東溪日記

聖読庸行

【東渓文庫】カント「プロレゴメナ」(16/16)

哲学序説カント著、桑木厳翼・天野貞祐訳「哲学序説」

 

序説の一般的問題の解答

——如何にして学としての形而上学は可能なるか

 理性の素質としての形而上学が存在して居ることは事実であるが、それは其自身に於ても(我々が第三の主要問題の分析的解答に於て証明せる如く)弁証的欺瞞的である。其故、斯る形而上学から原則を求めようとし、又さる原則の適用に於て自然的なれども虚妄なるところの仮象に従うことから生ずるものは決して学問ではない、ただ空しき弁証的技術である。而して此技術に於ては、或学派が他のものに優ることはあるにしても、決して一つの学派が正当にして永続的なる称揚を得ることは出来ない。

 さて、形而上学が騙欺的説得ではなく、学として洞察と確信とを要求し得る為めには、理性其ものの批判によって、先天的概念の全体が発見され、それが起源の相違(感性、悟性、及び理性の何ずれを起源とするか)に従って分類され、更にそれ等概念の完全なる表が作られ、斯る概念全体並にそれから推論さるるもの全般の分析がなされ、次には殊に此概念の演繹によって先天的綜合判断の可能が証明され、最後に斯る概念仕様の原則とその限界とが、而もすべて完全なる体系に於て、説明さるることが必要である。即ち『批判』が、そしてただ『批判』のみが、学としての形而上学を成立せしむべき、よく証明され確実にせられた計画、のみならず其れを実行するすべての方法を包括するものであって、それは他の方法にては全く不可能なことである。其故に茲では如何にして此仕事が可能であるかが問題ではない。問題は、如何にせばそれが実行され得るであろうか、そして聡明なる人々を従来の背理にして無益なる攻究を去って確実なる攻究に転ぜしめ得るであろうか、更に如何にせば、共同の目的のために斯る一致を、最も適当に導き得るであろうというにある。

 これ丈のことは確実であると思う——一度『批判』を味った者は永久にすべての独断的空説を嫌厭する、彼が依然それに甘んじて居たのは、彼れの理性が自己を指示するために何物かを要求するのに彼は何等独断的空説に優るものを発見し得なかったから、止むを得なかったのである。『批判』が普通の形而上学に於るは科学の錬金術に対し、天文学が予言をする占星術に対すと一般である。余は保証する——此『序説』に於てでもよいから『批判』の原理を透徹的に考え理会したものは何人もかの古い詭弁的似而非学問に戻ることはないであろう。否、彼れは一種の喜びを以て一つの形而上学を要望するに相違ない。謂う所の形而上学とは、今や勿論、其人の掌中にあるもので、最早何等の準備発見をも要しないもの、且つ是れにして始めて理性に永続的なる満足を与え得るものなのである。何となれば形而上学は、最早変化されることも出来ず又新らしき発見によって加えられることも出来ぬところの、完全不易の状態に達することが出来る、そしてこのことはすべての可能的なる学問の中で独り形而上学のみが望み得る長所であるから。というのは、形而上学に於ては理性が其認識の源泉を対象及び対象の直観(理性の知識は之れによって更に加えらるることは出来ない)に於てではなく、却って己れ自身に於て有し、そして若し理性が彼れの能力の原則を完全に、且つ凡ての誤解に対して確然と表現すれば、啻に理性の先天的に認識し得べきものを尽すのみならず理性の問題とすべきものは何ものも之を残さぬからである。

 かくの如く明確な完成した知識は、すべての効用(効用に就ては後に述べることがあるであろう)を度外視しても、其れ自身に人の心を引き付ける力を有つものである。

 一切の誤れる技術と空なる知識とは亡び失せる。所詮彼等は自滅を免れることは出来ぬ。而して其隆盛の頂点はやがて其衰滅の時である。今や形而上学には此の時が来たのである。すべての学問研究と同じ熱心を以てするに拘らず、形而上学が学識ある人々の間に衰退し去った状態はよく此の消息を語るものである。もっとも未だ大学の課目の古い制度には形而上学の余影が残って居、学士院では今もしばしば賞を懸けて形而上学に関する論文を募集する、が然し今では誰も形而上学を根本的な学問の中に数えるものはあるまい。而して若し聡明な人が偉大なる形而上学者と呼ばれたとしたら、この好意ある然し誰からも妬まれぬ賓辞を、受けるかどうか考えて見るならば、思い半ばに過ぐるものがあろう。

 すべての独断的形而上学衰滅の時が来たことは疑を容れないが、理性の根本的なそして完成された批判によって、形而上学再生の時が已に現れたといい得るには未だ遥かに遠ざかって居る。総じて、一つの傾向から其れと反対のものへ移る間には無関心の状態がある。此時代は著者にとって最も危険な時であるが、余の考えるところによれば、学問其のものにとっては幸なる時期である。その訳けは、以前の結合から全く分離することによって党派心が全く生滅した状態は人心にとって、他の計画に賛成しようとする建議を漸次承認するのに最も都合がよいからである。

 余は此『批判』によって、純粋理性批判の方面に於ける攻究を盛んならしめ、且つ哲学の一般的精神(それには思弁的方面の養いが欠けて居るように思える)に新なそして望み多き攻究の対象を与えることを期望するのである。余はこういう以上、『批判』の困難なる論究によって不興にされ怒らせられた人々が、何の理由あってさる期望を有つか、と問うことをば覚悟して居る。余は答えていう——必然性の拒む可らざる法則によってと。

 人間の精神がいつか全く形而上的考究を止めるだろうということは、我々が絶えず不潔な空気を吸わぬために呼吸を全く中止するだろうというのと同様期待すべからざることである。即ち、形而上学は常に世界に於て存在するのみならず、何人に於ても(殊に思索的の人に於ては)存するに相違ない、而して其れは普遍的標準のない間は各人勝手の方法で作り上げられるだろう。さて、従来形而上的と呼ばれて居たものでは、最早思索的頭脳が満足されない様になって来た、さればとて形而上学を全く止めてしまうことは出来ない。其故、所詮は純粋理性其ものの批判が企図され、若し又已にさる企てがあるならば、其れが攻究され、其れに一般的考察が向けられねばならぬ。然らざれば此の単なる知識以上のものなる迫り来る要求を救うべき途は他にないのである。

 余は『批判』を知って以来、形而上学的内容の著書を読み了ると、其著書は概念の限定と多様と秩序と易解なる講述とに依て余を楽ませ同時に啓蒙するものであっても、斯う問わずには居られなかった——此著者は形而上学を一歩でも進歩せしめたかと。学識ある人々の著書が他の意味に於ては有用であって常に精神力の錬磨を益するものであったが、然も余は明言することを許して貰い度く思う、余は彼等の論文に於ても、又自分の取るに足らぬ論文(自愛によって己れの論文はよく思えるが)に於ても、其れによって少しでも学問の進歩させられたことを見出さなかったと。勿論其れは当然のことである、何故ならば、学としての形而上学は未だ存在しなかった又それは断片的に寄せ集められ得るものではなく、その幼芽が予め「批判」に於て養育されなければならぬから。然しながら、我々は誤解を防ぐために向きに述べたことのある次の注意をして置かねばならぬ、即ち我々を分析的に処理することは勿論悟性にとって極めて有益ではあるが、それによって学(形而上学)は少しも進歩されない、其れというものは、概念の分析は其れから始めて学問が作らるべき素材に過ぎぬからである。実態及び偶有性の概念を極めて巧みに分析し限定したとする、それは後に何かに用いられるための準備としては極めて宜しい、けれども一切の存在に於て実体は常住であって偶有性のみが変化する、ということが証明され得ないならば、かのすべての分析によって学問は少しも進歩せしめられないのである。それで、形而上学はこれまで此命題をも充足理由の命題をも、尚更らのこと、心理学や宇宙論に属するような複合的命題、其他一般に如何なる綜合的命題をも先天的に妥当なものとして証明し得なかった。即ち、かの凡ての分析によって何等の成就、何等の獲得、何等の進歩もなされなかった。そして学問は夥しき喧噪葛藤の後に以前としてアリストテレースの時代と同じ処に止って居るのである。それが若し綜合的認識の手掛り丈けでも見出されて居たならば、形而上学は従来あったよりも遥かによく準備されたに相違なかった。

 かく言うのを侮辱と思うものがあるならば、其人は此誣言を容易に破ることが出来る。それには、彼が独断的方法で先天的に証明し得ると思う形而上学的綜合命題を唯だ一つ挙げることが出来さえすればよいのである。彼がこのことさえ為すならば、余は彼が真に学問を進歩せしめたことを承認するだろう。然しそうでない以上、命題が普通の経験によってどれ程確証されて居っても、学問の進歩を承認する訳には行かぬ。如何なる要求も之れに優りて穏当であり至当であることは出来ない。而して此要求の充されない場合(それは必然的に起るのである)に、未だ甞つて形而上学は存在しなかった、と言うに優りて正当な宣言とてはあり得べくもない。

 この要求が承認された場合に、余はただ二つのことを謝絶しなければならぬ——第一は蓋然的論法と臆断との戯れである。さるものは幾何学に於けると同じく形而上学にも適するものではない。第二は所謂常識の魔杖によって決定することである、是れはすべての人を確信せしむるものではなくして各個人の性質に従うものである。

 前者に就て考えるに、何が背理であるといって、形而上学即ち純粋理性による哲学に於て、我々の判断の基礎を蓋然性と憶測とに置こうとするが如きはあるまい。総じて、先天的に認識さるべきものは其れによって必然的に確実であるとせられる、従って又その様に証明されなければならぬ。我々は同じ様に幾何学や数学の基礎を臆断に置こうとすることが出来ようか、蓋し算術に於ける蓋然性の計算に就て見るに、その求むる所は決して蓋然的な判断ではない、却って与えられた同種の制約の下に於ける或る場合の可能の度に関する全然確実な判断である。且つそれは可能的な場合の全体を通じて考えると、必ず一定の規則に従って見出されるに相違ない、尤もこの規則は個々の場合に関しては十分に決定されて居ないのである。ただ経験的自然科学に於てのみ臆断(帰納法と推類とによって)は寛容され得る、然し其の場合にも、少くとも、我々の仮定することの可能が確実でなければならぬ。

 常識を憑拠とすることは、概念若しくは法則が経験に関して妥当なるべきものとせられるのでなく、経験の外に於ても妥当であると主張されようとすると、場合によっては一層悪い結果となる。固と、常識即ち健全なる悟性とは何であるか、それは正当なる判断をするという限りに於て、一般的悟性である。然らば、一般的悟性とは何であるか。それは具体的規則の認識及び適用能力である、之と異り思弁的悟性は抽象的規則の認識能力である。其故に常識は——すべて起る所のものはその原因によって決定されて居る、という規則をどうにかして理会することは出来るであろう、然も決してかく普遍的に洞察することは出来ない。従って常識は経験の例証を要求する。而してこの規則は窓硝子が破れたり家具が失せたりした場合に彼が考えるのと何にも違ったことでないのを聞くと、始めてこの原則を理会し其れを許容する。即ち常識は彼れの規則(実際には先天的に彼に与えられて居るのであるが)を経験に於て確証されて始めて認め得る丈けに用いられる。従って、先天的に即ち経験から独立に規則を認識することは、思弁的理性の独り能くする所で、全く常識の見解以外に存するのである。然るに形而上学の攻究するのは、全く先天的認識に限られて居る。確かに、常識の悪い徴候の一つは、この範囲に於ては何等の判断をも下し得ず、又人々が窮境に陥って彼等の思弁を以て途方に暮れてしまった場合でなければ蔑視するにきまって居る様な保証人に信頼することである。

 かかる常識の間違った仲間(彼等は時とすると常識を称揚するが普通には軽蔑して居る)が用いる定りきった遁辞はこうである——結局若干の直接に確実であって何等の証明をも、のみならず何等の説明をも要しない命題が存しなければならぬ、然らざれば我々は判断の理由に関して決着を得ることは出来ぬであろう、と。然しながら矛盾律を除けば(然し矛盾律は綜合的判断の真理を説明するには不十分のものである)彼等がその権能を説明するために引用し得るもので、直接に常識の理会する疑う可らざるとては数学の命題、即ち二に二を乗ずれば四となる、二点を通じては一直線を引き得る丈けである、という類いのものが存するのみである。然しながら、斯る判断と形而上学の判断との間には霄壤の相違がある。数学に於ては、概念によって可能と考えられるものがすべて、思惟そのものによって作られる(組立られる)ことが出来る。我々は二へ他の二を段々に加えて自ら四という数を作る、又我々は思考に於て一つの点から他の点へ種々の線を引く、而もそのすべての部分に於て(その等不等を問わず)似て居る線をば唯だ一本丈け引くことが出来る。之れと異り、我々は全思惟力を以てして一つの物の概念からそれと必然的に連結して居る他の物の概念を導き出すことは出来ない、それには経験の助力を仮らなければならぬ。我々の悟性は先天的に(然し常に可能的経験に関してのみ)かかる連結(因果関係)を与えるのであるが、それは数学の概念の如く先天的に直観に現わされ、従って其可能が先天的に明かにせられることは出来ない、却ってかかる概念はその適用原則と共に、若しそれが先天的に妥当なるためには——形而上学はそのことを要求する——その可能の証明と演繹を要する。然らざればその妥当する範囲即ち経験内にのみ妥当であるか若しくは経験外に適用され得るかが分らないからである。其故、我々は純粋理性の思弁的学たる形而上学に於て決して常識を憑拠してはならぬ。然しながら、我々が形而上学を放擲し、すべての純粋思弁的認識(それは常に知識でなければならぬ)と従って形而上学自身及びその教説を断念するように余儀なくされ、そして合理的信仰のみが我々にとって可能であり、我々の要求を充すに足る(のみならず知識よりも有益である)ものであると考えられた場合には常識に拠るとも勝手である。蓋しそうなれば問題の事情が全く変ってしまうからである。形而上学は、全体としてのみならずそのすべての部分に於ても学でなければならぬ、然らざれば形而上学は空しきものである。何者、其は純粋理性の思弁として、普通の見解以外には何処にも根拠を有たぬものとなるから。斯く言えばとて、蓋然性と常識とが形而上学以外に於て有用且つ正当にして而もその要点が実際との関係に依存する所の自らの法則に従って善く用いられることは言う迄もない。

 斯くの如きは、余が学としての形而上学の可能に対して当然要求され得るものとして考えるところのものである。

【東渓文庫】カント「プロレゴメナ」(15/16)

哲学序説カント著、桑木厳翼・天野貞祐訳「哲学序説」

 

結語

純粋理性の限界決定に就いて

五十七

 上述の分明なる証明にも拘らず尚お我々が或る対象に関して、其対象の可能的経験に属するもの以上を認識しようと望み、或は我々が可能的経験の対象ならざることを知り居る物の性質を如実に限定そうとして、少しの認識にても要求するならば、それは理由なきことと言わねばならぬ。空間時間とすべての理性概念といわんや経験的直観或は感性界に於ける知覚によって作られた概念とは、経験を可能にすることより他に用いられ能わぬが故に、我々は何によってか物をさながらに認識する事が出来よう。若し我々が純粋悟性概念から此制約を取り去れば純粋悟性概念は全く如何なる客観をも限定せず、何処に於ても無意味なるものとならざるを得ぬのである。

 然しながら、若し又我々が全く物自体そのものを許容せず、我々の認識を以て物を認識する事の唯一の可能的方法なりと考え、従って空間時間中の我々の直観を総ゆる可能的直観とし、我々の弁証的悟性を総ゆる可能的悟性の原形となし、その結果として経験を可能ならしめる原理を以て物自体そのものの普遍的制約なりと主張すれば、それは一層甚だしき背理である。

 それ故、周匝なる批判が我々の理性を其の経験的使用に関しても看守し、またそれの越権に標的を示さなければ、ヒユームの対話篇が其例を示すが如く、理性の適用を可能的経験にのみ制限する我々の原理が自ら超験的となり、我々の理性の制限を物そのものの可能のそれであると揚言するに至るのである。もと懐疑論形而上学と共にその無警察な「制限を知らぬ」弁証法から生じた。而してその始めに於ては一更に理性の経験的使用を擁護しようとして其を超絶する凡てのものをば無である虚妄であると揚言したのであった。然るに経験に用いられると同じ原則が先天的であって気付れずにしかも一見経験界に於けると同等の権利を以て、経験界以外に及ぶ事を次第に認むるに至ったために、経験の原則にまで疑惑を向け始めたのである。然しさる疑惑に対しては常識が全然反対するために、それは別に危険ではないが、そもそも理性はどれ丈けの範囲に於て信用出来るものであるか、又何故にそれ丈けの範囲であってそれ以上でないか、ということがどうしても決定出来ないという特別の困難が学問に於て起って来た。此困難を救って、今後再び其れに陥るのを防ぎ得るものは、我々の理性使用に対する正当なそして原則から導き出された限界決定があるのみである。

 我々は一切経験を超絶して、物自体そのものの決定的概念を作る事は出来ぬ、というのは正当である。然し我々は物自体の探究に対して全く無頓着では居られない。何となれば、経験は決して理性に十分な満足を与えるものではなく、此問題の解答に関して我々を先きへ先きへと導き、いつまでたっても其の十分なる解決を得ぬことの不満足を感ぜしめるからである。何人にもよらず此事を純粋理性の弁証法によってよく知る事が出来、又其れであるから純粋理性の弁証法が十分な主観的理由を有つのである。我々の心の性質に関して、主観の明かな意識と同時にその現象が唯物的に説明され得ぬことの確信に到達しながら、そもそも心とは何ぞやと問う事をせず、乃至その問題の解決に経験的概念の不十分なる時、たといその客観的妥当性が全く説明されぬとしても、とに角(単純なる非物質体の)理念を仮定せずに居る事がどうして出来ようか。世界の持続及び量、自由或は自然的必然、というすべての宇宙的問題に於て誰が経験的認識に止って満足して居る事が出来よう。何となれば、我々が如何様になすにせよ、経験の原則に従って与えられた答は何ずれも常に新らしい問題を生み、その問題が同様に解答を要求し、その結果、如何なる物理的説明方法を以ても理性を満足せしめ得ないことが明白にせられるから。終りに経験の原理によって考えられ認められる事がすべて偶然的依存的なるに拘らず、尚それに止まって居る事の不可能を誰が認めずに居られよう。且つ超験的理念に没入してはならぬという禁制がどんなにあるにせよ、経験によって説明され得べきすべての概念を超えても、なお唯一実在の概念に於て平安と満足とを求めることの余儀なさを誰が感ぜずに居られよう。此理念そのものの可能は認知されぬが、然し否定されることも出来ぬ、それと言うものは、此理念が単なる叡智体に関係し、然もこの理念を有たずしては理性が永遠に満足され得ないからである。

 限界(延長体に於ける)を立てることは常に、一定の場処の外にあって其を囲むところおの空間を前提とする。之れと異り制限はさる前提を要しない、却って量が絶対的に完全でない限りに於て、量に関する単なる否定である。我々の理性は、物自体に就ては定った概念を得ることの出来ぬもので現象内に限られて居るが、然し物自体そのものを認識そうとしていわば一つの空間を自分の囲りに認めるのである。

 理性の認識が同種のものに関する間は、認識の定った限界というものは考えられない。人間の理性は数学と自然科学とに於ては制限を認めるが限界をば認めない、換言すれば理性の決して達し得ないものが彼の外にある事を認めるが、理性其ものが内在的進行に於てどこかで完成せられる事を認めぬのである。数学に於ける洞察の拡張と、不断の新なる発明の可能とは無限に進んで行く。それと同じく、経験を続けることと其れを理性によって結合することによって自然の新らしき性質、新らしき力及び法則を発見することに限りは存せぬ。然しながらこの場合に制限を見落してはならぬ。数学の関係するのは現象にのみである。感性的直観の対象となり得ざるもの、即ち形而上学及び倫理学の概念の様なものは、全く数学の範囲外にあって、数学は決して其れまで導くものでもないし、又さるものを要しもしないのである。それ故、数学が形而上学倫理学等に向って断えず進行し接近するという事はない、言わば両者の間には接線も接点も存在せぬのである。自然科学は決して我々に物の内部を示さぬであろう、物の内部というのは現象ではないが、現象を説明する最高の理由として用いられ得るものである。然しこのものは自然科学の物理的説明に必要ではない。のみならず斯るものが他の方面から自然科学に提供されても(例之、非物質体の影響)自然科学は之を拒絶して説明の過程中に全く入れずに、説明の基礎をば、どこまでも感性の対象として経験に属し経験法則に従って我々の真の知覚と結合され得るものの上にのみ置かなければならぬ。

 然しながら形而上学は純粋理性の弁証的企図(これは我儘勝手に始められるのではなく、理性そのものの性質によって余儀なくせられるのである)に於て限界に行き詰る。而して先験的理念は人の避け能わぬもので、然も実現され能わぬものである故、純粋理性使用の限界を実際に示すばかりでなく、その限界を定むべき方法を示す用をなすのである。このことが又、形而上学をその愛子として生んだ我々の理性のこの性質の目的でもあり効果でもあるのである。世界に於けるすべての産出が偶然に帰せらるべきものでないと同じく、形而上学の産出も偶然のものではなくして、大なる目的のために巧みに造られて居るところの根源的芽胞に基くものである。形而上学がその特質から見て自然そのものによって我々の中に基礎を有つことは、恐らく総ゆる他の学問以上である。形而上学は決して勝手な選択の産物、或は経験(形而上学は経験からは全く離れたものである)の過程に於ける偶然の拡張と見做され得るものではない。

 理性は彼れのすべての概念と悟性の法則とによって経験的使用即ち感性界内の使用には何の不足も感じないが、然も理性自らは其れによって満足する事は出来ぬ。何者、問題が後から後からと際限なく起って来るために其問題を完全に解決する望みが理性になくなってしまうからである。此完全なる解決を目的とする先験的理念は斯くの如くして起れる理性の要求である。さて感性界と、従って感性界を理会する丈けの用をなす凡ての概念(即ち空間時間及び我々が純粋悟性概念という名の下に列挙したもの全体)とが一様に此完成を含まぬことは理性の明かに認める所である。感性界は普遍的法則に従って連結された単なる現象の連鎖であって、独立の存在を有つものではない、其れは物自体其ものではなく、従って此現象の基礎を含む所のもの、即ち単に現象としてではなく物自体其ものとして認められ得る実在と必然的に関係する。而して制約されたものから其制約へと順次に進み行くことを完成しようとする理性の願望に何時か満足を与えることは物自体の認識によってのみ理性の期望し得る所なのである。

 我々は向きに(三十三章、三十四章)単なる叡智体に関して理性の有する制限を述べた。然し今や我々は先験的理念によって叡智体にまで進まねばならぬこととなり、言わば充された空間(経験)と空虚な空間(我々に全く不可知なるもの即ち本体)との接触する所まで導かれた為に、純粋理性の限界をも決定することが出来る。もと、すべての限界には或る積極的なところがある(例之、平面は具体的空間の限界であるが其自身また空間である。平面の限界なる線も空間であるし、線の限界なる点も依然空間中の場所である。)之れに反して制限の含む所は純粋に否定のみである。已に我々が制限の彼岸に或物の(其物自体が如何なるものなるかは全く我々の認識し得ざる所であるが)存することを発見した以上、上節に述べた制限ではまだ不十分である。何者、我々の目下の問題は斯うであるからである——我々が知る所のものと我々が知つても居ず又決して知る事もないものとの連結に於て理性の取る態度如何と。茲に已知物の未知物(其は常に未知物である)に対する真実なる連結がある、そして此連結に於て未知物が少しでも知られる様に成ること――其は事実望む可からざることである——は出来ぬが、此連結の観念は決定され明瞭にされ得ねばならぬ。

 即ち我々は非物的実在、叡智界、最高実在(真の本体)を考うべき筈である。それというのは、理性が現象をそれと同種なる理由から導き出すことによっては決して望むことの出来なかった完成と満足とを物自体其ものとしての此等のものに於て発見する故と、又現象が常に事物自体其ものを予想し、我々の詳しく知ると知らざるとに拘らず、それを暗示し、現象とは異った或物(即ち全然異種なる物)に関係するからである。

 さて我々は斯る叡智体を如実に即ち的確に認識する事は決して出来ないけれども、これを感性界に対する関係に於て承認し、理性によって感性界と連結せねばならぬが故に、少くとも感性界に対する関係を現わす概念によって此連結を考えることは出来るであろう。我々は叡智体を考えるに純粋悟性概念によるより他に途を有たぬから、実際我々は其によって何等限定されたものを考えない、即ち我々の概念は無意味なものである。若し我々が其を感性界から得られた性質によって考えれば、其は最早叡智体としてではなく、一つの現象として考えられ、感性界に属することとなるのである。我々は一例を最高実在の概念から採って見ようと思う。

 神の概念は完全なる純粋理性概念であるが、それはただすべての実在を包含する一つの物を表象するのみで、其等実在の唯一つをも限定するものではない。何故かというに、限定するためには感性界から例が仮られねばならず、若しそうなれば余の取扱う者は結局感官の対象であって、決して感官の対象と成り得ざる其れとは全く異種のものではない事となるからである。例えば、最高実在が悟性を有つとする。然るに余の有する悟性の概念は感官によって与えられる直観を意識統一の下に統括する活らきを為すところのもの即ち我々自身の悟性のそれであって其の他のものではない。そうすると余の概念の要素は常に現象中に存することとなるであろう。然しながら現象の不充足なることは我々をして現象を超えて現象から全く独立なる実在即ち現象を其限定の制約として居ない実在の概念に向うことを余儀なくするのである。さればとて、若し余が悟性を感性から分離して純粋悟性を得ようとしたらどうであろうか――残るところは直観のないところの単なる思惟形式のみとなり其れによっては何等の限定されたもの即ち如何なる対象も認識されることは出来ない。結局余は対象を直観するところの別種の悟性を考えねばならぬこととなるであろう、もっとも人間の悟性は弁証的で、普遍的概念によってのみ認識し得るものである故、さる悟性に就ては我々は少しの理会をも有たぬのである。最高実在が意志を有つ、とする場合にも同じ困難が起る。何となれば余はこの概念を余の内的経験より、然も同時に我々がその存在を要求するところの客観に余の安心が依存することから得るのであって、従ってその概念は感性を其基礎とすることとなるが、それは最高実在の純粋概念とは全然相容れぬことであるから。

 ヒユームが自然神論に対して加えた反駁は薄弱といわねばならぬ。それはただ証明法丈けに当るもので、自然神論的主張其ものに及ぶものではない。然しそれが(自然神論に於ては全く超験的なる最高実在の概念を、詳しく限定する事に依て成立するところの)有神論に対すると非常に強味のあるもので、一度神の限定された概念が作られると、或る(実際すべての普通の)場合には不可抗的である。ヒユームの常に主張したところは斯うである。我々が実体論的賓辞(常住、偏在、全智)のみを与え得るものなる原実在の単なる概念は実際何等定ったものを表すことは出来ない。定ったものを表わすには概念を具体的に現し得る性質が附け加えられねばならぬ。又、原実在は原因である、というのでは不十分である、其因果性例えば悟性並に意志による因果性の性質が説明されねばならぬ、と。ここに至って事柄そのもの、即ち有神論に対するヒユームの攻撃が始まるのである、向きにはただ自然神論の証明理由を駁撃したのみで、それは何にも特別に危険なる結果を齎すものではない。彼れの危険なる議論はすべて擬人説に集注する。彼によれば擬人説は友神論と離す可からざるもの、而も有神論をして自家矛盾に陥らしむるものである。若し我々が擬人説を除去すれば、其は軈て有神論そのものを覗き去ることとなる、そして残る所は自然神教のみであるが、自然神教は我々にとって全く無用なもので、宗教道徳に対して何等の基礎をも与え得るものではない、と。真に斯くの如く擬人説が避く可からざるものとすれば、最高実在の証明が如何なるものであるも、又それがすべて承認せられるとしても、我々は矛盾に陥らずして此実在の概念を決定することは決して出来ぬのである。

 純粋理性のすべての超験的判断を避けよ、という禁令に、一見それとは反対して居るところの、内在的(経験的)適用の範囲外に存する概念にまで進み出でよ、という命令を結び付けると、我々は両者が正当なる理性適用の限界の上に於て併存し得ることを認めるであろう。何となれば限界は経験界に属すると同時に叡智界に属し、我々はそれによってかの奇異なる理念が全く人間理性の限界決定をなすものであると教えられるから。理念は一面に於て、単なる世界以外には何等我々の認識すべきものではないかの如く、経験的認識を無制限に拡張せぬ様に警告し、然も他面には経験の範囲外に出て物自体其ものとしての超経験物に就て判断することを禁止するのである。

 我々が判断を世界と超験的実在との関係のみに限れば、我々はこの限界の上に止まることとなる。そうすると我々は経験の対象を考えるために用いる如何なる性質をも最高実在の自体そのものに与えることはなく、従って独断的擬人説を避けることが出来るのである。もっとも我々はさる性質を実在の世界に対する関係に属せしめ、象徴的擬人説を認めるがそれは実際に於ては単なる言葉であって客観そのものに関係するものではない。

 余が斯ういうとする——我々は世界を以て最高悟性及意志の所作物であるかのように考えることを余儀なくされて居る、と。そうすると実際に於ては次の如くいうこととなる——感性界(即ち、すべて現象の総括の基礎を成すところのもの)の不可知体に対する関係は時計、舟船、聯隊等が其々、技師、建築士、指揮官等に対するが如くである、と。それ故、余は之れに由って不可知体を如実に認識するものではなく、余に対して、従って余がその一部をなす世界に関して在るように認識するのである

五十八

 斯る認識は類推に従うものである。ここに類推というは普通此語の用いられる如く、二物の不完全な類似をいうのではなく、全く類似しない物の間の、二つの関係の完全なる類似を意味するのである。かかる意味の類推によると、我々が最高実在を直接にそして其自身限定し得べきすべてのものを除去しても、我々に対しては十分に限定されたる(最高実在の)概念が残留する。何となれば、最高実在を世界と従って我々とに関係して限定することは我々に出来ることであるし、又其以上のことは我々にとって不必要であるからである。自分自身及び世界から取った材料を以て最高実在の概念を絶対的に限定しようとする人々に対して、ヒユームの為す攻撃は我々に当るものではない。又最高実在の概念の客観的擬人説を奪い去れば、所有は皆無となる、との非難をもヒユームは我々に対して為すことは出来ない。

 先ず始めに(ヒユームもその対話篇に於てクレアンテースに対するフイロという人を藉りて為して居るが如く)必然的仮定として、実体といい原因というが如き、単なる実体論的賓辞によって原体が考えられるところの原実在の自然神論的概念を許すならば(それはどうしても許さぬ訳けには行かぬ、というのは感性界に於いては、理性が、際限のない制約の系列に累わされて何等の満足をも得ることは出来ぬからである。又、上の仮定を許すことは必ずしも我々をして感性界から導き出された賓辞を世界とは全く異った実在に適用するところの擬人説に陥らしむるものではない。擬人説に於ては何故そういうことをするかというに、かの賓辞は単なる範疇であって、範疇は全く限定されて居ず、然もそのために感性界の制約に束縛されざる実在の概念を与えるからである)」——そうすれば、理性による因果性を世界との関係に於てこの実在に属せしめ、そして有神論へ移り行くのに何の差支えもない。又有神論となるからとて、この理性を固有の性質として実在そのものに属せしめる要は全くないのである。第一の点を考えるに、理性使用を感性界に於ける可能的経験に関して自己調和を保たしめ、最高の点まで進ましめるために取り得る唯一の方法は、我々が又最高理性を世界に於ける総ゆる連結の原因として仮定するにある。斯る原理は理性にとって全然有利であって、然も彼れの自然的使用を少しも害することはない。第二の点に関していうと、理性はこれによって原実在自体の性質とせられるのではなく、原実在の世界に対する関係の性質とせられ、従って擬人説は全く避けられるのである。何となれば、茲では世界の何処に於ても見出さるるところの理性形式の、原因のみが考えられ、世界に於けるこの理性形式の理由を含むという点に於て、最高実在が理性を有するものと類推せられるからである。而してここに類推と謂うは世界に於けるすべてのものを出来る丈け理性的に限定するために、ただ最高実在(我々に不可知なるところの)の世界に対する関係を示すものである。さて斯くの如くして、理性の性質を以てしては世界を考える様に、而も一つの原理に従って能う限り大なる理性使用を世界に関して為すに是非共必要な仕方で考える様に、そして決して理性の性質を以て神を考えぬ様に予防せられたのである。それによって我々は、最高実在の自体其ものが我々にとっては全く不可知である、のみならず確然と考えることさえ出来ぬものであることを承認することとなる。又それによって一方には、活動原因(意志による)としての理性に就て我々の有する概念を超験的に使用して、結局ただ人間の性質から導き出されたにすぎない性質によって、神の性質を限定し、そして大ざっぱな若しくは妄想的な概念に惑溺することが避けられ、然も他方には、人間理性の概念を神に適用することによって、世界考察を充たすに非科学的説明を以てし、その本来の目的から遠けることが防止せられるのである。本来の目的からいえば世界考察は理性によって単なる自然を考察することであって自然現象を最高理性から導き出す無謀なる仕事であってはならない。我々の微弱な概念にとっては斯ういうのが応わしいであろう——我々は世界がこの存在と内部的限定とに関して最高理性から由来するかのように考えると。そうすれば我々は一方に於ては世界其のものに属する性質を認識して而も世界の原因自体の性質を限定しようとする僭越な企てをすることなく、又他方に於ては此性質(世界に於ける理性形式の)の原因としては世界が不十分であることを認めて、さる原因をば世界原因の世界に対する関係に帰すこととなる。

 斯くして、一切経験の範囲を超ゆる理性の独断的適用を禁ずるヒユームの原則と、我々の理性に対して限られて居る範囲を以て可能的経験の全範囲と見做してはならぬ、というヒユームが全く看過した原則とを結合することによって、一見有神論に反対する様に見ゆる難点が除去せられる。この点に於て『理性批判』はヒユームが攻撃した独断論とヒユームが独断論に対して唱道した懐疑論との真の中道を行くものである、中道というも、言わば我々が機械的に(幾分を一方から取り、幾分を他方から取って)、勝手に定める丈けで、それによって何人も一層好い道を教えられることのない普通に言う中道の如きものではなくして、我々が原理に従って綿密に定め得るものなのである。

五十九

 余はこの注意の始めに限界の警喩を用い、そして理性に相応せる適用に関して理性の制限を確定した。感性界は現象のみを含み、現象は物自体ではない、即ち理性の経験の対象を以て単なる現象として認識するが所に、物自体(本体)を仮定しなければならぬ。現象と物自体とは共に我々の理性に於て包括されて居る、そこでこの両範囲に関して悟性を制限するために、理性が如何なる態度を取るかが問題である。感性界に属する一切を包括するものなる経験は自ら己れを制限することをばしない、彼はすべての制約されたるものより他の制約されたるものへと進み行くのである。経験を制限すべきものは経験の外になければならぬ。純粋悟性体の範囲がそれである。然し悟性体の性質の限定が問題となる限りでは、此範囲は我々に対して空虚な空間である。従って我々は独断的に限定された概念のみが問題である場合には、可能的経験の範囲を超ゆることは出来ない。とはいえ、限界自身は積極的のもので其は限界内に在るものにも、並に与えられた総括の外にある空間にも属するが故に、依然として真実な積極的認識である。而して理性に此認識の与えられるのは理性が限界に至るまで進み行き、然も限界を越えようとしないことによるのである。何となれば限界に於ては理性の眼前に空虚なる空間が横る、そして理性は此のものに於て物に対する形式を考え得るが、如何なる物其ものをも考えることは出来ないから。然し経験の範囲を或物而も経験の未知体によって制限することも、此位置に於て尚お理性の有し得る一つの認識である。それによって理性は感性界の内に閉鎖されもせず、また漫(みだ)りに其の外に迷い出でもせず、限界の知識に応しい様に感性界の外部にあるものと内部に含れるものとの関係のみに自己を限るのである。

 自然神学とは人間理性の限界に対する斯の如き概念である、というのは、人間の理性は最高実在の理念を(そして実践的関係に於ては又叡智界の理念を)想望することを余儀なく感ずるからである。しかもそれは悟性体に関して(即ち感性界の外部に於て)何物かを限定せんがためではない、そうではなくして感性界の内に於ける彼れ自身の適用を出来得る丈け大きな(理論並に実践的)統一の原理に従って導くためである。而して此目的のためにすべての斯る結合の原因としての独立なる理性に対する感性界の関係が用いられる。しかもそれによって言わばただ実在を空想にて作り出すのではなく、感性界の外には純粋悟性のみの思惟する或物が必然的に存しなければならぬが故に、勿論ただ類推によってではあるが、此純粋悟性体を斯の如き方法で限定せんがためである。

 斯くの如くして『批判』全体の結果であるところの上に言った命題は依然として成立する。命題にいう——「理性は彼のすべての先天的原理によって、全く可能的経験の対象以外の物をば我々に教えない、且つ此対象に関しても経験に於て認識され得るもの以上には何物をも教えないのである」と。然し斯の如き制限は、理性が我々を経験の客観的限界即ち其自身経験の対象ではないが、然も一切経験の最高理由でなければならぬところの物に対する関係まで導くことを妨げはしない、けれども理性は此或物を自体に於てではなく、可能的経験の範囲に於ける彼自身の完全なるそして最高目的に向けられたる適用に対する関係に於てのみ教うるのである。とは云え固と斯の如きはこの際我々が合理的に希望することができ、且つそれを以て満足すべき理由あるところの凡ての効用なのである。

六十

 上来我々は、実際に人間理性の素質に於て、而も理性の作用の本質的目的を成すところのものに於て与えられて居るところの形而上学を、其主観性に従って詳細に述べた。其結果我々は発見したのである——我々の理性の斯る素質を全く自然的に使用することは、若し理性の規定(之は科学的批判によってのみ可能である)が理性を制禦し制限しない場合には、理性をして度を越えて一方には全く仮空な、のみならず他方には自家矛盾をする弁証的推論に陥らしめ、且つこの思弁を弄する形而上学派自然認識の発達に対して不必要であるのみか有害であることを。然しながら我々の理性に於ける超験的概念に対する此素質の目指して居る自然目的を発見することは攻究する価値のある問題である。何故というに自然に於て存するあらゆるものは元来何等かの効用ある意図を目指しているに相違ないからである。

 斯る攻究は実際不確実なものである。余も明言するが、自然の第一目的に関するすべての言説と同じく、余が上の問題に就て言うことの出来るのはただの憶測に過ぎないのである。又それのみが此場合余に許され得るのである。何故というに問題が形而上的判断の客観的妥当性に関するのではなく、却って斯る判断の素質に関し、従って形而上学の体系内に存しないで、人類学に属するからである。

 先験的理念(自然的純粋理性本来の問題を構成するものは先験的理念の総括である)は理性をして単なる自然観察に止らずすべての可能的経験を越えしめ、そして此努力に於て形而上学と呼ばれるところのもの(其が知識なると空理なるとを問わず)を成立せしむる様に余儀なくするものであるが、斯るすべての先験的理念を観察すると、此素質の目的は我々の概念を経験の束縛と単なる自然観察の制限とから解き放って少くとも、全く純粋悟性の対象であって感性の到達し得ざる領域を其眼前に開展せしむるにある様に思われる。但しそれは我々が此範囲を思弁的に攻究せんがためではない(何となれば、それには我々の立脚地がないからである)却って実践的原理が〔思弁の範囲外に自由を得んが〕ためである、斯る必然的予期と希望との世界を想望すれば実践的原理は普遍性を有することは出来ない。然も普遍性は道徳的関係に於て理性の到底欠くことの出来ないものである。

 それで我々は心理学的理念によって人間の心の純粋にしてすべての経験的概念を超絶した性質を知ることは出来ないが、然し少くとも経験的概念の不十分なるを知り、それによって唯物論から、言い換えれば自然説明に不適当なるのみならず其上に実践的関係に於て理性を制限する心理学的概念から遠かる様にさせられることを知るのである。同様に宇宙論的理念は一切の可能的自然認識が理性の正当なる要求を満足せしめ得ざるを明かにし、自然丈けで十分であると主張する自然主義から我々を遠からしめる。最後に、感性界に於けるすべての自然的必然性は常に制約されて居る、何故というに其れはいつでも物が他の物に依存することを予想して居り、そして絶対的必然性は感性界と異った原因の統一に於てのみ求められなければならぬからである。然し又此原因の因果性が自然にすぎないとすれば結果としての偶然の存在を理会することは出来ない、其故に理性は神学的理念に依て宿命説即ち第一原因なき自然相互関係に於ける盲目的必然性又は第一原因自身の因果性に於ける盲目的必然性から擺脱(はいだつ)して、自由による原因即ち最高叡智の概念に達するのである。斯くの如く先験的理念は我々に積極的知識を齎すものではないが、しかも唯物論自然主義、宿命説という無謀な、そして理性の範囲を制限する主張を除去して、思弁の範囲外に道徳的理念の世界を建設する用をなすのである。斯く説明することによってかの素質が幾分明かにせられたように思われる。

 全く思弁的な学問の有する実際的効果は此学問の範囲外にあるもので、ただ附録として見做されることが出来る。従ってすべての附録と同じく学問其のものの一部を成すものではない。とはいえ、此関係は哲学殊に純粋理性の源泉から汲みとるところの哲学の範囲内に属する、何となれば純粋理性に於ては理性の形而上学に於ける思弁的使用と道徳に於ける実践的使用とが必然的に統一されなければならぬからである。其故に純粋理性の形而上学に於ける思弁的使用と道徳に於ける実践的使用とが必然的に統一されなければならぬからである。其故に純粋理性の形而上学に於ける避け難き弁証法は素質として見做され、単に除き去らるべき仮象としてのみではなく、素質として、出来得べくば其目的に関して説明されることを要するものである。然し斯くの如きことは本来の形而上学にとっては職分外のことであるから、その当然の職分として要求されることは出来ない。

 余が純粋理性批判 六百四十七頁より六百六十八頁〔「理性の統制的使用について」〕までに於て考究した問題の解決は第二の而も一層形而上学の内容と密接した附録と考えられなければなるまい。というのは彼処に於ては自然秩序或は寧ろ自然法則を経験によって得なければならぬところの悟性を先天的に限定する理性原理が述べられたのであるから。此原理は経験に関して構成的立法的である様に見える、それは純粋理性から生じたもので、そして純粋理性は悟性と異り可能的経験の原理とは考えられぬものであるけれども。それでは此一致は自然が現象或は其源泉即ち感性に其自身依存するものではなく、却って感性の悟性に対する関係に於てのみ存すると同様に、可能的経験全体に関する悟性使用の完全なる統一(一つの体系に於ける)が理性との関係に於てのみ悟性を与えられることが出来、従って又経験が間接に理性の立法に従うものである、——ということに基くのであろうか。形而上学に於ける理性の使用のみならず自然歴史一般を体系的に成すべき普遍的原理に於ても理性の性質を考究しようと思う者は此問題をも進んで考えることであろう。と云うのは、余は純粋理性批判に於て此問題の重要なることを述べたが其解決をば試みなかったのであるから。

 斯くして余は、如何にして形而上学一般は可能なるか、という余自身の提出した主要な問題の分析的解決を、それの適用が実際に(少くとも其結果に於て)与えられて居るところのものから出発し其可能性の理由に遡ることによって完結するのである。

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【東渓文庫】梶井基次郎「瀬戸内海の夜」

瀬戸内海の夜(断片)

 

 船は岬から岬へ、島から島へと麗しい航路を進んでゐた。瀬戸内海の日没——艫の一条の泡が白い路となつて消えゆく西には太陽の栄光はもう大方は濃い青に染んでしまつた雲の縁を彩つてゐたが、船の進んでゆく東の方はもう全く暮れてしまつて、美しい星が燦き初めてゐた。

 夏の終り、私は九州地方の旅を終へて家へ皈る途中であつた。烈しい日射は、もう甲板に蒸暑いニスに匂ひをたてなくなつたし、海面のギラギラする反射もをさまり、空気も冷たくなつたので、食事を済ませた船客たちがぞろぞろ上甲板を賑はせてゐた。

 その中の一人だつた私も、食事で汗になつた肌衣を着かへて、学校の制服の釦もルーズに快い海風を孕ませて左舷の風景から右舷の風景へと甲板を歩いてゐた。

 愛想のいい金モールの服を着た事務長といふのが子供と一緒になつて輪投げをしてゐる。それを中心に船客が取りまいて面白さうに見てゐた。私はいまもその船員の快活な笑顔を覚えてゐる。赧ら顔の、ひげを青く剃つた、深い溝の様な笑窪のあるそしてその眼つきには子供を馴れさすに充分なみ力があつた。その事務長がかわいい服をきた女の児や男の児をきやつきやつ云はせながら上手に輪なげをやつた。そして間相間には周囲の奥さんや娘さんにその半分の笑みを送つてゐた。

 西に下りてゆく太陽の引く最後の裳裾——その豪奢な黄金の縁どりも細くなつてゆき、濃く暮色にそめられた雲と雲との間にはひすゐ色に澄み渡つた空気が丁度美しい液体の様に充たされてあつた。

 然しもうそれも徐にではあるが眼に見える様な変化で夜の帳にかくされて行つた。

 燈台が明滅しはじめた、島の深い暗色の蔭に青い燈を掲げた船が匍ふ様に進んでゐた。どこの港の火か鏤められた宝石の王冠が置かれてある様に見えて来た、まだその遠くにはやはりその様なきらめくもののかたまりが夜光虫の群れの様にうようよ蠢く様に見えた。

 白い帆の船も島の天鵞絨の様な質をもつた濃い藍の背景を幻しの様に、変に明るく過ぎて行つた。

 その下を船は、快い機関の震動を伝へながらはしつてゆく——海面を切る舳は二本の長いうねりを両側につけて、そのうねりに乗つた船は、沈む程揺られ、揺られながら後へ後へ消えてゆく。

 人々はその漁船か、帆前船の檣につけた燈が大揺れに揺れるのを興がつて眺めてゐるのである。

 私は午過ぎに乗つた時から涼しい喫煙室で、戦争と平和とをその夕方頃まで読み耽けつてゐた。ナターシヤ達の猟にゆく所、降誕祭の夜、などの美しい叙述を読む頃、私は他愛もなくその中に誘ひ込まれてしまつてゐた。身も心もといふ風に。そして私はそんなにまでなつていいものかと疑つたりした。この様な美しさは——あまりに龍宮の様である。私自身が威厳を捨てさせられる様な美しさである、——さう思ひながらも私は溺れてゆくものが死の恍惚に愧せられて苦しいもがきをやめてしまふ様に、魔術にかかつた様になつてしまつた。

 そしてあのアナトリー・クラーギンがナターシヤを捕虜にしようとする所に来た時、私は不安な予感に捕はれて、

「ああ、いけない、いけない。」を何度も繰返したのだつた。丁度それが今現在目の前に起つてゐることかの様に。そしてその都度、私は活字の上から眼を放して、救を求める様に周囲を眺めた、微睡してゐる、ボーイや絵葉書をかいてゐる人の上を。——そして私はその都度ためいきをついた。

 私がその活字を離れて食事をすませて甲板を歩いてゐる時も、私の心は絶えず片手に持つてゐるその本に心をひかれた。然しその日没の美しさの瞬間事の変化もまた私の心を握つて離さなかつた。……(欠)

 

 本のことをこんな風に忘れさへした。——海を見てゐる私の気持が不自然に嬉しいのでどうも変だと思ふ。その嬉しいのは一体何故なんだらう。私はそれをたうとう最後に探りあてる。——美しい小説が私を待つてゐる一方、私は美しい風景にとりまかれてゐる。——そして私はその間で間誤ついてしまふ程だつた。一時に読み切れない歓喜で私は心の変な揺ぎを感じた。

 

 私は甲板を罩めてゐる、ほの明るい暗の中に服装がどうも私の学校と思はれる一人の人の影を見出した。

 本当はそれに気が付いたのはその時が初めてではなく、私が昼間本に読みふけつてゐる時二三度目の前をかすめたのを知つていたのであつたが、その時の私はその人を別にどうとも考へる余地がなかつたのだつた。

 然し今度は、その人を確め様とする気が湧いて来た。私はこんな旅先で同じ学校の生徒に会うのが慕しかつた。若しや私のよく知つた友達かも知れない。——と私はその人に近よつてやみの中をすかして見た。彼方でも私の顔をかなり注意して見た。その人は私の学校の人に相違なかつた。然し私は少し自分の人慕しさを直ぐあらはせる程の率直さを持つて医なかつたのでしばらく躊躇つてゐた。私がなにげなくその人の方へ近づくと一緒にその人がまた私の方をちらと見たので私は大胆になつて問ひかけて見た。

「あなた、三高の方ですね。」

「ああ、貴方も。昼から気がついてたんですが。」

 私達はそれから種々なことを話し出した。

 何の科の何年。学校の話。夏休みに行つた所の話。——その人が絵が好きらしくスケツチブツクを持つてゐた。屋島は夜でしつかりわからなかつたがと云つて私が気がつかなかつた屋島のスケツチを見せて呉れた。

 それから画家の話。

 私はそんな話を続けてゆくうちに今までの気持のよさがなほもなほも高められてゆくのを感じた。

 背のすらりとした、「巴里の少女」といふロダンの彫刻に似た容貌の、その若々しい青年の心に、私の話が素直に伝へられ、朗かに反響して来るのを私は楽しいものにきいてゐる。それ斗りか私の目の前を燈台の赤や白の光の明滅や船の安全燈の揺らぎが絶えず過ぎて行き、頭の上には星を鏤めた壮麗な天蓋が静々と滑つてゆく。

 海の風は冷たくなつて私達はさう云ひあひながら服の釦をはめた。帽子をぬぐとその気味のいい風は私の髪を一方に吹きつけた。太い煙突から出る煙はその風になびつけられて斜後の海面を伝つて長く長く匍つてゐた。

 何を漁つてゐるのか小形の漁船がたくさん火を点してゐた。私達の汽船は時々それの極く近くを通つた。私達はしばらくの間物も云はずに汽船の伸ばしてゐる両腕の様な舳からの高いうねりがそれらの舟をさらふのを見てゐた。檣の火で船の中がよく見える程近いものもあつた。然しうねりがゆく前に船頭は舵を使つてうねりと舟との角度をうまくさせるのでそのうねりが死ぬ無分別に船を揺するが決して水などは入らないことが段々確められて来て、水が入りはしないかといふ好奇心も、残酷ではなくなつてゆくのだつたが、まだそれでもがちやがちや音がしたりするのが面白くて、近いのが来る度に、私達は声をたてて笑つた。

「一体何がつれるんでせうね。」

「さあ……」

「ね、あれ魚が泳いでるんぢやないでせうか。それ、あのうねりの後に光つてるでせう。」

「さあ、うねりの飛沫でもないが……」

「あれは……さうだ! 夜光虫ですよ。」

「さあ、時々、少しあちらでも光つたりしますね。波の光にしちや青すぎる様だし……」

「ね、また光つた。ね、あの辺を見てて御らん。ああそれ!」

「ああ……。」

 時々波のうねりがくだける所に燐光の様に燦く光があつた。その青い光に白つぽい波の穂や、水玉が明るく反射されてゐた。

「夜光虫でもなささうですね。」

「やはり波の色なんでせうか」

「いつまで経つても殖えもしなければへりもしない。——夜光虫といふ奴は綺麗ですね。」

 さういふ風に話はいくらでも続けられて行つた。C——君の素直な心、それから美しいぐるりの情景、そして私が昼から涵つてゐた美しい小説の影響は、相ひ互ひに絡みあつて私の気持をいくらでも押し出してゆくのだつた。

 然し私は時々私自身を冷かに省みた。

「お前はまたC——君にお前自身をいい人間であるかの様に印象させてしまつた。

強ひて云へばお前は相手に与へる印象の奴隷になつてお前の像をC——君の中に一つ一つ建設して行つたのだ。」

 そしてその反省は私のその頃の生活の所産であつた。

 私の一つの性質を裏切る他の様々な性質を私はどうしても見のがすことが出来なかつた。私はさうして幾人もの友人を裏切り、幾つもの生活の矛盾を犯して来たのだつた。——そして私は自分の多様な人格が否めなかつた。

 然しその時のC——君との会話で私がその冷かな反省に止つてゐたのは極く僅かの間だけだつた。私は種々なものの暗示や影響から脱れ得なかつた。そして私が未知の人に話しかける時、習慣の丁寧な言葉で——その語調の故に話しが私のよき印象のための話になつてゆくのであつたが、私は何といつてもその様によく話しをするといふこと、私の未知な人に私のいい印象を与へる……(欠)

(1923, 7)

【東渓文庫】梶井基次郎「筧の話」

梶井基次郎「筧の話」

 

 私は散歩に出るのに二つの路を持つてゐた。一つは渓に沿つた街道で、もう一つは街道の傍から渓に懸かつた吊橋を渡つて入つてゆく山径だつた。街道は展望を持つてゐたがそんな道の性質として気が散り易かつた。それに比べて山径の方は陰気ではあつたが心を静かにした。どちらへ出るかはその日その日の気持が決めた。

 しかし、いま私の話は静かな山径の方をえらばなければならない。

 吊橋を渡つたところから径は杉林のなかへ入つてゆく。杉の梢が日を遮り、この径にはいつも冷たい湿つぽさがあつた。ゴチツク建築のなかを辿つてゆくときのやうな、犇々と迫つて来る静寂と孤独とが感じられた。私の眼はひとりでに下へ落ちた。径の傍らには種々の実生や蘇苔、羊歯の類がはえてゐた。この径ではさう云つた矮小な自然がなんとなく親しく――彼等が陰湿な会話をはじめるお伽噺のなかでのやうに、眺められた。また径の縁には赤土の露出が雨滴にたたかれて、ちやうど風化作用に骨立つた岩石そつくりの恰好になつてゐるところがあつた。その削り立つた峰の頂にはみな一つ宛小石が載つかつてゐた。ここへは、しかし、日が全く射して来ないのではなかつた。梢の隙間を洩れて来る日光が、径のそこここや杉の幹へ、蝋燭で照らしたやうな弱い日なたを作つてゐた。歩いてゆく私の頭の影や肩先の影がそんななかへ現はれては消えた。なかには「まさかこれまでが」と思ふほどの淡いのが草の葉などに染まつてゐた。試しに杖をあげて見るとささくれまでがはつきりと写つた。

 この径を知つてから間もなくの頃、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかを殊に屡々歩いた。私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも氷室から来るやうな冷気が径へ通つてゐるところだつた。一本の古びた筧がその奥の小暗いなかからおりて来てゐた。耳を澄まして聴くと、幽かなせせらぎの音がそのなかにきこえた。私の期待はその水音だつた。

 どうした訳で私の心がそんなものに惹きつけられるのか。心がわけても静かだつたある日、それを聞き澄ましてゐた私の耳がふとそのなかに不思議な魅惑がこもつてゐるのを知つたのである。その後追々に気づいて行つたことなのであるが、この美しい水音を聴いてゐると、その辺りの風景のなかに変な錯誤が感じられて来るのであつた。香もなく花も貧しいのぎ蘭がそのところどころに生えてゐるばかりで、杉の根方はどこも暗く湿つぽかつた。そして筧といへばやはりあたりと一体の古び朽ちたものをその間に横へてゐるに過ぎないのだつた。「そのなかからだ」と私の理性が信じてゐても、澄み透つた水音にしばらく耳を傾けてゐると、聴覚と視覚との統一はすぐばらばらになつてしまつて、変な錯誤の感じとともに、訝しい魅惑が私の心を充して来るのだつた。

 私はそれによく似た感情を、露草の青い花を眼にするとき経験することがある。草叢の緑とまぎれやすいその青は不思議な惑はしを持つてゐる。私はそれを、露草の花が青空や海と共通の色を持つてゐるところから起る一種の錯覚だと快く信じてゐるのであるが、見えない水音の醸し出す魅惑はそれにどこか似通つてゐた。

 すばしこく枝移りする小鳥のやうな不定さは私をいらだたせた。蜃気楼のやうなはかなさは私を切なくした。そして神秘はだんだん深まつてゆくのだつた。私に課せられてゐる暗鬱な周囲のなかで、やがてそれは幻聴のやうに鳴りはじめた。束の間の閃光が私の生命を輝かす。そのたび私はあつあつと思つた。それは、しかし、無限の生命に眩惑されるためではなかつた。私は深い絶望をまのあたりに見なければならなかつたのである。何という錯誤だらう! 私は物体が二つに見える酔つ払ひのやうに、同じ現実から二つの表象を見なければならなかつたのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒な絶望を背負つてゐた。そしてそれらは私がはつきり見ようとする途端に一つに重なつて、またもとの退屈な現実に帰つてしまふのだつた。

 筧は雨がしばらく降らないと水が涸れてしまふ。また私の耳も日によつてはまるつきり無感覚のことがあつた。そして花の盛りが過ぎてゆくのと同じやうに、何時の頃からか筧にはその神秘がなくなつてしまひ、私ももうその傍に佇むことをしなくなつた。しかし私はこの山径を散歩しそこを通りかかる度に自分の宿命に就いて次のやうなことを考へないではゐられなかつた。

「課せられてゐるのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なつてゐる」

(1928年2月)

【東渓文庫】森鷗外「高瀬舟」

森鷗外高瀬舟

 

 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上に通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた。黙許であつた。

 当時遠島を申し渡された罪人は、勿論重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盗をするために、人を殺し火を放つたと云ふやうな、獰悪な人物が多数を占めてゐたわけではない。高瀬舟に乗る罪人の過半は、所謂心得違のために、想はぬ科を犯した人であつた。有り触れた例を挙げて見れば、当時相対死と云つた情死を謀つて、相手の女を殺して、自分だけ活き残つた男と云ふやうな類である。

 さう云ふ罪人を載せて、入相の鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ、東へ走つて、加茂川を横ぎつて下るのであつた。此舟の中で、罪人と其親類の者とは夜どほし身の上を語り合ふ。いつもいつも悔やんでも還らぬ繰言である。護送の役をする同心は、傍でそれを聞いて、罪人を出した親戚眷属の悲惨な境遇を細かに知ることが出来た。所詮町奉行の白洲で、表向の口供を聞いたり、役所の机の上で、口書を読んだりする役人の夢にも窺ふことの出来ぬ境遇である。

 同心を勤める人にも、種々の性質があるから、此時只うるさいと思つて、耳を掩ひたく思ふ冷淡な同心があるかと思へば、又しみじみと人の哀を身に引き受けて、役柄ゆゑ気色には見せぬながら、無言の中に秘かに胸を痛める同心もあつた。場合によつては非常に悲惨な境遇に陥つた罪人と其親類とを、特に心弱い、涙脆い同心が宰領して行くことになると、其同心は不覚の涙を禁じ得ぬのであつた。

 そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で、不快な職務として嫌はれてゐた。

   ———————

 いつの頃であつたか。多分江戸で白河楽翁侯(注:松平定信)が政柄を執つてゐた寛政の頃ででもあつただらう。智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕に、これまで類のない、珍らしい罪人が高瀬舟に載せられた。

 それは名を喜助と云つて、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。固より牢屋敷に呼び出されるやうな親類はないので、船にも只一人で乗つた。

 護送を命ぜられて、一しよに舟に乗り込んだ同心羽田庄兵衛は、只喜助が弟殺しの罪人だと云ふことだけを聞いてゐた。さて牢屋敷から桟橋まで連れて来る間、この痩肉の、色の蒼白い喜助の様子を見るに、いかにも神妙に、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬つて、何事につけても逆はぬやうにしてゐる。しかもそれが、罪人の間に往々見受けるやうな、温順を装つて権勢に媚びる態度ではない。

 庄兵衛は不思議に思つた。そして船に乗つてからも、単に役目の表で見張つてゐるばかりでなく、絶えず喜助の挙動に、細かい注意をしてゐた。

 其日は暮方から風が歇んで、空一面を蔽つた薄い雲が、月の輪郭をかすませ、やうやう近寄つて来る夏の温さが、両岸の土からも、川床の土からも、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた。下京の町を離れて、加茂川を横ぎつた頃からは、あたりがひつそりとして、只舳に割かれる水のささやきを聞くのみである。

 夜舟で寝ることは、罪人にも許されてゐるのに、喜助は横にならうともせず、雲の濃淡に従つて、光の増したり減じたりする月を仰いで、黙つてゐる。其額は晴やかで目には微かなかがやきがある。

 庄兵衛はまともには見てゐぬが、始終喜助の顔から目を離さずにゐる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返してゐる。それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しさうで、若し役人に対する気兼がなかつたなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌ひ出すとかしさうに思はれたからである。

 庄兵衛は心の内に思つた。これまで此高瀬舟の宰領をしたことは幾度か知れない。しかし載せて行く罪人は、いつも殆ど同じやうに、目も当てられぬ気の毒な様子をしてゐた。それに此男はどうしたのだらう。遊山船にでも乗つたやうな顔をしてゐる。罪は弟を殺したのださうだが、よしや其弟が悪い奴で、それをどんな行掛りになつて殺したにせよ、人の情として好い心持はせぬ筈である。この色の蒼い痩男が、その人の情と云ふものが全く欠けてゐる程の、世にも稀な悪人であらうか。どうもさうは思はれない。ひよつと気でも狂つてゐるのではあるまいか。いやいや。それにしては何一つ辻褄の合はぬ言葉や挙動がない。此男はどうしたのだらう。庄兵衛がためには喜助の態度が考へれば考へる程わからなくなるのである。

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 暫くして、庄兵衛はこらへ切れなくなつて呼び掛けた。「喜助、お前何を思つてゐるのか。」

「はい」と云つてあたりを見廻した喜助は、何事をかお役人に見咎められたのではないかと気遣ふらしく、居ずまひを直して庄兵衛の気色を伺つた。

 庄兵衛は自分が突然問を発した動機を明して、役目を離れた応対を求める分疏をしなくてはならぬやうに感じた。そこでかう云つた。「いや。別にわけがあつて聞いたのではない。実はな、己は先刻からお前の島へ往く心持が聞いて見たかつたのだ。己はこれまで此舟っで大勢の人を島へ送つた。それは随分いろいろな身の上の人だつたが、どれもこれも島へ往くのを悲しがつて、見送りに来て、一しよに舟に乗る親類のものと、夜どほし泣くに極まつてゐた。それにお前の様子を見れば、どうも島へ往くのを苦にしてはゐないやうだ。一体お前はどう思つてゐるのだい。」

 喜助はにつこり笑つた。「御親切に仰やつて下すつて、難有うございます。なる程島へ往くといふことは、外の人には悲しい事でございませう。其心持はわたくしにも思ひ遣つて見ることが出来ます。しかしそれは世間で楽をしてゐた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしのいたして参つたやうな苦みは、どこへ参つてもなからうと存じます。お上のお慈悲で、命を助けて島へ遣つて下さいます。島はよしやつらい所でも、鬼の栖む所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこと云つて自分のゐて好い所と云ふものがございませんでした。こん度お上で島にゐろと仰やつて下さいます。そのゐろと仰やる所に落ち着いてゐることが出来ますのが、先づ何よりも難有い事でございます。それにわたくしはこんなにかよわい体ではございますが、つひぞ病気をいたしたことはございませんから、島へ往つてから、どんなつらい為事をしたつて、体を痛めるやうなことはあるまいと存じます。それからこん度島へお遣下さるに付きまして、二百文の鳥目を戴きました。それをここに持つてをります。」かう云ひ掛けて、喜助は胸に手を当てた。遠島を仰せ附けられるものには、鳥目二百銅を遣すと云ふのは、当時の掟であつた。

 喜助は語を続いだ。「お恥かしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文と云ふお足を、かうして懐に入れて持つてゐたことはございませぬ。どこかで為事に取り附きたいと思つて、為事を尋ねて歩きまして、それが見附かり次第、骨を惜まずに働きました。そして貰つた銭は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買つて食べられる時は、わたくしの工面の好い時で、大抵は借りたものを返して、又跡を借りたのでございます。それがお牢に這入つてからは、為事をせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、お上に対して済まない事をいたしてゐるやうでなりませぬ。それにお牢を出る時に、此二百文を戴きましたのでございます。かうして相変らずお上の物を食べてゐて見ますれば、此二百文はわたくしが使はずに持つてゐることが出来ます。お足を自分の物にして持つてゐると云ふことは、わたくしに取つては、これが始でございます。島へ往つて見ますまでは、どんな為事が出来るかわかりませんが、わたくしは此二百文を島でする為事の本手にしようと楽んでをります。」かう云つて、喜助は口を噤んだ。

 庄兵衛は「うん、さうかい」とは云つたが、聞く事毎に余り意表に出たので、これも暫く何も云ふことが出来ずに、考へ込んで黙つてゐた。

 庄兵衛は彼此初老に手の届く年になつてゐて、もう女房に子供を四人生ませてゐる。それに老母が生きてゐるので、家は七人暮しである。平生人には吝嗇と云はれる程の、倹約な生活をしてゐて、衣類は自分が役目のために著るものの外、寝巻しか拵へぬ位にしてゐる。しかし不幸な事には、妻を好い身代の商人の家から迎へた。そこで女房は夫の貰ふ扶持米で暮しを立てて行こうとする善意はあるが、裕な家に可哀がられて育つた癖があるので、夫が満足する程手元を引き締めて暮して行くことが出来ない。動もすれば月末になつて勘定が足りなくなる。すると女房が内証で里から金を持つて来て帳尻を合はせる。それは夫が借財と云ふものを毛虫のやうに嫌ふからである。さう云ふ事は所詮夫に知れずにはゐない。庄兵衛は五節句だと云つては、里から物を貰ひ、子供の七五三の祝だと云つては、里方から子供に衣類を貰ふのでさへ、心苦しく思つてゐるのだから、暮しの穴を填めて貰つたのに気が附いては、好い顔はしない。格別平和を破るやうな事のない羽田の家に、折々波風の起るのは、是が原因である。

 庄兵衛は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べて見た。喜助は為事をして給料を取つても、右から左へ人手に渡して亡くしてしまふと云つた。いかにも哀な、気の毒な境界である。しかし一転して我身の上を顧みれば、彼と我との間に、果してどれ程の差があるか。自分も上から貰ふ扶持米を、右から左へ人手に渡して暮してゐるに過ぎぬではないか。彼と我との相違は、謂わば十露盤の桁が違つてゐるだけで、喜助の難有がる二百文に相当する貯蓄だに、こつちはないのである。

 さて桁を違へて考へて見れば、鳥目二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでゐるのに無理はない。其心持はこつちから察して遣ることが出来る。しかしいかに桁を違へて考へて見ても、不思議なのは喜助の慾のないこと、足ることを知つてゐることである。

 喜助は世間で為事を見附けるのに苦んだ。それを見附けさへすれば、骨を惜まずに働いて、やうやう口を糊することの出来るだけで満足した。そこで牢に入つてからは、今まで得難かつた食が、殆んど点から授けられるやうに、働かずに得られるのに驚いて生れてから知らぬ満足を覚えたのである。

 庄兵衛はいかに桁を違へて見ても、ここに彼と我との間に、大いなる懸隔のあることを知つた。自分の扶持米で立てて行く暮しは、折々足らぬことがあるにしても、大抵出納が合つてゐる。手一ぱいの生活である。然るにそこに満足を覚えたことは殆ど無い。常は幸とも不幸とも感ぜずに過してゐる。しかし心の奥には、かうして暮してゐて、ふいとお役が御免になつたらどうしよう、大病にでもなつたらどうしようと云ふ疑懼が潜んでゐて、折々妻が里方から金を取り出して来て穴填をしたことなどがわかると、此疑懼が意識の閾の上に頭を擡げて来るのである。

 一体此懸隔はどうして生じて来るだらう。只上辺だけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こつちにはあるからだと云つてしまへばそれまでである。しかしそれは嘘である。よしや自分が一人者であつたとしても、どうも喜助のやうな心持にはなられさうにない。この根柢はもつと深い処にあるやうだと、庄兵衛は思つた。

 庄兵衛は只漠然と、人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。万一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。此の如くに先から先へと考て見れば、人はどこまで往つても踏み止まることが出来るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衛は気が附いた。

 庄兵衛は今さらのやうに驚異の目を瞠つて喜助を見た。此時庄兵衛は空を仰いでゐる喜助の頭から毫光がさすやうに思つた。

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 庄兵衛は喜助の顔をまもりつつ又、「喜助さん」と呼び掛けた。今度は「さん」と云つたが、これは十分の意識を以て称呼を改めたわけではない。其声が我口から出て我耳に入るや否や、庄兵衛は此称呼の不穏当なのに気が附いたが、今さら既に出た詞を取り返すことも出来なかつた。

「はい」答へた喜助も、「さん」と呼ばれたのを不審に思ふらしく、おそるおそる庄兵衛の気色を覗つた。

 庄兵衛は少し間の悪いのをこらへて云つた。「色々の事を聞くやうだが、お前は今度島へ遣られるのは、人をあやめたからだと云ふ事だ。己に序にそのわけを話して聞せてくれぬか。」

 喜助はひどく恐れ入つた様子で、「かしこまりました」と云つて、小声で話し出した。「どうも飛んだ心得違で、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げやうがございませぬ。跡で思つて見ますと、どうしてあんな事が出来たかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親が時疫で亡くなりまして、弟と二人跡に残りました。初は丁度軒下で生れた狗の子にふびんを掛けるやうに町内の人達がお恵くださいますので、近所中の走使などをいたして、飢ゑ凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を捜しますにも、なるたけ二人が離れないやうにいたしまして、一しよにゐて、助け合つて働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟と一しよに、西陣の織場に這入りまして、空引と云ふことをいたすことになりました。そのうち弟が病気で働けなくなつたのでございます。其頃わたくし共は北山の掘立小屋同様の所に寝起をいたして、紙屋川の橋を渡つて織場へ通つてをりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買つて帰ると、弟は待ち受けてゐて、わたくしを一人で稼がせては済まない済まないと申してをりました。或る日いつものやうに何心なく帰つて見ますと、弟は布団の上に突つ伏してゐまして、周囲は血だらけなのでございます。わたくしはびつくりいたして、手に持つてゐた竹の皮包や何かを、そこへおつぽり出して、傍へ往つて『どうしたどうした』と申しました。すると弟は真蒼な顔の、両方の頬から腮へ掛けて血に染つたのを挙げて、わたくしを見ましたが、物を言ふことが出来ませぬ。息をいたす度に、創口がひゆうひゆうと云ふ音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも様子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と云つて、傍へ寄らうといたすと、弟は右の手を床に衝いて、少し体を起しました。左の手はしつかり腮の下の所を押へてゐますが、其指の間から黒血の固まりがはみ出してゐます。弟は目でわたくしの傍へ寄るのを留めるやうにして口を利きました。やうやう物が言へるやうになつたのでございます。『済まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなほりさうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄きに楽がさせたいと思つたのだ。笛を切つたら、すぐ死ねるだらうと思つたが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思つて、力一ぱい押し込むと、横へすべつてしまつた。刃は飜れはしなかつたやうだ。これを旨く抜いてくれたら己は死ねるだらうと思つてゐる。物を言ふのがせつなくつて可けない。どうぞ手を借して抜いてくれ』と云ふのでございます。弟が左の手を弛めるとそこから又息が漏ります。わたくしはなんと云はうにも、声が出ませんので、黙つて弟の喉の創を覗いて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持つて、横に笛を切つたが、それでは死に切れなかつたので、其儘剃刀を、刳るやうに深く突つ込んだものと見えます。柄がやつと二寸ばかり創口から出てゐます。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようと云ふ思案も附かずに、弟の顔を見ました。弟はぢつとわたくしを見詰めてゐます。わたくしはやつとの事で、『待つてくれ、お医者を呼んで来るから』と申しました。弟は怨めしさうな目附をいたしましたが、又左の手で喉をしつかり押へて、『医者がなんになる、ああ苦しい、早く抜いてくれ、頼む』と云ふのでございます。わたくしは途方に暮れたやうな心持になつて、只弟の顔ばかり見てをります。こんな時は、不思議なもので、目が物を言ひます。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と云つて、さも怨めしさうにわたくしを見てゐます。わたくしの頭の中では、なんだかかう車の輪のやうな物がぐるぐる廻つてゐるやうでございましたが、弟の目は恐ろしい催促を罷めません。それに其目の恨めしさうなのが段々険しくなつて来て、とうとう(ママ)敵の顔をでも睨むやうな、憎々しい目になつてしまひます。それを見てゐて、わたくしはとうとう、これは弟の言つた通にして遣らなくてはならないと思ひました。わたくしは『しかたがない、抜いて遣るぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと変つて、晴やかに、さも嬉しさうになりました。わたくしはなんでも一と思にしなくてはと思つて膝を撞くやうにして体を前に乗り出しました。弟は衝いてゐた右の手を放して、今まで喉を押へてゐた手の肘を床に衝いて、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしつかり握つて、ずつと引きました。此時わたくしの内から締めて置いた表口の戸をあけて、近所の婆あさんが這入つて来ました。留守の間、弟に薬を飲ませたり何かしてくれるやうに、わたくしの頼んで置いた婆あさんなのでございます。もう大ぶ内のなかが暗くなつてゐましたから、わたくしには婆あさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、婆あさんはあつと云つた切、表口をあけ放しにして置いて駆け出してしまひました。わたくしは剃刀を抜く時、手早く抜かう、真直に抜かうと云ふだけの用心はいたしましたが、どうも抜いた時の手応は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。刃が外の方へ向いてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。わたくしは剃刀を握つた儘、婆あさんの這入つて来て又駆け出して行つたのを、ぼんやり見てをりました。婆あさんが行つてしまつてから、気が附いて、弟を見ますと、弟はもう息が切れてをりました。創口からは大そうな血が出てをりました。それから年寄衆がお出になつて、役場へ連れて行かれまで、わたくしは剃刀を傍に置いて、目を半分あいた儘死んでゐる弟の顔を見詰めてゐたのでございます。」

 少し俯向き加減になつて庄兵衛の顔を下から見上げて話してゐた喜助は、かう云つてしまつて視線を膝の上に落した。

 喜助の話は好く条理が立つてゐる。殆ど条理が立ち過ぎてゐると云つても好い位である。これは半年程の間、当時の事を幾度も思ひ浮べて見たのと、役場で問はれ、町奉行所で調べられる其度毎に、注意に注意を加へて浚つて見させられたのとのためである。

 庄兵衛は其場の様子を目のあたり見るやうな思ひをして聞いてゐたが、これが果して弟殺しと云ふものだらうか、人殺しと云ふものだらうかと云ふ疑が、話を半分聞いた時から起つて来て、聞いてしまつても、其疑を解くことが出来なかつた。弟は剃刀を抜いてくれたら死なれるだらうか、抜いてくれと云つた。それを抜いて遣つて死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。しかし其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに耐へなかつたからである。喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬ野である。

 庄兵衛の心の中には、いろいろに考へて見た末に、自分より上のものの判断に任す外ないと云ふ念、オオトリテエ(注:authority)に従ふ外ないと云ふ念が生じた。庄兵衛はお奉行様の判断を、其儘自分の判断にしようと思つたのである。さうは思つても、庄兵衛はまだどこやらに腑に落ちないものが残つてゐるので、なんだかお奉行様に聞いて見たくてならなかつた。

 次第に更けて行く朧夜に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべつて行つた。

流行語大賞

流行語大賞候補中、ふさわしく見えるのは「教皇選挙」「古古古米」と高市発言くらいのものだろう。「エッホエッホ」も流行ったことには流行ったが、その程度のミームは毎年いくつも生れる。クマ被害を表わすいい語があればよかったのだが、「緊急銃猟」ではどうも耳に慣れない。

教皇選挙」とするか「コンクラーベ」とするかは迷いどころであったろうが、「働いて働いて働いて(略)まいります」というのはちょっといただけない。高市氏の発言をそのまま引用すれば批判性があろうという思惑が透けて見える。「ワークライフバランス」じゃだめなんでしょうか、と立憲あたりから野次が飛びそうだ。

「古古古米」がよい。社会性といい、語感といい、象徴性といい(「古」が三つという特殊性は象徴するにふさわしい)、一等適切といえる。

【東渓文庫】梶井基次郎「蒼穹」

梶井基次郎蒼穹

 

 ある晩春の午後、私は村の街道に沿つた土堤の上で日を浴びてゐた。空にはながらく動かないでゐる巨きな雲があつた。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳を持つてゐた。そしてその尨大な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠とした悲哀をその雲に感じさせた。

 私の坐つてゐるところはこの村でも一番廣いとされてゐる平地の緣に當つてゐた。山と溪とがその大方の眺めであるこの村では、どこを眺めるにも勾配のついた地勢でないものはなかつた。風景は絕えず重力の法則に脅かされてゐた。そのうへ光りと影の移り變りは溪間にゐる人に始終慌しい感情を與へてゐた。さうした村のなかでは、溪間からは高く一日日の當るこの平地の眺めほど心を休めるものはなかつた。私にとつてはその終日日に倦いた眺めが悲しいまでノスタルヂツクだつた。Lotus-eaterの住んでゐるといふ何時も午後ばかりの國——それが私には想像された。

 雲はその平地の向ふの涯である雜木山の上に橫はつてゐた。雜木山では絕えず杜鵑が鳴いてゐた。その麓に水車が光つてゐるばかりで、眼に見えて動くものはなく、うらうらと晚春の日が照り渡つてゐる野山には靜かな懶さばかりが感じられた。そして雲はなにかさうした安逸の悲運を悲しんでゐるかのやうに思はれるのだつた。

 私は眼を溪の方の眺めへ移した。私の眼の下ではこの半島の中心の山彙からわけ出て來た二つの溪が落合つてゐた。二つの溪の間へ楔子のやうに立つてゐる山と、前方を屏風のやうに塞いでゐる山との間には、一つの溪をその上流へかけて十二單衣のやうな山褶が交互に重なつてゐた。そしてその涯には一本の巨大な枯木をその巓に持つてゐる、そしてそのために殊更感情を髙めて見える一つの山が聳えてゐた。日は每日二つの溪を渡つてその山へ落ちてゆくのだつたが、午後早い日は今やつと一つの溪を渡つたばかりで、溪と溪との間に立つてゐる山の此方側が死のやうな影に安らつてゐるのが殊更眼立つてゐた。三月の半頃私はよく山を蔽つた杉林から山火事のやうな煙が起るのを見た。それは日のよくあたる風の吹く、ほどよい濕度と溫度が幸ひする日、杉林が一齊に飛ばす花粉の煙であつた。しかし今既に受精を終つた杉林の上には褐色がかつた落ちつきが出來てゐた。瓦斯體のやうな若芽に煙つてゐた欅や楢の綠にももう初夏らしい落ちつきがあつた。闌けた若葉が各々影を持ち瓦斯體のやうな夢はもうなかつた。ただ溪間にむくむくと茂つてゐる椎の樹が何回目かの發芽で黃な粉をまぶしたやうになつてゐた。

 そんな風景のうへを遊んでゐた私の眼は、二つの溪をへだてた杉山の上から靑空の透いて見えるほど淡い雲が絕えず湧いて來るのを見たとき、不知不識そのなかへ吸ひ込まれて行つた。湧き出て來る雲は見る見る日に輝いた巨大な姿を空のなかへ擴げるのであつた。

 それは一方からの盡きない生成とともにゆつくり旋回してゐた。また一方では卷きあがつて行つた緣が絕えず靑空のなかへ消え込むのだつた。かうした雲の變化ほど見る人の心に云ひ知れぬ深い感情を喚び起すものはない。その變化を見極めようとする眼はいつもその盡きない生成と消滅のなかへ溺れ込んでしまひ、ただそればかりを繰り返してゐるうちに、不思議な恐怖に似た感情がだんだん胸へ昂まつて來る。その感情は喉を詰らせるやうになつて來、身體からは平衡の感じがだんだん失はれて來、若しそんな狀態が長く續けば、そのある極點から、自分の身體は奈落のやうなもののなかへ落ちてゆくのではないかと思はれる。それも花火に仕掛けられた紙人形のやうに、身體のあらゆる部分から力を失つて。——

 私の眼はだんだん雲との距離を絕して、さう云つた感情のなかへ卷き込まれて行つた。そのとき私はふとある不思議な現象に眼をとめたのである。それは雲の湧いて出るところが、影になつた杉山の直ぐ上からではなく、そこからかなりの距りを持つたところにあつたことであつた。そこへ來てはじめて薄り見えはじめる。それから見る見る巨きな姿をあらはす。——

 私は空のなかに見えない山のやうなものがあるのではないかといふやうな不思議な気持に捕へられた。そのとき私の心をふとかすめたものがあつた。それはこの村でのある闇夜の經驗であつた。

 その夜私は提灯も持たないで闇の街道を步いてゐた。それは途中にただ一軒の人家しかない、そしてその家の燈がちやうど戸の節穴から寫る戸外の風景のやうに見えてゐる、大きな闇のなかであつた。街道へその家の燈が光を投げてゐる、そのなかへ突然姿をあらはした人影があつた。おそらくそれは私と同じやうに提灯を持たないで步いてゐた村人だつたのであらう。私は別にその人影を怪しいと思つたのではなかつた。しかし私はなんといふことなく凝つとその人影が闇のなかへ消えてゆくのを眺めてゐたのである。その人影は背に負つた光をだんだん失ひながら消えて行つた。網膜だけの感じになり、闇のなかの想像になり、遂にはその想像もふつつり斷ち切れてしまつた。そのとき私は『何處』といふもののない闇に微かな戰慄を感じた。その闇のなかへ同じやうな絕望的な順序で消えて行く私自身を想像し、云ひ知れぬ恐怖と情熱を覺えたのである。——

 その記憶が私の心をかすめたとき、突然私は悟つた。雲が湧き立つては消えてゆく空のなかにあつたものは、見えない山のやうなものでもなく、不思議な岬のやうなものでもなく、なんといふ虛無! 白日の闇が滿ち充ちてゐるのだといふことを。私の眼は一時に視力を弱めたかのやうに、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色に煙りあがつたこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覺出來なかつたのである。

(1928年2月)