カント著、桑木厳翼・天野貞祐訳「哲学序説」
(学として現われ得べきあらゆる将来の形而上学に対する)
序言(後半)
余は明かに告白する——ダヴイド・ヒユームの警告は数年前始めて余を独断の微睡から覚醒し、思弁哲学の範囲に於て余の攻究に全然別途の方向を与えた所のものである。固より余は到底ヒユームの結論に服従することは出来なかった、彼れの結論は、全体を考えて始めて説明出来る問題を全体から考えないで、唯其一部分丈け考えたために、全くそのために生じたものである。若し我々が完成してはいないけれども、十分根拠ある所の、他人の遺した思想から出発する場合には思索の続行によって、此光明の最初の閃光を与えてくれた雋敏(しゅんびん)な人自身の為し得たよりも、更に大なる成果を収むることを期望し得るであろう。
是故に余は先ず、ヒユームの下した非難が一般的に考えられ得べきかを攻究した。而して因果関係の概念は決して悟性が先天的に物の結合を考える場合の唯一の概念ではなく、却って形而上学は全然斯る概念のみから成立していることを、直ちに発見したのである。余はそういう概念の数を確定しようと試みた、そして其事が思い通りに、即ち一つの原理から、成し遂げられた故、余は進んで此概念の演繹に取りかかった。今や余は、此等の概念がヒユームの憂えた如く経験から導かるるものではなく、純粋悟性に淵源するということを確め得たのである。余の雋敏な先覚が不可能と考え、又彼れ以外のすべての人々が、概念の客観的妥当性の基礎を攻究することなしに其を大胆に使用しながら、未だ嘗て思い付くことさえもしなかった所の此演繹は、敢ていうが、嘗つて形而上学のために企図され得た事業中至難なものである。而して其上に最も困ることは、仮令形而上学が存在して居るとしても、始めて形而上学の可能を作り出すべきものたる此演繹は、形而上学から少しの助力をも藉(か)り得ぬことである。余は今や特殊の場合についてのみならず、純粋理性の全範囲に亙ってヒユームの問題を解決し遂(おお)せた故、最後に純粋理性の全範囲を其言海と内容とに関して完全に且つ一般的原理に従って決定するために——このことは形而上学の体系を確固たる計画に基いて建設するには是非共必要である——極めて徐々ではあるけれども、然し確実な進行をすることが出来たのである。
然しながら、余はヒユームの問題を能う限り大なる範囲に於て解決したもの(即ち純粋理性批判)が、此問題自身が始めて提出された時に於けると同一の運命に遭遇することとなるのを恐れて居る。世人は純粋理性批判に不当な評価を加えるであろう、なぜならば彼等は其を理会しないから。世人は其を理会せぬであろう、なぜならば彼等は此書を通読はしても潜心熟考する興味を有たぬから。世人は此労苦を欲しないであろう、なぜならば此著が乾燥無味で、晦渋で、普通用いられているあらゆる概念に反して居、のみならず其上に詳密であるから。さて有体にいうと、賞讃され且つ人類に欠くべからざる所の認識そのものの存否が問題となっている場合に、哲学者ともあろう人から、通俗でないとか面白くないとか、らくらく読めぬとか、いう非難を聞くのは余には心外の至りである。斯る認識の存在は学問的精確の最も厳密なる法則に従って決定するより他に途はない、通俗性は漸次其れに附いて来べきものではあるが、決して始めからあるべきものではない。晦渋ということは、一部は、問題の範囲が広いために攻究の眼目となって居る点をよく概観することの出来ないのに起因するのであるけれども、とに角晦渋なりとの非難は正当である。其を余は此の序説によって救い度いと思う。
純粋理性能力を其の全体の範囲領域に亙って叙述する所のかの著作〔純粋理性批判〕は其の際つねに根底となるべきもので、「序説」はただ予備として其れに関係するにすぎぬものである。それというものは、形而上学を成立せしむるべきか、若しくは唯だ其れに対する微かな期望を懐くに止まるべきか、ということに就いて考えることのできる前に、かの批判は学として、組織的に且つ細部に至るまで完全に存立しなければならないからである。
世人は、古い陳腐な認識を従来の結合から取り出してそれに勝手な仕立の体系的な衣服を着せ、新しい名を附してさも新らしいもののように装飾するのを見ることに慣れて居る。それ故読者の多くが「批判」に対して期待する所もさるものに他ならぬであろう。けれども、此序説は読者をして「批判」が全く新しい学問であることを承認せしむるに相違ない、なぜならば未だ嘗つて何人も此学問に想到したものはなく、その観念すら知られて居ず、そして是れにはヒユームの疑惑が与え得た示唆より他かには、従来与えられたすべてのものから何ものをも利用することは出来なかったからである。ヒユームさえ斯る可能的な整然たる学問については全く予想しなかったのである。其のために彼は船を安全にしようとして其を海岸(懐疑主義)に座礁せしめて置いた、若し其儘にして置けば船はそこで朽ちて了うに相違ない、今余は之に反して地球儀の知識に基ける航海術の確実な原理に従い、完全な海図と羅針盤とを準備して、船を思い通りの方向へ進め得る水先案内人を供給することを以て任務とするのである。
世人は、全く独立した特殊な性質の一つの新しい学問に対するに当って、彼等が已に他で得た誤信した知識によって其を評価しうるという偏見を有っている。然し実は、其知識なるものの真実性は予め当然疑わるべきものなのである。其結果として彼等は何を見ても用語の類似などのために、既知の事物に接するが如く思い、又著者其人の思想によらずして常に彼等自身の習い性となった考方を基礎として著書を解せんとするために、何ごとも彼等には極めて奇怪に不合理にそして不分明にばかり思えるのであろう。然し講述の方法によるのではなく学問の性質上止むを得ざる著書の詳密なることや、之と共に避くべからざる乾燥無味と煩瑣学風的精確とは、事柄自身には極めて有利なことであろうけれども、著者そのものには不利な結果になるに相違ないところの性質である。
ダヴイド・ヒユームの如く繊鋭にしてしかも人の心を引きつけるように、またモーゼス・メンデルスゾーンの如く深邃にしてしかも華麗に書くことは、誰にでも出来るという訳のものではない。けれども余の任務が単に計画を立て其完成をば他人に推薦するだけにあったとするならば、そして余が長らく問題としていたところの学問の安全ということが心に懸っていなかったならば、(余の窃(ひそか)に自負するところによれば)余とても自分の講述に通俗性を与えることが出来たであったろう。実に又、遅くはあるが然し永続的な賛同を期待して、もっと早く与えられるところの都合よき歓迎の誘惑を軽視するのには、多くの忍耐と少なからざる克己さえも必要であったのである。
総じて計画を立てるということは動もすれば、自分では成し遂げ能わぬことを他人に要求し、自ら更によくは為し得ぬところのことを非難し、又自ら何処で見出し得るかを知らぬことを建議して、其れでも恰も創造力ある天才の如き外観を装うところの盛な派手な精神的事業である、が、理性の一般的批判の有力な計画には、既に其れだけに於ても、それが世間並に蟲のよい希望の宣言に畢るべきでなかったならば、世人の恐らく推測するよりも遥かに重要なものが存したからであろう。然しながら、純粋理性は独立した、それ自身に於て全く連結した領域である故、我々はすべての他の部分と無関係に其一部分丈けに触れることは出来ない、そして予め各部分の位置と他に対する影響とを定めなければ何事をも為す訳にはゆかぬ。なぜならば我々の判断を内部に於て訂正し得るものは理性の他に何ものも無い故、各部分の妥当性と適用とは、其が理性の内に於て他の部分に対して有する関係に依存し、恰も有機体の組織に於けるが如く、各部分の目的は全体の完全な概念からのみ導き出すことが出来るからである。それ故に我々は斯る批判についてこう言うことが出来る、若し其れが全体に亙って、純粋理性の最小部分に至るまで完成されなければ決して信頼することは出来ぬ、即ち我々が此能力の範囲について決定し完成せんとすれば、それは総てかしからざれば皆無でなければならぬ、と。
単なる構図は、其が純粋理性批判よりも先行する場合には理会も信頼も出来ぬ不必要なものであるけれども、之に反して其が後から従う場合には極めて有用なものである、なぜというに其れによって全体を概観し、此学問が当面の問題としている要点を別々に吟味し、始めて著作〔純粋理性批判〕を書き上げた場合に為し得たよりも更に巧みに講述を組み立てることが出来るようにされるからである。
それでここに、完成せる著作〔純粋理性批判〕の後に斯る構図を最早分析的方法で述べ得ることとなった。というのは其著作自身は、学そのものを其すべての部分が全く特殊な認識能力の組織として自然的関係で現わされ得るように、綜合的方法に従って編成されねばならなかったからである。若し人あって、余が序説として凡ての将来の形而上学の前に置く此構図をさえ、また晦渋であると思うならば、其人はよく次のことを考えて見るがよいと思う。すべての人が形而上学を学ぶということは決して必要ではないのである、世には根本的なるのみならず深奥な学問に於ても、其れがむしろ直観に近いものであると、非常によく進歩するが抽象的概念のみによる攻究の範囲では成功出来ぬ多くの才能がある。そして斯る場合には人は其天分を他の対象に用いなければならぬ。然し形而上学を評価し、のみならずさるものの一つを組み立てんと企つる程の者は、余のなした解決を承認するにせよ、又は其を全然否定して其れに代るべき他の解決を立つるにせよ——要求を拒斥することは出来ぬ故——何等かの方法によってここに提出された要求を完全に充さねばならぬ。而して最後に——非常に喧しくいわれた晦渋ということには(其はいう人自身の怠惰と魯鈍との粉飾であることが多いが)又それ相応の利益がある。というのは、すべて他の学問に関しては注意深き沈黙を守る人が、形而上学の問題とさえいえば、彼等の無知と他人の学識との相違が際立っていないのを頼みとして、堂々と論弁し大胆に断定するからである、然しながら真の批評的原理に対しては其相違は分明である。それ故に我々は此原理について斯う誇ることが出来るのである——
ignavum, fucos, pecus a praesepibus arcent. Ving. 彼等は其巣より怠惰なる雄蜂の群れをおいはらい居れり。——ヴイルギリウス