哲学序説カント著、桑木厳翼・天野貞祐訳「哲学序説」
結語
純粋理性の限界決定に就いて
五十七
上述の分明なる証明にも拘らず尚お我々が或る対象に関して、其対象の可能的経験に属するもの以上を認識しようと望み、或は我々が可能的経験の対象ならざることを知り居る物の性質を如実に限定そうとして、少しの認識にても要求するならば、それは理由なきことと言わねばならぬ。空間時間とすべての理性概念といわんや経験的直観或は感性界に於ける知覚によって作られた概念とは、経験を可能にすることより他に用いられ能わぬが故に、我々は何によってか物をさながらに認識する事が出来よう。若し我々が純粋悟性概念から此制約を取り去れば純粋悟性概念は全く如何なる客観をも限定せず、何処に於ても無意味なるものとならざるを得ぬのである。
然しながら、若し又我々が全く物自体そのものを許容せず、我々の認識を以て物を認識する事の唯一の可能的方法なりと考え、従って空間時間中の我々の直観を総ゆる可能的直観とし、我々の弁証的悟性を総ゆる可能的悟性の原形となし、その結果として経験を可能ならしめる原理を以て物自体そのものの普遍的制約なりと主張すれば、それは一層甚だしき背理である。
それ故、周匝なる批判が我々の理性を其の経験的使用に関しても看守し、またそれの越権に標的を示さなければ、ヒユームの対話篇が其例を示すが如く、理性の適用を可能的経験にのみ制限する我々の原理が自ら超験的となり、我々の理性の制限を物そのものの可能のそれであると揚言するに至るのである。もと懐疑論は形而上学と共にその無警察な「制限を知らぬ」弁証法から生じた。而してその始めに於ては一更に理性の経験的使用を擁護しようとして其を超絶する凡てのものをば無である虚妄であると揚言したのであった。然るに経験に用いられると同じ原則が先天的であって気付れずにしかも一見経験界に於けると同等の権利を以て、経験界以外に及ぶ事を次第に認むるに至ったために、経験の原則にまで疑惑を向け始めたのである。然しさる疑惑に対しては常識が全然反対するために、それは別に危険ではないが、そもそも理性はどれ丈けの範囲に於て信用出来るものであるか、又何故にそれ丈けの範囲であってそれ以上でないか、ということがどうしても決定出来ないという特別の困難が学問に於て起って来た。此困難を救って、今後再び其れに陥るのを防ぎ得るものは、我々の理性使用に対する正当なそして原則から導き出された限界決定があるのみである。
我々は一切経験を超絶して、物自体そのものの決定的概念を作る事は出来ぬ、というのは正当である。然し我々は物自体の探究に対して全く無頓着では居られない。何となれば、経験は決して理性に十分な満足を与えるものではなく、此問題の解答に関して我々を先きへ先きへと導き、いつまでたっても其の十分なる解決を得ぬことの不満足を感ぜしめるからである。何人にもよらず此事を純粋理性の弁証法によってよく知る事が出来、又其れであるから純粋理性の弁証法が十分な主観的理由を有つのである。我々の心の性質に関して、主観の明かな意識と同時にその現象が唯物的に説明され得ぬことの確信に到達しながら、そもそも心とは何ぞやと問う事をせず、乃至その問題の解決に経験的概念の不十分なる時、たといその客観的妥当性が全く説明されぬとしても、とに角(単純なる非物質体の)理念を仮定せずに居る事がどうして出来ようか。世界の持続及び量、自由或は自然的必然、というすべての宇宙的問題に於て誰が経験的認識に止って満足して居る事が出来よう。何となれば、我々が如何様になすにせよ、経験の原則に従って与えられた答は何ずれも常に新らしい問題を生み、その問題が同様に解答を要求し、その結果、如何なる物理的説明方法を以ても理性を満足せしめ得ないことが明白にせられるから。終りに経験の原理によって考えられ認められる事がすべて偶然的依存的なるに拘らず、尚それに止まって居る事の不可能を誰が認めずに居られよう。且つ超験的理念に没入してはならぬという禁制がどんなにあるにせよ、経験によって説明され得べきすべての概念を超えても、なお唯一実在の概念に於て平安と満足とを求めることの余儀なさを誰が感ぜずに居られよう。此理念そのものの可能は認知されぬが、然し否定されることも出来ぬ、それと言うものは、此理念が単なる叡智体に関係し、然もこの理念を有たずしては理性が永遠に満足され得ないからである。
限界(延長体に於ける)を立てることは常に、一定の場処の外にあって其を囲むところおの空間を前提とする。之れと異り制限はさる前提を要しない、却って量が絶対的に完全でない限りに於て、量に関する単なる否定である。我々の理性は、物自体に就ては定った概念を得ることの出来ぬもので現象内に限られて居るが、然し物自体そのものを認識そうとしていわば一つの空間を自分の囲りに認めるのである。
理性の認識が同種のものに関する間は、認識の定った限界というものは考えられない。人間の理性は数学と自然科学とに於ては制限を認めるが限界をば認めない、換言すれば理性の決して達し得ないものが彼の外にある事を認めるが、理性其ものが内在的進行に於てどこかで完成せられる事を認めぬのである。数学に於ける洞察の拡張と、不断の新なる発明の可能とは無限に進んで行く。それと同じく、経験を続けることと其れを理性によって結合することによって自然の新らしき性質、新らしき力及び法則を発見することに限りは存せぬ。然しながらこの場合に制限を見落してはならぬ。数学の関係するのは現象にのみである。感性的直観の対象となり得ざるもの、即ち形而上学及び倫理学の概念の様なものは、全く数学の範囲外にあって、数学は決して其れまで導くものでもないし、又さるものを要しもしないのである。それ故、数学が形而上学、倫理学等に向って断えず進行し接近するという事はない、言わば両者の間には接線も接点も存在せぬのである。自然科学は決して我々に物の内部を示さぬであろう、物の内部というのは現象ではないが、現象を説明する最高の理由として用いられ得るものである。然しこのものは自然科学の物理的説明に必要ではない。のみならず斯るものが他の方面から自然科学に提供されても(例之、非物質体の影響)自然科学は之を拒絶して説明の過程中に全く入れずに、説明の基礎をば、どこまでも感性の対象として経験に属し経験法則に従って我々の真の知覚と結合され得るものの上にのみ置かなければならぬ。
然しながら形而上学は純粋理性の弁証的企図(これは我儘勝手に始められるのではなく、理性そのものの性質によって余儀なくせられるのである)に於て限界に行き詰る。而して先験的理念は人の避け能わぬもので、然も実現され能わぬものである故、純粋理性使用の限界を実際に示すばかりでなく、その限界を定むべき方法を示す用をなすのである。このことが又、形而上学をその愛子として生んだ我々の理性のこの性質の目的でもあり効果でもあるのである。世界に於けるすべての産出が偶然に帰せらるべきものでないと同じく、形而上学の産出も偶然のものではなくして、大なる目的のために巧みに造られて居るところの根源的芽胞に基くものである。形而上学がその特質から見て自然そのものによって我々の中に基礎を有つことは、恐らく総ゆる他の学問以上である。形而上学は決して勝手な選択の産物、或は経験(形而上学は経験からは全く離れたものである)の過程に於ける偶然の拡張と見做され得るものではない。
理性は彼れのすべての概念と悟性の法則とによって経験的使用即ち感性界内の使用には何の不足も感じないが、然も理性自らは其れによって満足する事は出来ぬ。何者、問題が後から後からと際限なく起って来るために其問題を完全に解決する望みが理性になくなってしまうからである。此完全なる解決を目的とする先験的理念は斯くの如くして起れる理性の要求である。さて感性界と、従って感性界を理会する丈けの用をなす凡ての概念(即ち空間時間及び我々が純粋悟性概念という名の下に列挙したもの全体)とが一様に此完成を含まぬことは理性の明かに認める所である。感性界は普遍的法則に従って連結された単なる現象の連鎖であって、独立の存在を有つものではない、其れは物自体其ものではなく、従って此現象の基礎を含む所のもの、即ち単に現象としてではなく物自体其ものとして認められ得る実在と必然的に関係する。而して制約されたものから其制約へと順次に進み行くことを完成しようとする理性の願望に何時か満足を与えることは物自体の認識によってのみ理性の期望し得る所なのである。
我々は向きに(三十三章、三十四章)単なる叡智体に関して理性の有する制限を述べた。然し今や我々は先験的理念によって叡智体にまで進まねばならぬこととなり、言わば充された空間(経験)と空虚な空間(我々に全く不可知なるもの即ち本体)との接触する所まで導かれた為に、純粋理性の限界をも決定することが出来る。もと、すべての限界には或る積極的なところがある(例之、平面は具体的空間の限界であるが其自身また空間である。平面の限界なる線も空間であるし、線の限界なる点も依然空間中の場所である。)之れに反して制限の含む所は純粋に否定のみである。已に我々が制限の彼岸に或物の(其物自体が如何なるものなるかは全く我々の認識し得ざる所であるが)存することを発見した以上、上節に述べた制限ではまだ不十分である。何者、我々の目下の問題は斯うであるからである——我々が知る所のものと我々が知つても居ず又決して知る事もないものとの連結に於て理性の取る態度如何と。茲に已知物の未知物(其は常に未知物である)に対する真実なる連結がある、そして此連結に於て未知物が少しでも知られる様に成ること――其は事実望む可からざることである——は出来ぬが、此連結の観念は決定され明瞭にされ得ねばならぬ。
即ち我々は非物的実在、叡智界、最高実在(真の本体)を考うべき筈である。それというのは、理性が現象をそれと同種なる理由から導き出すことによっては決して望むことの出来なかった完成と満足とを物自体其ものとしての此等のものに於て発見する故と、又現象が常に事物自体其ものを予想し、我々の詳しく知ると知らざるとに拘らず、それを暗示し、現象とは異った或物(即ち全然異種なる物)に関係するからである。
さて我々は斯る叡智体を如実に即ち的確に認識する事は決して出来ないけれども、これを感性界に対する関係に於て承認し、理性によって感性界と連結せねばならぬが故に、少くとも感性界に対する関係を現わす概念によって此連結を考えることは出来るであろう。我々は叡智体を考えるに純粋悟性概念によるより他に途を有たぬから、実際我々は其によって何等限定されたものを考えない、即ち我々の概念は無意味なものである。若し我々が其を感性界から得られた性質によって考えれば、其は最早叡智体としてではなく、一つの現象として考えられ、感性界に属することとなるのである。我々は一例を最高実在の概念から採って見ようと思う。
神の概念は完全なる純粋理性概念であるが、それはただすべての実在を包含する一つの物を表象するのみで、其等実在の唯一つをも限定するものではない。何故かというに、限定するためには感性界から例が仮られねばならず、若しそうなれば余の取扱う者は結局感官の対象であって、決して感官の対象と成り得ざる其れとは全く異種のものではない事となるからである。例えば、最高実在が悟性を有つとする。然るに余の有する悟性の概念は感官によって与えられる直観を意識統一の下に統括する活らきを為すところのもの即ち我々自身の悟性のそれであって其の他のものではない。そうすると余の概念の要素は常に現象中に存することとなるであろう。然しながら現象の不充足なることは我々をして現象を超えて現象から全く独立なる実在即ち現象を其限定の制約として居ない実在の概念に向うことを余儀なくするのである。さればとて、若し余が悟性を感性から分離して純粋悟性を得ようとしたらどうであろうか――残るところは直観のないところの単なる思惟形式のみとなり其れによっては何等の限定されたもの即ち如何なる対象も認識されることは出来ない。結局余は対象を直観するところの別種の悟性を考えねばならぬこととなるであろう、もっとも人間の悟性は弁証的で、普遍的概念によってのみ認識し得るものである故、さる悟性に就ては我々は少しの理会をも有たぬのである。最高実在が意志を有つ、とする場合にも同じ困難が起る。何となれば余はこの概念を余の内的経験より、然も同時に我々がその存在を要求するところの客観に余の安心が依存することから得るのであって、従ってその概念は感性を其基礎とすることとなるが、それは最高実在の純粋概念とは全然相容れぬことであるから。
ヒユームが自然神論に対して加えた反駁は薄弱といわねばならぬ。それはただ証明法丈けに当るもので、自然神論的主張其ものに及ぶものではない。然しそれが(自然神論に於ては全く超験的なる最高実在の概念を、詳しく限定する事に依て成立するところの)有神論に対すると非常に強味のあるもので、一度神の限定された概念が作られると、或る(実際すべての普通の)場合には不可抗的である。ヒユームの常に主張したところは斯うである。我々が実体論的賓辞(常住、偏在、全智)のみを与え得るものなる原実在の単なる概念は実際何等定ったものを表すことは出来ない。定ったものを表わすには概念を具体的に現し得る性質が附け加えられねばならぬ。又、原実在は原因である、というのでは不十分である、其因果性例えば悟性並に意志による因果性の性質が説明されねばならぬ、と。ここに至って事柄そのもの、即ち有神論に対するヒユームの攻撃が始まるのである、向きにはただ自然神論の証明理由を駁撃したのみで、それは何にも特別に危険なる結果を齎すものではない。彼れの危険なる議論はすべて擬人説に集注する。彼によれば擬人説は友神論と離す可からざるもの、而も有神論をして自家矛盾に陥らしむるものである。若し我々が擬人説を除去すれば、其は軈て有神論そのものを覗き去ることとなる、そして残る所は自然神教のみであるが、自然神教は我々にとって全く無用なもので、宗教道徳に対して何等の基礎をも与え得るものではない、と。真に斯くの如く擬人説が避く可からざるものとすれば、最高実在の証明が如何なるものであるも、又それがすべて承認せられるとしても、我々は矛盾に陥らずして此実在の概念を決定することは決して出来ぬのである。
純粋理性のすべての超験的判断を避けよ、という禁令に、一見それとは反対して居るところの、内在的(経験的)適用の範囲外に存する概念にまで進み出でよ、という命令を結び付けると、我々は両者が正当なる理性適用の限界の上に於て併存し得ることを認めるであろう。何となれば限界は経験界に属すると同時に叡智界に属し、我々はそれによってかの奇異なる理念が全く人間理性の限界決定をなすものであると教えられるから。理念は一面に於て、単なる世界以外には何等我々の認識すべきものではないかの如く、経験的認識を無制限に拡張せぬ様に警告し、然も他面には経験の範囲外に出て物自体其ものとしての超経験物に就て判断することを禁止するのである。
我々が判断を世界と超験的実在との関係のみに限れば、我々はこの限界の上に止まることとなる。そうすると我々は経験の対象を考えるために用いる如何なる性質をも最高実在の自体そのものに与えることはなく、従って独断的擬人説を避けることが出来るのである。もっとも我々はさる性質を実在の世界に対する関係に属せしめ、象徴的擬人説を認めるがそれは実際に於ては単なる言葉であって客観そのものに関係するものではない。
余が斯ういうとする——我々は世界を以て最高悟性及意志の所作物であるかのように考えることを余儀なくされて居る、と。そうすると実際に於ては次の如くいうこととなる——感性界(即ち、すべて現象の総括の基礎を成すところのもの)の不可知体に対する関係は時計、舟船、聯隊等が其々、技師、建築士、指揮官等に対するが如くである、と。それ故、余は之れに由って不可知体を如実に認識するものではなく、余に対して、従って余がその一部をなす世界に関して在るように認識するのである
五十八
斯る認識は類推に従うものである。ここに類推というは普通此語の用いられる如く、二物の不完全な類似をいうのではなく、全く類似しない物の間の、二つの関係の完全なる類似を意味するのである。かかる意味の類推によると、我々が最高実在を直接にそして其自身限定し得べきすべてのものを除去しても、我々に対しては十分に限定されたる(最高実在の)概念が残留する。何となれば、最高実在を世界と従って我々とに関係して限定することは我々に出来ることであるし、又其以上のことは我々にとって不必要であるからである。自分自身及び世界から取った材料を以て最高実在の概念を絶対的に限定しようとする人々に対して、ヒユームの為す攻撃は我々に当るものではない。又最高実在の概念の客観的擬人説を奪い去れば、所有は皆無となる、との非難をもヒユームは我々に対して為すことは出来ない。
先ず始めに(ヒユームもその対話篇に於てクレアンテースに対するフイロという人を藉りて為して居るが如く)必然的仮定として、実体といい原因というが如き、単なる実体論的賓辞によって原体が考えられるところの原実在の自然神論的概念を許すならば(それはどうしても許さぬ訳けには行かぬ、というのは感性界に於いては、理性が、際限のない制約の系列に累わされて何等の満足をも得ることは出来ぬからである。又、上の仮定を許すことは必ずしも我々をして感性界から導き出された賓辞を世界とは全く異った実在に適用するところの擬人説に陥らしむるものではない。擬人説に於ては何故そういうことをするかというに、かの賓辞は単なる範疇であって、範疇は全く限定されて居ず、然もそのために感性界の制約に束縛されざる実在の概念を与えるからである)」——そうすれば、理性による因果性を世界との関係に於てこの実在に属せしめ、そして有神論へ移り行くのに何の差支えもない。又有神論となるからとて、この理性を固有の性質として実在そのものに属せしめる要は全くないのである。第一の点を考えるに、理性使用を感性界に於ける可能的経験に関して自己調和を保たしめ、最高の点まで進ましめるために取り得る唯一の方法は、我々が又最高理性を世界に於ける総ゆる連結の原因として仮定するにある。斯る原理は理性にとって全然有利であって、然も彼れの自然的使用を少しも害することはない。第二の点に関していうと、理性はこれによって原実在自体の性質とせられるのではなく、原実在の世界に対する関係の性質とせられ、従って擬人説は全く避けられるのである。何となれば、茲では世界の何処に於ても見出さるるところの理性形式の、原因のみが考えられ、世界に於けるこの理性形式の理由を含むという点に於て、最高実在が理性を有するものと類推せられるからである。而してここに類推と謂うは世界に於けるすべてのものを出来る丈け理性的に限定するために、ただ最高実在(我々に不可知なるところの)の世界に対する関係を示すものである。さて斯くの如くして、理性の性質を以てしては世界を考える様に、而も一つの原理に従って能う限り大なる理性使用を世界に関して為すに是非共必要な仕方で考える様に、そして決して理性の性質を以て神を考えぬ様に予防せられたのである。それによって我々は、最高実在の自体其ものが我々にとっては全く不可知である、のみならず確然と考えることさえ出来ぬものであることを承認することとなる。又それによって一方には、活動原因(意志による)としての理性に就て我々の有する概念を超験的に使用して、結局ただ人間の性質から導き出されたにすぎない性質によって、神の性質を限定し、そして大ざっぱな若しくは妄想的な概念に惑溺することが避けられ、然も他方には、人間理性の概念を神に適用することによって、世界考察を充たすに非科学的説明を以てし、その本来の目的から遠けることが防止せられるのである。本来の目的からいえば世界考察は理性によって単なる自然を考察することであって自然現象を最高理性から導き出す無謀なる仕事であってはならない。我々の微弱な概念にとっては斯ういうのが応わしいであろう——我々は世界がこの存在と内部的限定とに関して最高理性から由来するかのように考えると。そうすれば我々は一方に於ては世界其のものに属する性質を認識して而も世界の原因自体の性質を限定しようとする僭越な企てをすることなく、又他方に於ては此性質(世界に於ける理性形式の)の原因としては世界が不十分であることを認めて、さる原因をば世界原因の世界に対する関係に帰すこととなる。
斯くして、一切経験の範囲を超ゆる理性の独断的適用を禁ずるヒユームの原則と、我々の理性に対して限られて居る範囲を以て可能的経験の全範囲と見做してはならぬ、というヒユームが全く看過した原則とを結合することによって、一見有神論に反対する様に見ゆる難点が除去せられる。この点に於て『理性批判』はヒユームが攻撃した独断論とヒユームが独断論に対して唱道した懐疑論との真の中道を行くものである、中道というも、言わば我々が機械的に(幾分を一方から取り、幾分を他方から取って)、勝手に定める丈けで、それによって何人も一層好い道を教えられることのない普通に言う中道の如きものではなくして、我々が原理に従って綿密に定め得るものなのである。
五十九
余はこの注意の始めに限界の警喩を用い、そして理性に相応せる適用に関して理性の制限を確定した。感性界は現象のみを含み、現象は物自体ではない、即ち理性の経験の対象を以て単なる現象として認識するが所に、物自体(本体)を仮定しなければならぬ。現象と物自体とは共に我々の理性に於て包括されて居る、そこでこの両範囲に関して悟性を制限するために、理性が如何なる態度を取るかが問題である。感性界に属する一切を包括するものなる経験は自ら己れを制限することをばしない、彼はすべての制約されたるものより他の制約されたるものへと進み行くのである。経験を制限すべきものは経験の外になければならぬ。純粋悟性体の範囲がそれである。然し悟性体の性質の限定が問題となる限りでは、此範囲は我々に対して空虚な空間である。従って我々は独断的に限定された概念のみが問題である場合には、可能的経験の範囲を超ゆることは出来ない。とはいえ、限界自身は積極的のもので其は限界内に在るものにも、並に与えられた総括の外にある空間にも属するが故に、依然として真実な積極的認識である。而して理性に此認識の与えられるのは理性が限界に至るまで進み行き、然も限界を越えようとしないことによるのである。何となれば限界に於ては理性の眼前に空虚なる空間が横る、そして理性は此のものに於て物に対する形式を考え得るが、如何なる物其ものをも考えることは出来ないから。然し経験の範囲を或物而も経験の未知体によって制限することも、此位置に於て尚お理性の有し得る一つの認識である。それによって理性は感性界の内に閉鎖されもせず、また漫(みだ)りに其の外に迷い出でもせず、限界の知識に応しい様に感性界の外部にあるものと内部に含れるものとの関係のみに自己を限るのである。
自然神学とは人間理性の限界に対する斯の如き概念である、というのは、人間の理性は最高実在の理念を(そして実践的関係に於ては又叡智界の理念を)想望することを余儀なく感ずるからである。しかもそれは悟性体に関して(即ち感性界の外部に於て)何物かを限定せんがためではない、そうではなくして感性界の内に於ける彼れ自身の適用を出来得る丈け大きな(理論並に実践的)統一の原理に従って導くためである。而して此目的のためにすべての斯る結合の原因としての独立なる理性に対する感性界の関係が用いられる。しかもそれによって言わばただ実在を空想にて作り出すのではなく、感性界の外には純粋悟性のみの思惟する或物が必然的に存しなければならぬが故に、勿論ただ類推によってではあるが、此純粋悟性体を斯の如き方法で限定せんがためである。
斯くの如くして『批判』全体の結果であるところの上に言った命題は依然として成立する。命題にいう——「理性は彼のすべての先天的原理によって、全く可能的経験の対象以外の物をば我々に教えない、且つ此対象に関しても経験に於て認識され得るもの以上には何物をも教えないのである」と。然し斯の如き制限は、理性が我々を経験の客観的限界即ち其自身経験の対象ではないが、然も一切経験の最高理由でなければならぬところの物に対する関係まで導くことを妨げはしない、けれども理性は此或物を自体に於てではなく、可能的経験の範囲に於ける彼自身の完全なるそして最高目的に向けられたる適用に対する関係に於てのみ教うるのである。とは云え固と斯の如きはこの際我々が合理的に希望することができ、且つそれを以て満足すべき理由あるところの凡ての効用なのである。
六十
上来我々は、実際に人間理性の素質に於て、而も理性の作用の本質的目的を成すところのものに於て与えられて居るところの形而上学を、其主観性に従って詳細に述べた。其結果我々は発見したのである——我々の理性の斯る素質を全く自然的に使用することは、若し理性の規定(之は科学的批判によってのみ可能である)が理性を制禦し制限しない場合には、理性をして度を越えて一方には全く仮空な、のみならず他方には自家矛盾をする弁証的推論に陥らしめ、且つこの思弁を弄する形而上学派自然認識の発達に対して不必要であるのみか有害であることを。然しながら我々の理性に於ける超験的概念に対する此素質の目指して居る自然目的を発見することは攻究する価値のある問題である。何故というに自然に於て存するあらゆるものは元来何等かの効用ある意図を目指しているに相違ないからである。
斯る攻究は実際不確実なものである。余も明言するが、自然の第一目的に関するすべての言説と同じく、余が上の問題に就て言うことの出来るのはただの憶測に過ぎないのである。又それのみが此場合余に許され得るのである。何故というに問題が形而上的判断の客観的妥当性に関するのではなく、却って斯る判断の素質に関し、従って形而上学の体系内に存しないで、人類学に属するからである。
先験的理念(自然的純粋理性本来の問題を構成するものは先験的理念の総括である)は理性をして単なる自然観察に止らずすべての可能的経験を越えしめ、そして此努力に於て形而上学と呼ばれるところのもの(其が知識なると空理なるとを問わず)を成立せしむる様に余儀なくするものであるが、斯るすべての先験的理念を観察すると、此素質の目的は我々の概念を経験の束縛と単なる自然観察の制限とから解き放って少くとも、全く純粋悟性の対象であって感性の到達し得ざる領域を其眼前に開展せしむるにある様に思われる。但しそれは我々が此範囲を思弁的に攻究せんがためではない(何となれば、それには我々の立脚地がないからである)却って実践的原理が〔思弁の範囲外に自由を得んが〕ためである、斯る必然的予期と希望との世界を想望すれば実践的原理は普遍性を有することは出来ない。然も普遍性は道徳的関係に於て理性の到底欠くことの出来ないものである。
それで我々は心理学的理念によって人間の心の純粋にしてすべての経験的概念を超絶した性質を知ることは出来ないが、然し少くとも経験的概念の不十分なるを知り、それによって唯物論から、言い換えれば自然説明に不適当なるのみならず其上に実践的関係に於て理性を制限する心理学的概念から遠かる様にさせられることを知るのである。同様に宇宙論的理念は一切の可能的自然認識が理性の正当なる要求を満足せしめ得ざるを明かにし、自然丈けで十分であると主張する自然主義から我々を遠からしめる。最後に、感性界に於けるすべての自然的必然性は常に制約されて居る、何故というに其れはいつでも物が他の物に依存することを予想して居り、そして絶対的必然性は感性界と異った原因の統一に於てのみ求められなければならぬからである。然し又此原因の因果性が自然にすぎないとすれば結果としての偶然の存在を理会することは出来ない、其故に理性は神学的理念に依て宿命説即ち第一原因なき自然相互関係に於ける盲目的必然性又は第一原因自身の因果性に於ける盲目的必然性から擺脱(はいだつ)して、自由による原因即ち最高叡智の概念に達するのである。斯くの如く先験的理念は我々に積極的知識を齎すものではないが、しかも唯物論、自然主義、宿命説という無謀な、そして理性の範囲を制限する主張を除去して、思弁の範囲外に道徳的理念の世界を建設する用をなすのである。斯く説明することによってかの素質が幾分明かにせられたように思われる。
全く思弁的な学問の有する実際的効果は此学問の範囲外にあるもので、ただ附録として見做されることが出来る。従ってすべての附録と同じく学問其のものの一部を成すものではない。とはいえ、此関係は哲学殊に純粋理性の源泉から汲みとるところの哲学の範囲内に属する、何となれば純粋理性に於ては理性の形而上学に於ける思弁的使用と道徳に於ける実践的使用とが必然的に統一されなければならぬからである。其故に純粋理性の形而上学に於ける思弁的使用と道徳に於ける実践的使用とが必然的に統一されなければならぬからである。其故に純粋理性の形而上学に於ける避け難き弁証法は素質として見做され、単に除き去らるべき仮象としてのみではなく、素質として、出来得べくば其目的に関して説明されることを要するものである。然し斯くの如きことは本来の形而上学にとっては職分外のことであるから、その当然の職分として要求されることは出来ない。
余が純粋理性批判 六百四十七頁より六百六十八頁〔「理性の統制的使用について」〕までに於て考究した問題の解決は第二の而も一層形而上学の内容と密接した附録と考えられなければなるまい。というのは彼処に於ては自然秩序或は寧ろ自然法則を経験によって得なければならぬところの悟性を先天的に限定する理性原理が述べられたのであるから。此原理は経験に関して構成的立法的である様に見える、それは純粋理性から生じたもので、そして純粋理性は悟性と異り可能的経験の原理とは考えられぬものであるけれども。それでは此一致は自然が現象或は其源泉即ち感性に其自身依存するものではなく、却って感性の悟性に対する関係に於てのみ存すると同様に、可能的経験全体に関する悟性使用の完全なる統一(一つの体系に於ける)が理性との関係に於てのみ悟性を与えられることが出来、従って又経験が間接に理性の立法に従うものである、——ということに基くのであろうか。形而上学に於ける理性の使用のみならず自然歴史一般を体系的に成すべき普遍的原理に於ても理性の性質を考究しようと思う者は此問題をも進んで考えることであろう。と云うのは、余は純粋理性批判に於て此問題の重要なることを述べたが其解決をば試みなかったのであるから。
斯くして余は、如何にして形而上学一般は可能なるか、という余自身の提出した主要な問題の分析的解決を、それの適用が実際に(少くとも其結果に於て)与えられて居るところのものから出発し其可能性の理由に遡ることによって完結するのである。
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