東溪日記

聖読庸行

【東渓文庫】カント「プロレゴメナ」(3/16)

カント著、桑木厳翼・天野貞祐訳「哲学序説」

 

(凡ての形而上学認識の特質に関する)

緒言

形而上学の起源について

 我々が或る認識を学問として現わそうとするならば、其認識が他の認識と共有して居ない相違の点、即ち其れに特有なるものを予め厳密に決定しなければならぬ。然らざればすべての学問の限界が交錯して、如何なる学問も其性質に適って根本的に取扱われることは出来ぬ。

 さて此特質が対象或は認識の起源或は又認識方法の孰れか一つの相違に於て存するか、乃至此等のものの全体若しくは一部分の相違に於て存するかを問わず、可能的な学問と其領分との観念は先ず第一に此特質に基づくのである。

 先ず形而上的認識の起源を考えるに、其が経験的であり得ないことは已に其概念に含まれている。従って其原理(形而上的認識の原則のみならず根本概念をも含む)は決して経験から導かれることは出来ない。何者、形而上的認識は形而下的でなくして形而上的即ち経験の彼岸にある認識であるから。其故に普通の物理学の源を構成する外的経験も、経験的心理学の基礎となっている内的経験も、共に形而上的認識の基礎を成すものではない。即ち形而上的認識は先天的認識、換言すれば純粋悟性と純粋理性とによる認識なのである。

 然しながら此点に於ては、形而上的認識と純粋数学との間に何等の相違も存せぬ故、形而上的認識は純粋哲学認識といわれねばならぬであろう。此言葉の意味に関しては『純粋理性批判』七二一頁以下〔ケールバッハ版五四八頁以下〕を参照され度い、其処には此二種の理性使用の差別が明瞭に且つ十分に述べてある。——形而上的認識の起源に就いては是丈けに止めて置く。

形而上的と称し得る唯一の認識方法について

(イ)綜合的判断と分析的判断との一般的差別について

 形而上的認識が先天的判断のみを含まねばならぬことは、此認識の起源の特質が要求する所である。然しながら、判断が如何なる期限を有つにせよ、乃至其論理的形式がどうなっているにせよ、しかも内容から見た判断の区別がある。其区別によると、判断は単に説明的であって認識内容に何者をも加えないものなるか、或は拡張的であって与えられた認識を増大するものである。前者を分析的判断、後者を綜合的判断と名付けることが出来よう。

 分析的判断が賓辞に於て立言する所のものは、其れ程明瞭にではなく又同様の意識を以てではないが、事実上已に主辞の概念中に含れている。例えばもし「凡ての物体は延長している」といえば、物体という概念を少しも拡張しないで、ただ其を分解したにすぎない、なぜならば延長ということは明瞭にではないが已に事実上物体の概念に於て考えられていることであるからである。其故に此判断は分析的である。之に反して「或る物体は重い」という命題は、物体という一般的概念には事実上考えられていないことを賓辞に於て含んで居る。即ち此名大は余の概念に或物を附加することによって余の認識を拡張する故、綜合的判断といわれねばならぬ。

(ロ)凡ての分析的判断に共通な原理は矛盾律である

 凡ての分析的判断は徹頭徹尾矛盾律を基礎とし、材料となる概念が経験的なると否とを問わず、本来の性質として先天的認識である。何となれば、肯定的分析判断の賓辞は予め已に主辞の概念中に含まれているから、矛盾に陥らずして之を主辞に対して否定することは出来ないし、同様に否定的分析判断に於ては、其反対の概念が矛盾律に従って必然的に主辞に対しては否定せられるから。例えば「すべての物体は延長す」「すべての物体は非延長(単純)に非ず」という命題に於けるが如きそれである。

 是故に分析的命題はすべて先天的判断である。たとい「金は黄色の金属なり」という例に於けるが如く、用いられている概念が経験的のものであってもそうである。何故というに、金が黄色の金属なることを知るには金という概念以外に何にも他かの経験を要しないからである、というのは、黄色で且つ金属である事はまさしく金という概念を構成することである故、金という概念は此物体が黄色で且つ金属なることを含んで居る、従って我々は此概念以外には全く無頓着に概念を分析しさえすれば可いからである。

(ハ)綜合的判断は矛盾律以外の原理を要する

 綜合的判断には、其起源が経験的なる、後天的のものの他に先天的に確実にして純粋悟性と純粋理性とから生じたものもある。然し両者は、決して分析の原則即ち矛盾律に従ってのみ生ずることが出来ぬ、という点では一致して居る。綜合的判断は其上に全く他の原理を要求するものである。尤も其が如何なる原則から導出さるるにしても常に矛盾律に適って導出されねばならぬことは言うまでもない、なぜならば凡てのものが矛盾律から導出されるわけには行かぬけれども、何にしても此原則に反してはならぬからである。先ず綜合的判断を彙類して見ようと思う。

(一)経験的判断は常に綜合的である。それというものは、分析的判断を作るためには概念の外に出る必要が全く無く、従って経験の証明が不必要であるために、経験を分析的判断の基礎とすることは不合理であるからである。物体が延長して居る、ということは先天的に確立せる命題で経験的判断ではない、何となれば余が経験をする前に判断に対する凡ての条件は已に概念中に具わっていて、余はただ概念から矛盾律に従って賓辞を抽き出し、其によって同時に判断の必然性を意識することができるからである。而して必然性というものは経験が決して示すことさえもできぬものなのである。

(二)数学的判断はすべて綜合的である。此命題は従来人間の理性を分析した人々の全く看過する所となったのみならず、彼等の予想に全然正反対であるように思える、けれども此命題は不可拒的に確実で且つ其結果は極めて重要である。彼等は数学の推論がすべて矛盾律に従って行れる故、(そは凡ての必然的確実性の性質が要求する所のことである)其原理も亦矛盾律に従って認識せられるものと思い込んだのである、彼等は此点に於て非常な考え違いをしたといわねばならぬ。何故というに綜合的命題は勿論矛盾律によって理会し得ることもあるが、其は其命題を推論し来る他の総合的命題が前提として存する場合に限ることで、決して其命題其自身に於て然るのではないからである。

 始めに注意しなければならぬことがある——本来の数学的命題は常に先天的判断で決して経験的ではない、何者、数学的命題は経験からは導き出すを得ざる必然性を有っているからである。然し此のことが承認されないならば、余は余の命題を純粋数学に限ろうと思う、純粋数学が経験的に非ずして先天的純粋認識のみを含むことは、已に其概念の示す所である。

 人もし7+5=12という命題に接したならば、始には恐らくそは分析的命題で七と五との和の概念から矛盾律に従って生ずるものと考えるであろう。然し詳しく考察すると分るが、七と五との和の概念は二つの数を一つの数に結合したというと以外何ものをも含んでいない、其によって二つの数を総括する所の此単一の数の何たるかは全然考えられていないのである。十二という概念は七と五との和を考えた丈けで已に考えられているものでは決してない、斯る可能的総和の概念を如何程分解しても其中から十二という数は出て来ないのである。七と五という二数によって十二という数を得るには、二数中の何れか一つに対応する所の直観例えば五本の指、乃至(ゼクネルが其算術——〔Segner : Anfangsgründe der Mathematik, 2.Aufl. Halle 1773〕——に於ていう如く)五つの点といったようなものの助を藉りて、直観に於て与えられた五の単位を順次に七の概念へ附け加えることによって、単なる可能的総和の概念の外に出なければならぬ。即ち我々が7+5=12という此命題によって我々の概念を拡張していることは事実である、我々は初めの概念に其中には全く含まれざる一つの新らしき概念を附け加えている。換言すれば算術の命題は常に綜合的である。我々が稍々大きな数を取って見ればこのことは一層明かに知られる。というのは、概念をどの様に取扱っても、直観の助けを藉らずにただ概念を分解するのみでは決して和の見出されぬことが大きな数だとよく明瞭に分るからである。

 同様に純粋幾何学の如何なる原則も分析的ではない。直線は二点間の最短線なり、とは綜合的命題である。何となれば直線という概念は毫も量に関する意味を含まず、ただ性質を示すからである、従って長短という概念は全く新に附加せられたもので、直線の概念を如何程分析しても決して出て来ることの出来るものではない。即ちここに直観の助けを藉りなければならぬ、直観によってのみ綜合は可能なのである。

 幾何学の前提としている他の二三の原則が分析的で矛盾律に基いていることは事実であるが、然し其等は同一律のようにただ方法の鎖として用いらるるもので、原理として用いらるるのではない。a=a. 「全体は其自身と等し」或は (a+b)>a. 「全体は部分よりも大なり」という原則の如きは其適例である。而して是等と雖も単に概念上からも其妥当を説くことは出来るが、そが数学に於て准許される所以は全くただ直観に現わされ得るということにある。此場合普通我々が斯る必然的判断の賓辞を以て已に我々の概念の中に存すとなし、従って其の判断を以て分析的であると思うようになるのは、全く言い現しの曖昧なためである。即ち我々は概念に著いて居る。然し問題は何を我々が与えられた概念に附け加えて考えねばならぬか、ということではなく、却って実際我々が何を与えられた概念に於て、(仮令、ただ漠然とでも)、考えているか、というにある、そうすると賓辞がかの概念に従属するのは必然的であるが、しかも直接にではなくして、附け加わらねばならぬ所の直観によって媒介されていることが分る。

判断を一般に分析的と綜合的とに分つことに関する注意

 此区分は人間悟性の批判に関しては欠く可らざるものである、従って又それに於ては典型的たるに値する。けれども其以外に於ては何処にてもしかく顕著な効用を此区分が有つとは思えない。而して形而上的判断の起源を常に形而上学そのものに於てのみ求め、決して其外に出て純粋理性法則一般に於て求めることをしなかった所の独断的哲学者等が、何故この自明の区分を忽(ゆるが)せにしたか、又有名なヲルフ及び其跡を襲いだ鋭敏なバウムガルテンが明かに綜合的なる充足理由の原理を矛盾律に於て求めたか、ということの原因はここにあると思う、之に反してロツクの人間悟性に関する攻究〔John Lock : An essay concerning human understanding〕に於ては已に此区分に対する示唆が認められる。蓋し彼は第四編第三章第九節以下に於て、先ず判断に於ける表象の種々なる結合と其起源とについて述べ、其の一方をば同一又は矛盾に(分析的判断)、他方のものをば一つの主観に於ける表象の共在に(綜合的判断)置き、進んで第十節に於ては、我々の(先天的)認識中後の種類のものが極めて少なくして皆無に近いということを言って居る。但しロツクが此種の認識に就いて述べた所には、確定せるもの又一般規則となされたものが非常に少ないから、ヒユームを含め何人も此種の命題に就いて考察する機因を其れから得なかったのも敢て怪しむに足らない。かかる一般的な而も確定した原理は、他人が之をただ漠然と考えて居る場合には其人から無造作に学ぶ訳にはゆかない。我々は先ず自己の思索によって自ら其れに到達せねばならぬ。一度自らそれに到達すると、著者自身さえ自己の言説の根柢にさる考がある事を知らぬ位であるから、我々が始めには決して発見し得なかったであろうところの他の場処に於ても、其原理を見出すに至るのである。嘗て自ら思索した事のない物でも一旦其事の示されたのちには、従来已に言われていたのであるけれども、以前には何人も認めることのできなかった所に於て一切を認知する慧眼を有するものである。

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