期に反した結果ではなかつたことである。寧ろ私は両種の石票数の比例を見て自ら不思議に思ふ、私がそれがこんなに少数の差ではなくて、遥かに多数の差によつてきめられるだらうと信じてゐたのである。然るに今見るところによれば、唯三十票の投票が違へば、私は無罪放免になるところだつたのである。メレトスに対しては、私は今でも無罪放免になつてゐると信じてゐると思ふ。単に無罪放免になつてゐるばかりではなく、若しアニュトスとリュコンとが私の起訴者として出現しなかつたならば、何人にも明かなるが如く、彼は五分の一の石票を得かねたために千ドラフマの罰金を払はなければならなかつたであらう。

(二十六)此人は私を死刑に処することを提議する。よろしい。アテナイ人諸君、然らば私は之に対して何を提議すべきであるか。明かにそれは私が当然受くべきものではあるまいか。然らばそれは何であらう。私が当然受くべきは如何なる体刑若くは罰金刑であるか。その私は、一生休息することなく探究を事とし、蓄財や家事や軍隊の指揮や人気取りの演説やその他の公職や、市内に行はるる徒党や党派や、此等大多数の人が念頭に置く一切のものを放下して来た者である。それは、身を其処に投じて、而も身を全うするには、私は実際あまりに正直に過ぎると信じたからである。故に私は、其処へ行つても私が諸君にも私自身にも福利を齎し得さうにもないところに身を投ずることをしなかつた。私は寧ろ私の所謂最大善行を親しく個々人に行ふことの出来る方面に赴いた。さうして、先づ自分自身のために、自ら出来得る限り善良に且つ賢明になることを顧慮する前に、自分に関する事柄を顧慮しないやうに、又、国家その者のために顧慮する前に、国家に関する事柄を顧慮しないやうに、その他一切の場合にもこの順序に従つて事物を顧慮するやうに、諸君の中の何人をも説得することを努めて来たのである。然らば、此の如き人間として私が当然受くべきものは何であるか。それは何か良きものである、アテナイ人諸君よ、苟も賞罰が心理に拠り功績に従つて評定されるべきものであるならば。而もそれは屹度、何か私にふさはしき良きものでなければならない。然らば、貧しき、功労ある——而も諸君に忠告を与へる為に閑暇を必要とする——一人の男にふさはしきものは何であるか。アテナイ人諸君、此の如き人には、プリュタネイオンに於いて食事をさせる以上にふさはしいことがないのである。それは諸君の一人が、或は乗馬により、或は二頭若しくは四頭立の馬車によつて、オリュンピヤの競技に勝利を得た場合よりも遥にさうである。何となれば、彼は諸君を幸福であるかのやうに見せるだけであるが、私はさうある様にさせるのだからである。又彼には給養の必要がないが、私にはその必要があるからである。故に若し私が、正しきに従つて私が当然受くべきものを提議すべきであるならば、私は提議する、それはプリュタネイオンに於ける食事であると。

(二十七)かういふ言ひ方をすれば、恐らく諸君は、前に私が憐憫と哀願とについて語つたときと同じやうに、それは傲慢から来てゐると考へられるでもあらう。アテナイ人諸君、併しそれはさうではなくて、寧ろ次の次第である。私は如何なる人に対しても決して故意に不正を行つたことがないと確信してゐる。但、私達の語り合ふ時間が余りに短かつたので、それを諸君にも信じさせることが出来かねるのである。若し他邦人に於けるが如く諸君の間に於いても、死刑の裁判には一日ならず多くの日数を費すべきことを規定せる法律があつたならば、諸君にも必ず信じさせることが出来ると、私は思ふ。けれどもこの短時間の間に、これ程峻烈な脂肪を説破することは容易でないのである。かういふ訳で私は決して何人にも不正は行はないと自ら核心してゐるが故に、私は又、自分自身に不正を行つて、自分は何か悪報を当然受くべき者であるかのやうに自ら罪を宣し、さうして自己の罰を提議するが如きことは、思ひも寄らないのである。しかし何を懼れて、私が? それともメレトスが私に課せむとして提議するものに——私自身はそれが果して福なのか禍なのかわからないと自白してゐるものに——出逢ふことが懼ろしいとでもいふのか? その代りに、私は、それが禍なことを熟知してゐる罰を自ら選んで、これを自分に課するやうに提議しなければならないのか。例へば入獄はどうだらう? 牢獄にはひつて、その時々の官吏の——十一獄吏の奴隷となつて生活して、どうするといふのだらう? それとも罰金刑で、それを払つてしまふまで入獄するのか? それも結局私には前に言つたのと同じ事である、私にはそれを払ふだけの金がないのだから。若しくは私は追放の刑を提議すべきであらうか? 恐らく諸君が私に下さむとしてゐる判決はこれであらう。けれども、私と同市民の諸君さへ、私の交際と言論とに堪へ兼ねて、今は遂にそれを除かむとするやうになつたほど煩はしく憎々しく思はれるものを、他邦人なら容易にそれに堪へるだらうなどと期待するほど理性を失つてゐるならば、私の生に対する執着は非常なものと言はなければなるまい。アテナイ人諸君、そんなことは思ひも及ばない。私が、この年齢になつて、通報されて、町から町へ漂泊して、到る処で追ひ払はれつつ一生を送るとすれば、私を待受けてゐるものは結構な生活と申すべきであらう。蓋し私は確信する——私が何処に行くにしても、丁度此処と同じやうに、青年達は私の言説を来聴するであらうと。さうして若し私が彼等を遠けるならば、彼等はその長老を動かして私を追放するであらう。若しまた私が彼等を遠けないならば、彼等の父老や一族は彼等のために同様のことをするであらう。

(二十八)茲に於いて、恐らくかう言ふ人があるかも知れない——ソクラテスよ、君は此処を立退いてから、沈黙して静かな生活を送ることは出来ないのかと。これこそは諸君の中の或人を納得させるには何よりも困難な点である。何となれば、若し私が、それは神命に対する背反である、故にじつとしてゐることは私にとつて不可能である、と言ふならば、諸君はそれが真面目であることを信じないであらう。若し又私が、人間の最大幸福は日毎に徳について——並びに、私が自他を吟味する際私がそれに触れるのを諸君が聴かれたやうな諸他の事物について——語ることであつて、魂の探究なき生活は人間に値する生活ではない、と言ふならば、私の言葉は諸君に一層受取り難いであらう。諸君、それにも拘らず、それは私の言ふ通りである。ただそれを他人に信じさせることが容易でないのである。その上に私は、自分が或罰を当然受くべきであるなどと考へることには慣れてゐない。若し私に金があつたならば、私は自分が支払ひ得る限りの罰金は提議するであらう、それは私に何の害をも及ぼすまいから。ところが——私は一文無しである、若し諸君が、私にも払ひ得る位の額にきめてくれるならば格別だが。多分私も銀一ムナ位ならば払ふことが出来るであらう。だから私はそれだけの課金を提議する。ところがアテナイ人諸君、此処にゐるプラトンやクリトンやクリトブロスやアポロドロスは、罰金三十ムナを提議せよと私に勧告する、さうして彼等はその保証に立たうと言ふ。だから私はこれだけの金額を提議する、彼等は、諸君にとつて、これだけの金に対する信用すべき保証人であるであらう。

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(二十九)アテナイ人諸君、長くもない歳月の故に、諸君は当市を誹謗せむと欲する人々から、賢人ソクラテスを死刑に処したといふ悪名と罪科とを負はあれるであらう。諸君を批議せむと欲する人々は、実際さうでないにも拘らず私を賢者だと称するだらうから。若し諸君がもう暫くの間辛抱しさへすれば、それはひとりでに諸君の望み通りになつたらうに。実際私の年齢は諸君も御覧の通りである、それは已に高齢に達して、もう死期に近づいてゐるのである。尤も私はこれを諸君の全体に言ふのではなくて、唯私に死刑を宣告した人達に言ふのである。私は此等の人達に向つてもう一つ言つて置きたい。諸君、諸君は恐らく思はれるであらう——私の敗訴は言葉の不足によるので、若し私にして、有罪宣告を免れるためには、どんなことでも言つたり為たりしてのけてかまはないと信じてゐさへしたなら、言葉次第で諸君を説き伏せることが出来たかも知れないのにと。併しそんなことは思ひもよらない。固より私は不足があつたために敗訴したのであるが、それは決して言葉の不足ではなくて、厚顔と無恥とのそれである。諸君が最も聴くを喜ぶやうな言葉を諸君の前に述べむとする心の不足である。即ち私が泣いたりわめいたり、其他私が私に不似合であると断言するもので而も諸君が他人から聴かされるに慣れてゐるところの幾多のことを、言つたり為たりしなかつたためである。併し私は、危険に臨んで苟も賤民らしく振舞ふうべきではないと、先にも確信してゐたし、今でもかう言ふ弁明の為方をしたことを悔いない。私は此の如くに自ら弁明した後に死ぬことを、そんなにして生きることよりも、遥かに優れりとする。何となれば、裁判に於いても戦争に於いても、どんな真似をしてでも死を脱れむと図ることは、私も、又他の何人も、なすまじきことだからである。蓋し、戦場に於いてすら、武器を投出して追撃者に哀願しつつ縋り付けば、死を脱れる位は容易に出来る場合が多いことは明かである。だからどんなに危険に際しても、若し人が何事でも言つたり為たりすることをやつてのけさへするならば、死を脱れる方法はいくらでもあるのである。否、諸君、困難なのは死を脱れることではない。更に遥かに困難なのは悪を脱れることである。それは死よりも疾く駆けるのだから。今度も亦、緩慢で老年の私は緩慢なものに、強壮で迅速な私の告訴者達は迅速な者に——邪悪に追ひ付かれるのである。かくて今私は諸君から死罪を宣告されて、併し彼等は真理から賤劣と不正との罪を宣告されて、此処を退場する。私はこの判定に満足する。さうして彼等も亦。恐らくそれはかうなるより外なかつたのであらう、私はこれで結構なのだと思ふ。

(三十)併しもう一つ、私を有罪と断じたる諸君よ、私は諸君に向つて此後に起る可き事を予言して置きたい、何となれば私は今や、人が将に死せむとして最も多く予言力を発揮する時期に居るからである。諸君よ、私に死を課せる人々よ、私は敢て諸君に言ふ、私の死後直ちに、私が諸君から受ける刑罰よりも、ヅェウスにかけて、更に遥かに重き罰が、諸君の上に来るであらう。蓋し諸君は、諸君の生活に明白なる説明を与へる責務を免れることが出来るつもりで此事を行つた。併し私の言ふ如く、諸君には全然反対の結果が生ずるであらう、更に多くの審査者が諸君の前に出現するであらう、諸君は気付かなかつたが、これ迄は私が彼等を阻んでゐたのである。さうして彼等は若いだけに一層峻烈であり、諸君は一層深くこれに悩まされるであらう。蓋し、諸君にして若し、諸君の正しさからざる生活に対する或人の批議を、彼を殺すことによつて阻止し得ると思ふならば、それは諸君の判断が正しくないのである。この逃げ方は、成功もむづかしく且つ美しくもない。最も美しくて最も慥かなのは、他を威圧することではなくて、出来得る限り有徳になるやうに自ら心掛けることである。今この事を諸君に——私を有罪と断じたる人々に予言して、私は諸君に別れを告げる。

(三十一)併し無罪投票をした諸君とは、此処で起つた事柄について、私は喜んでもつと話をしたい、役人にはまだ用務があり、私はまだ死が私の霊魂の移転であるか。さうして若しそれが凡ての感覚の消失であり、夢一つさへ見ない限りに等しいものならば、死は嘆賞すべき獲物であるであらう。思ふに若し人が夢一つさへ見ないほど熟睡した夜を選び出して、之をその生涯中の諸外の夜や日と比較して見て、さうして熟考の後、その生涯の幾日幾夜さをこの一夜よりも更に好く更に快く過したかを自白しなければならないとすれば、思ふに、単に普通人のみならず波斯大王と雖も、それは他の日と寄るとに比べて容易に数え得るほどしかないことを発見するであらう。若し死は此の如きものであるならば、私はこれを一つの獲物であると言はう。その時永遠は誠にただの一夜よりも長くは見えまいから。之に反して死は此世から彼世への遍歴の一種であつて、又人の言ふ通りに実際凡ての死者が其処に住んでゐるのならば、裁判官諸君よ、これよりいい事が何処にあらうか。実際、此世で裁判官と自称する人達から遁れて陰府に到り、其処で裁判に従事してゐると言はれてゐる真誠の裁判官を——ミノスやラダマンテュスやアイアコスやトリプトレモスや、其他その一生を正しく送つた半神(ヘーロエス)達を、発見したとすれば、この遍歴が無価値だとはどうして言へよう。又オルフェウスやムザイオスやヘジオドスやホメロスなどと其処で逢ふためには、諸君はどれほどの代償を甘んじて払ふだらう。少くとも私は幾度死んでも構はない、若しこれが本当であるならば。況して私がパラメデスやテラモンの子アイヤスや其他昔不正の裁判によつて殺された人達に逢へたら、彼世に於ける生活は私自身にとつても素的であるであらう。其処で私の苦みを彼等のそれと比較して見ることも、少からざる愉快だらうと思ふ。就中最も大事なのは、彼世でも此世と同じ様に、彼世の中の誰が賢者であるか、誰が賢者顔をしながら実際さうではないか、その人々を試験したり吟味したりすることである。裁判官諸君よ、人はどれほどの代価を甘んじて払ふだらう、トロヤ攻の大軍を、率ゐた人達や、オデュッセウスや、ジジュラオスや、若しくは名を挙げることが出来る限りの其他無数の男女を試験することが出来るためには。其処で彼等と語つたり交つたりこれを試験したりすることは、言語を絶した幸福であるであらう。確かに其処では、そのために人を死刑に処するやうなことはあるまい。何となれば、彼世の人達は他の点に於いても此世の人達よりは幸福であるのみならず、若し人の言ふところが本当ならば、彼等は又全将来に渉つて不死であるだらうから。

(三十三)併し裁判官諸君よ、諸君も亦楽しき希望を以て死に対し、さうしてこの一事を、真理と信ずることが必要である——それは、善人に対しては生前も死後も悪事が起り得ないこと、及び神々も決して彼に関する事を忘れることがないといふことである。さうして今私に降りかかつて来たことも亦決して偶然の仕業ではない。私には明瞭であるが、私は寧ろ今死んで人生の困苦を遁れる方が自分のためによかつたのである。それだからこそ御告げも、何処でも私に警告を与へなかつたのである。従つて私は、私に有罪を宣告した人々に対しても又私の告訴者に対しても、毫しも憤を抱いてはゐない。尤も彼等が私に有罪を宣告したり告訴したりしたのは、そんな積りではない、彼等は寧ろ私に害を加へむとしたのである。この意味で彼等は非難に値する。

 私には一つ彼等に頼みたいことがある。諸君、私の息子共が成人したら、そのとき彼等に讐をとつて、私が諸君を悩ましたと同じ方法で彼等を悩ましていただきたい。若し彼等が徳よりも以上に蓄財やその他のことを念頭に置くやうに見えたならば、又若し彼らがさうでもない癖に一廉の人間らしい顔をしたならば、その時諸君は、私が諸君にしたのと同様に彼等を非難して、彼等は人間の追求すべきものを追求せず、彼等は何の価値もない癖に一廉の人間らしい顔をしてゐると言つてやつていただきたい。諸君が若しそれをしてくれるならば、其時、私も私の息子共も、諸君から正当の取扱ひを受けたと謂ふべきである。

 併し今はもう去るべき時が来た——私は死ぬために、諸君は生き存へるために。併し我等の中の孰れがより善き運命に出逢ふか、それは神より外に何人も知る者がない。