東溪日記

聖読庸行

【東渓文庫】三木清「シェストフ的不安について」

(入力者注:以下の内容にはドストエフスキー「悪霊」のネタバレが含まれます)

 

 不安の文学、不安の哲学というものが、我が国においてあからさまに問題にされるようになってから、もはや二年にもなるであろう。この頃のレフ・シェストフの流行はその連続であり、その最近の形態である。かくの如き傾向が我が国の社会情勢に相応することは言うまでもなく、この不安は社会情勢から説明されねばならぬ。しかしまたこの不安には単に客観的社会的条件からのみ説明し得ないものがある。もし人間に本来不安なところがないならば、或る一定の条件におかれたからといって、彼は不安に陥ることはないであろう。人間の存在そのものにおける不安が何であるかが究明されねばならぬ。いまシェストフ的不安の性質を理解しつつ、これらの問題についてあらためて考えて見たい。

 不安の文学、不安の哲学は、しばしば懐疑論とか厭世論とかいう風に無雑作に批評されている。しかしこの不安は単なる厭世の如きものではないであろう。シェストフは、運命について探求したドストエフスキーの主人公たちが、キリーロフの場合を除き、誰も自殺しなかったことを指摘している。キリーロフにしても、彼がみずから生を奪ったのは、生から逃れるためでなく、自分の力を試すためであった。彼等は生が如何に重く彼らに負いかぶさろうとも生の忘却を求めはしなかった。またもし懐疑が真理はないとして探究を断念することであるとしたならば、この場合懐疑というのも正しくはない。シェストフはパスカル論において、「イエスは世の終まで悩み給うであろう、その間は眠ってはならぬ。」というパスカルの語を引き、その意味について繰返し論じている。眠を殺して探究を続けることが懐疑の精神である。何がそのように探究され、また探究されねばならぬのであるか。日常は蔽い隠され不安において始めて顕わになるリアリティである。不安の文学、不安の哲学は、その本質において、非日常的なリアリティを探究する文学、哲学である。それ故にもしかような文学や哲学に対して批判を行うべきであるとすれば、批判は何よりもリアリティの問題の根幹に触れなければならぬ。かくしてまた本来の不安を憂欝、低徊、焦燥などの日常的な心理から区別することが必要である。不安は単に心理的なものでなくて形而上学的なものである。

 私はここで懐疑がいかに容易に好奇心に転落するかを指摘してもよいであろう。好奇心は知識欲のように見られるが、それにとってはもと知識の所有が目的であるのではない。好奇心は定まった物のそばに留まることを欲せず、つねに先々へ、遠方へさまよい渉る。何処にも留まらないということがその性格である。好奇心は到る処に居り、しかも何処にも居らない。なぜならそれが求めるのは真の認識でなく——物に近く踏み留まらないで認識を得ることができるであろうか、——我々自身を散じさせることである。即ち我々は好奇心において我々をシェストフのいわゆる日常的なもののうちにとらえさせることによって我々自身の本来の不安から眼をそむけようとしているのである。物についての「不安な好奇心」(パスカル)のもとに隠されているのは我々自身の不安である。この頃いわれる懐疑はもと何等かの不安から出たものであろう。けれども我々の間においてその懐疑が本来の精神を失つて、単に不安な流行を作るものとなり、かくして不安な好奇心に転落しているところがないであろうか。シェストフの流行にしても、かような一面がなくもない。不安な好奇心というものが最近の我が国の文化の著しい現象であるように見える。不安な流行、不安な好奇心の機能は、我々を日常的なもののうちに埋れさせ、——そのような流行としては「悲劇の哲学」も日常的なものである、——我々自身の主体的な不安から眼をそむけさせることにある、しかるに会議の精神は、日常に蔽われ不安において初めて顕わになる現実に面して最も近くに立ち、執拗に問いつつ踏み留まるということである。かくの如き問の固持から文学も哲学も生れてくる。

 いつの時においても哲学の、そしてまた文学の根本問題は、リアリティの問題である。いずれの哲学、いずれの文学も、根本においてリアリティ以外のものを欲するものではない。相違はただ、何をリアルとして体験し、また定立するかにある。その或るものが現実を破壊するように見える場合ですら、これによってただ、ひとつの他の、より深い、より真なる現実を発見しようとしているのである。シェストフがニーチェパスカルドストエフスキーチェーホフトルストイ、その他に関する幾多の評論において倦むことなく探究したのも、つまり新しいリアリティの問題であった。「唯一つのことは疑われない、ここには現実がある。新しい、未聞の、嘗て見られなかった、或いはむしろ従来決して展覧に供せられなかった現実がある。」と、彼はドストエフスキーニーチェの批評の中で書いている。彼は我が国では主として文壇において伝えられているが、思想的に見ると、彼は現代の哲学から孤立したものでなく、いわゆる実存の哲学、ハイデガーヤスパースなどの哲学と或る共通のものを有すると思われる。

 現代の哲学、特にあの実存の哲学は、もはやリアリティの問題を、旧い形而上学のように、実在と現象、本質と仮象という如き区別をもって考えない。シェストフ的思考においても同様にかような区別は場所を見出し得ないであろう。むしろ却って彼は日常的なものと非日常的なものという範疇のもとに思考した。そして彼は非日常的なもの、或いは「地下室の人間」の権利において、日常的なもの、ひとが普通に現実と考えているものに対して烈しく抗議する。シェストフの日常的なものという概念はほぼハイデガーにおける「世界」の概念に相応すると見ることができる。ただ後者が哲学的に加工され、精巧であるだけ圧力に欠けているに反して、前者はあらゆる世界的(世間的)なもの、そして単に常識やコンヴェンションの如きものばかりでなく、科学や理性をもいわば非哲学的に包括し、それだけ生まの力をもっている。ハイデガーが世界を理解し解釈するに反して、シェストフにとって日常的なものとは憤怒と抗議の対象である。

 この時ひとは言うであろう、ただ悲劇の哲学のみではない、科学や理性もまた現実に対して憤怒し、抗議したことがないであろうか、と。しかしながら科学や理性の現実に対する抗議が合理性の非合理性に対する抗議であるとすれば、悲劇の哲学のそれは反対に、非合理性の合理性に対する抗議である。前のものはどこまでも同じ世界の次元における争である。しかるに後のものは地上のものと地下のものと、異る次元のものの争である。従ってこの場合非合理性は合理性の剰余という如きものでないことが理解されねばならない。我々はその上にしっかり立っていると思っていた地盤が突然裂け、深淵が開くのを感じるとき、この不安の明るい夜のうちにおいて日常は無いと思っていたものが唯一の現実として我々に顕わになる。このものはもとより日常的な意味ではどこまでも非存在である。即ちそのとき我々は現実の領域を去って、「永遠の、根源的な非存在」に近づく。そしてこの非存在或いは無こそ、唯一の、真に我々にかかわるものとして、現実との矛盾においてそのリアリティの証明を要求せずにはおかないものである。「世界は深い、昼が考えたよりも深い。」(ニーチェ)。現実は日常性の哲学が考えるよりも遥かに深い。「何によってドストエフスキーは惹き附けられるのを感じるか。『多分』によって、突然性、闇、我儘によって——まさに常識や化学が存在しないものもしくは否定的に存在すると考えるすべてのものによってである。」と、シェストフは書いている。科学は事物の自然必然性の認識である。常識やコンヴェンションが或る自然的なものであることは言うまでもなく、理性にしても或る自然的なもの、デカルトのいう「自然的な光」にほかならないであろう。しかるにシェストフにとってはリアリティはこれらすべての意味の自然を超えたもの、即ち真の意味においてメタフィジカルなものである。理性は人々の考えるようにメタフィジカルなものではない。シェストフはとりわけ理性にもとづいてアプリオリの、普遍妥当的な規範を立てようとするアイデアリズムを宿敵の如く攻撃した。

 常識やコンヴェンションは我々すべてが自然に有するところのものである。科学は我々すべてを規定する真理を示し、理性は我々すべてが従うべき規範を命令する。それらはみな何等かの意味において、或いはカント的な「意識一般」の意味において、或いはハイデガー的な「ひと」即ち平均的な、日常的な人間の意味において、「我々すべて」にかかわる。かくしてそれらはみな普遍性、必然性、もしくは自明性を具えている。地下室の人間はこのような普遍性、必然性、地面性と争い、それを克服し、それから解放されることを欲する。常識、コンヴェンション、科学、理性を一緒にして、それらの性質を同一のように考えるのは、認識論的に甚だしい混同であるといわれるであろう。しかしシェストフは、そのような認識論そのものがすでに「我々すべて」或いは「人間一般」の見地に立っている、と考える。かくして自明性に対する争は、「我々すべて」に対する「個別的な、生きた人間」の争である。自明性を克服しようとすることは、「健全な」「普通の」人間から見ると気紛れに等しいかも知れぬ。しかしながら我々は我々の生の決定的な瞬間においてかくの如き「気紛れ」の権利のために争うことを余儀なくされはしないであろうか。自分の愛する者の死を知ったとき、或いは自分自身が直接死に面したとき、死は我々すべてが従わねばならぬ自然必然性であるとして、我々は平然としているであろうか。むしろ我々はそのような打勝ち難い自然法則、自明の真理に対して憤怒を感じ、その克服を欲せざるを得ないであろう。死はそのとき「ひとごと」、「我々すべて」のことでなく、自身の個別的な存在にかかわることである。そして個別的な実存にはつねにパトスが伴う。シェストフは地下室の人間とは死の天使によって新しい眼を与えられた者であるといっている。地下室の人間は自己自身の運命について問い続ける。「彼等はいずれも宇宙から自己の不幸に対する弁明を要求する。」「物質やエナジーは不滅であり、しかしソクラテスやジョルダーノ・ブルーノは滅亡する、という風に理性は定める。そしてすべての者は何もいわずにそれに従い、何人も敢えて、何故に理性はこのような法を発布したのであるか、何故に理性はかくも親切に物質やエナジーを守るに心を用い、ソクラテスやブルーノを忘れたのであるか、という問を発しさえしないのである。」自然の法則は擁護されることを要しない。それはそれ自身の有する普遍性、必然性によってみずから自己の現実性を証明するものであろう。最も擁護を要求しているのは個別的なもの、偶然的なもの、或る「気紛れ」である。人間が自然的な眼のほかに死の天使によって第二の眼を与えられた意味は、「何等答の存しない、しかもまさにかくも力をもって答を要求する故に答の存しない問を提出する」ところにある。

 科学は個別者の問題を顧みない。そして従来の理性の哲学、観念論の哲学もまたこの問題を解決するに無能力である。しかるに悲劇の哲学はかかる個別者の問題に情熱を集中する。「個人の地震の倫理的実存が唯一の実存である」というキェルケゴールの言葉は悲劇の哲学の思想を言い表わすものである。かような現実はシェストフに依ると地下室の人間にほかならない。「目的は次の一事である、あの洞窟を脱すること、法則、原理、自明が人間を支配している魔法にかかった国——「健全な」「普遍の」人間の「理想的な」国を脱することである。地下室の人間は最も不幸な、最も悲惨な、最も不利な存在である。しかしながら「普遍の」人間、即ち同様の地下室に住みながら地下室が地下室であることを知らず、彼の生活が真の、最高の生活であり、彼の知識が最も完全な知識であり、彼の善が絶対の善であり、彼が万物のアルファでオメガ、初で終であると信じている人間——かような人間は地下室の国では自分がホメロス的哄笑を喚び起すのである。」地下室の人間というものが人間の本来の存在可能性である。

 シェストフの悲劇の哲学は人間をその日常性から彼の本来の存在可能性であるところの地下室の人間へ連れ戻そうとする。ハイデガーが、人間は死への配慮において世界におけるその非本来的な存在から本来の倫理的実存の自覚に到らねばならぬと考えるのと、この点、軌を一にするといってよい。ただシェストフはその心理が一層複雑で、そしてヒステリカルともいい得る鋭さをもっている。このようなところが却って今日のインテリゲンチャに迎えられる所以でもあろう。しかし彼の論理は意外に単純ではないかと思う。彼が突放したところでひとを突放すのはそれほどのことでないかも知れない。また彼においてはニーチェが非難したようなリテラーテントゥム(文士風。literatentum)が少し目に附くのも気懸りである。けれども徴候性の濃厚な点において彼の書物はたしかな魅力をもっている。その内面性の深さ、その論理のディアレクティッシュ(注:弁証法的)な点に至っては、彼はもとよりキェルケゴールの如きに及ばないと思う。

 地下室の人間はエクセントリックではないか、と多分ひとはいうであろう。しかしながら人間は本来エクセントリックになり得る存在である。プレスナーという学者は、人間的生を植物的生や動物的生と比較して、その根本的特徴としてエクセントリシティ(離心性)ということを述べている。普通に考えられるところでは、すべて生命あるものは一の存在的中心であるという規定を有する。それはつねに自己自身を限定し、みずから自己の空間的時間的統一を形成し、その周囲に対して抵抗の中心、反応の中心をなしている。この存在的中心の周囲が環境と呼ばれ、環境は逆にかような生命統一に作用し、影響を与える。人間的生命もまたかくの如きである。けれども人間はただそれだけではない、人間は世界に対して距離をもつことができる。いな、人間は、実にそのような存在的中心であるところの自己を離れ、自己に対しても距離の関係に立つことができる。即ち人間は損じ的に単に中心的であるのでなく、却ってエクセントリック(離心的)である。人間存在のかくの如きエクセントリシティは自己自身における客体から主体への超越を意味するであろう。人間はそ離心性において世界の上に、従って有の上に立っているのでなく、無の上に立たされているといわねばならぬ。もとより彼は客体的には世界のうちにあって一の存在的中心をなしている。しかし離心的な、主体へ超越したものとしては無の上に立たされているのである。わかり易くいうと、人間は単に世界のものでなく、むしろ世界において異郷人である。人生は旅であるというあの感情も、人間存在の離心性を現わしている。人間は異郷人として彼が世界のうちにあるのは出て来てあるのである。出て来たものとして自分が出て来るもとを考えるとき、このもとは無である。我々はすでに、いわば宿命的に世界のうちへ出て来てしまっている。何故に我々は世界のうちへ出て来なければならないのであるか。まさに無の上に立たされているためにほかならない。地下室の人間というのは、このような問において自己が無の上に立たされていることを自覚させられた、エクセントリックな人間である。エクセントリックになり得るということが人間の特徴であり、それ故にこそ古来あのようにしばしば中庸ということ、ほどほどにということが日常性の道徳として力説されねばならなかったのである。シェストフは地下室の人間が何よりもこのような中庸を否定することを繰返し述べている。

 人間存在のエクセントリシティは単に知的な意味に、即ち人間は主観として客観であるところの世界に対して距離の関係に立ち、これについて客観的な知識を得ることができるという意味にのみ解されてはならない。もちろん、人間が離心的でないならば、人間は自己をも含めての世界について客観的な知識を得ることはできぬ。しかしながらエクセントリシティは人間の全存在にかかわることである。そこで人間にまた根源的にニーチェのいわゆる「距離のパトス」が属している。古代ギリシア人がヒュブリス(驕り)といったものもかくの如きものと解することができるであろう。ニーチェの超人はこのような距離のパトスから生れた。しかるに人間存在の離心性は人間の力と共に人間の無力をも語るものである。その離心性のために、彼にとって生きるということは周囲と忘我的にもしくは脱魂的に融合して生きることであり得ず、生は生に処するということであるように余儀なくされている。彼は生でありながら、生を生きなければならぬ。彼は自己があるものに自己を初めてなさなければならぬ。「生ける生」ということが無意味な同語反復でなく、また「より多くの生」に対する要求が感じられるのもそのためである。

 しかるにこのように生であるところの人間が生を初めて得なければならぬということは、彼の生の根本的な窮迫を意味している。窮迫は単に外的生活の窮乏でなく、内面的な窮迫であり、彼が無の上に立たされていることに基づく。あらゆる人間的欲望はかかる根本的な窮迫によって担われる故に、或る無限性、即ち決して充たされることがないという性質をもっている。言い換えると、人間的欲望はデモーニッシュである。デモーニッシュなものというのは無限性或いは絶対性の性質を帯びた感性的なもののことである。しかるにまた人間にとって生は生に処するということであるところから、人間の生活は根本的に技術的である。技術的ということは単に工学的の意味にのみ考えられてはならないのであって、人間はその極めて原始的な欲望ですらつねに技術的にもしくは技巧的に満足させようと求める。そこから人間的生はデカダンスに陥る性質をおのずから内在せしめている。すべてこれらのことは人間存在のエクセントリシティに基づくと考えられる。人間のこの性質は彼の力と同時に無力を現わしている。悲劇的人間が如何にこのような無力と力との交錯を経験したかを、我々はシェストフにおいて、また特にニーチェにおいて見ることができる。

 ところで人間がエクセントリックであるということ、その客体的な存在的中心から離れるということは、人間が主体的にその存在論的中心ともいうべきものを定立しなければならぬということ、またこれを定立する自由を有するということを意味している。彼が周囲の社会と調和して生活している間は、その必要は感じられないであろう。なぜならそのとき彼が主体的に定立すべき存在論的中心は世界における彼の存在的中心に相応していわば自然的に定められているからである。このような場合人間はエクセントリックでない。彼の生活は平衡と調和とを有し、死の不安も顕わになることがない。これに反して彼自身と周囲の社会との間に矛盾が感じられるとき、彼の右の如き自然的な中心は失われ、不安は彼のものとなる。かくして不安が社会的に規定される方面のあることは明かである。この不安において彼が主体的に自己の立っているところを自覚するとき、彼がもと無の上に立たされていることが顕わになる。中心は如何にして新たに限定され得るであろうか。

 このとき問題は、シェストフがそのチェーホフ論を名附けたように「無からの創造」とならねばならぬ。しかるに無が単なる必然性であるならば創造ということもあり得ないであろう。地下室の人間が突き当った無はしばしば「運命」ともいわれている。そして運命は普通に必然性の別名の如く考えられている。けれども必然性と考えらるべきは却って世界、人間がそのうちに投げ出されている世界である。世界ももとより運命とみられ得るが、それは外部的運命であり、このような必然性に対して本来の運命、無は、むしろ可能性であり、自由である。シェストフもそのように考えた。「人間は自由でないというのでなく、却って彼等は世の中で何よりも自由を恐れる。それだから彼等はまた『認識』を求め、それだから彼等は『間違のない』、争われない権威、言い換えると、彼等がすべて一緒になって崇拝することのできるような権威を必要とする。」しかし無は可能性であるといっても、単に非現実性であるのでなく、むしろそれに対しては現実が非現実的で、外的運命が偶然的とも見られ得るような可能性である。

「可能性はそれ故にあらゆる範疇のうち最も困難な範疇である。」とキェルケゴールは書いている。我々は無の弁証法的性質を理解しなければならぬ。無が死であることは確かである。しかしただ死であるならば、それが自由であり、可能性であるとはいい得ないであろう。無はまた生である。無は我々がそこに死に、そこに生れるところである。我々は死ぬべく生れ、生るべく死ぬる。シェストフが日常的な時間とは次元を異にすると考えた時間はそのようなところである。無からの創造はかくの如き弁証法の上に立たねばならぬ。

 無からの創造の出発点は何よりも新しい倫理の確立でなければならぬ。私が存在論的中心の定立というのはそのことである。そのことは世界へ出て行くことの意味の確立にほかならない。我々はすでに、無自覚に、世界へ出て来てしまっている。エクセントリックになって、地下室の人間として自覚することは、世界へ出て行くことの意味を考え、新たに決意して世界へ出て行くためでなければならぬ。ドストエフスキーにおいてはなおこのような倫理が確立されていない。シェストフは書いている、「ドストエフスキーは、『行為する』ためには、彼の第二の眼を、あらゆる他の人間的感情及び我々の理性とも調和する普通の人間的な眼に従属させねばならなかった。」しかしながら行為することはいつでも第二の眼を第一の眼に「従属」させることであろうか。ドストエフスキーが「従属」させたわけは、彼に新しい倫理の確立がなかったためである。シェストフは、「十九世紀の人間は、おもに無性格な人間即ち行為する人間——おもに制限された存在であるように、道徳的に義務附けられざるを得ず、また義務附けられている。」というドストエフスキーの地下室の人間の言葉を感激をもって引いている。しかしながら何故にすべての行為する人間は「無性格な」「制限された」存在でなければならないのであるか。二十世紀の人間は別のことを考えてはならないのであろうか。問題は新しい倫理を確立すること、世界へ出て行くことの意味が確立され、それによって行為的人間の新しいタイプが創造されることである。この人間は現実と妥協することなく、地下室の人間のように烈しく現実に対して憤怒し、抗議するであろうし、しかも彼は現実を現実的に克服し得るために科学や理性によって武装されているであろう。しかしながら無からの創造は決して容易なことではない。「可能性はあらゆる範疇のうち最も困難な範疇である。」必然性と可能性との綜合としての現実性に達すること——無からの創造はそこに初めて成就される——は、更に一層困難である。

(1934)

【東渓文庫】ボードレール「パリの憂鬱」(1/5)

ボオドレエル著、三好達治訳「巴里の憂鬱」

 

 

 

異国人

 ——誰をお前は一等愛するか? 云つてごらん、謎なる男よ。お前の父か、お前の母か、妹か、弟か?

 ——私には父もない、母もない、妹も弟もゐない。

 ——お前の友人たちか?

 ——今君は、私にこの日まで意味の知られてゐない言葉を使ふ。

 ——お前の祖国か?

 ——それが如何なる緯度の下に位置してゐるかをさへ、私は知つてゐない。

 ——美人か?

 ——おお、もしも不死なる女神であるならば、それを私は喜んで愛しもしよう。

 ——金か?

 ——私はそれを憎む、恰も君が髪を憎むが如くに。

 ——さらば! 何をお前を愛するのか? 世にも珍らしいエトランゼーよ。

 ——私はあの雲を愛する……あの過ぎゆく雲を愛する……見よ、見よ……あの不可思議なる雲を!

 

老婆の絶望

 人人がみな気に入らうとして、誰もがちやほやする幼児を見ると、からだも小さい皺のよつたその老婆は、全く心が楽しくなつてしまふのであつた。小さな彼女と同じやうに羸弱な、同じやうに髪も歯もない用事を見ると。

 そして、彼女はそれに身を近寄せると、晴れやかな笑顔をつくつて頬笑みかけようとした。

 しかしながら幼児は、この齢過ぎた親切な婦人の愛撫の下に、恐怖して身を悶へ、甲高い泣声で家中を満した。

 その時この心優しい老婆は、再び、彼女の永遠の孤独の中にその身を退けた。そしてとある一隅でひとり泪を流すのであつた。「ああ! 私たちのやうに幸福の消えた世過ぎた女にとつては、もうあのやうに無邪気な者にさへ気に入る齢は過ぎ去つたのだ。私たちが愛しようと思ふ幼児にさへ、私たちは恐怖を与へるのだ!」

 

芸術家の告白

 秋といふこれらの日々の、夕暮どきの、何と心に滲みることか! ああ! 苦しいまでに心に滲みる! 何となれば、それは数々の甘美な感覚であり、それは茫漠としてゐて、而も緊張を喪くしてゐないから。そして、この広袤(こうぼう)無限の切尖にもまして、鋭く研ぎ澄まされたものがまたとどこにあらう。

 その眸を空と海との無辺際に溺らせる者の大いなる陶酔! 孤独、寂寞、比類なき蒼穹(そら)の純潔! 水平線に顫(ふる)へてゐる小さな帆。それはその小ささと孤立とによつて、私のこの慰めがたい存在を模倣してゐる。そして単調な波浪のメロデイ。それら総てが私を通して思考してゐる。(何となれば、果て知らぬ空想の中で、忽ちに自我は生滅するから!)それらが思考してゐる、と私は云つた。ただしかし、音楽を以て、及び絵画を以て。屁理窟なしに、三段論法、演繹法なしに。

 とまれこれらの思想が私から出づるにもせよ、それらの物象から生れ出づるにもせよ、ややあつてそれらはあまりにも緊張したものとなる。快感の中に精力(エネルギー)が不快をつくり、積極的な苦悩を創造する。も早や過度に張りつめた私の神経は、ただもう甲高く苦しい振動の外を生じない。

 今や天空の深さが私を狼狽させる。その清澄さが私を憤らしめる。海の無感覚と風景の不動の様が、私をして反逆を試みしめる……ああ! 永遠に悩まなければならないのか、或は、身を以て、永遠に美から逃れ去らなければならないのか? 私を解放せよ! 自然よ、憐憫なき魔女よ、常に勝利を奪ふ我が敵手よ。私の希望と私の誇りとを、誘なひ試みることをやめよ! 美の探究とは、そこで芸術家が打負かされるに先だつて恐怖の叫びをあげる、一つの決闘である。

 

慓軽者

 新年のお祭騒ぎ、雪と泥との混沌、絡繹たる無数の四輪馬車、輝く玩具とポンポン。この希望と絶望との渦巻きかへる大都会の剰すものなき擾乱は、最も心の強い孤独者の脳髄をも攪乱するに足るであらう。

 この混雑と喧騒の真唯中を、一頭の驢馬が、鞭を携へた荒くれ男に促されて、けなげな速歩で駆つてゆく。

 それが、とある歩道の一画を曲らうとした時、手袋をしたおめかしやの美男子が、隆たる新調の服に身を固め、きりきりつとネクタイを締め、この謙遜な動物の前にたち現れると、帽子をとり、仕草たくさんにお辞儀をして、さて云ふことに、「どうか新年が、貴君に仕あはせ多くあるように!」と、それから彼はおどけた容子で、どこかその友人らのゐるらしい方角へ、自分の満足になほ賞讃を附加へようとでも思ふのか、踵を廻らして帰つていつた。

 驢馬は、この美男子の慓軽者には一瞥をも与へず、彼の義務が呼ぶ方へと、威勢よく駆りつづけた。

 そして私は、私は忽ち、このフランスの機智を一身に集めたかに見える大馬鹿者に対する、測り知られぬ憤懣に全身を奪はれてしまつた。

 

二野の部屋

 澱んだ空気が仄かな薔薇色と青に染められた、真に霊性にかなへる部屋、幻想そのものの如き部屋。

 そこで魂は、悔恨と希望の香りに染むだ、倦怠の浴みをとる。——そは黄昏の、青味を帯びた、薔薇色の何ものかであり、また、日蝕の間の、快楽(けらく)の夢である。

 家具はみな長めの形をとり、疲れてうち萎れ、植物や鉱物と変りなく夢遊する生命を与えられたとも云ふべきか、夢みつづける容子に見える。さまざまの織布の類は、花の如く、空の如く、沈みゆく太陽の如く、言葉なき言葉を語る。

 壁には何らの卑しむべき芸術も置かれてゐない。凡そ固定芸術、実証芸術は、純粋なる夢、分析せられざる印象に較ぶれば寧ろ冒涜である。今ここでは一切が調和の、充分なる明るさと甘美なる暗さとを備へてゐる。

 そこで眠に落ちる魂が、温室の感覚に揺られてゐるこの雰囲気の中を、最も秀れた選択をへた極めて微妙な香気が、ほんの僅かに水気を交へて漂ひ流れてゐる。

 モスリンは窓と寝台の前に豊かに下り、雪白の瀧となつて溢れてゐる。この寝台の上に身を横たへてゐるのは、そは偶像、諸々の夢の女王である。だがしかし、どうして彼女はここにゐるのであらうか? 誰が彼女を伴れてきたのであらうか? 如何なる魔術の力が彼女をこの幻想と快楽の玉座に据ゑたのであらうか? とまれ、彼女はここにゐる! 私は彼女を見識つてゐる。

 見よ、黄昏を貫くその眼の焔、微妙なる恐るべき鑿。それに就て、私は今その恐ろしい悪意を思ひ出す! その眸は、何気なくそれに見とれた者の眼を牽きつけ、征服して、貪り啖らふてしまふのだ。この好奇心と賞讃とを要求する黒い二つの星を、私は甞て、屡々精しく眺めたことがある。

 如何なる悪魔の好意によつて、私は今かくも、神秘と、静寂と、平和と、香気とにとり巻かれてゐるのであらうか? おお、至福! 凡そ我らが人生と呼ぶところのものは、それらの最も幸福なる発露の中に於てさへ、今や私の、分また分、秒また秒に、認識し味得するこの至上の生命とは、較ぶべき共通の何ものをも有してゐない!

 否! 既に分なく、既に秒も存しない! とく時間は消え去り、支配するものはただ永遠、陶酔の永遠のみである!

 しかしその時、恐るべき重々しいノツクが扉に鳴り、それが恰も地獄の夢の中でのやうに、私には、胃嚢に鶴嘴をたたきこまれたやうに思はれた。

 そして次には幽霊が入つてきた。それは、法律の名に於て私を拷問にくる執達吏であり、私に悲惨を訴へて、私の生活の苦悩の上に、彼女の生活の卑俗さをつけ加へようとする無恥の妄婦であり、或はまた、現行の続きを催促にくる新聞編輯者の給仕である。

 幽霊の敲いた手荒なノツクによつて、天国の部屋、偶像、諸々の夢の女王、あの偉大なルネの呼むだ気精女(シルフイド)、それら総ての魔術は跡形もなく消え去つてしまつた。

 愕然として! 記憶が帰つてくる! 記憶が帰つてくる! 然り! この見苦しい部屋、いつ果てるともなき倦怠のこの住居は、紛ふ方なく私のものである。ここにあるのは、塵にまみれて角のとれた愚昧な家具。焔もなく、燠もなく、痰によごれた暖炉。埃の上に雨脚の残つた悲しい窓、書き消された未完の原稿。不吉だつた日の上に鉛筆でしるしをつけた暦!

 余すところのない感受性で、私の酔ふてゐた他界の香気は、ああ! 得体のしれない、嘔吐を催させ微臭さに交つた、鼻もあてられない煙草の臭ひに今は置き代へられてゐる。既にして、人はここに廃滅の臭気を嗅ぐ。

 この狭隘な、そして、かくも嫌悪に満たされた周囲にあつて、唯一の見慣れた品物が私に頬笑みかける。年老いた恐ろしい変人、ああ! 総ての恋人のやうに、愛撫に富みまた裏切に富める、一壜の阿片剤。

 おお! 然り! 時間は再び現れた。今、時間は厳かに支配する。そしてこの厭ふべき老人と共に、追憶の、悔恨の、痙攣の、恐怖の、苦悩の、悪夢の、憤怒と神経病の、呪詛の行列が残らず還つてきた。

 今や諸々の秒は、紛れもなく、強く朗らかに音をたて、柱時計を飛びだしながら、その一つ一つが告げるのである。「我れは命、耐え難い、慰み難い命!」と

 凡そ人間の生涯に於ては、各人の胸にまで説明し難い恐怖を喚び起すところの、降伏なる音信を齎すべく任務をもつた、僅かに一箇の秒しか存在しない!

 然り! 時間が支配する。再び、時間が粗暴な独裁権を握つた。そして、それは私が牡牛ででもあるやうに、その二重の針で私を駆りたてる。——「やい、しいつ! うせろ! 畜生、汗を出せ! 罰せられて、生きてゐろ!」

 

人みなシメールを負へり

 荒天の下、道もなく芝生もなく、薊も蕁麻(いらぐさ)も生えてゐない広大な平地の中で、私は、一群の人々の身を屈めて進んでゆくのに出会つた。

 彼らはみなその背中に、麦粉や石炭の嚢か、羅馬歩兵の軍装にも等しい重量の、巨大なシメールを背負つてゐる。

 しかも、その異形の獣類は、それの静止した重量だけではなく、なほ力強い弾力のある筋肉で、人々に覆ひかぶさりそれを締めつけてゐる。二つの大きな爪で、その乗物の胸に獅噛みついてゐる。恰も昔の戦士たちが、それによつて敵の恐怖を増さうとしたあの恐ろしい兜の一種のやうに、その奇怪な首を人々の額の上に載せてゐる。

 私はこれらの人々の一人に向つて、かうして彼らがどこへ行かうとするのかを訪ねた。彼は私に答へるのであつた。彼も、また他の人々も、それに就ては何も知つてゐないが、確かに彼らはどこかへ行くのである。なぜなら、彼らは進むでゆかうとする打ち克ち難い欲求に駆られてゐるのであるから、と。

 不思議なことに、これらの旅人の誰もが、その頸に県(かか)りその背中に獅噛みついてゐるこの残忍な野獣を、彼ら自らの一部分とでも見做してゐるのか、それに就て憔燥する容子も見せてゐない。これら総ての疲労した真摯な顔は、みな何の絶望をも示してゐない。憂鬱な空の円天井の下を、空と同じく荒涼たる地上の塵埃に足を埋めて、彼らは常に希望を拘(注:「抱」の誤植か)くべく罰せられた者の、諦めに満ちた面もちをしてそれの行路を辿つてゆく。

 そして行列は私の傍を過ぎ、この遊星の円みある表面が、人の眼の好奇心に隠れ去るところ、かの地平線の雰囲気の中へと消え去つてしまつた。

 そしてなほ暫らくの間、私はこの神秘を了解しようとして専心した。しかし間もなく抵抗し難い無関心が私の上に襲ひ来り、私はそれに重く圧しつけられた。彼らがその巨重あるシメールによつてなされるよりもより激しく。

 

愚人と女神

 何といふ素晴らしい日だらう! この広々とした公園は、恋愛の支配の下に置かれた青春のやうに、燬きつく太陽の眼の下に息絶えてゐる。

 万物普遍の恍惚境は、自らを説きあかすそよとのもの音をも放たず、水さへも深い眠りに落ちたやうである。人の世の祭礼とはことかへて、今ここに、げに静謐なる醼楽(ママ)がある。

 譬へるならば、常にいよいよ増してゆく光線は、万象をしていやが上にも光を放たしめ、溌溂たる諸々の花冠は色彩の精気を以て、天空の碧色と競はむと欲して燃え上り、気温はそれらの香気を眼にも著しく、太陽に向つて煙のやうにたち上らせてゐる。

 かかる折しも、このあまねき悦楽の中に私は一人の悩むでゐる男をみとめた。

 派手に滑稽な身なりをした、角と鈴とを頭に戴いた人工痴人の一人、王が追悔と倦怠に悩まされる時に彼を笑はせる役目を、すきに身に引受けた道化役者の一人が、巨大な女神像(ヴエニユス)の脚下に、ぴつたりと台石に身をすり寄せ、この不死の女神の方に涙に満ちた眼をあげてゐる。

 そしてその眼が告げてゐる。——「私は人間の最もつまらない、最も孤独な、恋愛も友情も喪くしてしまつた、その点では最もくだらない動物よりも遥かに劣つた者です。しかしながら私も、この私もまた、永遠不死なる美を感じ、それを理解するためにこの世に生れて来たのです! ああ! 女神よ! 私の悲哀と身も世もあらぬ悩みとを憐れみ給へ!」

 しかし心なきヴエニユスはその大理石の眼で、私の知らぬ何ものかを遠くの方に眺めてゐる。

 

犬と香水の壜

「犬よ、可愛い犬よ、私の親しい犬ころよ。おいで、ここへおいで、街の一等いい香料店で買つてきた、この良い香料を嗅がせてあげよう。」

 犬はちぎれるやうに尾を振つて、それは、憐れな動物に於て、笑や微笑にあたる表示だと私は信ずるのだが、私に近づいてくると、不思議さうに、栓を抜いた香水の壜に、その濡れた鼻を置いた。すると忽ち、恐れてあと退りしながら、私に向つて、恰も非難のやうに吠えたてた。

「ああ! 惨めな犬よ、もしも私がお前に糞便の包みを与へたのならば、お前はそれに夢中に鼻づりして、恐らくは貪り喰つたかも知れない。こんなに、お前もまた、悲しい私の人生の、価値なき道伴れよ、お前もまた、あの民衆に、それを怒らせる微妙な香料を決して与へてはならないところの、しかし、注意深く撰択した汚物を与へなければならないところの、あの民衆に似てゐるとは。」

 

けしからぬ硝子屋

 世には純粋に詠嘆的で、全く行動に適しない人々がある。しかし、時として彼らもまた、ある神秘な不可知の衝撃のもとに、恐らく彼ら自らが不可能と考へてゐたある素早さで、行動に移ることがある。

 ある人の如きは、彼の門番の身の上に痛ましい出来事を聞き出しはしまいかとの怖れで、一時間もその門前を逡巡してさ迷いながら、敢て入らうとしなかつた。ある人の如きは、封を切らずに手紙を二週間もしまつて置き、または、一年も前から必要であつた手続きを履むのに、なほ六ケ月も経過してからやつとその気になる。しかしこれらの人々も、時として弓から放たれる矢のやうに、遽かに、ある抵抗しがたい力によつて行動に向ふ自らを感ずるのである。世の、何事をも知れりと自ら任じてゐる倫理学者と医学者とは、どこからかくも速かに、かくも強烈なる気魄が、これらの怠惰にして淫逸な魂に来るのかを、そしてどうして彼らが、最も単純な、最も必要な事を充すのさへ不可能でありながら、ふとそのある瞬間に、最も無意味な、また屡々、最も危険でさへもある行為を実行するのに、あり余る勇気を見出すのかを、説明することが出来ない。

 私の友人の一人の、凡そ世にある最も無害な夢想家は、普通に人々が肯定してゐる程の容易さで、火がつくものであるかどうかを見るために、と彼は云ふのだが、ある時森林に放火したのである。続けさまに十回。実験は悉く失敗に帰した。しかし十一回目に、それは途方もなく成功した。

 またある者は、火薬の填まつた樽の傍で葉巻に火をつけるだらう。運命を見、それを知り、それを試みるために。自己を克服して、自らに気魄の証明を与へるために。賭をするために、不安の快楽を味ふために。無為のために。気紛れに、ただ何のためにでもなく。

 これは倦怠と夢想から湧きでる一種のエネルギーである。そしてかくも執拗にそれが現れるのは、先に言つた如く、一般に世の最も無為なる、最も夢想的なる人々に於てである。

 またある者は、人の視線に会ふとその眼を伏せるほど、またカフエに這入るにも劇場の切符売場の前を通るにも、そこにゐる支配人がみなミノスやエアクやラダマントの威力を授かつてゐるやうに思はれて、その貧弱な全身の意志を集中しなければならないほど、それほどの臆病者であつたが、突然、彼の傍らを通行する一人の老人の頸に飛びつきさま、あつけにとられてゐる群衆の面前で熱烈に接吻したのである。

 何故だらう? それは……それは、その老人の顔が、彼にまでどうすることも出来ない共感を唆つたのであらうか? 恐らくさうだらう。しかし、彼自らもその理由を知らないと考へる方が、なほ一層正当であるだらう。

 私は一度ならず、この発作と衝動のために犠牲となつた。それは遂に我々をして、我々の内部へ知らない間に狡猾な悪魔が忍びこみ、彼らの最も荒唐無稽な意志で、我々を満たすのだと余儀なく信ぜしめる。

 ある朝私は、陰鬱な悲しい気持で、無為にも疲れ果てて、何か偉大な、素晴らしい行為をしなければならないやうに促されて、寝床を離れると窓を押し開いた。そして、ああ!

(どうかかう云ふことを考へて置いて欲しい。ある人々に於て、戯悪(ミスヂフイカシヨン)の精神は、思案考慮の結果ではなくして、それは寧ろ偶然のインスピレーシヨンの結果であり、医者がヒステリツクと称する、医者よりはやや思慮の深い者が悪魔的(サタニツク)と称する、あの、我らを駆つて多くの危険にして不利な行為に赴かしめる心持と、たとへその欲求の激しさに於てだけでも、甚だ酷似してゐるものであるといふことを。)

 私が最初に路上に認めたのは、その鋭い調子外れの呼び声が、巴里の汚れた重い空気を透して聞きとれる、一人の硝子売りであつた。しかしこの憐れな一人の男に向つて、どうして私が、突然にして而も残忍なる憎悪を抱いたかは、何としても説明することは不可能である。

「——おい! おい!」と呼び止めて、私は彼に上つて来いと叫んだ。そして私は、私の部屋は六階にあつて、階段は非常に狭いから、あの男は上つて来るのに大変苦労をしなければならないし、その毀れ易い商品の角を、あちらこちらに打ち当てるだらうと考へると、何かしら、ある愉快を感じないではなかつた。

 たうとう彼は現れた。私は珍らしさうに残らず彼のガラスを検べてから云つた。「——どうしたんだい? お前は色硝子をもつてゐないのかい? 薔薇色の、赤の、青の、魔術の硝子、天国の硝子はどこにあるんだい? どうもお前はけしからんね! かうして貧民区を売つて歩きながら、それだのに、人生を美しく見せる硝子をもつてゐないぢやないか!」そして私は、蹣跚(よろ)めいて不平を呟く彼を、階段のところまで押しやつた。

 私は露台へ行つて小さな花瓶をとると、再び彼が戸口の外へ現れるのを待つて、その脊負枠の後ろの端へ、私の武器を垂直に放下した。衝撃が彼を覆へし、貧しい彼の行商の全財産はその背中の下で、落雷によつて崩壊する水晶宮の燦爛たる音響を発して、一つ残らず毀れてしまつた。

 そして私は、私の狂気に夢中になつて、激しく彼に叫びかけた。「美しい人生よ! 美しい人生よ!」

 凡そかかる神経質なる悪戯は、常に危険を伴はないものではない。また屡々、高価にそれを支払はなければならない。しかしながら、一瞬のうちに無限の快楽を見出した者にまで、永遠の刑罰がそもそも何であらう。

 

10

夜の一時に

 遂に! ただ一人である! 聞えるものとては、も早や時刻外れの三四の辻待馬車の、疲れた轣轆の音より外には何もない。今より幾時間か、我らは、たとへ休息でなくとも沈黙をもち得るだらう。遂に! 私を虐げる人の顔は消え去つた。私はも早や、ただ私自身によつてしか悩まされはしないであらう。

 遂に! 私に、暗黒の浴みの中で疲労を休めることが許された! 先づ、しつかりと錠前を下ろさう。私には、かうして鍵を廻すことが、私の孤独を増し、現に世間から私を隔ててゐる胸壁が、一層堅固にされたやうに思はれる。

 怖るべき生活よ! 怖るべき都会よ! 今日一日の仕事を再び数へて見れば、私は数人の文学者と会見したが、その一人は私に、陸路によつて露西亜へ行くことが出来るかと質問した。(勿論彼は露西亜を島だと考へてゐる。)ある雑誌の主筆と寛大に議論を戦はしたが、彼はどんな駁論に対してでも、「——我が社こそは、清廉潔白の士を集めてゐるんですから。」と答へた。さう答へるついでに、他の新聞雑誌が悉く無頼漢によつて編輯されてゐるとでも云ふかのやうに。また、二十人ばかりの人に挨拶したが、その十五人までは初対面であつた。それと同数の人々に握手を交はしたが、予め手袋を買つて置くといふ準備をしたのではない。それから驟雨の間、時間潰しにある軽業娘の部屋へ上つて行つたが、彼女は私に、ヴエニユストルの扮装を考案するやうにと依頼した。私はまたある劇場の支配人のもとに赴いたのであるが、彼は私を送り出して、「——では、Z……を訪ねて見給へ、うまくゆくでせう。何しろ彼は私の方の作家仲間で、一等鈍い、一等馬鹿な、そして一等有名な男なんですから、彼にお話になれば、きつと何とかうまくゆくでせう。合つていらつしやい。それからまたお眼にかかりませう。」と云つた。それから私は、決して自分が犯したことのない、数々の忌はしい行為に就て自慢をした。(なぜだらう?)そして卑怯にも、好んで私が犯した他の悪行を否定した。空威張りの罪、人を軽んずる罪。またある友人には容易な仕事を拒絶して置きながら、私はまるで碌でなしのをめに紹介状を書いてやつた。ああ! やつとこれでお終ひだらうか?

 一切の人々に不平を抱き、私自らにも不満を感じ、今、夜半の孤独と寂寞の中に、私は私自らを恢復し、暫らく矜持の中に溺れたいと希ふ。私が愛した人々の魂よ、私が賛美した人々の魂よ。私を強くせよ、私を援けて支へよ。この世の虚偽と腐敗気とを、私より遠ざからしめよ。そして爾(なんぢ)、おお主なる我が神よ! 願くば聖寵あつて、私がせめて人間の最下等の者ではなく、私の軽蔑する人々よりも劣れる者ではないと、私自らに証明する、佳き数行の詩句をして我が手に成らしめ給へ。

【東渓文庫】デカルト「方法序説」(上)

デカルト著、出隆訳「方法叙説」

 

方法序説

理性を正しく導き、諸々の学における真理を探求せんがための、

 

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もしこの叙説があまりに長々しいため、一度に読みがたいとならば、六つの部に分けてもよい。そして、その第一の部には、諸々の学に関する種々の考察を載せた。その第二には、著者が探求して得た、方法についての首要なる規則を。その第三には、彼がこの方法から引き出した実践道徳上の規則の若干を。その第四には、彼の形而上学の根基なる神と人間精神との存在を証明するために彼の用いた諸々の根拠を。その第五には、物理学について彼の探求して得た諸問題の順序、殊に心臓の運動や医学に属する他の若干の難問などの説明、なおまた吾々の精神と禽獣のそれとの間にある相違などを。そして最後には、彼の未だ達していなかった自然の探求に一層深く進み行かんがためには彼はいかなることを必要と信じるか、およびこの論文を書くにいたったのはいかなる理由によってであるか、を載せている。

 

 

第一の部

 常識(le bon sens)は、この世の中で最も広く分布しているものである、けだし各人みなはなはだよくこれを賦与されていると思惟しているが、ゆえに、さればこそ実に、これ以外のことにおいては何事にも容易に満足しない人々さえ、これについてのみは彼らの有する以上を決して欲しないのが一般のならわしとなっている程である。しかしこのことはすべての人々が自ら欺いているがためではないらしい、かえってこのことこそむしろ、善く判断しかつ真を偽と区別するところの力、すなわち適切には人々の呼んで常識あるいは理性と名づけるものがすべての人々において自然的に平等なるを証拠だてている、そしてまた同様に、吾々の意見の種々雑多なるは、一者が他者よりも一層理性的であるとのことより来るのではなく、かえってただ吾々が吾々の思想を導くに各々相異なる経路により、そして同一のことを考えないがためにこそ起り来るのである、とのことをも証拠だてている。何となれば、心が健全なというだけでは足りない、要はこれを旨く適用するにある。精神が一層大ならば大なるだけ一層大なる徳をなしあたうが、それと同時にまた一層大なる罪をも犯しあたうから、そして、きわめて徐々にしか進まない者も、もし彼が常に正しい道を辿って行くならば、急ぎ走ってこの道から迷い遠ざかる者よりか遥か先に進み行くを得るものであるから。

 私自らについて見るに、決して私は私の心が普通一般のそれに比していささかも完全であると自惚れたことはない、のみならず私は、他のある人々の有するようなそんなに敏活な思想、そんなに澄徹で判明な想像力、あるいはまたそんなに豊富なないしはそんなによく間に合う記憶力を有したいと願ったことさえしばしばなのである。そして私は、これら以外に心の完成に役立つ性質あるを知らない、けだし、理性あるいは常識について言うに、これのみが吾々を人間たらしめかつ吾々を禽獣と区別する唯一のものであるとすれば、その限り、そは各人において全然まったきものである、と私はそう信じたい、そして、この点ではその哲学者どもに共通な意見、すなわちその多い少ないは偶有性にしか存しないもので、同じ種の個体の形相あるいは本性には決して存しない、と彼らの言うところに私は従いたいのである。

 しかし、私は若い頃からある種の経路を踏みきたった者で、この路に導かれて私は考慮と格率とに到達し、これらによって一つの方法(Methode)を形作った、思うにこの方法によって私は漸次に私の認識を拡大し、かつ少しずつ進めてついに凡庸な私の心と行く末の短い私の生涯とを以てして達しうる最高点にまでそを高めるの手段を得たもののようである。だからここに私はかかる経路を踏んだことを大いに仕合せと思惟している者なることを躊躇するところなく申し述べておく。なぜなれば、私はすでにこれによって次のごときかかる豊かな収穫を有したから、すなわち、たとえ私は、私自らに関して下す判断においては、自らを高しとする方によりかむしろ自ら疑うという側に傾くを常とするとはいえ、そしてまた、哲学者の眼を以て一切の人々の色々の行為および企図を見れば、そこに空虚無益と見えないものはほとんどなかったとはいえ、しかも私は、真理の探求において自らのなしたと思惟する進歩について極度の満足を感じざるを得ず、また人が純粋に人としてなすべき仕事のうちで、もし何らかの確かに善くかつ重要なものがあるとすれば、私の選んだものこそ実にそれであるとあえて信じようとする程それほど多大な希望をこの未来に嘱せざるを得ないからである。

 とはいえ、私自身で自ら欺いていることも有りうる、そして、黄金だの金剛石だのとしているものも一片の銅または硝子に過ぎないかもしれない。私は、吾々に関することにおいて吾々が誤解に陥ることのいかにしばしばなるかを知っている。また吾々の友人の下す判断にも、それが何らか吾々を是とするものである限り、そこにいかに多くの疑わしいものがあるかということをも知っている。だが、この叙説では、私の今まで辿ってきた経路のいかなるものであるかを示し、そこにわが生涯をあたかも絵巻物におけるがごとくに表現して以て各人自らこれについて判断するを得せしめ、またその一般の反響よりして人々がこれについて抱く意見を領解し、以てこれを自家教養の一新手段とし、これを従来ならわしとしていた手段に加うるを得るならば、私はそれだけで満足する。

 それゆえ、私の計画は、各人がその理性をよく導かんがために必ず従うべき方法をここに教授しようとするのではなく、ただ単に、いかなる仕方によって私が私のを導こうと努めたかを示そうとするにある。自ら進んで他に訓則を与うるの業に携わろうとする者は、必ずこれを受ける者よりも優れているとの自信がなくてはならない、もし彼にして僅少なりとも欠くる点があったならば、彼はまさに咎めらるべきである。しかるに、私がこの一篇を提供するゆえんはただ一個の歴史としてに外ならない、否、もし諸君が望むならば、むしろ一個の寓話だと言ってもよい、で、中には多少模倣しうる範例もあろうが、またそこには従わない方がよいような例もかなり多かろう、それゆえ私は、これが何人をもそこなわないでしかも若干の人々を益するがごときこともあろうかとの希望をもち、かつすべての人々がこの私の腹蔵なく語るゆえんを徳とせられんことを切に希望している。

 私は児供の頃から文字の学で養育されて来た、そして、これを手段とすれば人生に有用なあらゆることについて明晰確実な認識に到達しうると説き勧められるままに、信じていたから、それゆえ私はこれを修めようとの極度の欲望を有していた。しかし、修業科目の全課程を修めおわるや否や、そして普通ならばただちに学者仲間に入られる時になって、私はまったく意見を変じてしまった。なぜなれば、私は、かくまで自己教養に努めたにもかかわらず、何らの効果をも得そうになく、のみならずただますます自己の無智が発見されるのみではないかと思える程それほど非常な疑惑と誤謬とに悩まされているに気づいたからである。しかも、私のいたところは欧州で最も著名な学院(エコール)の一つであって、もしこの世のどこかに真に学識ある人がいるとすれば、その人こそ必ずここにいるはずだと思われた程の学院である。この学院で私は他の物の学ぶだけのことはことごとくこれを学び尽した、のみならず私は吾々の教わるだけの学科では満足しなかったから、およそきわめて珍奇とすべく稀有とすべきことの論じてある書物は、手に入り次第、ことごとくこれを読みあさった。これと同時に私はまた他の者どもが私をいかに判断しているかをも知った。それで見ると、私は同窓の者に比していささかも劣っていると評価されてはいないようであった、しかもこの同窓中には吾々の先生の席を継ぐ者と決定していた人さえあったにもかかわらず、そして最後に、吾々の現世紀は、賢明な士を有する点では、かつて栄えた前代のいずれにも劣らない隆盛と豊富とを有するもののように見えた。これらが私に、自分自らで他を判断するだけの自由と、先に私が他の勧めに従って期待したような定説はどこの世界にも決して存するものでないと考えるだけの自由とを与えたのである。

 私は、しかし、かかる学説において人々のもっぱら学んでいる教科を全然尊重しなくなったのではない。私は承知している、学院で学ぶ語学は古書の理会に必要であり、優雅な寓話は心を目醒めしめ、記銘すべき史上の事蹟はこれを向上せしめ、そしてこれらを読むに深慮をもってすれば判断を形成するの助けともなるものであるということを、またあらゆる良書の講読は実にこれが著者たるいにしえの賢哲と対話するがごときもので、しかもその対話たるや研鑽の極地で、吾々はそこに彼ら賢哲の思想の粋に接しうるものであり、弁論修辞は他に類のない力と美とを有し、詩歌は魂も奪い去られるかとばかりの雅致と情味とを有するものであり、数学は極めて精緻な考察に富んでいて、あるいは好奇心を満足せしめるに、あるいはまた技芸を助長し人間の労力を軽減するに非常に役立つものであり、道徳習慣を論じている書物は多くの教訓と多くの勧善思想とを含んでいて、極めて有益なものであり、神学は天国にいたるすべを教えるものであり、哲学はいかなることをも真実らしく話す手段を与えて学浅き者の讃嘆を博するものであり、法学、医学およびその他の学術はこれを研究した者に名誉と富とをもたらすものであるということを。なお最後に私は、これらすべての学問技術をば、その極めて迷信的なもの極めて虚妄なものにいたるまで残らず考査してその真価を知り、それに欺かれないように自らまもるのもまたよいことである、とも承知している。

 しかしながら、私は、すでに十分な時間を、語学に与えたと信じている。また同じく古書の講読やそれに載っている史譚や寓話にも。なぜなれば、他の世紀の人々と対話するはあたかも旅行するがごときもので、なるほど種々の民族の風習について何ごとかを知れば、吾々はそれを一層公明正大に判断することも出来、また何一つかかるものを見たことのない人々によくある通り、すべて吾々の仕方に反するものをばことごとく滑稽であり理にもとっているものだと思うがごときこともなくて済むから旅行もよいことではあるが、しかし旅行にあまり多くの時を費すと、ついには自分の国を知らない異国人になる、これと同じく、過去の世紀に行われていた珍奇なことにのみ熱中する者は、現に今ここで行われていることにはまったく無智なのが普通だから。その他なお、寓話はまったくありえない事変をあたかも実際にあるかのごとくに想像させ、また、極めて信頼するに足る歴史でさえ、よし事実の価値を変更し誇大して読史の興味を増さんとするがごときことはないにしても、なおすくなくも極めて低級でありあるいはさまで著名でない出来事などにいたっては、それらはほとんど常に省略されているがため、省略されない残りの部分のみではあるがままに現われてはいないことになる。かかる歴史を模範として自らの行為を律せんとする者は、ともするとわが国の稗史物語に出て来る武者修業者に見るがごとき誇大妄想に陥り、到底自らの手にはあわない無謀な企てをも夢想するにいたるのである。

 私は弁論修辞を非常に尊重し、また詩歌の愛好者であった。しかし、かれもこれも共に研鑽の結果というよりかむしろ心情への天賦であると私は思った。けだし、はなはだ堅実な推理力をもち、自分の思想をはるかにうまく自分の提出したところを他人に納得させることが出来るものである。そしてまた、非常に人をよろこばせる創意に富んでいて、しかもこれを表わすに文飾と情味とを以てするのすべを心得ている者は、たとえ作詩の術をまったく知らないでも、なおよく第一流の詩人たるを妨げない。

 私は殊に数学を好んでいた、というのは、この学の理論の確実であり自明的であるがためであった、しかしいまだその真の用法を看取してはいなかった、そしてこの額をばただ機械工学上の技術にしか役立たないものと思っていたから、その根基のかくまで堅実でありかくまで確固たるを見て、なぜにかかる学を基礎としてその上に一層高い学を建設しようとする人がないのであるか、と私はひとりいぶかっていたのである、これに反して、私は、古代の異教徒などが道徳習慣のことを論じている書物をば、かのきわめて宏荘華麗なるにもかかわらず実は泥や砂やの上に建設されているに過ぎない宮殿と比較した、すなわち彼らは徳を非常に高い位に推し挙げ、この世界中に存する一切事物の中において最もぬきんでて尊敬さるべきものなるを示そうとしているが、しかも彼らはいかにしてこの徳が認識されるかについては十分に教えてくれない、それゆえ、彼らがかかる美しき名をもって呼ぶところのものも実は単なる無感覚だの驕慢だの自棄だの叛逆だのにほかならないことがしばしばである。

 私は吾々の神学に敬意を払い、他の人々と同じくこれによって天国にいたる道を得たいと願っていた。しかしこれが無智の者には開かれないとか学識ある者には開かれるとかいうがごとき道では決してないとのことや、またあすこへ導く啓示された真理は吾々の理会を超しているとのことやを極めて確実なことであるとするにいたって、これらの道これらの真理を吾々の脆弱な推理力の下にあえて屈服せしめようなどという気は起らなくなった、そしてこれらの考査を企てかつこの企てをなし遂げんがためには、何らか冥常な冥助を天に仰ぎ、人間より以上の者とならなくてはならない、と思った。

 哲学については何事をも言わない心算であるが、ただ次のことだけ言っておこう、すなわち、第一には、最も卓越した幾多の思想家が過去十数世紀の間、開拓研究してきたにもかかわらず、哲学上においてはいまだ一として論争のなくなったものはなく、したがって疑わしくないものはないとのことよりすれば、私はこの方面において他よりも一層うまくなしとげうるであろうなどと自ら期待するに足る程の十分な自負心を有しえないということを。次に、そもそも真実なる意見はただ一つしかありえないはずなるにかかわらず、同一の題材についてさえなぜにかくまで多くの異なる意見がありうるかと考えて来ると、しかもこれらの意見がおのおのそれぞれ学識ある人々によって保証され主張されているのであると考えて来ると、私は実に、単に真実らしいというに過ぎないようなものをばことごとく虚偽だとしてしまいたくなる、とのことを。

 さて、しからばその他の学はどうというに、それらは皆その原理を哲学から借りているから、しかる限りかかる堅実ならざる根基の上には何人も決して確固たる学を建設することは出来ない、と私は判断した。なおまた、これらを学ぶ人々の多くが期待している名誉も利得も、私をいざなってこれらの学を修めさせるには足りなかった、なぜなれば、おお神様、仕合せなことに私は学問を売物にしてまで資財の安全を計らねばならない程の境遇には少しも置かれていなかったし、また私はキニック(注:キュニコス)派を気取って名声を軽蔑しようとするのではないが、しかも単に空虚無実な名目によってでなくては得られないようなものには何らの価値をも認めていなかったからである。さて最後に、諸々の邪妄な説にいたっては、すでにそれらの価値がいか程の程度のものなるかを私は十分に知悉していたから、錬金家がいかにその未来の成功を約しようと、占星家がいかにうまく予言しようと、魔術家がいかに手際よく騙そうと、また知らないことを知ったふりする者どもの技巧や空威張りがいかにあろうと、私は少しもこれらに欺かれはしなかった。

 それゆえ、教師の監督指導を離れてよい年齢に達するや否や、私は全然文字の学の研究を廃棄した、そして、これから他の学問の穿鑿をしないで、ただ我みずからにおいて(en moi-meme)発見しうるもの、あるいはむしろ、世界という偉大な書物(le grand livre du monde)の内において発見しうるもののみを探求せんと決心し、ここに私は残余の青年時代を用いて諸地を漫遊し、宮廷および軍隊を見、気質境遇を異にする人々を訪い、種々異なる経験を集め、運命の提供する種々の出来事に遭遇しては我自らを試練し、殊にわが前に出現する事件に反省を加えてはこれより何らかの効果を収得せんと努めた。けだし自分自らに最も痛切緊要を感じている事変に関してその人自らのなす推理、殊にその際、もしも判断を誤ったならばただちにその推理の結果として悪い報いを自分自らに受けねばならない、と意識している人自らのなす推理、かかる推理においてこそ一層多くの真理に出逢うことができるように思えたからである、実にかかる真理は、ひとり自らの書斎にのみ閉じこもって何らの結果をも生じない思弁にふけり、その帰結として自らの受くるところはおそらくただ虚栄心の満足のみで、しかも常識からはますます遠く離れゆくがごとき、かの文字の学を事とする学者の推理においては到底見るを得ないものである。それもそのはずである、真実らしく見せかけようとすれば当然そこに才機と技巧とを用いなくてはならないから。それゆえ、自らの行為を明晰に見んがために、そして確信ある歩を踏んでこの人生の行路を進まんがために、私は常に真を偽と区別するすべを会得しようとのはげしい欲望を抱いていた。

 だが実際、もしも私が単に他人の道徳習慣を考慮するのみであったならば、きっとここに何らの自分を確信させるものをも看出さず、またさきに私が哲学者たちの諸々の意見の間において看出したと同じ程の相違をここでも認めたに違いない。それゆえ、これらのことから私の引き出した最も大なる効果は何かというに、それは、私の眼には非常に不合理でありかつ滑稽であると見えるものでありながらしかも他の大民族によっては一般共通に受け容れられ是認されているところの多くのことを見るにおよんで、到底かの単に例証や習慣やのみをもって私を承服せしめようとするがごときものを余り信じすぎてはならないと悟ったことそれである、かくして私は、かの吾々の有する自然的光明をくらまし理性に耳傾ける能をますます少なくする多くの誤謬から少しずつ免れていった。しかし、かく世界という書籍の研鑽に数年を費やし、そしてその間にいくらかの経験を得るに努めたが、のちついに、ある日のこと、私は、我自らを研究しようと決心し、また自らの従うべき道を選ばんがためにわが心の全力をこのことに当てようと決心した、これは、思うに、非常な成功であった、もし私の故国や私の書籍から離れ遠ざからなかったならば、おそらく私にはこれ程の成功は得られなかったであろう。

 

第二の部

 その当時、私は日耳曼(ぜるまん=ゲルマン)にいた。まだ戦争がやんでいなかったので、私も従軍してそこに行っていたのである。そして皇帝戴冠式を終って軍隊に帰ると、ちょうどそのときは冬の初めであったから私は屯営地に停まった、そこでは私の心を他に転じる程の話し相手もなく、その上なお仕合せなことには私の心身を煩わす心配事や煩悶の情が少しもなかったから、私は終日ただひとり煖室に閉じこもり、閑暇にまかせて思索にふけった。その中で第一に私の心に思いうかんだのは次のことどもであった、すなわち、幾多の部分から成り立ち、異なる技術家の手で作り出された制作品において見る完全さは、ともすると、ただ一人が働いて制作したものにおいて見るそれよりか遥か劣っている場合が多いという思想であった。例えば何人も知るがごとく、ただ一人の建築家によって設計され竣成された建物は、多人数寄り集まり、すでに別途の目的で作られていた古壁などを使用して、改築せんと試みられたそれよりか、はるかに美しくまた一層うまく整っているのが普通である。同様にまた、その始めには家々が転々と散在していた小部落に過ぎなかったものが月日の経過するにつれて大都市となったその古き都などは、通常ただ一人の技術家が曠野を開拓してその意のままに設計配置して出来た規矩井然たる都市に比すれば非常に拙いものである。今これを部分的にその一つ一つの建物において考えてみれば、前者の建物にも後者のそれと同様またはそれ以上に優れた技巧の現われている場合もしばしばではあるが、しかも全体としてその配置の具合を見ると、ここには大きな家があり、かしこには小さな家があり、軒並みは入り乱れているし街道は曲りくねっているという風に、実に不規則きわまるから、かかる並べ方をした者は到底理性を用いる人間の意志ではないむしろ偶然の機会である、としか言えまい。しかもまた、絶えず、幾人かの役人が、私有の建物を都市としての公共的装飾たらしめんがためにこれを監視するを職としているさえあるを思えば、他人の制作品のみを土台としてこれらを完成せしめんとする労作がいかに容易ならざることであるかは、誰にでもわかることである。同様にまた、その始めなかば未開な人種であって、その間に犯罪や悶着やの起るごとに不便を感じ、やむをえずその度ごとに少しずつ法律を作りながら、徐々として文明の域に進みきたった民族などにおいては、到底かの相集って社会をなした当初からただちに思慮ある立法家の制定した法律憲法を実施してできたものにおいて見るがごときかかる精練完備した制度を具備することは出来ないものである、と私は自ら想像した。これと同様に、唯一の神の命法を信じるところの真の宗教を奉じている国家は、必ず他のいかなる国家にもその比類を見ないほどうまく統治されるにきまっている。また、これを人間のことにおいて考えてみるに、かのスパルタが、たとえかつて隆盛をきわめたとするも、そは決して特にその法律の各条項がことごとく優れていたがためとは信じられない、中には善良な道徳習慣から見ればきわめて奇異な感あるものもあり、また全くそれに背叛するものさえあったのであるから、それゆえ、むしろその隆盛をきわめたゆえんは、その法律が、ただ一人によって創定されたがために、ことごとく同一の目的に向けられていた点にある、と私は信じる。また同じく、かの書籍の学問、殊にその根拠が蓋然的なるにとどまり、何らの論証をも有しないで、ただ多くの相異なる人々の諸々の意見を少しずつ寄せ集めて編纂増補したに過ぎないようなそんな学問は、常識ある一人の人間がその眼前に出現する事件に関して自然的になしうる単純な推理よりかはるかに真理に遠ざかっている、と私は思惟した。さらにまた、私はこうも思惟した、すなわち、吾々はみな一人前の人間になるまでには児供であったもので、その間長く吾々の欲求と吾々の教師とに支配され影響されていたに相違ないから、しかもこれらは相互に矛盾し、かつかれもこれもそれにおそらく最もよい忠告を吾々に与えはしなかったであろうから、ここにおいて私はこう思った、すなわちもし吾々が生後ただちに我々の理性を完全に使用しかつそれ以外の何ものの指導をも受けていなかったならばおそらく純粋にして確固たる判断を有しえたであろうけれど、事実上述のごとしとすれば、かかる判断をこの我々の判断において望むことはほとんど不可能であろうと。

 とはいえ、実のところ、吾々は、単に他の様式に改め市街を一層立派にしようとの計画で一町村の家屋をことごとくなぎ倒すがごとき人わるを見うけない、しかしながら、改築せんがために各自の家を取りこわす人や、また時には、おのずから倒れるという危険な場合あるいは基礎が堅くない場合などに、やむをえず取りこわす人などの沢山あることは吾々のよく見うけるところである。この例証によって、私は次の確信に到達した、すなわち、国家を全然その根柢から変更することにより、または新たに建設せんがためにこれを転覆することによって、その国家を改革せんとし、あるいはまたこれと同様にして一切の学術組織あるいは学校の教育制度を改革せんとするがごときかかる企図が、一個人によってなされるなどということは、全くありえないことだと確信するにいたったが、しかし、今まで私の信頼して受け容れていた一切の意見に関しては、私はまず断然これらを拒斥するに努めてしかる後にそれよりも一層優れた他のものをもってそれと置き換えるか、あるいは理性の基準によってこれが整理されるものならば全くそれと同一なものでもよいからこれをそれと置き換えるか、とにかくこのいずれかに出ずるより他には仕方がないとの確信をも得た。そして私は、私が自らの生活を指導するにかくもよく成功したゆえんは実にこの手段によったがためであったと堅く信じるにいたった。もしもそれを振い根基の上にしか建設しなかったならば、あるいはまた、もしも私の若い頃に何らその真なるか否かをも考査しないで単に授けられるがままに受け容れかつ信奉していたところの原理の上にのみ停滞していたならば、実にこれ程までに成功しはしなかったであろう。なぜなれば、もちろんこの際にも種々の困難あるを認めはしたが、それにはしかしながら、なお治療の道がないではなかったし、なおまた、社会公衆に関する愚劣な事柄を改革する際に見出されるがごとき困難とは比較にならないものであったから、この大きな体制においては、ひとたび倒されたならば再びこれを起すことは容易でなく、またひとたび動揺されたならば再びこれを元のままに維持してゆくことも容易ではない、そしてその転覆はきわめて荒々しからざるを得ないのである。なおまた、その体制の不完全について見るに、あたかもその体制間に種々の相異の存するということそのことが、すでにそこに多くの不完全の存するを確かめるに足るのであるが、もしかかる不完全の点がそこに存したとするも慣習は疑いもなく大いにこれを緩和していたのである、のみならずこの不完全の幾分かを人知れず避けさせあるいは矯正したものもみなこの慣習である、実にこの不完全に対してはいかなる深慮をもってするもこの習慣による程うまくこれに備えをすることは出来ないであろう、なおまた最後に、これらの不完全な点は、ほとんど常にかの変更によって生じるそれよりかはるかに我慢しやすいものである、これをたとえれば、あたかも山の中を迂曲している大道が、これを通行するものの多きにしたがって少しずつ平坦になり便利になると同じで、この道を辿って登る方が、まっすぐに近道を行かんとしてためにあるいは岩石をよじ登り、ときには絶壁の直下に落ちなどするよりもはるか優っているがごときである。

 特に良い家柄の生れであるとか豊かな天分を有するとかのゆえをもって公務を掌理すべく使命づけられたというでもないのにみだりに公務に携わり、常に新奇な改革を念頭に置かないではいられないような、そんな喧噪で安心のできない者どもを是認する気にはどう考えてもなれないというのもまた、実にこのためである、そして、私にして、もしもこの書の中にかかる愚挙に出でんとする者であるとの嫌疑を私にかけうるがごとき点が少しでも存すると思惟していたならば、私はかかる書を出版させるを非常に悲しんだであろう。しかるに、私の計画は、ただ私自らの特に有する思想を改革し、また全く私自らのであるところの基礎の上にこれを建設せんと試みるのみで、その範囲を越してその以外に拡がらんとするのでは決してない。だから、私の労作が私自らを満足させるに足るものであるかというのでここにこの労作の設計見本を諸君の前に示すにいたったとするも、さればとて、決して私はこれが模倣を何人に勧説せんと欲するのでもないのである。神からその恩寵を豊かに付与されている者などは、おそらく私のよりかはるか高い計画を有しているであろう、しかし、ここに私の大いに恐れることは、かかることさえ已に業に(注:すでにすでに。まぎれもなくの意)多数の人々にとっては非常に無謀なことではないかという点にある。かつて前に人々が信頼して受け容れたあらゆる意見から脱却しようとの単なる決心すら、すでに各人の当然従うべき範例ではないのである。この世間はかかることの少しも適しない二種類の人からのみ成り立っているらしい、すなわち、その一つは、自分の能力を実際にある以上に有能だと信じていて、何事にも躁急な判断を下さざるを得ず、しかも自分の思想全体を秩序正しく導くに足る忍耐力を有しない種類の人で、その結果、この種の人々は、ひとたび今まで自分の受け容れていた原理を疑うの自由、および従来踏み来った常の道から外へ踏み出すの自由、を得るや否や、ただちに彼らは前よりも早く直進せんがためその当然踏むべき間道を通ることさえできなくなり、ついには自らの全生涯を空しくさ迷い暮す者である。今一つは、真を偽と区別する能力において、自分らは自分らを教えうる程の人に比してはるかに劣っている者だと判断するだけの十分な理性あるいは自卑心を有する人々で、彼らはむしろ自らを教えてくれた他人の意見に服従するをもって足れりとするの外なく、別に自分自ら進んで一層すぐれたそれを探求しようとはしない者どもである。

 しかして、私自らはどうと言うに、疑うまでもなく私は後の部に数えらるべき者であったろう、もし私にしてただ一人の師をしか有しなかったり、あるいはすぐれた学識のある人々の意見相互の間に絶えず存していた相違を少しも知っていなかったならば。しかし私は、学院にいた頃すでに哲学者間の意見の相違のはなはだしきを知っていた。そは実に、いかに奇怪でありまたいかに信ずるに無稽な事柄でもいまだかつて一度もいずれの哲学者によっても懐抱されなかったようなものを想像することは、何人にもできまいと思った程それほど彼らの意見は種々雑多なものであった。そしてその後、旅行するにおよんで、情調気質が吾々のとはなはだしく反している人々も、必ずしもことごとく、この故をもってただちに、野蛮人だの未開人だのと看做さるべきではなく、却って吾々と同等または同等以上の理性を使用している者さえ沢山あるを認め、なおまた、同一の心を有する同一の人間でも、児供の頃からフランス人やゼルマン人やの間で育てられた場合と常に支那人や食人人種やの間で生活していた場合とでは、その間にいかにはなはだしい相違が生じて来るかを考え、また吾々の衣服の流行などを見ても、わずか儒年前には我々の好んで用いていたもので、しかもおそらく十年以内には再び吾々の好みになりそうなものさえも、現今ではそれと同一のものでありながら、それがいかに吾々の眼に奇異滑稽に見えるか、など考え来れば、結局、吾々を納得させるものはむしろ習慣や例証であって、決して確実な認識なんかではないのか、とも考えられる、しかしそれにもかかわらず、やや発見しがたい真理については、これに賛同する声の多数ということは必ずしもこの真理の価値を保証するゆえんではない、なぜかというに、かかる真理の発見はこれに適するただ一人によった方がすべての人衆に拠ったよりもはるかに真に近いから、しかし、かかる一人を、意見を異にする多くの人々のうちから、これだけは採るに足るものだとして特に選び出すことはできないことであるから、ここにおいて私は私自身でわれ自らを導こうと企てるの余儀なきにいたったのである。

 しかしながら、ただ一人でしかも闇の中を進む人におけると同じく、私はきわめて徐々に進もうと決心し、また一切の事物に対しては非常に周到な注意を払おうと決心した、かく徐々にまたかく周到に歩を進めたから、たとえはなはだ少ししか進歩しなかったとはいえ、すくなくもつまずき倒れる恐れだけはなくすことが出来た。同じくまた、理性に導かれて入りきたったのではなくて単にかつて私の信念にひそかに忍び入っていたある種の意見の如きすら、初めから全然これを棄て去ろうと欲したのではなかった、全くこれを棄て去るに到ったのは、長い年月をかけて私の企てていた仕事の計画を立てそして私の心にあたう限りの一切の事物に関する超越に到達するための真の方法(la vraie Methode)を探求した後の事であった。

 私は、まだ若かった頃、哲学の部では論理学を、また数学の中では解析幾何学代数学とを多少研究した、というのは、この術或は学とでも言うべき三つは、たしかに私の計画に対して何らかの貢献するところがあるに相違ないらしく見えたからである。しかし、これらの学を考査するにおよんで、私は次のことに気づいた、すなわち、まず論理学を見るに、その推論式やその他この学の教則の大部分は、むしろ自らの知っていることを他の人に説明して聞かせるに役立ち、あるいはルルスの術と同じく、そは、人々の知らないことについて何の判断するところもなくしてただ話すにのみ役立ちて、決してかかる知らないことを会得するに役立つものではない、そして、勿論、実際のところ、この学ははなはだ真でありはなはだ善である多くの訓則を含んではいるが、しかもそれと共にその中には有害なものや余分なものやが混入していて、これらを択り分けることはきわめて容易でない、そは恐らく未だあら刻みさえしてない大理石の素材からディアナやミネルヴァの像を刻みだすの困難にも比すべきであろう。次に、古代の解析や近代の代数学やを見るに、両者ともにきわめて抽象的な題材にのみ拘泥し何らの用途もないらしいが、それはしばらく棄て措くとするも、なお前者は常にその問題を図形の考察にのみ制限しているがために、もし悟性を錬り鍛えんとすれば想像力を非常に疲労させざるを得ない、しかるにまた、後者においても同様で、人々は一定の規則や一定の符号やのみに支配され、ために、この学をば、もはや心を薫陶教養する学ではなくてかえってこれを昏迷させるところの一つの紛糾した曖昧な術にしてしまった。このことこそ、実に私をして、これら三者の長所を含みながら、しかもその欠点から免れている他の何らかの方法を探求せねばならない、と思惟するにいたらしめた原因であった。さて、法律があまりに繁多であるとかえって犯罪に口実を供することも多いが、反対に法律には少しの条項しかなくとも厳密にこれを遵守するならばその国家はよく治まるものである、これと同じく、かの論理学を構成している数多の訓則の代りに、私はただ次の四箇条っで十分だと信じた。ただしかく言うは、ただの一度もこれを遵守しないようなことがあってはならないとの堅固恒常な決心をした上でのことである。

 さてその第一は、自明的に真であると我自らの認識するものにあらずんばいかなる事物をも決してそを真として受け容れてはならない、とのこと、換言せば、注意して速断と偏見とを避けかつ何らの疑いをもさし挟むの余地なき程しかく明晰にかつしかく判明にわが心にそれ自らを現わすもののほか、何ものをもわが判断に取り入れてはならない、とのこと。

 その第二は、わが考査せんとする難問のおのおのをば、出来うる限り多くの、かつ一層すぐれた解決を得るに必要なだけの、小部分に区分すること。

 その第三は、わが思想を秩序正しく導くことで、そは最も単純にして最も認識しやすき対象より始め、少しずついわば一歩一歩と段階を踏み、ついに最も複雑なるそれの認識に登りゆくとともに、いずれの一者がいずれの他者に先行するが自然的なるかその間の関係の不明なるものには秩序をつける、というにある。

 そして最後のは、すべての場合にわたって枚挙を全くし、かつ吟味を一般的にし、かくしてわれ自らそこに少しの遺漏も存しないとの確信を得るまで、これにつとめる、というのである。

 さて、通常幾何学者達の用いてそのきわめて困難なる論証にまで到達するを慣わしとしているところの、かの単純平易な根拠からなる長い連鎖は、私に次のことを想像するの機会を与えた、すなわち、すべて人間の認識の下に落ちきたりうるものもまた、ことごとくこれと同じ仕方で相互に連続継起しているものではあるまいか、そして、ただ実際に真でない何ものかを真であるとして受け容れることのないようにつつしみ、あるいは一者を他者から演繹する際に必ず遵守すべき秩序に注意しさえすれば、いかに遠くにあるものも結局到達されないものはなく、いかに秘めかくされていても発見されないものはない、のではあるまいかと。かつまた、私は、いずれより始むべきかを探すにあまり苦心するにはおよばなかった、なぜなれば、すでに私は最も単純にして最も認識しやすきものよりすべきを知っていたから、そしてまた、今まで諸々の学における真理を探索して得たものは、ただ数学者のみであることを考えれば、私はもはや彼ら数学者の考査しているものと同一のものより始むべきであるとのことに少しの疑いをもさし挟み得なかったから、しかし私は、ただそれが私の心に真理の獲得を楽しみかつ虚妄なる根拠をもってしては決して満足しないという習慣をつけてくれさえすれば、他に何らの利用をも期待していなかったのである。とはいえしかしながら、私はまた吾々が普通に数学という名の下に総括する一切の特殊の学をことごとく修得せんとの計画を有していたのでもない、ただたとえこれらの学の対象はいかほど異なっていても、その対象間に看出される種々の関係あるいは比例をのみ考察しているとの点ではこれらの学はことごとく一致している、それゆえこの点より見て、私はむしろただこれらの比例のみを一般的に考査した方がよい、すなわちこれらについての認識を一層容易にするに役立つ問題においてより以外にはかかる比例を想定しないで、しかもこれらの比例を必ずしもかかる問題にのみ制限するものでもないというようにした方がよい、と思惟した、そうすれば後にこれらの適合する他のものに対しても一層よくこれらを適用しうるであろうから。次に、これらを認識せんがためには、時にはこれらをおのおの別々に考察する必要があるだろうし、また時には単に心に留めおきあるいはそれらの多くを合して領解する必要もあるだろうと認めたから、まず一層よくこれらの比例をおのおの別々に考察せんがためには、これらを線の形に表わして考うべきであると思惟した、なぜなれば、かくするより以上に単純な仕方はどこにも発見されなかったし、また、これより以上に判明に私の想像力や感覚やに表現しうる何ものもなかったから。しかし、私はまだ、これらを心に留めおきあるいはその多くを合して領解せんがためには、出来うる限り最も短かな何らかの符号をもってこれらの比例を説明することも必要であると思惟した。そして、かかる手段によって、私は解析幾何学代数学とのあらゆる長所を借用し、一方に存する欠点を他方の長所によって修正せんとした。

 実際のところ、あえて言うが、私は、私の選び出したこのわずかの訓則を厳密に遵守することによって、この二つの学の範囲内にある一切の問題をきわめて容易に解き去るを得た、実に、これらの考査に従うことわずか二三箇月にして、しかもよく次のごとき問題を解決しえたに徹しても、そのいかに容易であったかが認められる、すなわち、まず単純にして最も一般的なるものより始め、かつ私の発見したおのおのの真理をば一つの規則としてこれを後に他の真理を発明するに役立てながら進むうちに、私はかつてははなはだ困難なものと私自らの判断していた多くの問題を徹底的に氷解し得たのみでなく、ついにその考査の終る頃にいたって、先にはその解決がいかなる手段によってまたどこまで可能であるかまったく私に知れていなかった問題においてさえ、ほとんどその決定を下しうるやの観あるにいたった程である。と言えばとてしかし、もし諸君が、おのおのの事物にはそれぞれただ一つの真理あるのみであり、したがってその真理を発見する人は何人も皆その事物に関して知りうる限りを知っているのである、とのことを考えるならば、かく言う私の言もおそらく諸君の眼にそれほど空虚軽薄だとは映じないであろう、これをたとえれば、算数学を学んだ児供のごときものである、彼がこの学の規則に従って加え算を行った場合に、その考査によって得た総和に関しては、彼とても一般に人間の心によって発見される全部を発見したものだと確言してよいのである、何となれば、要するに、真の秩序に従うべしと教えかつその探求せんとするところのものについての一切の事情を精密に枚挙すべしと教えるこの方法は、算数学の規則に確実性を与えるところのものをことごとくそれ自らに包含しているからである。

 しかしながら、この方法について最も多く私を満足させた点は、まず、この方法においては、よしんば完全にではないにせよすくなくも私の力のおよぶ限りにおいて最もよく私の理性が全般的に使用されている、とのことを自らに確かめ得た点にある、その他なお次には、これを実際に用いれば、私の心は少しずつ慣らされて、その対象を一層澄徹にかつ一層判明に概念するにいたる、とのことを感じた点でも、なおまた、私は毫もこの方法をある特殊の題材にのみ制限しようとしなかったから、この方法は他の諸々の学の難点においても代数学のそれにおいてなしたと同じく有益に適用される、とのことに望を嘱していた点でも満足していた。しかし、さは言え、私は眼前に現われ来る難点をことごとく一度に考査しつくそうとあえて企てたのではない、何となれば、かかる企ては、それ自らにおいてすでに、この方法の命じる秩序正しくとの箇条に背反しているからである。しかし、これらの学の原理はことごとく哲学から借用さるべきだと気づいてはいたが、いまだその哲学の内に何らの確実なものをも発見していなかったから、私は何よりも先に、そこに何らか確実なものを建設するに努むべきである、しかるにこのことは、この世界中において最も重要なることであり、したがって速断や偏見はこの場合最も忌避すべきであるから、まだ決してこれを徹底的に遂行せんと企だつべきではない、と思惟した、けだし、その当時私は二十三歳であったから、これを企てるには、まだまだ年齢の熟するを待つべきであり、なおまた、これを企てるには、その前にまず、それ以前に受け容れられていた一切の間違った意見をことごとく私の心から根こそぎにし、かつまた、後に私の推理の材料たらしめんがために多くの経験を積み、かつ私が自らに示命した方法によって絶えずわれ自らを錬り鍛えて、この方法に対する自信の漸次に鞏固となるまで、多くの時日を費してこの企ての準備をなすべきであったからである。

 

【東渓文庫】芥川・菊池共訳「不思議の国のアリス」(下)

カロル著、芥川龍之介菊池寛共訳「アリス物語」

 

 

九 まがひ海亀の物語

「まあ、あなた、お前さんにまた会へて、わたしどんなに嬉しいかお分りないだらうねえ。」と公爵夫人はいつて、アリスの腕をやさしく自分の腕にかかへ込んで、一緒に歩いていきました。

 アリスも夫人がこんなに上機嫌なのを知つて、大変嬉しく思ひました。そして、さつき台所で会つたとき、あんなに乱暴だつたのは多分胡椒のせゐだらうと考へました。

「わたしが公爵夫人になつたら。」と、アリスは独ごとを言ひました。(べつにそれを大変のぞましいやうな、調子でもありませんでしたけれども。)「わたし台所で胡椒なんか全く使はないことにするわ。スープは胡椒がなくたつておいしく食べられるんだもの。人を癇癪持ちにさせるのは、多分胡椒かも知れないわ。」と、アリスは新しい法則を見付けだして、大喜びでいひつづけました。「お酢は人を酸つぱい気にさせるし——カミツレ(注:カモミール)は、にがにがしい気にさせるし——有平糖やその他の甘いお菓子は、子供の気持を甘くさせるし、世間の人にこれが分るといいんだけれどな。さうなると誰も気むづかしくはならないわ——。」

 アリスはこのとき、公爵夫人のことはすつかり忘れてゐたのでした。けれどもアリスの耳許で、夫人の声が聞えましたので一寸驚きました。「お前は何か考へて居るねえ、それで、お話をすることを忘れたんだね。わたしは今のところ、それの訓(をしへ)が何であるか分らないけれど、今に、直き思ひだせるよ。」

「多分訓なんかないことよ。」とアリスは勇気をだしていひました。

「しつ、しつ。」と公爵夫人は言ひました。「何にだつて訓はあるもんだよ。見つけさへすれば。」さういつて夫人は、アリスの側に身をピツタリと寄せつけました。

 アリスは夫人が側にピツタリ寄りそうて居るのが、あまり気に入りませんでした。第一に公爵夫人は大変醜い顔をしてゐましたし、第二に夫人の背はアリスの肩位しかありませんでしたので、気味わるいほど尖つて居る顎をアリスの肩にのせて居たからでした。けれどもアリスは失礼な事を云ひたくありませんでしたから、できるだけ我慢しました。

「勝負は今のところ、うまくいつて居るらしい様子ですねえ。」とアリスは少し話をつづけて行くつもりでいひました。

「さうだよ。」と公爵夫人はいひました。「そして、それの訓といふのは——世界を廻転せしめるものは愛である、愛である。——といふのだ。」

「ある人はかういふのを言つてよ。」とアリスは低声(こごゑ)でいひました。「めいめいが自分の仕事に気をつけてゐれば、何でもできる。——つていふの。」

「ああ、さうだよ、これはそつくり同じだ。」と公爵夫人は尖つた小さい顎でアリスの肩をつつきながら言ひました。「そしてそれの訓といふのは—『感を気をつけなさい。すると音は、それ自ら注意を集める。』といふのだよ。」

「この方はいろんなものに、訓を見つけだすことが随分好きなのねえ。」とアリスは独で考へました。

「何故わたしが、お前の腰のぐるりに手をかけないのか、不思議だらう。」と公爵夫人は一寸間を置いていひました。「その理由といふのはねえ、わたしはお前の紅鶴の気質が疑はれるんだよ。ひとつ手をかけて見ようかな。」

「かみつくかも知れませんわよ。」とアリスは叮嚀にいひました。そして試してもらふ事を、余り気にもかけませんでした。

「ほんとだ。」と公爵夫人はいひました。「紅鶴も芥子もかみつくからねえ。そしてそれの訓は——同じ羽の鳥は集る(類は類をもつて集る)——といふんだよ。」

「でも芥子は鳥でないわ。」とアリスが言ひました。

「その通りだ。」と公爵夫人は言ひました。「お前はよくものごとがはつきり分るねえ。」

「わたしそれは鉱物だと思ひますわ。」とアリスが言ひました。

「無論さうだよ。」と公爵夫人は言ひました。夫人はいつもアリスの言つたことは、何ごとでも、賛成する風がありました。「この近くに大きな芥子のマイン(鉱山)があるよ。そしてそれの訓といふのは——わたしのものが(Mineを鉱山と、「わたしのもの」といふのと一緒にしたのです)沢山あればあるほど、あなたのものが益々少くなる。——といふのだ。」

 アリスは考へてゐました。「また考へて居るね。」と公爵夫人は尖つた小さい顎で、アリスの肩を突きながら尋ねました。

「わたし考へる権利があるわ。」とアリスは少しうるさく考へましたので、きつく言ひました。

「それは丁度豚に羽があつて、とべる権利があるといふやうなものだ。そしてそれの、お——。」

 けれどもこのとき、アリスがひどく驚きましたことには、公爵夫人が大好きな「訓」といふ言葉を半分言ひかけたときに、声が消えてしまつて、からんで居た腕が、ふるへ始めたのでした。アリスは上を見ました。すると例の女王が腕を組み、入道雲のやうなしかめ面をして、二人の前に立つてゐるのでした。

「陛下、よいお天気でございます。」公爵夫人は低い小さい声でいひました。

「さあ、わたしはお前に命令をする。」と女王は地団太を踏んで、大声で言ひました。「お前の身か、それともお前の首か、どつちかをかつとばしてしまはねばならん。さあ、たつた今だ。どつちか一つ選ぶがいい。」公爵夫人は、無論いい方を選んで、直ぐに其場から身を退いてしまひました。

「さあ勝負をしよう。」と女王はアリスに言ひました。アリスは驚きのあまり、一言もいへませんでした。けれども、のそのそと女王のあとからついて球打場へいきました。外のお客達は、女王のゐないのをいい仕合せにして、樹蔭で休んで居ました。けれども女王を見るや否や、急いで勝負にとりかかりました。女王はただかういつただけでした。「お前たち一分間でも、のらくらすると一命がないぞ。」

 みんなが勝負をやつて居る間、女王はたえず他の相手と喧嘩をしてゐて、「あの男は打首にしろ。」とか、「あの女を打首にしろ。」とか言つてゐました。女王が宣告をした人達は、兵士に拘引されました。無論この兵士たちは、罪人を拘引するために、アーチになつてゐるのを、止めなければなりませんでしたから、三十分も経つか経たぬうちに、アーチがなくなつてしまひ、球を打つ者も王様と女王とアリスを除いた、他の者は全部拘引されて、死刑の宣告をうけました。

 二人が歩いていきましたとき、アリスは王様が低い声で一同にむかつて「お前たちみんな許してやる。」といつて居るのを聞きました。「ああ、よかつた。」とアリスは独語をいひました。何故ならアリスは女王が、こんなに多勢のものに死刑を言ひ渡したので、かなしく思つてゐたからでした。

 二人は間もなく、グリフオンが日向ぼつこをして、ぐうぐう寝て居るところへやつてきました。(若しグリフオンを知らない人は、絵をごらんなさい)「お起き、なまけ者。」と女王がいひました。「此のお嬢さんを擬(まが)ひの海亀のところへお連れして、あれの身の上話しを聞かして上げてくれ、わたし戻つて、先きほど命じておいた、死刑の監督をしなければならないのだから。」かういつて女王は、アリスをグリフオンにまかせて去つてしまひました。アリスはこの動物の顔が気に入りませんでしたけれども、大体に於て、あの野蛮な女王についていくのも、この動物と一緒に居るのも、安全さの程度は似たり寄つたりだと思ひましたので、じつと待つてゐました。

 グリフオンは起ち上つて目をこすりました。それから女王の姿が見えなくなる迄、ヂツと見てゐましたが、それからクツクツ笑ひだしました。「なんておもしろいんだらう。」とグリフオンは半ば独語の様に、半ばアリスに言ひました。「何がおもしろいの。」とアリスが言ひました。

(一部訳なし)

「むかし。」とまがひ海亀がとうとう、溜息をついて言ひました。「わたしはほんとの海亀でした。」

 この言葉のあと、又永い間みんな黙りこんでしまひました。ただ時時グリフオンがヒツクルーと叫ぶのと、まがひ海亀が始終重くるしく啜り泣きする声で、その静けさが破られるばかりでした。アリスはもう少しで立ち上つて、「面白いお話をして下すつて有難う。」と言ひかけました。が、何かもつと話し出すにちがひないと、思はないわけにいきませんでしたので、静かに坐つて何も言ひませんでした。

「わたし達が小さかつたとき。」とまがひ海亀は、遂に前よりズツとおとなしくいひつづけました。けれども相変らず時時啜り泣きをしました。

「海の中の学校にいきました。先生は年をとつた海亀でした。——わたし達は先生のことを正覚坊(注:アオウミガメの意)先生、といつもいつてゐました——。」

「何故正覚坊といふんです。」とアリスは尋ねました。

「なぜつて小学本(正覚坊)を教へますからさ。」とまがひ海亀は怒つていひました。「ほんとにお前は馬鹿だ。」

「こんな易しい事を訊くなんて、恥づかしく思はなければいけない。」とグリフオンはつけ足して言ひました。それからみんな黙りこくつて、可哀さうなアリスをヂツと見ましたので、アリスは地の中にでも入つていきたいやうな気がしました。やがてグリフオンは、まがひ海亀に言ひました。「おぢさん、さあつづけて。こんなことに日を暮しなさんな。」そこでまがひ海亀は次のやうに言ひ出しました。

「さうです、産みの中の学校へいきました。お前さん信じないかも知れないがね——。」

「わたし信じないなんて言やしないわ。」とアリスはさへぎつて言ひました。

「お前さん言つたよ。」とまがひ海亀は言ひました。「おだまり。」とグリフオンはアリスが、又口を出さないうちにいひ加へました。まがひ海亀はつづけて言ひました。

「一番いい教育をうけたよ。——ほんとにわたしたちは、毎日学校にいつたのだ。」

「わたしだつておひるの学校に行つたわ。」とアリスが言ひました。「お前さん、そんなことを、そんなに自慢するに及ばないわ。」

「課外もあつたのかい。」とまがひ海亀は一寸心配さうに訊きました。

「ええ。」とアリスは言ひました。「フランス語と音楽を習つたわ。」

「そして洗濯は。」とまがひ海亀は言ひました。

「そんなもの習はないわ。」とアリスは怒つて言ひました。

「ああ、それぢやお前さんの学校は、ほんとに良い学校ぢやなかつたねえ。」とまがひ海亀は大層安心したやうに言ひました。「そして、わたしたちの学校では月謝袋の終ひに、フランス語、音楽及洗濯。——其他と書いてあるよ。」「お前さん、そんな課目なんか、さう要らなかつたでせう。」とアリスが言ひました。「海の底にすんでゐるのに。」

「ところが習ふことができなかつたんだよ。」とまがひ海亀は、溜息をついて言ひました。「それでわたしは、正課だけをやつたんだよ。」

「それはどんなもの。」とアリスは質ねました。

「まづ初めは、勿論、千鳥足だの、からだのくねり曲げさ。」とまがひ海亀は答へました。「それからいろいろな算術に、野心術、憂晴(うさはらし)術、醜顔(しゆうがん)術、それに嘲弄術。」

「醜顔術つて、わたし聞いたことがないわ。」とアリスは思ひ切つていひました。「それはなんなの。」

 グリフオンは驚いて、前足を二本宙に上げました。そして「醜顔術つて聞いた事がないんだつて。」と叫びました。

「お前は美しくするといふことは、知つて居るだらう。」

「ええ。」とアリスは考へ込んで言ひました。

「それは——何でも——もつと綺麗に——することですわ。」

「ふん、それでゐて、お前さん醜くするといふことが分らないなら、お前さんは阿呆だよ。」

 アリスは、もうこれ以上醜顔術について質問する元気はありませんでした。それだから、まがひ海亀の方を向いて「外に何を習つたの。」と言ひました。

「うん、神秘学があつた。」とまがひ海亀は、課目を鰭で算へながら答へました。

「さうなんだよ。さうなんだよ。」と今度はグリフオンは溜息をついて言ひました。そしてこの二匹の動物は、前足で二人とも顔をかくしました。

「そして一日に何時間授業があつたの。」とアリスは話の題をかへようと思つて、あわてて言ひました。

「第一日は十時間あつたよ。」まがひ海亀は言ひました。「第二日目は九時間、それから段段と減つていくのだ。」

「ずゐぶん珍らしいやり方だわねえ。」とアリスは言ひました。

「それが授業(Lesson)(レッスン(Lesson)には段段減つていくといふ意味があります。それをしやれたのです)といはれるわけだ。」とグリフオンは言ひました。「何故つて、毎日毎日レッスンしていくからさ。」

 このことはアリスには初耳でした。それで暫くのあひだ考へこんでゐましたが、やつとかういひだしました。「それでは十一日目はお休み日にちがひないねえ。」

「無論さうだよ。」とまがひ海亀はいひました。「それでは十二日目はどうしたの。」とアリスは熱心になつて聞きました。

「それでレッスンは終りさ。」とグリフオンは間から口を出して、キツパリと言ひました。「さあ、今度は遊戯の話でもこの子に聞かせてやつてくれ。」

 

十 海老の四組舞踏

 まがひ海亀は深い溜息をついて、鰭足の裏で目をふきました。アリスの顔を見て、話しかけやうと(ママ)してゐましたが一、二分の間声がつかへて出てきませんでした。「咽喉に骨でもたつたからだなあ。」とグリフオンは言つてまがひ海亀の身体をゆすぶつたり、背中を叩いたりしました。やつとまがひ海亀は声がでるやうになつて、涙を頬に流しながら続けました。

「お前さんはあまり海の中に住んだことはないんだらう。」(アリスは「住んだことなんてありませんわ。」と言ひました。)「それで多分海老に紹介されたこともないんだらう。」アリスは「わたし食べたことはあるわ。——」と言ひかけましたが、あわてていふのを止めて、「いいえ、ないわ。」といひました。

「それでは、お前は海老の四組舞踏がどんなに面白いか、分らないことだらう。」

「ええ、ほんとに分りませんわ。」とアリスはいひました。「どんな風の舞踏なのですか。」

「うん、まづ海岸に一列にならぶのだ——。」とグリフオンが云ひかけますと、「二列だよ。」とまがひ海亀がさへぎりました。「海豹(あざらし)に海亀に、鮭達かね、それから道の邪魔になる海月(くらげ)をのけてしまつて——。」

「それにはいつも手間がとれる。」とグリフオンが口出しをしました。

「——二度前に進むのだ——。」

「銘銘が海老を相手にして。」とグリフオンが言ひました。

「無論さ。」とまがひ海亀はいひました。「二度進む相手と向き合ふ——。」

「——海老を代へて同じ順であとに戻るんだ。」とグリフオンが後からつづけました。

「それからねえ。」とまがひ海亀はつづけて言ひました。「それから投げるんだ——。」

「海老を。」とグリフオンが大きな声でいつて、宙にとび上りました。

「——ずつと遠くまで海の向ふへ——。」

「そのあとを泳いでつけるのだ。」とグリフオンが叫びました。

「海の中で、でんぐり返しをするのだ。」とまがひ海亀はきちがひのやうに躍り廻つて叫びました。

「また海老をとりかへるんだ。」とグリフオンは、ありつたけの声で言ひました。

「また陸にもどつていくのだ——これが舞踏の第一節なんだ。」とまがひ海亀は急に声を細めていひました。いままでズツと気違ひのやうにとび廻つてゐた二人のものは、また悲しさうに坐つてアリスを見ました。

「大層きれいな舞踏にちがひないわ。」とアリスはオドオドした声でいひました。

「お前さん少し見たいとお思ひですか。」とまがひ海亀は言ひました。

「ええ、ほんとに見たいわ。」とアリスは言ひました。

「さあ、それでは第一節をやらう。」とまがひ海亀はグリフオンに言ひました。「海老がゐなくたつてやれるだらう。歌は誰がやるのだ。」

「おお、お前が歌ふのだ。」とグリフオンは言ひました。「わしは歌の文句を忘れてしまつたのだ。」

 さういつて二人は真面目くさつて、アリスのぐるりを踊り始めました。時時二人がアリスの極く近く、やつてくるものですから、アリスの足ゆびを踏んづけたり、又は、調子をとるために前足をバタバタ動かしたりしました。そしてかうやつて踊る間、まがひ海亀は大層ノロノロと悲しさうに次のやうな歌を始めました。

 

 「もう少し早く歩かないか。」と鱈は蝸牛に言ひました。

   海豚があとからやつてきて、少しの尻尾を踏みつける。

   海老と海亀とが一生懸命進んでいくのをごらんよ。

   あいつら砂利の上で待つてゐる——踊りの仲間に入らうか。

   踊の仲間に入るか、入らぬか、入るか、入らぬか、入るか。

   踊の仲間に入るか、入らぬか、入るか、入らぬか、入るか。

 

 「あいつらがわしらを仲間に入れて、海老と一緒に海のむかうに投げるとき、どんなに面白いか、お前にやほんとにわかるまい。」

   けれども蝸牛が答へるにや、「遠すぎる、遠すぎる。」そして横目でジロリと見ました。

   蝸牛は叮嚀にお礼は言つたけれど、踊の仲間にや入らなんだ。

   踊の仲間に入らぬか、入れぬか、入らぬか、入れぬか、入らぬか

   踊の仲間に入らぬか、入れぬか、入らぬか、入れぬか、入らぬか。

 

 「どんなに遠くたつた平気だよ。」鱈はすましていひました。

 「海の向ふにやもう一つ外の岸がある。」

   イギリスから遠ざかりや、フランスに近くなる。

   だから青い顔なんかするな、おい蝸牛さん。

   踊の仲間に入らないかい。

   踊の仲間に入るか、入らぬか、入るか、入らぬか、入るか。

   踊の仲間に入るか、入らぬか、入るか、入らぬか、入るか。

 

「ありがたう。見てゐて大層面白かつたわ。」とアリスは舞踏が終つたのでやれやれと思つていひました。「そして、わたし鱈のことを歌つた妙な唄が好きだわ。」

「さうさう鱈といへば。」とまがひ海亀がいひました。「鱈は——いや、いやお前さんは、鱈を見たことがあるだらうねえ。」

「俺たち海老のクワドリールの、第二節をやらうか。」

 とグリフオンは続けて言ひました。「それともまがひ海亀に歌をうたつてもらふかな。」

「ええ、歌がいいわ、どうぞね。まがひ海亀さんさへよろしかつたらね。」

 アリスがアマリ熱心になつて答へたものですから、グリフオンは少し気を悪くした調子で言ひました。「ふん、この子には趣味が分らないんだ、おい御老人「海亀スープ」でも歌つてやつてくれ。」

 まがひ海亀は深く溜息をついて、時時啜り泣きで声をつまらせながら、歌ひだしました。

 

  沢山あつて、緑色のみごとなスープ

  熱い鉢の中で待つて居る。

  こんなうまいもの、とびつかいでゐらりよか。

  晩のスープ、みごとな スープ

  晩のスープ、みごとな スープ

  み——ごとな スープ

  み——ごとな スープ

  ば————んのスーーープ

  みごとな、みごとな スープ

  みごとなスープ、魚はいらない、

  鳥の肉もいらない、他の何にもいらない。

  みごとなスープがたつた二十銭

  この二十銭の為にや何を惜まう。

  み——ごとな スープ

  み——ごとな スープ

  ば——んの スープ

  みごとな、みごと——な スープ

 

「さあもう一度合唱だ。」とグリフオンが言ひました。そこでまがひ海亀が又これをくりかへさうとしましたが、そのときに「裁判が始まる。」といふ声が遠くの方で聞えました。

「さあいけ。」とグリフオンは言つて、アリスの手をとり歌の終ひなんか待たないで急いででかけました。

「何の裁判なの。」とアリスはせいせい息をきらして走りながら訊きました。けれどもグリフオンはただ「さあ、いけ。」と答へるばかりで、ますます早く走りだしました。するとうしろから、悲しげな唄声が風にのつて、段段薄れながら聞えて来るのでした。

  「ば——んのスープ

  みごとな、みごとなスープ」

 

十一 誰がお饅頭を盗んだか

 二人がやつてきましたときには、ハート王様と女王とが、王座(ぎよくざ)に坐つてゐて、そのまわり(ママ)には多勢のものが集つてゐました。——その面面といふのはいろいろな小さな鳥獣や、トラムプカルタの組全部でした。その前にはハートのジヤツクが、鎖につながれて立つてゐて、両脇には一人づつ兵士がついて見張をしてゐました。王様の傍には、白兎が片手に喇叭をもち片手に羊皮紙の巻いたものを持つてゐました。その法廷のちやうど真中にはテーブルが一つあつて、それには饅頭の入つた、大きな皿がのつて居りました。それが余りおいしさうに見えましたので、アリスは一目見ただけで、すつかりお腹が空いてしまひました。「裁判なんか、もうおしまひにしてしまふといいに。」とアリスは考へました。「そして早くこのお茶うけを渡してくれればいいのに。」けれどもそんなうまい具合には、まるでなりさうもありませんでしたから、自分のぐるりにあるいろんなものを見て、時間をつぶしてゐました。

 アリスは今までに、裁判所に行つたことは一度もありませんでした。けれども、本で色色と読んでゐましたから、今そこにあるものの名前を知つてゐるので、全く嬉しくなりました。「あれが判事だわ。大きな仮髪(かつら)をかぶつてゐるから。」と独語をいひました。

 ついでのことですが、判事は王様でした。で、王様は仮髪の上に王冠をかぶつてゐたものですから、大変具合が悪さうで、又確かに似合つてゐませんでした。

「それから、あれが陪審席だわ。」とアリスは考へました。「そしてあの十二匹の動物(アリスは「動物」といはないでは居られませんでした。といふのは、それは獣や鳥だつたからでした。)あのものたちが陪審官なのね。」アリスはこの最後の言葉を、二三度繰返して言つて見て、少し得意になりましたといふのは、アリス位の年齢のもので、陪審官の意味を知つてゐる子供なんてほんの少しだと思つたからでした。そして実際その通りなのです。

 十二人の陪審官たちは、大変忙がしさうに石板の上に何か書いてゐました。「あの人達は何をしてゐるのですか。」とアリスはグリフオンに低声で言ひました。「裁判が始まらないうちは、何も書くことなんかありさうもないのに。」

「自分の名前を書いてゐるんだよ。」とグリフオンは小さい声で答へました。

「何故なら裁判のすまないうちに、自分の名前を忘れるといけないと思つてだよ。」

「何て馬鹿者でせう!」とアリスは、大きなおこつた声でいひかけましたが、あわてて止めてしまひました。なぜなら白兎が「法廷では静粛に」とどなり、王様は眼鏡をかけてものをいつたものを探しだすやうに、ぐるりを見まはしたからでした。

 アリスは陪審官たちの肩をすかして見るとみんなが「馬鹿者」と石板に書いてゐました。中には「馬鹿」といふ字を知らなくつて隣の者にきいて居るものさへあるのを、アリスは見つけました。「どの石板だつて裁判がすまないうちにきつと出鱈目書きでいつぱりになつてしまふに違ひないわ。」とアリスは考へました。

 陪審官の一人は、キーキー軋む鉛筆をもつてゐました。無論のことアリスには、これが我慢できませんでした。そこでアリスは法廷を一廻りして、その陪審官の後へ行き、直ぐうまい隙を見つけてそれをとり上げてしまひました。それが余り上手な早業だつたものですから、可哀さうなこの小さい陪審官は(それは蜥蜴のビルでした)鉛筆がどうなつてしまつたのかさつぱり見当が付きませんでした。それでそこいらをさんざん探して見ました揚句、しかたなく、その日は石板の上に指で書かなければなりませんでした。しかし石板の上には何の跡ものこりませんでしたから、それはまるで無駄な事でした。

「伝令官罪状を読み上げろ。」と王様がいひました。

 そこで白兎は三度ラツパを吹き、それから羊皮紙の巻物を解いて、次の様に読みました。

  「ハートの女王様が、夏の日一日かかつて

  お饅頭をつくりました。

  ハートのジヤツクがそれを盗んで

  もち逃げをしました。」

「君方の意見を述べてもらひたい。」と王様は陪審官にいひました。

「まだです、まだです。」と兎はあわててさへぎりました。「そのまへにまだ沢山の手続きがあります。」

「第一の証人を呼べ。」と王様はいひました。白兎は三度ラツパを吹いて、

「第一の証人!」と呼び上げました。

 第一の証人はお帽子屋でした。お帽子屋は片手に茶呑茶碗、片手にバタ附パンをもつてゐました。「陛下、御許し下さい。」とお帽子屋は言ひ始めました。「こんなものを持ちこみまして、でもわたしお呼びだしをうけたとき丁度お茶をのみかけてゐたものですから。」

「そんなものは済ませて来るものだ。」と王様は言ひました。「いつからお前は始めたのだ。」

 お帽子屋は、自分のあとから、山鼠と腕を組んで法廷に入つてきた三月兎を見ました。「三月の十四日だと思ひます。」

「十五日だよ。」と三月兎は言ひました。

「十六日だよ。」と山鼠は付け加へました。

「それを書きとめろ。」と王様は陪審官に言ひました。陪審官は一生懸命にこの三つの日附を石板に書きとめて、その数をたして、何銭何厘といふ答をだしました。

「お前帽子をぬげ。」と王様はお帽子屋に言ひました。

「これはわたしのものではありません。」とお帽子屋は言ひました。

「盗んだな。」と王様は叫びながら、陪審官の方を向きました。早速陪審官は事件の覚え書をつくりました。

「わたしは売物をもつてゐるのです。」とお帽子屋は説明をつけ加へました。

「わたしは自分のお帽子なんか持つてゐません。わたしはお帽子屋商売なんですから。」

 このとき女王は眼鏡をかけて、お帽子屋をヂツと見つめはじめました。お帽子屋はすつかり顔色蒼ざめ、もじもじしだしました。

「おまへの証言をいへ。」と王様はいひました。「ビクビクするな、でないとこの場で死刑に処するぞ。」

 これでは、少しも証人に元気をつけるどころではありませんでした。お帽子屋は右足と左足と、かはるがはるに一本足で立ち、不安さうに女王の顔を見たりしましたが、余りどぎまぎして、茶呑茶碗をバタ附パンと間違へ、その端をかじりとつたりしました。

 丁度この時、アリスは大層変な気持を感じました。そしてそれが何の為だか、少し経つて分りだすまでは、随分当惑させられました。

 アリスは又、大きくなりはじめたのです。アリスは初めは立上つて裁判所をでていかうと思ひましたが、又考へ直して自分のゐられる場所があるかぎり、とどまつてゐようと決心しました。

「そんなに押さないでくれ。」とアリスの隣りに坐つてゐた山鼠がいひました。「わたしこれでは息ができないよ。」

「わたし、どうにもならないの。」とアリスは、大層やさしく言ひました。

「わたし今大きくなりかけて居るんです。」

「ここでは大きくなんぞ、なる権利はないよ。」と山鼠はいひました。

「馬鹿なことは云ひつこなし。」とアリスは少し大胆になつて言ひました。

「お前だつて大きくなりかけて居るわよ。」

「さうさ、だけれど、こつちはいい工合に大きくなるのだよ。」と山鼠は言ひました。「そんなをかしな風にはのびないのだ。」そして山鼠は大層ふくれて立上り、法廷の向ふ側にいつてしまひました。

 かうした間も女王は、お帽子屋をヂツと目もはなさずに見つめてゐました。そして丁度山鼠が法廷をよこぎりましたとき、法廷の役人の一人に女王は言ひました。「先達(せんだつて)の音楽会に出た唄手の名簿を持つてきておくれ。」それを聞いて、あはれなお帽子屋はひどくふるへましたので、穿いてゐた両方の靴がぬげてしまひました。

「証言(いひぶん)をいへ。」と王様は怒つて又言ひました。「それでないとお前がビクビクしてゐようがゐまいが死刑に処するぞ。

「陛下、わたしは哀れなものです。」とお帽子屋は震へ声で云ひ始めました。「そしてわたしはやつとお茶を飲みだしたばかりのときでした——せいぜい一週間程にしかなつてゐませんでした。——それにこんなにうすつぺらなバタ附パンでもつて、そしてお茶のちらちらちらは——。」

「何のちらちらだ。」と王様はいひました。

「それは茶から始まりました。」とお帽子屋は答へました。

「無論、ちらちらはちの字から始まつてゐる。」と王様は鋭くいひました。

「お前はわたしを阿呆だと思つてゐるのか。さあ後を云へ。」

「わたしは哀れなものでございます。」とお帽子屋はつづけて言ひました。

「そして大概のものが、それからちらちらしました。——ただ三月兎のいひますには——。」

「わたしはいひませんでした。」と三月兎は大層あわてて言葉を遮りました。

「お前言つたよ。」とお帽子屋は言ひました。

「わたしはそれを否定します。」と三月兎はいひました。

「あの男はそれを否定してゐる。」と王様は言ひました。「その部分は省いておけ。」

「ええ、しかし兎に角山鼠は言ひました。」——とお帽子屋は山鼠がそれを又否定しやしないかと、おそるおそる振り返つて見ていひました。けれども山鼠はよく寝込んでゐましたので、一言も否定しませんでした。

「そのあとで。」とお帽子屋は言ひつづけました。「わたしはもつとバタ附パンを切りました——。」

「しかし山鼠は何といつたのだ。」と陪審官の一人が訊きました。

「それをわたしは思ひ出せません。」とお帽子屋はいひました。

「お前は思ひ出さねばならんぞ。」と王様は言ひました。「でないと、死刑に処するぞ。」

 可哀さうなお帽子屋は、茶碗とバタ附パンを落してしまひました。そして片膝をつきました。「陛下、わたしは哀れなものでございます。」とお帽子屋は言ひ始めました。

「お前は非常に哀れな話手だよ。」と王様はいひました。

 このとき一匹の豚鼠が拍手をしましたが、直ちに廷丁が制止してしまひました。(この制止するといふ言葉は、少しわかり難い言葉ですから、豚鼠がどうされたのか、ここで説明をします。役人は大きなズツク製の袋を用意してゐるのでした。そしてその口のところは綱で堅く結(ゆは)へるやうになつてゐるのでした。ところで、役人は豚鼠をこの袋の中に頭の方から入れ、その上に坐つたのです。)

「わたしうれしいわ。いいところを見て。」とアリスは思ひました。「わたし新聞で、裁判記事の終りに「数人の者拍手せんとするものありしも、直ちに廷丁に制止せられたり」と書いてあるのをよく見たけれど、今まで何のことだか分らなかつたわ。」

「お前の知つてゐることがそれだけなら、お前は下つてよろしい。」と王様は続けて言ひました。

「わたしこれより下ることができません。」とお帽子屋はいひました。「わたしはこの通り床の上に居りますので。」

「それでは腰を下してよろしい。」と王様は答へました。

 この時他の豚鼠が拍手をしましたので、前のやうに制止されてしまひました。

「さあ、あれで豚鼠のかたがついた。」とアリスは思ひました。「さあこれからよくなるだらう。」

「わたし一層(いつそ)のこと、お茶をすましたいと思ひます。」とお帽子屋はまだ音楽会の唄手の名簿を読んでゐた女王を心配さうに見て言ひました。

 すると王様が、「お前行つてよろしい。」と言ひましたので、お帽子屋は大急ぎで靴なんか穿く時間もとらずに、法廷を出て行きました。

「外で、今直ぐにあの男の首を切れ。」と女王は役人の一人に言ひました。けれども、役人が入口のところに行つたときには、お帽子屋はもう影も形も見えませんでした。

「次の証人を呼べ。」と王様は言ひました。

 次の証人は公爵夫人の女料理番でした。この女は片手に胡椒箱を持つてゐました。アリスはこの女が法廷に入つてこないうちから、今度は誰だか分つてゐました。何故なら戸口の側にゐた人達が、皆一斉に嚏(くさめ)を始めたからです。

「お前の証言をいへ。」と王様はいひました。

「いはないよ。」と料理番はいひました。

 王様は心配さうに白兎を見ました。すると兎は低い声で、「陛下この証人を対質訊問なさらなければなりません。」

「よし、しなければならないといふならするよ。」と王様は情ないやうな風をして言ひました。そして両腕を組み、目が見えなくなるほど眉をしかめて料理番を見てから、「お饅頭は何でこしらへてある。」と厚い声で言ひました。

「大抵胡椒です。」と料理番は言ひました。

「お砂糖水だよ。」と料理番のうしろからねぼけ声が言ひました。

「あの山鼠の首を抑へろ。」と女王は金切声をだしました。「あの山鼠を打首にしろ。あの山鼠を追ひだしてしまへ。あいつをとりおさへろ。あいつをつねつてやれ、あいつの頬髯をぬいてしまへ。」

 暫くの間法廷は、山鼠を追ひ出す為に、隅から隅まで大騒ぎでした。そしてみんなが再び席に落ちついたときには、料理番の女の姿は見えなくなつてゐました。

「構はんよ。」と王様はほつとした様子でいひました。「次の証人を呼べ。」それから王様は小声で女王に言ひました。「お前が今度の証人を訊問しなければならないよ。わしは訊問すると頭痛がしてくる。」

 アリスは次の証人は、誰だらうかと知りたくなつたので、兎が人名簿をくつて居るのをヂツと見てゐました。

「まだ証言があんまり上つてゐない。」とアリスは独語をいひました。ところでまあ想像してみて下さい。兎が小さい金切声を張りあげて、「アリス」と呼び上げたとき、アリスのその驚きが何んなものだつたかを!

 

十二 アリスの証言

「はい。」とアリスは大層あわてふためいて、この数分間のうちに、自分がどんなに大きくのびたかなどといふことは、全く忘れて叫びました。そして余り大いそぎで跳び上つたものですから、着物の裾で陪審席をころがして、並んで居る陪審官を一人残さず、傍聴人の頭の上にひつくり返してしまひました。陪審官達はそこで矢鱈にもがきあつてゐました。その様子はアリスに、一週間前思はず金魚の丸鉢をひつくり返した時の事を思ひ出させました。

「おや、まあ、ごめんなさい。」びつくり仰天してアリスは叫びました。そして出来る丈早く、陪審官たちを拾ひ上げました。何故なら、アリスの頭には金魚の事件が絶えずちらちらしてゐて、直ぐに拾つて陪審席に入れてやらないと、死んでしまふ様な気が、それとなくしたからでした。

「裁判は。」と王様は大層重重しい声でいひました。「陪審官が全部復席するまでは進めない。——全部が——。」と女王はアリスをヂツと睨みながら、強い調子で繰返しました。

 アリスは陪審席を見ました。するとあんまりあわてて、蜥蜴を逆まに突込んでゐたことに気がつきました。蜥蜴は少しも身体を動かすことができないので、みじめな様子で、尻尾をパタパタさせてゐました。アリスは直ぐに又摘み出して、本当の位置に置いてやりました。「大した事ではないのよ。」とアリスは独語をいひました。「逆だつて裁判には差支へないと思ふんだけれども。」

 陪審官たちは、顛覆事件の驚きが収り、石板と石筆が見つかつて、持主の手に入ると、直ちに今の事件を一生懸命に聞きはじめました。ただ蜥蜴のビルだけは、あんまりびつくりしたので、何にもしないで、口をポカンと開けて坐つたまま、法廷の天井ばかり見入つてゐました。

「この件について、何かお前は知つてゐるかい。」と王様はアリスに言ひました。

「何にも知りません。」とアリスは答へました。

「どんなことも知らないのか。」と王様は詰(なじ)りました。

「どんな事も知りません。」とアリスは言ひました。

「それは大変重大なことだ。」と陪審官の方を向いて、王様は言ひました。

 丁度陪審官たちが、この事を聞き初めたときでした。突然白兎が口をだしました。「重要でないと、陛下は仰せられたのだ。無論のこと。」兎はこれを大層慎ましやかな調子で云ひましたが、王様に向つては顔をしかめて合図をしました。

「重要でないとわしは言つたのだ。無論のこと。」と王様はあわてて言ひました。そして低い声で独語に、「重要である——重要でない。——重要でない。——重要である。——。」と丁度どの言葉の調子がいいか、調べて居るやうに続けました。

 陪審官の中には「重要である。」と聞いたものもあり、「重要でない。」と聞いたものもありました。アリスは陪審官たちの石板の上からのぞける位に近くにゐましたので、これがよく見えました。「でも、どつちだつてかまやしないわ。」とアリスは心の中で思ひました。

 この時しばらく忙しさうに、控帳に何か書いてゐた王様は、「静粛に。」とどなりました。それから控帳を読み上げました。「規則第四十二条、一哩(まゐる)以上の高さあるものは、凡て法廷を去ること。」

 誰もかもアリスを見ました。

「わたし一哩の背なんかないわ。」とアリスは言ひました。

「約二哩位はあるよ。」と女王がいひ足しました。

「お前それ位ある。」と王様は言ひました。

「でも、とにかくわたしは行きません。」とアリスは言ひました。「それにそんなの正式の規則ではありません。あなたが、たつた今作りだしたのでせう。」

「これは書物に載つてゐる一番古い規則だよ。」と王様は言ひました。

「それでは第一条でなければならないはずですわ。」とアリスは言ひました。

 王様は蒼い顔になつて、あわてて控帳をとぢてしまひました。「君方の評決はどうだ。」と低いふるへ声で王様は陪審官たちに言ひました。

「陛下、まだ証拠物件があります。」と白兎は大層あわてこんで、とび上りながら言ひました。「この紙はたつた今拾ひ上げられたものです。」

「それには何が書いてある。」と女王がいひました。

「わたくしはまだ開けません。」と白兎は言ひました。「けれどもこれは囚人が——誰かへあてて書いた手紙のやうであります。」

「それはさうに違ひない。」と王様はいひました。「誰あてともしてなければ、普通ぢやないからねえ。」

「誰に宛たものだ。」と陪審官の一人が言ひました。

「全然宛名がないのです。」と白兎は言ひました。「ほんとに外側に何にも書いてないのです。」兎はかう言ひながら手紙を開いて、いひ足しました。「これはつまるところ手紙ではありません。詩です。」

「それはこの囚人の手蹟ですか。」ともう一人の陪審官は言ひました。

「いいえ、さうではないのです。」と白兎は言ひました。「これは実際奇妙なことなんです。」(陪審官はみんな何が何だか分らない様な顔付をしました。)

「囚人は誰かの手ににせたにちがひない。」と王様はいひました。(すると陪審官の顔は又明るくなつてきました。)

「陛下。」とジヤツクは言ひました。「わたしはそれを聞きません。わたしがきいたといふ証拠がありません。しまひに署名がしてありません。」

「お前がそれに署名をしなかつたとすれば、」と王様は言ひました。「益々事態が悪くなるばかりだ。お前は何か悪い事でも、もくろんでゐたにちがひない。それでなければお前は正直な人の様に、お前は署名したであらう。」

 このときみんなが拍手をしました。これは王様がこの日に初めていつた一番旨い言葉でした。

「それがあの男の有罪であるといふ証拠だ。」と女王はいひました。

「これはちつとも証拠にならないでせう。」とアリスは言ひました。「だつてあなた方はそれに何が書いてあるか知らないのでせう。」

「それを読め。」と王様は言ひました。

 白兎は眼鏡をかけて、「陛下どこから始めませうか。」と尋ねました。

「初めから始めよ。」と王様は重重しく言ひました。「そしてしまひまで読んで、そこで止めるんだ。」

 白兎の読んだ詩はかういふのでした。

 

 「お前があの女のところへ行つて、

 わしのことをあの男に話したといふ噂だ。

 あの女はわしを賞めてくれたが、

 わたしに泳ができないといつた。」

 「あの男はみんなに云つた、

 わたしが去つてしまはなかつたと。

 (わたしたちは、それをほんとだと思ふ)

 若しもあの女が事件をせめてきたら

 お前はどうなることだらう。」

 「わたしはあの女に一つやつた、

 みんなは男に二つやつた。

 お前はわたしたちに三つ以上くれた。

 みんな一つのこらずあの男から

 お前のところにもどつてしまつた。

 けれども以前はみんなわしのものだつた。」

 「わしかあの女かがひよつとして

 この事件にまきぞへをくつたら

 あの男はお前を信用して、

 吾吾と同じく

 みんなを自由にしてくれる。」

 「わたしの意見はかうなんだ

 (あの女が発作をおこすまへ)

 お前はあの人と、わしたちと、

 それとの間にゐた厄介者だつたと。」

 「あの女はみんなが一番好きだつた

 といふことをあの男に知らせるな。

 なぜならこれは秘密だ、

 お前とわしとの間のほかには

 誰にも内密だ。」

 

「これは今までに聞いたうちで一番大切な証拠だ。」と王様は手をこすりながら言ひました。「それでは陪審官に——」

 この時アリスは口を出して(アリスはこの二、三分間のうちに大変大きくのびてしまつたので王様の邪魔をする位何とも思はなくなりました。)「若し誰かこの詩の説明が出来たらわたしは二十銭あげるわ。わたしはこの詩の中に微塵ほどの意味もないと思ふわ。」

 陪審官たちは石板に「この子は詩の中に微塵ほどの意味もないと思つて居る。」と書きました。けれども一人もその問題の紙を説明しようとするものはゐませんでした。

「若しもそれに意味がないのなら。」と王様は言ひました。「われわれはそれを探す必要がないのだから世の中の面倒がなくなる。しかしわしには分らない。」そして詩を片膝にひろげ、片目でジツを見てまた言ひつづけました。

「とにかく何かの意味があるやうに思へる。——「わたしには泳げないといつた。」——ええと、お前泳ぎができるかい。」とジヤツクに向つて言ひました。

 ジヤツクは悲しさうに頭をふつて、「わたしはさう見えますか。」と言ひました。(身体全部が厚紙で出来てゐるのですから、ジヤツクには泳ぎなんぞたしかにできるわけがありませんでした。)

「よろしい、それでは。」と王様はいつて独で、ぶつぶつ詩を読み続けました。「「わたしたちはそれをほんとだと思ふ。」——これは無論陪審官だ——。「わたしはあの女に一つやつた。みんなはあの男に二つやつた。」——ふんこれがお饅頭をどう処分したかといふことにちがひない——。」

「でもその後に、「みんな一つ残らずあの男から、お前のところにもどつていつた」と書いてあるわ。」とアリスが言ひました。

「うん、それでそこにあるのさ。」と王さまはテーブルの上のお饅頭を指さしながら得意になつていひました。「これほど、はつきりした事はない——それから、また——「あの女が発作をおこす前」——お前、発作なんかないとわしは思ふが。」と女王に向つていひました。

「あるもんですか!」と女王は大層怒つて、蜥蜴にインキ壺を投げました。(不仕合せなビルは石板に一本の指で、いくら書いても何にも書けないので、書くことを止めてゐました。けれども、今度は頭からぽたぽた伝り落ちて来るインキをつかつて、大急ぎで書き始めました。)

「それぢやフイツト(発作)なんかいふ言葉は、お前にはフイツトしない(当てはまらない)しねえ。」と王様はニコニコしながら、法廷を見まはしていひました。ところが法廷中、誰も咳一つしませんでした。

「これは洒落なんだぞ。」と王様は怒つた声でいひ足しました。するとみんなが笑ひ出しました。「陪審官の評決をききたい。」と王様は言ひました。この言葉は其の日に於てほぼ二十度目位でした。

「いいえ、いいえ。」と女王がいひました。「初めに宣告で——評決はあとです。」

「馬鹿なこと!」とアリスは大きな声でいひました。「宣告を初めにするなんていふ考へは。」「お黙り。」と女王は真赤になつていひました。

「黙りません。」とアリスは言ひました。

「あの女の子を打首にしろ。」と声を張上げて、女王は言ひました。が、誰も動きませんでした。

「誰がお前さんのいふことなんかきくもんか。」とアリスは言ひました。(この時分にはアリスはもう、普段の背になりきつてゐました。)「お前たちはトラムプ・カルタの一組にすぎないぢやないの。」

 これを聞いて、カルタの組は全部空中にまひあがつて、アリスの上に飛びかかつてきました。アリスは半ば驚き、半ば怒りの叫びをあげました。そしてカルタを叩き落さうとしました。するとこの時、ふと目がさめて、見上げると、自分は姉様の膝を枕にして、土手にねてゐるのでした。そのとき姉様は樹から、アリスの顔に落ちてきた樹の葉を、やさしく払ひのけていひました。

「お起きなさい、アリスちやん。」と姉様は言ひました。「ずゐぶん長く寝たのねえ。」

「まあ、わたしずゐぶん奇妙な夢を見ましたわ。」とアリスは姉様に言つて今まで、みなさんが読んできた不思議な冒険談を、思ひだせるだけ姉様におはなししました。そしてアリスが話し終りましたとき、姉様はアリスをキツスしていひました。「ほんとに不思議な夢だわねえ。でも、さあお茶をのみに駈けておいで。もう遅いから。」そこでアリスは、立ち上つて駈けだしました。走りながらも、何と不思議な夢だつたらうと夢中になつて考へてゐました。

—————————————

 けれども姉様は、アリスがいつてしまつてからも、まだあとに残つて、片手で頭を支へて、沈んでいくお日様を見ながら、小さなアリスとアリスの冒険談とを考へて居るうちに、姉様もつひに同様な夢を見ました。その夢といふのはかうでした。

 初め姉様は、小さいアリスの事を夢に見ました。それは昔あつたやうにアリスはちいちやい両手を姉様の膝の上で組んで、明るい熱心な眼で姉様の目を見上げてゐました。——姉様はその声そつくりを聞きましたし、それから、その目に入りたがる後れ毛を払ふために、頭を妙にうしろへ、そらせる様子まで見ることができました。——そして姉様が耳を傾けて話を聴いて居ると、あるひは聴いてゐる様な気がしてゐると、そこいら中一杯にアリスの夢の珍らしい動物がでてきました。

 背の高い草は白兎が走つて通り過ぎたとき、足許でざわつきました。——おぢおぢした鼠は、近くにある池の中を泳いでゐました。——三月兎と友達とが終りのない茶をのんで、茶呑茶碗をガチヤガチヤいはせて居るのが聞えてきました。そして女王の金切声が不仕合なお客たちに、死刑を宣告して居るのも聞えました。——又豚の子が公爵夫人の膝の上で、くしやみをしてゐると、そのぐるりで、平皿や深皿が壊れる音が聞えました。——又グリフオンのキーキー声、蜥蜴の石筆のきいきい軋む音、おさへられた豚鼠の、のどのつまつた声は、哀れなまがひ海亀の微かな啜り泣きと一緒になつて、宙に充ちひびいてゐました。

 かういふ風に、姉様は目を閉ぢて、坐り込んで不思議の国のことを、半ば信じて考へてゐました。けれども一度目をあけると、凡てが面白味のない此の世のものに、変つてしまふといふことは、知つてゐました。——草は風になびいて、ザクザクいふだけでせう、池は葦が風にそよぐにつれて、小さい波をたてるだけでせう——ガチヤガチヤと音のする茶呑茶碗は、チリンチリンといふ羊の首の鈴に、かはつてしまふでせう、そして女王の金切声は羊飼の少年の声になるでせう——そして赤ん坊の嚏(くしやみ)も、グリフオンの泣き声も、其他の奇妙な声もみんな忙がしい畑で聞える、がやがやいふ物音になるでせう。(といふことを姉様は知つてゐました。)——さうしてゐるうちは、遠くでうなる牛の声がまがひ海亀の重くるしい、啜り泣きの代りに耳に入つて来ることでせう。

 最後に姉様は、この小さい同じ妹が、やがては大人になつていくこと、それからアリスが年をとる間に、子供時代の無邪気な可愛らしい心を、何んな風にもち続けるだらうといふ事や、アリスが自分の子供たちをぐるりに集めて、いろいろな珍らしいお話を聞かせてやつて子供たちの目を輝かせたり、見はらせたりする様子や、又アリスが、自分の子供時代の生活やら、幸福な夏の日を思ひだしながら、自分の子供の単純な悲しみに同情し、その単純な喜びに楽しみを感じたりする時のことなど、かうしたいろいろな有様を心の内に描いて見るのでした。

【東渓文庫】芥川・菊池共訳「不思議の国のアリス」(中)

カロル著、芥川龍之介菊池寛共訳「アリス物語」

 

 

五 芋虫の忠告

 芋虫とアリスは、暫くの間黙り込んで見合つてゐました。しかしとうとう芋虫が口から水煙管をとつて、だるいねむさうな声で、アリスに話しかけました。

「お前さんは誰ですか。」と芋虫はまづ訊きました。

 けれどもこれは二人の会話(はなし)を、すらすら進めていくやうな、問ではありませんでした。アリスは少し恥づかしさうに答へました。「わたし――わたし今ではよく分らないのです。——といつても、今朝起きたときは、わたしが誰だつたかは、知つて居たのですが、それから何度も、いろいろ変つたに違ひないと思ふんです。」

「それはどういふことなのだ。」と芋虫はきびしく言ひました。「説明してみなさい。」

「わたし、説明なんて出来ないんです。」とアリスが言ひました。「だつてわたしはわたしでないのですから。ねえ。」

「さつぱり分らん。」と芋虫が言ひました。

「残念ながら、わたしにはそれをもつとはつきり、言ひ表はす事が出来ませんの。」とアリスは大層丁寧に答へました。「なぜなら、第一わたしには自分ながら、それが分つて居りませんの、そして一日の中に、いろいろと大きさが変るなんて、随分頭をまごつかせる事ですもの。」

「そんなことはない。」と芋虫は言ひました。

「ええ、そりやあなたは今までそんな事を、さういふものだとお感じになつた事は、ないかも知れませんけれど。」とアリスは言ひました。「でも、あなたが蛹になつたり——いつかはさうなるんでせう——それから蝶蝶にならなければならなくなつたら、少しは変にお思ひでせう、思はなくつて。」

「いいや、ちつとも。」と芋虫が言ひました。

「それぢや、あなたの感じがちがふのよ。」とアリスが言ひました。「わたしの知つて居る限りでは、それがとても変に感じられますの、私にとつて。」

「お前に?」と芋虫は馬鹿にしたやうに言ひました。「ぢやあお前は誰なのだ。」

 そこで会話が、又一番初めに戻つてしまひました。アリスは芋虫が、こんな風に大層短い言葉しか言はないので、ぢれつたくなりました。それで背のびをして、大層真面目になつて言ひました。「わたしはね、先づあなたが自分は誰であるか、名乗るべきだと思ひますわ。」

「何故?」と芋虫は言ひました。

 これでまた面倒な問題になりました。アリスはいい理由(わけ)を考へつきませんし、一方芋虫はひどく不愉快らしい様子でした。そこでアリスは向ふの方に歩いて行きました。

「戻つてこい。」と芋虫はアリスの後から呼びかけました。「わたしは少し大事な話があるのだ。」

 この言葉が幾分頼もしく聞えましたので、アリスは振り返つて、又戻つて来ました。

「おこるもんぢやないよ。」と芋虫が言ひました。

「それだけなの。」とアリスは、できるだけ怒りをのみこんでいひました。

「いいや。」と芋虫が言ひました。

 アリスは他に用がないものですから、待つてやつてもいいと思ひました。多分、何かいいことを聞かしてくれるのだらう、と思つたものですから。しばらくの間、芋虫は何にも言はないで、水煙管をプカプカふかしてゐました。けれども、とうとう芋虫は腕組をほどき、水煙管を、口から又とつて言ひました。「それでは、お前変つてると思ふのかい。」

「どうもさうらしいのですわ。」とアリスが言ひました。「わたし以前(まへ)のやうに、物を覚えられませんし——そして十分間と同じ大きさで居ないのです。」

「覚えられないつて、一体何を?」と芋虫が言ひました。

「ええ、わたし『ちひちやい蜜蜂どうして居る』を歌つて見ようと思つても、まるでちがつてしまふの。」とアリスは大層かなしさうな声で言ひました。

「『ウヰリアム父さん、年をとつた』をやつてごらん。」と芋虫が言ひました。

 アリスは腕を組んで始めました。

 

 「若い息子が云ふことにや

 『ウヰリアム父さん、年とつたな、

 お前の髪は真白だ。

 だのに始終逆立ちなぞして、——

 大丈夫なのかい、そんな年して。』

 ウヰリアム父さん答へるにや、

 『若い時にはその事を

 脳にわるいと案じたさ。

 だが今ぢや脳味噌もなし、

 それでわたしは何度もやるのよ。』

 若い息子が云ふことにや、

 『何しろ父さん年とつた。

 それによくもぶくぶく肥つたもんだ。

 だのに戸口ででんぐり返つたり、

 ありや一体何のつもりさ。』

 白髪頭を振りながら、

 ウヰリアム父さん云ふことにや、

 『若い時にやあ気をつけて

 せいぜいからだをしなやかにしてたよ。

 こんな膏薬まで使つてね——

 ——一箱五十銭のこの膏薬だ——。

 お前に一組買つてやらうか。』

 若い息子が云ふことにや、

 『お前は兎に角年よりだ。

 お前の顎はもう弱い。

 脂身より硬いものは向かぬ筈。

 だのに鵞鳥を骨ぐるみ、

 嘴までも食べちまつた。

 あれは何うして出来たのだい。』

 父さん息子に云ふことにや、

 『わしが若いときや法律好きで、

 何かと云へば女房と議論さ。

 お蔭で顎は千万人力。

 こんな年までこの通り。』

 若い息子の云ふことにや、

 『お前は年とつた。

 昔通りに目が確かだとは

 誰が本当と信じよう。

 だのにお前、

 鼻つ先で鰻を秤つたが

 何うしてあんなうまい事がやれたんだ。』

 父さん息子に云ふことにや、

 『わしは三度も返事した。

 もう沢山だ。

 こんな譫言に相槌うつて、

 大事な一日つぶしてなろか。

 さあさ出て行け、

 行かぬと階(はしご)から蹴落とすぞ』」

 

「間違つてるね。」と芋虫が言ひました。

「そりやみんなは合つてゐないやうねえ。」とアリスはビクビクして言ひました。「文句が少し変つたのだわ。」

「初めから終ひまで、違つて居るよ。」と芋虫はきつぱり言ひました。それからしばらく二人は黙り込んでしまひました。

 すると、芋虫が話しだしました。

「お前はどの位の大きさになりたいのだ。」

「まあ、わたしどの位の大きさつて、きまつてゐないわ。」とアリスはあわてて答へました。「ただ誰だつて、そんなに度度大きさが変るのは、嫌でせう。ねえ。」

「わしには分からんよ。」と芋虫は言ひました。アリスは何も言ひませんでした。今までこんなに、反対せられたことはありませんので、アリスは癪で堪りませんでした。

「今は満足して居るのかい?」と芋虫は言ひました。

「さうねえ、あなたさへ御迷惑でなかつたら、わたしもう少し大きくなりたいの。」とアリスが言ひました。「三寸なんてほんとに情ない背ですわ。」

「いや、それが大層いい背格好だよ。」と芋虫は背のびをしながら、怒つて言ひました。(芋虫も丁度三寸の背でしたから。)

「でも、わたし、この背には馴れてゐないんですの。」と可哀想なアリスは、哀れつぽい声で言ひました。そして心の中で、「この人がこんなに怒りつぽくなければいいんだが。」と思ひました。

「今にお前馴れてくるよ。」と芋虫は言つて、口に水煙管をくはへて、またふかし始めました。

 今度はアリスは芋虫が、又話しかけるまでヂツと待つて居ました。一二分たつたとき、芋虫は口から水煙管をとつて、一二度欠伸をして、身体を振ひました。それから蕈から下りて、草の中へ匍つていきました。行きながら、ただ芋虫は「一つの側は、お前の背を高くし、他の側は、お前の背を短くする。」と言ひました。

「何の一つの側なんだらう。何の他の側なんだらう。」とアリスは考へました。「蕈のだよ。」と芋虫は丁度、アリスが大声で尋ねでもしたかのやうに言ひました。そして直ぐ芋虫の姿は、見えなくなりました。

 アリスはしばらくの間、考へ込んで、ヂツと蕈を見て居ました。そして蕈の両側とは、どこなのか、知らうとしました。。けれども蕈はまん丸なものですから、これは大層むづかしい問題だと、いふことがわかりました。けれども、とうとうアリスは両腕をグルリと廻せるだけまはして、蕈の端を両手で、チヨツトかきとりました。

「さあどちらがどちらなのだらう。」とアリスは独語をいひました。そしてその結果をためして見るつもりで、右側を一寸かじつて見ました。と、いきなり顎の下をひどく打たれたやうな気がしました。それは顎が足にぶつかつたからでした。

 アリスは此の急な変り方に、すつかり驚いてしまひましたが、身体がドンドン縮まつていくものですから、少しもぐづぐづして居られませんでした。それでアリスは、早速別の端をかじることにとりかかりました。顎が足にしつかりとくつついて居るものですから、口をあく余裕なんか、ほとんどありません。しかし、とうとう何うにかあけて、やつとのことで、蕈の右の端を一口のみ込みました。

 

「ああ頭がやつと楽になつた。」とアリスは嬉しさうに言ひましたが、忽ちその声は、驚きの悲鳴に変つてしまひました。それもその筈です。アリスは自分の肩が、どこにあるのだか見えなくなつたのでした。アリスが下を向いて見ると、見えるものは、ばかに長い頸だけで、それはアリスのずつとずつと下に拡つてゐる、青い葉の間から、生えて居る茎のやうに見えてゐるのでした。

「一体あの青いものは何かしら。」とアリスは言ひました。「そしてわたし、肩は何処にいつたんでせう。まあ、わたしの可哀想な両手さん、わたし、どうしてお前を見られなくなつたんでせう。」とアリスは言ひながら、手を動かして見ましたが、ただ、遥か下の緑色の葉の一部が、微かに揺れたきりでした。

 何しろ、手の方を頭に届かせるなどといふ事は、とても出来さうもありませんでしたので、アリスは頭の方を手に届かせてみようとやつてみました。すると嬉しいことに、アリスの首は蛇のやうに、どつちにでもうまく曲る事が分りました。アリスはこれで格好よくまげくねらせ、そして青い葉の間に、その首を突込みかけました。——気づいて見ると、それは今まで歩いて居た森の樹の梢でした。——が丁度そのとき鋭いヒユーといふ音が、アリスの顔をかすめたので、あわてて後退りしました。大きな鳩がアリスの顔にぶつかつて、翼でアリスをひどく打ちました。

「やあ蛇!」と鳩は金切声で叫びました。

「わたし、蛇なんかぢやないわ。」とアリスは怒つて言ひました。「早くお退き!」

「蛇だつたら蛇だよ。」と鳩は繰返して言ひました。けれども、その声は前よりやさしい調子でした。それから、泣声で附け加へるのに、「いろいろとやつて見たが、どれもあいつには合はないやうだ。」

「お前さん一体何を言つて居るのだか、わたしにやちつとも分らない。」とアリスは言ひました。

「わたしは木の根にもやつて見たし、土手にも、垣根にもやつて見た。」と鳩はアリスに構はず言ひました。「けれどもあの蛇奴、あいつばかりはどうしても気を和げることができない。」

 アリスはますます分らなくなつて来ました。けれどもアリスは、鳩が言ひ終るまで、何を言つても無駄だと考へました。

「蛇の奴め、卵を孵すなんて、何でもないと思つてやがるらしい。」と鳩が言ひました。「少しは夜昼蛇の見張をしてゐなきやならん。まあ、わしは此の三週間と云ふものは、一睡もしないんだよ。」

「御困りのやうで気の毒ですわ。」とアリスは鳩の云ふことが、分りかけましたので言ひました。

「それでやつと今、森の一番高い木に、巣をかけたところだのに。」と鳩は言ひ続けて居る内に、泣き声になつてきました。「こんどこそは蛇にねらはれることがないと思つて居たのに、今度は空から、ニヨロニヨロ下るぢやないか。いまいましい、この蛇め。」

「だつてわたし、蛇でないと云ふのに。」とアリスは言ひました。「わたしは——わたしは、あの——。」

「ぢやあ、お前は何なのだ。」と鳩が言ひました。

「わしはお前が、何かたくらんでゐることを知つて居るよ。」

「わたしは——わたしは小さい娘ですわ。」とアリスは一日の中に、いろいろな形に変つたことを、思ひ出して一寸疑はしさうに言ひました。

「旨く言つてやがる。」と鳩はひどく馬鹿にして言ひました。「わしは今までに沢山の娘を見て居るが、こんな首をして居る女の子なんか、見たことがないよ。ちがふよ。ちがふよ。お前は蛇なんだ。さうぢやないと、言つて見たつて無駄だよ。今度は多分卵なんかの味は知りませんと云ふんだらう。」

「わたし卵の味は、知つて居るわ。」とアリスは大層正直な子供でしたから、言ひました。「だつて小さい娘だつて、蛇と同じ位に卵を食べてよ、さうでせう。」

「わたしには信じられないことだ。」と鳩が言ひました。「けれども、若しさうだとすると、それぢやまあ娘も蛇の類だなあ。わしはさう云ふより外はない。」

 鳩の言つたこの事は、アリスにとつては、全く新しい考へでしたから、アリスは一二分間黙り込んでしまひました。それをいい機会に鳩は話しつづけました。「おまへは卵を探して居るんだね。それにちがひあるまい。かうなりやお前が、小さい娘であらうが、蛇であらうが、わしにはどうでもよいのだ。」

「わたしにはそれがちつとも、何うでもよくない事なの。」とアリスはあわてていひました。「けれどわたし、卵なんか探してゐるんぢやないの。もし探したつて、お前の卵なんか欲しくはないわ。わたし生の鳩の卵なんか好きぢやないの。」

「ふん、それぢや、去(い)つてくれ。」と鳩は巣の中に入りながら、気むづかしい声で言ひました。アリスは出来るだけ、こごんで樹の下を、歩いていきました。何故ならアリスの首が枝にからみつくからでした。それでその度毎に時時止まつて、ほどいていかねばなりませんでした。しばらく経つて、アリスは両手に一本の蕈を、持つて居ることに気がつきましたから、大変気をつけて、初めに一つの側をかじり、それから別の側をかじつて、大きくなつたり、小さくなつたりして居るうちに、とうとうアリスはやつとあたり前の背になることができました。

 随分と永い間ほんとの大きさにならなかつたのですから、始めは全く奇妙でした。が、少し経つうちに、慣れて来て、いつもの様に独語をいひ始めました。「さあ、これでわたしのもくろみが、半分達しられたのだわ。あんなにいろいろ大きさが変つちや、やりきれないわ。一分間のうちに、どうなつていくのだかわからないのだもの。けれどもわたしはこれであたりまへの大きさになつたのだ。次にすることは、あの綺麗なお庭に入ることだわ。一体それには、どうすればいいのか知ら。」かう言ひましたとき、アリスは突然、広広とした場所に出ました。そこには四尺ばかりの小さい家が建つて居りました。「あすこに誰が住んで居るにしても。」とアリスは考へはじめました。「わたしがこの大きさのままで会ひに行つちやあ、悪いかもしれないわ。内の人達をすつかり驚かせてしまふわ。」さう言つてアリスは又蕈の右側を、少しかじり始めました。それで九寸ばかりの背になつたとき、はじめてその家に近寄つて行きました。

 

六 豚と胡椒

 一、二分の間、アリスは佇んで、その家を眺めながら、これから何をしようかと、思案して居ました。と、突然(だしぬけ)に仕着を着た取次の下男が、森から走つて出てきました。(アリスは此の男が仕着を、着て居るものですから、取次の下男だと思つたのでした。それでなくて顔だけで判断すると、魚だと言つたことでせう。)この男は指関節(ゆびふし)で戸をトントンと叩きました。するとやつぱり仕着せを着た、もう一人の下男が戸を開けて出て来ました。丸顔で蛙のやうに大きな目をした男でした。そしてこの下男達は、二人とも頭一面に縮れ生えた髪に、髪粉を付けて居りました。その人達の様子や何かすべてが、アリスには大変物珍しく、思はれてきましたので、もつといろいろ知り度くて、アリスは森から少し匍ひだして、耳をかたむけました。

 魚の下男は、脇にかかへて居た自分ほどの大きさの封筒をとりだして、もう一人の下男に渡しながら、おごそかな声で言ひました。「公爵夫人へ、女王様より、球打遊びの御招待」といひました。蛙の下男は、同じやうにおごそかな声で、ただ言葉の順序を一寸変へただけで、言ひました。「女王様より、公爵夫人へ球打遊びの御招待。」

 それから二人は大層腰を低くして御辞儀をしましたので、二人の髪の毛はもつれあつてしまひました。

 アリスは此の様子があまりをかしいので、吹き出したくなりましたものですから、聞えてはいけないと思つて森の中を走つて帰りました。少したつてアリスが覗いて見ると、魚の下男はゐなくなつてもう一人の下男が、玄関の側の地面に腰を下し、馬鹿げた顔をして、空を見つめて居ました。

 アリスはビクビクしながら、戸口まで行つて戸を叩きました。

「戸を叩く必要なんかないよ」とその下男が云ひました。「それには二つの理由がある。第一にわたしは、お前さんと同じ戸口の外に居る。第二に家の内側では大騒ぎをして居るから、誰もお前が戸を叩いたつて聞えやしないよ。」実際、家の内側では大層な物音がして居りました——たえず唸るやうな、くさみをするやうな音がして、時時皿か土瓶でも粉粉にこはれるやうに、ガラガラといふ物音が響いてゐました。

「それでは」とアリスが言ひました。「どうしたら家へ入れますでせうか。」

 下男はアリスの言ふことなんかには構はずに言ひつづけました。「二人の間に戸があるとすれば、戸を叩くのに何か考へがあるにちがひないさ。たとへばお前さんが戸の内側に居て、戸を叩くなら、わしはお前さんを外にだしてやることができるといふものだ。」かう云ひながらも始終下男は空を見て居りました。アリスは随分失礼なことだと思ひました。「かれども多分上の方を見ないでは居られないのだわ。」とアリスは独語をいひました。

「目が頭のてつぺんのところについて居るんだもの。でもとにかく尋ねたんだから、返事をしてくれてもよさそう(ママ)なものだわ。ねえ、どうしたらうちに入れるんでせう。」とアリスは大きな声で繰返して言ひました。

「わしは明日迄ここに坐つて居るよ——。」と下男は言ひました。

 この時家の戸があき、大きなお皿が下男の頭へ向つて、真直にとんできて、鼻を掠めて、その下男の後にある樹にあたつて、粉粉に壊れてしまひました。

「——それともその明くる日まで居るかも知れない。」と下男は何事もなかつたやうに同じ調子で言ひました。

「どうしたら入れるのでせうか。」とアリスは又大きな声で言ひました。

「お前はとにかく内に入りたいのだな。」と下男は言ひました。「それが第一の問題なんだらう。」勿論それに違ひありませんでした。けれどもアリスはさう言はれるのが嫌(きらひ)でした。「動物などのいふことはほんとに、いやになつてしまふわ。気ちがひにでもなりさうだわ。」とつぶやきました。

 下男はこれを好い機会だと思つて、調子を変へてまた言ひだしました。

「わしはここに、いつまでも、いつまでもズツと続けて坐つて居るよ」と言ひました。

「ではわたし、どうすればいいの。」とアリスが言ひました。

「お前の好きなことをすればいいよ。」と下男は言つて、口笛を吹き始めました。

「まあ、こんな人に何を言つても無駄だわ。」とアリスはあきらめたやうに言ひました。「この人は全くお馬鹿さんなのだわ。」かう言つてアリスは戸を開けて内に入つていきました。

 戸を開けると突きあたりは大きな台所でした。そして隅から隅まで煙で一杯になつてゐました。公爵夫人は台所の真中で赤ん坊に乳をやりながら、三本足の腰掛に坐つて居ました。料理番は火の前で身体をまげて、スープが一杯入つて居るらしい、大鍋をかきまはしてゐました。

「このスープにはキツト胡椒が入りすぎて居るのだわ。」とアリスはくしやみをしながら、できる丈け大きな声で言ひました。

 まつたくのところ、胡椒がひどくその空中にとんでゐるのでした。公爵夫人ですら時時くしやみをしました。そして赤ん坊は、ひつきりなしにくしやみをしたり、わあわあ泣いたりしてゐました。この台所の内でくしやみをしなかつた二人のものは、料理番と、竈のそばにすわつて耳から耳まで大きな口をして、ニヤニヤ笑つて居る大猫とだけでした。

「あの失礼ですが、」とアリスは自分から先づ話しだすのは、礼儀作法にかなつて居るかどうだか分らないものですから、少しおどおどしていひました。「何故あなたの猫はあんなにニヤニヤして居るのですか。」

「あれはチエシヤー猫なのだ。」と公爵夫人は言ひました。(チエシヤー猫はいつも知つて居るやうな顔をして居るのです。)「それがその理由なのさ。豚児(ぶたつこ)や。」

 アリスはこのおしまひの言葉が、あまり乱暴なので驚いてとび上りました。けれどもアリスは直ちに、それが赤ん坊に言ひかけたので、自分に向つて言つたのではないといふことが分りました。それで元気をだして又云ひ始めました。

「チエシヤー猫はいつもニコニコ笑つて居るものだ、と言ふことは知りませんでした。ほんとのところ、わたし猫が笑へるものだとは知りませんでした。」

「猫はみんな笑へるんだよ。」と公爵夫人は言ひました。「そして大抵の猫は知つてゐるよ。」

「わたし笑ふ猫を知りませんでしたの。」とアリスは夫人が話相手になつてくれたのが、嬉しくて大層叮嚀に言ひました。

「お前は何にも知つて居ないねえ。それはほんたうだよ。」と公爵夫人は言ひました。

 アリスは、どうもこの言葉つきが気に入りませんでした。そして何か外に新しい会話の題をひきだしたいと思ひました。アリスが何かの題にきめようと考へてゐますと、料理番の女はスープの大鍋を竈から下しました。そして直ちに自分の手の届くものを何でもとつて、公爵夫人と赤ん坊に向つて投げかけだしました。——初めに火箸を、それから小皿や大皿や平皿を雨のやうに投げつけました。公爵夫人は当つても平気ですましてゐました。そして赤ん坊は前からズツと泣き通しで居ましたから、何かあたつて痛いから泣くのか、少しも分りませんでした。

「まあ、どうか気をつけてして下さい。」とアリスは怖がつてあちらこちらを跳び廻りながら叫びました。「まあ、あの子の大切な鼻がとれるわ。」外れて大きな皿が赤ん坊の鼻をかすめて、もうすこしのことで、もいでしまふところでした。

「誰でも自分の仕事に気をつけてしさへすれば、」としやがれた声で、公爵夫人が言ひました。「世界はズツと早く廻つていくだらうよ。」

「それはためにならないでせう。」とアリスは自分の学問を示すのに、いい時だと思つて、大層喜んでいひました。「まあさうなると夜と昼とが、どうなることか考へてごらんなさい。御承知のやうに地球はおのが軸の上を廻るのに二十四時間かかるのですよ——。」

「おの(斧)だつて。」と公爵夫人が言ひました。「首をちよんぎつておしまひ。」

 アリスは料理番がほんとに、言はれた通りにするかどうか、心配さうにそつちをちらと見ました。けれども料理番は忙がしく、スープをかきまはしながら、何にも耳に入らないやうでした。それでアリスは又言ひつづけました。「二十四時間だと思ひますけれど、それとも十二時間だつたかしら、わたし——。」

「まあ、うるさいね。」と公爵夫人は言ひました。「わたし数字なんか嫌ひだよ。」かういつて、夫人は自分の赤ん坊に乳をやりはじめました。さうしながら子守唄のやうなものを唄つて、唄の終ひに赤ん坊をひどくゆりました。

男の子にはガミガミ言つてやれ、

  くしやみをしたら殴(ぶ)つてやれ。

人困らせにやるんだもの、

  せつつく事を知つてゐて、

合唱(これには赤ん坊も料理番も一緒でした)

ワウ、ワウ、ワウ、

 公爵夫人は次の歌の文句を唄ひながら、赤ん坊を荒荒しく高く上げたり落したりしました。

わたしの子供にはガミガミ言ひまする、

  くしやみをすれば殴ります。

気のむくだけ胡椒をば、

  充分嗅ぐことができるんだもの。

合唱 ワウ、ワウ、ワウ、

「おい、お前よければ少しお守をしておくれ。」と公爵夫人はアリスに言ひながら、赤ん坊を殴りつけました。「わたしはこれから出かけて、女王様との球打遊びの支度をしなければならないのだ。」と言つて室から急いで出ていきました。料理番はフライ鍋を夫人のうしろからぶつつけましたが、それはあたりませんでした。

 アリスは、やつとのことで赤ん坊をうけとりました。赤ん坊は奇妙な形をして居て、手足を八方にのばしました。「まるでひとでのやうだわ。」とアリスは考へました。アリスが抱きとりました時、赤ん坊は蒸気機関のやうに荒い鼻息をしてゐました。そして身体を二重(ふらへ)に折つてみたり、真直にのばしてみたりするので、初め一寸の間は、全くそれを抱いて居ることがアリスには精一杯のことでした。

 間もなく、アリスは赤ん坊をお守するよい方法を考へつきました。(それは赤ん坊を撚(よ)つて結び目のやうなものにして、それからほどけないやうに右耳と左足をしつかり抑へておくことでした。)かうやつてアリスは、赤ん坊を外に抱いてでました。「わたしが抱いてでなかつたら、この赤ん坊なんか一日か、二日のうちに殺されてしまふわ。それをすてて行くのは人殺をするやうなものだわ、」とアリスは考へました。アリスはこの終ひの言葉を大きな声で言ひました。すると赤ん坊は、返事に豚のやうにブウブウ言ひました。(このときには、くしやみは止めてゐました。)「ブウブウお言ひでない。」とアリスは言ひました。「そんなのチツトもいい話しぶりぢやないわ。」

 赤ん坊はまたブウブウ言ひました。アリスは赤ん坊が、どうかしたのではないかと思つて、大層心配さうに顔を見て居ました。たしかにそれは大変上を向いた鼻でした。鼻と云ふよりもむしろ嘴のやうでした。又その目は赤ん坊にしてはずゐぶん小さいものでした。それでアリスは全く赤ん坊の顔が嫌になつてしまひました。「でも此の子はすすり泣をしてゐたのかもしれないわ。」とアリスは考へて、涙がでてゐやしないかと、又赤ん坊の眼を見ました。

 涙なんか一つもありませんでした。「ねえ、坊やが豚にでもなるのなら、わたしはかまつてあげないわよ。いいかい。」とアリスは真面目くさつて言ひました。可哀さうな赤ん坊は、又しくしく泣きました。(又はブウブウいひました。これはどちらとも云ふことができませんでした。)それから二人はしばらくの間黙つて歩いていきました。

 アリスはそのときかう考へ始めました。「まあ、わたしうちに帰つたらこの子をどうしませう。」すると赤ん坊が又ひどく、ブウブウ泣き始めましたから、アリスは少少驚いて赤ん坊の顔を見ました。こん度は全く間違ひなし、それは豚にちがひありませんでした。それでアリスはこんなものを抱いて、この先きあるいていくのは、全く馬鹿らしいと思ひました。で、アリスはこの子を下におろしてやりました。するとヒヨコヒヨコと、森の中へ歩いていつたので、安心をしました。「あれが大きくなつたら、」とアリスは独語をいひだしました。「ずゐぶんみつともない子になるでせう。でも豚にすればきれいな方だわ。」さう言つて、アリスは自分の知つて居るうちで豚にしたら、よささうな子供のことを考へました。それからかう独語をいひだしました。「人の子と豚にかへる、ほんとに方法が分つて居るといいのだけれども——。」するとそのとき驚いた事に二、三尺離れた樹の枝にチエシヤー猫が坐つて居るのが見えました。

 猫はアリスの顔を見ても、ニヤニヤしてばかりゐました。素直な猫だとアリスは思ひました。けれども大層長い爪と、大きな歯を沢山もつて居るので、アリスはこりや丁寧にあしらはないと、いけないと思ひました。

「チエシヤーのニヤンちやん。」アリスはかう呼びかけて、猫が嫌ひはしないかと、少しおぢおぢしました。けれども猫は前より大きな口をあけて、ニヤニヤして居るばかりでした。まあ気に入つて居るらしいわ。」とアリスは考へて、言ひ続けました。「済みませんが、ここから行くにはどの道をいけばよろしいんでせう。」

「それは、お前さんの行きたいと思つて居るところできまるよ。」と猫はいひました。

「わたしどこでもかまはないのです。」とアリスは言ひました。

「それぢやどつちを行つても構はないさ。」と猫が言ひました。

「——どこかへ行けさへすれば。」とアリスは弁解(いひわけ)らしく言ひ加へました。

「まあ、お前ながいこと歩いて行きさへすれば、どこかに行けるよ。」と猫は言ひました。

 アリスはこの言葉が、もつともだと思ひましたので、今度は別の問をだしました。「この辺には、どんな人が住んで居るのでせうか。」

「あの方角には、」と猫は、右の前足をぐるぐる廻して言ひました。「お帽子屋(帽子屋と言つても帽子を売つたり作つたりする人のことではありません。アダ名の帽子屋です)が住んで居る。それからあの方角には、」と別の前足を動かして言ひました。「三月兎が住んで居る。どつちでも、気のむいた方へ行つてごらん。二人とも気違ひだよ。」

「けれどわたし、気違ひの人達のところなんかへ行きたくないわ。」とアリスは言ひました。

「だが、さうはいかないよ。ここではみんなが気違ひなんだ。わたしも気違ひだし、お前も気違ひなのだ。」と猫は言ひました。

「わたしが気違ひだといふことが、どうして分つて。」とアリスは言ひました。

「お前は気違ひに相違ないよ。」と猫が言ひました。

「それでなければ、こんなところへ来やしないよ。」

 アリスはそんなことで、気違ひだといふことにならないと思ひましたが、尚続けて言ひました。「それではお前が気違ひだといふことが、どうして分るの。」

「まづ第一に、」と猫は言ひました。「犬は気違ひではない。お前それを認めるかい。」

「さう思ふわ。」とアリスが言ひました。

「よろしい、それでは。」と猫は続けて言ひました。

「犬がおこると唸つて、嬉しいと尻尾をふることは、お前さん御承知だらう。ところでわたしは、嬉しいと唸るし、おこると尻尾をふるんだ。それだからわたしは気違ひなのだよ。」

「わたしは、そのことを唸るといはないで、ゴロゴロいふと言ひますわ。」とアリスが言ひました。

「どうとでもお言ひなさい。」と猫は言ひました。「お前さんは今日女王様と球打遊びをするのかい。」

「わたし球打が大好きなんだけれども、まだ招待をうけてゐないわ。」とアリスは言ひました。

「あそこでなら私に会へるよ。」さう言つたかと思ふと、猫は姿を消してしまひました。

 アリスはこれには、そんなに驚きませんでした。といふのも色色な珍らしい出来事には、もう馴れて居たからでした。それからアリスがまだやつぱり猫の居たところを見て居ますと、突然(だしぬけ)に又猫が姿をあらはしました。

「ついでのことだが、赤ん坊はどうなつたい。」と猫は言ひました。「私や訊くのを忘れさうだつたよ。」

「あの子は豚になつたよ。」とアリスは、猫がまるで、あたりまへに戻つて来たかのやうに、静かに答へました。

「うん、さうだらうと、わたしも思つて居た。」と猫は言つて、又姿を消してしまひました。

 アリスは猫が、また出てくるのかと思つて待つて居ましたが、もう出て来ませんでした。それからアリスは、三月兎の住んで居ると云ふ方角へ向つて歩いていきました。「わたし帽子屋には前にあつたことがあるわ。」とアリスは独語をいひました。「三月兎はきつと、とてもとても素敵に面白いと思ふわ。それに今は五月なんだから、さう気違ひじみてもゐないと思ふわ。——すくなくとも三月ほど気が変ぢやないでせう。」アリスはかう言つて上を見ました。すると又猫が樹の枝の上に坐つて居りました。

「お前はピツグ(豚)といつたのかい、フイツグ(無花果)といつたのかい。」と猫が言ひました。

「豚と言つたのだわ。」とアリスは答へました。

「そしてわたしお前がそんなに突然に現はれたり、消えたりなんかしないでくれればいいと思ふわ。わたしほんとに目がまはりさうよ。」

「よろしい。」と猫は言ひました。今度はそろりそろりとまづ尻尾の先から消えて、しまひにはニヤニヤ笑ひがのこりました。それはからだの外の部分が消えてしまつても、あとまで残つてゐました。

「まあ、わたし今までにニヤニヤ笑ひをしない猫は、幾度も見てゐるけれど、猫がゐなくてニヤニヤ笑ひだけなんて、初めて見たわ。これが生れて初めて見たふしぎなことだわ。」とアリスは言ひました。

 アリスがさう長くは歩かないうちに三月兎の家が見えてきました。アリスはこれがほんとの兎の家だと思ひました。なぜなら煙突は兎の耳のやうな形をしてゐましたし、屋根は兎の毛皮でふいてありましたからです。随分大きな家でしたから、アリスは蕈の左側をかじつて二尺位の背になつてからではないと、近づく気になれませんでした。その時ですらアリスはビクビクしながら家の方へ歩いていき、こんな独語をいひました。「何だかやつぱり兎もひどい気違ひかもしれないわ。わたし兎のかはりに帽子屋に会ひに行けばよかつたらしいわ。」

 

七 気違ひの茶話会

 家の前の樹の下に、一つのテーブルが置いてありました。そして三月兎とお帽子屋とがそれに向つて、お茶をのんで居りました。山鼠が二人の間に坐つたまま、グウグウ寝て居りました。すると前の二人は山鼠をクツシヨンにして肘をその上にのせ、その頭の上で話をして居ました。「山鼠は随分気持ちがわるいでせうねえ。」とアリスは考へました。「でもまあ、よくねて居るから何ともないだらうけれど。」

 テーブルは大きなのでしたが、三人はその隅つこの方にかたまつて坐つて居ました。アリスがやつて来たのを見ると、二人が、「席がない、席がない。」とどなりました。

「あいたところは沢山あるぢやないの。」とアリスは怒つてさう言つて、直ぐに、テーブルの隅にあつた、大きな安楽椅子に腰を下しました。

「葡萄酒をお上り。」と三月兎はすすめるやうにいひました。

 アリスはテーブルを見まはしましたが、お茶の外には葡萄酒なんかありませんでした。「葡萄酒なんか見あたらないわ。」とアリスは言ひました。

「少しもないよ。」と三月兎が言ひました。

「それでは、ないものをすすめるなんて失礼ぢやありませんか。」とアリスは怒つて言ひました。

「正体をうけないで坐るのは失礼ぢやないか。」と三月兎は言ひました。

「わたし、お前さんのテーブルとは知らなかつたのです。」とアリスは言ひました。「三人よりもつと多勢の為に置いてあるんぢやないの。」とアリスは言ひました。

「お前の髪は切らなければいけない。」とお帽子屋は言ひました。お帽子屋はしばらくの間、不思議さうな顔をして、アリスをヂツと見て居たのでした。それでこれがお帽子屋の最初の言葉でした。

「人の事、あんまり立ちいつていふもんぢやないわよ。」とアリスは少しきびしく言ひました。

「ずゐぶん失礼だわ。」

 お帽子屋はこれを聞いて目を大きくあけました。けれども、それからお帽子屋の言つたことは「烏は何故写字机に似て居るのだらうか。」といふことだけでした。

「さあ、これから面白くなつてくるわ。」とアリスは考へました。「みんなが謎をかけはじめたならうれしいわ——あたしきつと当てられるわ。」と大きな声でつけ加へました。

「お前がそれに答を見つけられるつていふつもりなのかい。」と三月兎が言ひました。

「さうだとも。」とアリスは言ひました。

「それではおまへの思つて居ることを言はなければならない。」と三月兎はつづけて言ひました。

「わたし言ひますわ。」とアリスはあわてて答へました。「すくなくとも——すくなくとも、わたしの言つてることを、わたしは思つて居るのですわ、——それは同じですわ、ねえ。」

「少しも同じぢやない。」とお帽子屋は言ひました。「それでは『わたしはわたしの食べて居るものを見てゐる』といふのと、『わたしの見てゐるものを、わたしは食べてゐる』といふのと同じことになると、お前は言はうといふのだねえ。」

 すると三月兎がそれに附け加へて言ひました。「それでは『わたしが手に入れたものを、わたしは好きだ』と言ふのと、『わたしはわたしの好きなものを手に入れた』と云ふのと同じだとお前は言はうといふのだねえ。」

 すると山鼠がそれにいひ加へました。それは眠つたままものを言つて居るやうに見えました。

「それでは、『わたしは、わたしがねてゐるとき呼吸をする』と云ふのと、『わたしは呼吸するとき、寝る』と云ふのと同じことになると、お前は言はうといふのだねえ。」

「お前さんにはそれは同じことだよ。」(山鼠はいつも寝て居るといふことからでて来たのです)とお帽子屋は言ひました。これで会話はおしまひになつて、みんなはしばらく黙つてしまひました。けれどもアリスは自分の知つて居る限りの鳥と、写字机のことをのこらず(といつってもさう沢山ではありませんでしたが)思ひ出して見ました。

 まづ口を切つたのはお帽子屋でした。「今日は何日(いくか)だい。」とアリスの方を向いて言ひました。お帽子屋はそれまでポケツトから、懐中時計をとりだして、不安さうに眺めたり、時時振つたり、それから耳許に持つていつたりしてゐました。

 アリスは一寸考へて、「四日です。」と言ひました。

「二日違つて居るよ。」とお帽子屋は溜息をついて言ひました。「それでわしは、バタは仕事に何の役にもたたないといつたのだ。」と怒つた顔で、三月兎を見ながら言ひました。

「ありやあ一番上等のバタだつたよ。と三月兎はおとなしく答へました。

「うん、だがパン屑もいくらか入つて居たよ。」とお帽子屋はぶつぶつ言ひました。「パン切ナイフなんか、入れてはいけなかつたんだよ。」

 三月兎は時計をだして、沈んだ顔をして見てゐました。それから時計を茶呑茶碗に入れてまた見ました。けれども最初の言葉通り、又、「ありや一番上等のバタだつたよ。ねえ。」と云ふよりほかにいい考へがでて来ませんでした。

 アリスは物珍らしく、兎を肩越しに見て居ました。

「何んて面白い時計でせう。」とアリスは言ひました。「何日かを示して、何時かを示さないのね。」

「ふん、そんな用があるもんか。」とお帽子屋はつぶやきました。「お前の時計は年が分るかい。」

「無論分りつこないわ。」とアリスはきつぱり答へました。「でもそれは随分永い間同じ年で、とまつてゐるからよ。」

「それは丁度わたしのと同じだ。」とお帽子屋がいひました。

 アリスはひどく、分らなくなつてしまひました。お帽子屋の言葉は何の意味もないやうにアリスには思へました。けれども、それはたしかに英語でした。「わたしあなたのいふことが、少しも分りませんわ。」と、できる丈叮嚀にアリスは言ひました。

「山鼠は又寝てしまつた。」とお帽子屋は言つて、その鼻の中に熱いお茶を注ぎ込みました。

 山鼠はいらいらした様に、頭をふりました。そして目を開けないで、かう言ひました。「無論さ、無論のことさ。そりやわたしが言はうとした通りだよ。」

「お前謎がとけたかい。」とお帽子屋はアリスの方を向きながら言ひました。

「いいえ、わたしやめたわ。」とアリスは言ひました。「答は何なの。」

「わたしには、チツとも考へつかないよ。」とお帽子屋は言ひました。

「わたしにも。」と三月兎は言ひました。

 アリスは、いやになつたものですから、溜息をつきました。

「お前さんたち、そんな答のない謎をかけて、時をむだにするより、もつとそれを、上手につかふ工夫がありさうなものだわ。」とアリスは言ひました。

「若しお前さんが、わたしと同じに、時と知り合なら、それをむだにするなんぞとはいはないだらう。それぢやなくて、あの人と云ふんだよ。」

「わたし、お前さんの云ふことが分らないわ。」とアリスは言ひました。

「無論わからないだらう。」とお帽子屋は、馬鹿にしたやうに、頭をつきだして言ひました。「多分お前は時に話しかけたことはないだらう。」

「恐らくないことよ。」とアリスは用心深く答へました。「けれどわたし音楽を稽古するとき、時をうつ(拍子をとる)ことを知つて居りますわ。」

「ああ、それで分つたよ。」とお帽子屋は言ひました。

「あいつは打たれるのをいやがるだらう。そこでお前があれと仲良くして居さへすれば、お前の好きなやうに時計を動かしてくれるよ。たとへて言へば、朝の九時が本を読みはじめる時間だとすると、お前は時にちよいと小さい声で合図するんだ。すると目(め)ばたきするうちに、針がまはるのだ。それで昼飯の一時半といふことになるんだ。」

三月兎は、すると小声で独ごとをいひました。「わしはそればかりのぞむのだ。」)

「それは素敵らしいわねえ。」とアリスは考へこんで言ひました。「でも、さうなると——それでお腹までへるといふことはないでせう。」

「多分初めはないだらう。」とお帽子屋は言ひました。「だがお前さへその気になりや、一時半に合す事が出来るやうになるさ。」

「それがお前さんのやり方なの。」とアリスは尋ねました。

 お帽子屋は悲しさうに頭をふりました。「わたしにはやれないよ。」と答へました。「わたし達はこの三月に、喧嘩をしたのだ。丁度あれが気違ひになるまへにさ——。」(とお茶の匙で三月兎を指ざしながら)——「ハートの女王主催の大音楽会があつた時だつたよ。それにわしも歌はなければならなかつたのだ。

  「ひらり、ひらり、小さな蝙蝠よ、

  お前は何を狙つて居るの。」

「お前はこの歌を知つて居るだらうねえ。」

「わたし聞いたやうよ。」とアリスがいひました。

「次はかうなんだ、ねえ。」とお帽子屋は歌ひつづけました。

  「世界の上を飛び廻り、

   まるでみ空の茶盆のやうだ。

    ひらり、ひらり——」

 そのとき山鼠が身体をふつて、睡りながらうたひました。「ひらり、ひらり、ひらり、ひらり——。」いつまでたうてもやめませんでしたから、みんなは抓つてやめさせました。

「さて、わしはまだ第一節を歌ひきらない中にだね。」とお帽子屋は話しだしました。「女王はどなりだしたんだ。『あの男は時を殺して居る。首を切つてしまへ』つて。」

「まあ、なんてひどい野蛮なのでせう。」とアリスは叫びました。

「それ以来ズツと、」とお帽子屋は悲しさうな声で言ひつづけました。

「あいつは、わたしの頼むことをしてくれないのだ。それでいつでも六時なのだよ。」

 それでアリスは、ハツキリと一つの考へが浮んできました。「それでここにこんなにお茶道具がならんで居るのですか。」と尋ねました。

「うん、さうなんだよ。」とお帽子屋は溜息をついて言ひました。「いつでもお茶の時刻なんだ。それで、お茶道具を洗ふ時間なんてないんだよ。」

「それぢやあお前さんは、いつもぐるぐる動きまはつて居るのねえ。」とアリスは言ひました。

「その通りだ。さうきまつてしまつたのだから。」とお帽子屋は言ひました。

「けれども、いつお前さんは初めにかへつていくの。」とアリスは元気をだして尋ねました。

「話の題を変へるといいなあ。」と三月兎はあくびをしながら、口を入れました。「わしはこの話にはあきてきたよ。若い御婦人に一つ話しだしてもらひたいよ。」

「わたし話なんか知らないことよ。」とアリスはこの申し出に一寸驚いて言ひました。

「それでは山鼠が話さなければいけない。」と二人が言ひました。「目をさませよ、山鼠」かう言つて二人はその横腹を両方からつねりました。

 山鼠はそろそろと目を開けました。「わしは寝入つてなぞゐやしないよ。」としやがれた細い声で言ひました。「わしはおまへ達が話してた言葉はいちいち聞いてゐたのだよ。」

「何か話を聞かせないか。」と三月兎は言ひました。

「さあ、どうぞ、お願ひします。」とアリスが頼みました。

「さあ早くやれよ。」とお帽子屋はつけ加へました。

「さうでないと、話がすまないうちにまた寝てしまふからなあ。」

「むかし、むかし三人の、小さい姉妹(きやうだい)がありました。」と、大急ぎで山鼠が話しだしました。「そしてその子たちの名前は、エルジーに、レーシーに、チリーといひました。三人は井戸の底にすんでゐました——。」

「その人達は何を食べて生きてゐたの。」とアリスはいひました。アリスはいつも食べたり飲んだりすることに大層興味を持つてゐました。

「その人たちは砂糖水をのんで生きてゐたよ。」と山鼠は少しの間考へて言ひました。

「それでは暮していけなかつたでせうねえ。」とアリスはやさしく言ひました。「病気になつたでせうねえ。」

「さうなんだよ。」と山鼠が言ひました。「大層わるかつたよ。」

 アリスは、こんな風変りなくらし方をしたら、どんなだらうかと一寸考へて見ましたが、あまり妙に思へたものですから、つづけて尋ねました。

「では、なぜその人達は井戸の底で暮してゐたの。」

「もつとお茶をお上り。」と三月兎はアリスに熱心にすすめました。

「わたしまだ何にも飲んでゐませんわ。」とアリスは怒つて言ひました。「それだから、もつとなんて飲みやうがないわ。」

「お前はもつと少しは飲めないと云ふんだらう。何にも飲まないより、もつと多く飲む方が大層楽だよ。」とお帽子屋がいひました。

「誰もお前さんの意見なんかききはしないよ。」とアリスが言ひました。

「さあ、人の事をたちいつて喋るのは誰だ。」とお帽子屋は得意になつてたづねました。

 アリスはこれに何と言つてよいか全く分りませんでした。それでアリスは自分でお茶とバタ附パンをとり、それから山鼠の方をむいて又、質ねました。「なぜ井戸の底に住んで居たの。」

 山鼠は又一、二分考へてから言ひました。「それは砂糖水の井戸だつたのだ。」

「そんなものはないわ。」とアリスは大層怒つて言ひだしました。お帽子屋と三月兎とは「シツ、シツ。」と言ひました。すると山鼠がふくれていひました。

「もしお前さんが礼をわきまへなければ、自分でそのお話のけりをつけた方がいいよ。」

「いいえ、どうか先を話して下さい。」とアリスは大層おとなしくいひました。「わたしもう口出しなんかしませんわ。一つ位そんな井戸があるかも知れないわね。」

「一つだつて。」と山鼠は怒つていひました。けれどもつづけていふことを承知しました。「さてこの三人の姉妹は——この三人の姉妹は、汲みだすことを覚えました。」

「何を汲みだしたの。」とアリスはさつきの約束を、スツカリ忘れて言ひました。

「砂糖水をだよ。」と山鼠は今度は、チツトも考へないで言ひました。

「わたしはきれいな、コツプが欲しい。」とお帽子屋が口を入れました。「みんな場所を変へようぢやないか。」

 お帽子屋はかう言ひながら動きだしました。山鼠があとにつづいていきました。アリスは少しいやいやながら、三月兎のゐた場所に坐りました。席をかへた事で得をしたのは、お帽子屋だけでした。アリスは前ゐたところよりズツト悪い場所でした。といふのは三月兎が、今しがたミルク壺を皿の上でひつくり返したからでした。

 アリスは山鼠を、おこらしてはいけないと思ひましたので、大層気をつけて話しだしました。

「けれども、わたし分らないわ。その人達はどこから、砂糖水を汲みだしたのでしやうねえ。」

「お前さん淡水(まみづ)は、淡水の井戸から汲みだすだらう。」とお帽子屋はいひました。「それぢや砂糖水は、砂糖水の井戸から汲めるわけぢやないか、——え! 馬鹿!」

「でもその人達は井戸の中にゐたんでせう。」とアリスは今お帽子屋はのいつた終ひの言葉には、気づかないやうな風をして、山鼠にむかつて言ひました。

「無論井戸の中にゐたのさ。」と山鼠はいひました。

 この返事は可哀想なアリスを、ますます分らなくさせたものですから、アリスはもう口を入れないで、しばらくの間山鼠に勝手にしやべらせてゐました。

「姉妹たちは、汲みだすことを覚えました。」と山鼠は大層睡たかつたものですから、欠伸をして目を擦りながら言ひました。

「いろんなものを汲みだしました。——Mの字のつくものは何んでも。」

「どうしてMの字のつくものを。」とアリスが言ひました。

「何故それではいけないといふのだ。」と三月兎が言ひました。

 アリスは黙つてしまひました。

 山鼠はこの時両眼をとぢて、コクリコクリと睡り始めました。けれどもお帽子屋につねられたのでキヤツと言つて目をさましました。そして言ひつづけました。「——先づMの字で始まつて居るものは、鼠わな(Mouse traps)、お月様(Moon)、もの覚え(Memory)、それから、どつさり(Muchness)、——それにお前も知つてゐる、似たり寄つたり(Much of Muchness)といふものをさ。お前今までに「似たり寄つたり」を汲みだすのを見たことがあるかい。」

「おや、おまへさん今、わたしにものを訊いたのねえ。」とアリスは全くこんがらがつていひました。「わたし知らないわ——。」

「それぢや、お前お話をしていけない。」とお帽子屋が言ひました。

 この失礼な言葉で、アリスはもう我慢ができなくなつてしまひました。で、すつかり怒つて、立ち上つて歩きだしました。山鼠は直に寝入つてしまひました。他のものはアリスの出ていくのには、気をとられてゐないやうでした。けれどもアリスは呼び返されるだらうと思つて、一、二度振り返つて見ました。一番しまひにふり返りましたとき、二人は山鼠を急須の中に入れようとしてゐました。

「とにかく、わたしはもう決して、あすこへいかないわ。」とアリスは森の中をテクテク歩きながら言ひました。「あんな馬鹿げた茶話会には、わたし生れて初めていつたわ。」

 丁度アリスが、かういひましたとき、気がついて見ると一本の樹に戸がついてゐて、その中に這入れるやうでした。「ずゐぶん珍らしいのね。」とアリスは考へました。「でも今日は何から何まで、珍らしづくめだもの。だからやつぱり又、直ぐ入つてみてもいいと思ふわ。」さういつてアリスは内へ入つていきました。

 又もやアリスは、長い広間の内にでました。そしてすぐ側にガラスのテーブルがありました。「さあ、今度はうまくやれさうだわ。」と独ごとを言ひながら、金の鍵を手にとつて、庭につづいて居る戸をあけました。それからアリスは、背が一尺位になるまで、蕈をかぢり始めました。(アリスは蕈をポケツトに入れてゐたのでした)。それから小さい廊下を通つていつて、そして——とうとう目の覚めるやうな花床や、涼しい泉水のある綺麗な庭にでていきました。

 

八 女王の球打場

 大きな薔薇の樹が、庭の入口の傍に植わつて居りました。その樹に咲いて居る花は白でした。けれども三人の庭師が、せつせとそれを赤く塗つて居りました。アリスは大層不思議に思つて、よく見るために側へと寄つていきました。アリスが三人のところへ間近に来ましたとき一人が、「おい、気をつけろい、五の野郎、こんなにおれに絵具をはねかすない。」

「どうともしやうがないさ。」と五は不機嫌さうに言ひました。「七の野郎がおれの肘をついたんだよ。」

 すると七が顔を上げて言ひました。「さうだらうよ、五の野郎、お前はいつも他人に罪をなすりやがる。」

「貴様余けいな口なんぞ利かない方がいいぜ。」と五がいひました。

「おれはつい昨日も女王様が、貴様を打首にしてもいい位だつておつしやるのを聞いたぞ。」

「何でだ。」と、一人の男が初めて言ひました。

「それはお前には用のないことだ、二の野郎。」と七がいひました。

「うんそれはあいつに用のあることだ。」と五がいひました。「それだからわしがあいつに話してやるよ——玉葱の代りにチユリツプの根を料理番に渡したからなんだ。」

 七は刷毛を投げだして、かういひ始めました。

「さてまあ、いろいろと、不公平な事のうちで——。」このとき七は、アリスが、そこに立つてヂツと見てゐるのを知つたものですから、急に言ひかけた言葉をのみ込みました。それで他のものも亦周りを見まはして、アリスの居るのに気がつきました。みんなは揃つて叮嚀にお辞儀をしました。

「あの一寸お尋ねしたいのですが。」とアリスは少しおどおどして言ひました。「どうしてこの薔薇を塗つていらつしやるんですか。」

 五と七は何にも言はないで、二の方を見ました。二が低い声で話しはじめました。「まあ、その理由と云ふのはねえお嬢さん、ここに赤い薔薇の樹を植ゑなければならなかつたのです。ところが間違へて白い樹を植ゑたのです。そのことを女王様に見つけられたら、わたし達はみんな打首になるのです。それでお分りでもありませうが、女王様がここへいらつしやらないうちに、一生懸命赤に塗つて居る次第なのです——。」このとき庭の向ふをキヨロキヨロ見て見た五が叫びだしました。「女王様だ、女王様だ。」すると三人の庭師は、直ちに、平伏してしまひました。多勢の人の足音がやつて来ました。アリスはぜひ女王を見たいと思つて、すぐ振り返りました。

 先づ初めに棒を持つてゐる、十人の兵士がやつて来ました。この兵士共は庭師と同じやうな恰好をして居ました。それは平べつたい長つぼそい形で、その角(すみ)から手や足がでてゐました。次に十人の廷臣たちがやつて来ました。この人達は全身ダイヤモンドで飾られてゐて、兵士達と同じに二列になつて歩いてきました。そのあとから王子たちが来ました。みんなで十人、二人づつ手をつないで、この小さい可愛らしい子供たちは、愉快さうにとんでやつて来るのでした。どれもみんなハートの形で飾られて居りました。次には賓客(おきやく)達で、大抵は王子様か女王様でしたが、アリスはその中に白兎が入つて居るのを見つけました。兎はあわてた、こせついた風で話をしながら、話の一つ一つにニコニコ笑つたりして、アリスには気づかない風でそばを通りすぎました。それからハートのヂヤツク(ママ)が王冠を朱の天鵞絨(ビロウド)の褥(しとね)の上にのせて持つていきました。そしてこの大行列の一番終りにハートの王様と女王とがやつてきました。

 アリスは三人の庭師のやうに、顔を地につけて平伏して居なければならないものかどうか、疑はしく思ひました。行列を見る場合そんな規則があるなどと聞いた覚えがありませんでした。「それに人人が行列が見えないほど顔を地につけて平伏して居ては行列をしたつて、何の役にもたたないぢやないの。」と考へました。それでアリスは自分の場所に立つて行列のくるのを待つてゐました。

 行列がアリスの方へやつて来ましたとき、みんな一人残らず立止つてアリスを見ました。すると女王はいかめしい顔をして言ひました。

「これは誰だ。」女王はハートのジヤツクにいつたのでしたが、この男はただお辞儀をしてニコニコ笑つて居るばかりでした。

「馬鹿!」と女王は我慢しきれない様に、頭をふりながらさう云つてから、アリスの方を向いて訊ねました。「お前の名は何といふのだい。」

「陛下、私の名前はアリスでございます。」と大層叮嚀にいひましたが、心の中ではかう思ひました。「まあ、この人達はつまり、カルタの一組にすぎないぢやないの、わたしこんな人達こはがるには及ばないわ。」

「それから、この者たちは誰だ。」と女王は薔薇の樹のグルリに、平伏して居る、三人の庭師を指さしながら言ひました。なぜなら、この男達は地に平伏して居るので、背中の印は外のカルタ仲間と同じですから、庭師だか、兵士だか、廷臣だか、自分たちの子供の中の三人だか分らないのでした。

「どうしてわたしに分りませうか。」とアリスはいつて、自分ながらさういひだした勇気に驚きました。「そんなことはわたしに係のない事でございます。」

 女王は怒つて真赤になりました。しばらくの間恐ろしい獣のやうな目をして睨んでゐましたが、金切声でどなり始めました。「あの女の子の首を切れ、切つてしまへ。」

「馬鹿ねえ。」とアリスは大層大きな声で、キツパリと言ひました。すると女王は黙り込んでしまひました。

 王様は女王の腕に手をかけて、おぢおぢしながら言ひました。「まあ、おまへ、考へてごらん。あれはねんねえに過ぎないよ。」

 女王は怒つて王様から顔をそむけて、ヂヤツクに言ひました。「あいつらを、ひつくり返せ。」

 ヂヤツクは大層用心深い片足で、言はれた通りにしました。

「おきろ。」と女王は金切声をはり上げて言ひました。すると三人の庭師は直にとび起きて、王様や女王様や、王子たちや其の外、誰にでもお辞儀をし始めました。

「もうお止め。」と女王は金切声でいひました。「おまへたちのすることを見て居ると、目がまはつてくる。」それから薔薇の樹の方を向いて、いひました。「お前たちはここで何をしてゐたのだい。」

「陛下のお気に召すやうに。」と二人は片膝をつきながら、恐れ入つた声でいひました。「わたしたちはあの——。」

「分つた。」と女王は薔薇の花を調べて見てから言ひました。「この男たちを打首にしろ。」それから行列は動き出しました。後にはこの不仕合せな庭師を死刑に処するために、三人の兵士が残りました。三人の庭師たちはアリスのところへ走つて来て助けを願ひました。

「お前たち打首になることはないわ。」とアリスは言つて、近くに置いてああつた大きな植木鉢の中に三人を入れてしまひました。三人の兵士たちは、しばらくの間、庭師を探しに歩きまはつてゐましたが、やがて落ちつきはらつて行列の後についていました。

「打首にしたか。」と女王が叫びました。

「仰せの通りに、首をはねましてございます。」と兵士たちは叫びかへしました。

「よろしい。」と女王は叫びました。「お前球打遊びができるか。」

 兵士たちは黙つてアリスの顔を見ました。——といふのは、この問は明らかにアリスに尋ねられたからでした。

「はい。」とアリスは大声でいひました。

「それではおいで。」と女王はどなりました。

 そこでアリスは、この次にはどんなことが起るだらうかと思つて、行列に加はりました。

「ええと、ええと、大層よい天気ですなあ。」とアリスのそばで、おどおどした声が言ひました。アリスは例の白兎のそばを歩いて居るのでした。兎は心配さうにアリスの顔をのぞき込んでゐました。

「大層よいのねえ。」とアリスが言ひました。「公爵夫人はどこにいらつしやるの。」

「シツ、シツ。」と兎はあわてて、小さい声でいひました。かう言ひながら兎は心配さうに一寸振り返りました。それから爪先立をして、アリスの耳に口をつけ、ささやきました。「夫人は死刑の宣告をうけたのです。」

「なんで。」とアリスは言ひました。

「あなたは『なんて気の毒な』といつたのですか。」と兎が訊ねました。「いいえ、さうぢやないわ。」とアリスは答へました。「わたし少しも気の毒には思ひませんわ。『なんで』とわたしはいつたのよ。」

「夫人は女王様の耳を打つたのでした。」——と兎はいひ始めました。アリスはキヤツ、キヤツと笑ひました。

「まあ、お静かに。」と兎は驚いていひました。

「女王様に聞えますよ! 公爵夫人はね、少し遅くなつて来たのです。すると女王様がおつしやるのに——。」

「みんな場所におつき。」と女王は雷のやうな声でいひました。家来たちは、ぶつかり合つてころびながら、そこいら中を駈けまはり始めました。けれども、一、二分のうちに場におちついて、それで遊戯が始まりました。

 アリスは、こんな珍らしい球打場は、生れて初めて見たと思ひました。それは、どこも畔や溝ばかりでした。球は生きた蝟(はりねずみ)で、棒は生きた紅鶴でした。そして兵士たちは、アーチをつくるのに、自分達の身体を二重に折つて、手と足とで立たなければなりませんでした。

 アリスが先づ一番むづかしいことだと思つたのは、紅鶴をあつかふことでした。アリスはそれの身体を丸めて、大層工合よく、足を下にさげて、脇の下にかかへることができました。けれども、アリスがそれの首を真直に旨くのばして、それの頭で蝟の球を打たうとする時になると、いつもぐなりとまがつてしまつて、ずゐぶん変な顔をしてアリスの顔をヂツと見るものですから、アリスはこれを見ると笑ひださないでは居られませんでした。アリスがその首を下にさげて又打ち始めますと、今度は蝟がころがらないで、のそのそ匍つていかうとしますので、全くいらだたしくなりました。その上、蝟を打ちださうとする方向には、一面に畔や溝があつて、それに二重に折れて輪をつくつて居る兵士は、いつも起き上つたり、方方歩きまはつたりしますので、アリスは間もなく、この球打遊はほんとに難しい遊戯だと定(き)めてしまひました。

 球打をする人達は、順番なんか待たず、始終喧嘩をして、蝟をとりあつて、一度に球打をしだしました。それで女王はすぐに怒つてしまつて、地団太をふみながら、どなりたてました。「あの男を打首にしろ。」とか「あの女を打首にしろ。」とか、一分間に一度位の割合で言つて居りました。

 アリスも大層心配になつてきました。アリスは、まだ女王とほんとに喧嘩だけはしませんでした。けれども、いつどうなるかも知れないことだと思つてゐました。「さうしたら、わたしどうなるだらう。」とアリスは考へました。「この国の人達は、打首をすることが大変好きらしいわね。だのに、生き残つてる人がゐるから、全く不思議だわ。」

 アリスは逃げ道をさがして、見つけられないで、逃げられるかどうかと考へてゐました。そのとき空中に妙な形をしたものが現はれました。初めのうちは何だかさつぱり見当がつきませんでしたけれども、一、二分の間ヂツと見て居ると、それがニヤニヤ笑ひの口だといふことが分りました。それでアリスは独語をいひました。「あれはチエシヤー猫だわ。これでわたし話相手ができたわ。」

「御機嫌如何ですか。」と物が言へるだけ口が出て来た時猫はいひました。

 アリスは猫の目がでてくるまで待つてゐました。それから分つたやうにうなづきました。「耳がでてくるまでは話をしても無駄だわ。すくなくとも片耳だけでも。」

 すぐに猫の頭がすつかり出て来ました。そこでアリスは紅鶴を下に置いて、自分の話を聞いてくれるものができたのを喜んで、球打の話をしだしました。猫は頭だけ見せれば十分だと思つて、それ以上には姿を現はしませんでした。

「みんなが正直に球打ちをして居るとは思へないわ。」とアリスは、不平らしい口付で話しだしました。「それにあの人達は無茶に喧嘩をするもんだから人のいふことなんかきこえやしないの——そしてこれといつて別に規則もないらしいのよ。まあ、もしあつても誰も守りはしないわ。——それに何から何まで生き物を使う(ママ)んですもの、その混雑といつたら考へもつかない位だわ。たとへていへば、わたしが次にくぐつていかねばならないアーチは球打場の向ふの端なんかを歩き廻つてゐるの。——そして今しがたもわたしが、女王の蝟を打たうとすると、私のが来るのを見つけてずんずん逃げていつてしまふといふ始末なの。」

「お前女王様は好きかい。」と猫は低い声でいひました。

「ちつとも。」とアリスが言ひました。「女王様は大変に——」といひかけると、女王がすぐアリスの後で、耳をかたむけてゐるのを見つけましたので「——きつと勝つでせう。だからおしまひまで勝負をやる必要なんかないわ。」と言ひました。

 女王はニコニコして通つていきました。

「お前は誰に話をして居るのだい。」と王様はアリスの傍へやつてきて言ひました。そして大層不思議さうに猫の頭を見ました。

「これは私の友達で——チエシヤ——猫ですの。」とアリスはいひました。

「御紹介しますわ。」

「わしはあれの顔つきがきらひだ。」と王様がいひました。「けれども望みとあれば、手にキツスをゆるしてやる。」

「あんまり望みでもありません。」と猫はいひました。

「小癪なことをいふな。」と王様は言ひました。「そんなにわしの顔を見るな。」王様はかう言ひながら、アリスのうしろへいきました。

「猫は王様の顔を見てもいいものです。」とアリスは言ひました。「わたしはある本で見たことがあります。でもどこだつたか覚えてゐません。」

「とにかく、あいつは取りのけなければいけない。」と王様は大層キツパリといつて、丁度そこを通りかけた女王に話しかけました。「ねえ、お前あの猫をとりのけてくれないか。」

 女王にはどんなむづかしい、又は易しい問題でもそれを定(き)めるには一つの方法しかありませんでした。それで「あいつを打首にしろ。」といつて見向きもしませんでした。

「わしは自分で首斬人をつれてくる。」と王様は熱心にいつて、駈けだしました。

 アリスは自分も戻つていつて、勝負がどんな様子だか見たいと思つてゐましたが、そのとき女王が怒つて、金切声を張り上げて居るのを聞きました。順番を間違へたといふ理由で、女王が三人に死刑の宣告を下したのでした。アリスは勝負が滅茶苦茶になつて、自分の順番だかどうだか分らないほどでしたから、様子を見て居るのがいやになつてきました。それで自分の蝟を探しにでかけていきました。

 蝟は外の蝟と争つてゐました。それをつかまへて他の蝟を打つのに至極いい時だと思ひましたが、今度は困つたことには、紅鶴がお庭の向ふへ行つて、樹の上にとび上らうとあせつて居るのが見えました。

 それで紅鶴をつかまへて帰つて来ますと、蝟の争ひはすんで居て、二匹ともどこかへ去つてしまつてゐました。「でも平気よ。アーチの兵士たちがこつち側にはゐなくなつてしまつたから。」

 そこでアリスは紅鶴をのがさないやうに、脇にしつかりかかへて、お友達と話をしに戻つていきました。

 アリスがチエシヤー猫の処に戻つていつて、驚きましたことには、猫のまはりに多勢の人があつまつてゐるのでした。首斬人と王様と女王との間に口喧嘩がおこつてゐて、三人が三人とも一緒にしやべりたててゐました。けれども他の者たちは黙りこんで、不愉快さうな顔をしてゐました。

 アリスの姿が見えると、三人はアリスにこの問題をきめてくれるやうにと頼むのでした。三人はアリスに自分の言分をくりかへしました。けれども、一緒に話すものですから、何をいつて居るのかよく分りませんでした。

 首斬人の言分は、首が身体についてゐなければ首を切ることはできない、それに今迄にそんなことはしたこともないし、又自分の様な年齢になつてから、そんなことをやり始めようとも思はないといふのでした。

 王様の言分といふのは、首のあるものの首をきることができないことはない、そしてこれは馬鹿げた話しではないといふのでした。

 女王の言分といふのは、今すぐできないやうなら、誰でもかまはず、みんなを打首にする、といふのでした。(このおしまひの言葉で、一同は至極ものものしい心配げな顔をしました。)

 アリスは外に何もいふべきことを思ひつかず、唯、「それは公爵夫人のものです、夫人に訊いて見た方がよろしいでせう。」とだけ言ひました。

「あの女は牢屋に入つて居る。」と女王は首斬人にいひました。「ここへ連れてこい。」それで首斬人は矢のやうにとんでいきました。

 猫の頭は首斬人が行つたときから、段段と消えはじめ、公爵夫人を連れてきたときには、すつかり見えなくなつてゐました。そこで王様と首斬人は、アチラコチラをドンドン走り廻つて猫を探しました。けれども他の人達は、又勝負をやりに立ちかへつていきました。

 

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【東渓文庫】夏目漱石「思ひ出す事など」よりドストエフスキーの事

二十

 ツルゲニエフ以上の芸術家として、有力なる方面の尊敬を新たにしつつあるドストイエフスキーには、人の知る如く、子供の時分から癲癇の発作があつた。われ等日本人は癲癇と聞くと、ただ白い泡を聯想するに過ぎないが、西洋では古くこれを神聖なる疾と称(とな)へてゐた。此神聖なる疾に冒かされる時、或は其少し前に、ドストイエフスキーは普通の人が大音楽を聞いて始めて到り得るやうな一種微妙の快感に支配されたさうである。それは自己と外界との円満に調和した境地で、丁度天体の端から、無限の空間に足を滑らして落ちるやうな心持だとか聞いた。

「神聖なる疾」に罹つた事のない余は、不幸にして此年になるまで、さう云ふ趣に一瞬間も捕はれた記憶を有たない。ただ大吐血後五六日——経つか経たないうちに、時々一種の精神状態に陥つた。それからは毎日の様に同じ状態を繰り返した。遂には来ぬ先にそれを予期する様になつた。さうして自分とは縁の遠いドストイエフスキーの享けたと云ふ不可解の歓喜をひそかに想像して見た。それを想像するか思ひ出す程に、余の精神状態は尋常を飛び越えてゐたからである。ドクィンセイ(注:ド・クインシー)の細かに書き残した驚くべき阿片の世界も余の連想に上つた。けれども読者の心目を眩惑するに足る妖麗な彼の叙述が、鈍い色をした卑しむべき原料から人工的に生れたのだと思ふと、それを自分の精神状態に比較するのが急に厭になつた。

 余は当時十分と続けて人と話をする煩はしさを感じた。聲となつて耳に響く空気の波が心に伝つて、平らかな気分をことさらに騒(ざわ)つかせるやうに覚えた。口を閉ぢて黄金なりといふ古い言葉を思ひ出して、ただ仰向けに寝てゐた。難有い事に室の廂と、向うの三階の屋根の間に、青い空が見えた。其空が秋の露に洗はれつつ次第に高くなる次節であつた。余は黙つて此空を見詰めるのを日課の様にした。何事もない、又何物もない此大空は、其静かな影を傾むけて悉く余の心に映じた。さうして余の心にも何事もなかつた、又何物もなかつた。透明な二つのものがぴたりと合つた。合つて自分に残るのは、縹緲とでも形容して可い気分であつた。

 其内穏かな心の隅が、何時か薄く暈(ぼか)されて、其所を照す意識の色が微かになつた。すると、ヴエイルに似た靄が軽く前面に向つて万遍なく展びて来た。さうして総体の意識が何処も彼処(かしこ)も稀薄になつた。それは普通の夢の様に濃いものではなかつた。尋常の自覚の様に混雑したものでもなかつた。又其中間に横はる重い影でもなかつた。魂が身体に抜けると云つては既に語弊がある。霊が細かい神経の末端に迄行き亙つて、泥で出来た肉体の内部を、軽く清くすると共に、官能の実覚から杳(はる)かに遠からしめた状態であつた。余は余の周囲に何事が起りつつあるかを自覚した。同時に其自覚が窈窕として地の臭を帯びぬ一種特別のものであると云ふ事を知つた。床の下に水が廻つて、自然と畳が浮き出すやうに、余の心は己の宿る身体と共に、蒲団から浮き上がつた。より適当に云へば、腰と肩と頭に触れる堅い蒲団が何処かへ行つて仕舞つたのに、心と身体は元の位置に安く漂つて居た。発作前に起るドストイエフスキーの歓喜は、瞬刻のために十年もしくは終生の命を賭しても然るべき性質のものとか聞いてゐる。余のそれは左様に強烈のものではなかつた。寧ろ恍惚として幽かな趣を生活面の全部に軽く且つ深く印し去つたのみであつた。従つて余にはドストイエフスキーの受けた様な憂鬱性の反動が来なかつた。余は朝から屡此状態に入つた。午過にもよく此蕩漾を味つた。さうして覚めたときは何時でも其楽しい記憶を抱いて幸福の記念とした位であつた。

 ドストイエフスキーの享け得た境界は、生理上彼の病の将に至らんとする予言である。生を半に薄めた余の興致は、単に貧血の結果であつたらしい。

 仰臥人如唖。 黙然見大空。 大空雲不動。 終日杳相同。

二十一

 同じドストイエフスキーも亦死の門口迄引き摺られながら、辛うじて後戻りをする事の出来た幸福な人である。けれども彼の命を危めにかかつた災は、余の場合に於るが如き悪辣な病気ではなかつた。彼は人の手に作り上げられた法と云ふ器械の敵となつて、どんと心臓を打ち貫かれようとしたのである。

 彼は彼の倶楽部で時事を談じた。已むなくんば只一揆あるのみと叫んだ。さうして囚はれた。八ケ月の長い間薄暗い獄舎の日光に浴したのち、彼は蒼空の下に引き出されて、新たに刑壇の上に立つた。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度の霜に、襯衣(シヤツ)一枚の裸姿となつて、申渡の終るのを待つた。さうして銃殺に処すの一句を突然として鼓膜に受けた。「本当に殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、傍に立つ同囚に問うた言葉である。——白い手帛(はんけち)を合図に振つた。兵士は覘(ねらひ)を定めた銃口を下に伏せた。ドストイエフスキーは斯くして法律の捏ね丸めた熱い鉛の丸を呑まずに済んだのである。其代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した。

 彼の心は生から死に行き、死から又生に戻つて、一時間と経たぬうちに三たび鋭どい曲折を描いた。さうして其三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。其変化丈でも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然是から五分のうちに死ななければならないと云ふ時、既に死ぬと極つてから、猶余る五分の命を提(ひつさ)げて、将に来るべき死を迎へながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、更に突き当ると思つた死が、忽ちとんぼ返りを打つて、新たに生と名づけられる時、——余の如き神経質では此三象面(フェーゼス)の一つにすら堪へ得まいと思ふ。現にドストイエフスキーと運命を同じくした同囚の一人は、是がために其場で気が狂つて仕舞つた。

 夫にも拘はらず、回復期に向つた余は、病牀の上に寐ながら、屡ばドストイエフスキーの事を考へた。ことに彼が死の宣告から蘇へつた最後の一幕を眼に浮べた。——寒い空、新らしい刑壇、刑壇の上に立つ彼の姿、襯衣一枚の儘顫(ふる)へてゐる彼の姿、——悉く鮮やかな想像の鏡に映つた。独り彼が死刑を免かれたと自覚し得た咄嗟の表情が、何うしても判然映らなかつた。しかも余はただ此咄嗟の表情が見たい計に、凡ての画面を組み立てて居たのである。

 余は自然の手に罹つて死なうとした。現に少しの間死んでゐた。後から当時の記憶を呼び起した上、猶所々の穴へ、妻(さい)から聞いた顛末を埋めて、始めて全く出来上る構図を振り返つて見ると、所謂慄然と云ふ感じに打たれなければ已まなかつた。其恐ろしさに比例して、九仞に失つた命を一簣に取り留める嬉しさは又特別であつた。此死此生に伴ふ恐ろしさと嬉しさが紙の裏表の如く重なつたため、余は連想上常にドストイエフスキーを思ひ出したのである。

「もし最後の一節を欠いたなら、余は決して正気ではゐられなかつたらう」と彼自身が物語つてゐる。気が狂ふほどの緊張を幸ひに受けずと済んだ余には、彼の恐ろしさ嬉しさの程度を料り得ぬと云ふ方が寧ろ適当かも知れぬ。夫であればこそ、画竜点睛とも云ふべき肝心の刹那の表情が、何う想像しても漠として眼の前に描き出せないのだらう。運命の擒縦を感ずる点に於て、ドストイエフスキーと余とは、殆んど誌と散文ほどの相違がある。

 夫にも拘はらず、余は屡ばドストイエフスキーを想像して已まなかつた。さうして寒い空と、新らしい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、襯衣一枚で顫へてゐる彼の姿とを、根気よく描き去り描き来つて已まなかつた。

 今は此想像の鏡も何時となく曇つて来た。同時に、生き返つたわが嬉しさが日に日にわれを遠ざかつて行く。あの嬉しさが始終わが傍にあるならば、——ドストイエフスキーは自己の幸福に対して、生涯感謝する事を忘れぬ人であつた。

【東渓文庫】芥川・菊池共訳「不思議の国のアリス」(上)

カロル著、芥川龍之介菊池寛共訳「アリス物語」

 

 

 アリス物語は、英国のルウヰス・カロルと云ふ数学者の書いた有名な童話です。英国のヴヰクトリヤ女王がお読みになつて大変感心遊ばされ、此の作者の他の著作をもお求めになつて見たところ、それらはみんな数学書であつたと云ふ逸話さへ伝はつてゐます。「ピーターパン」などと併称され、英国の児童に最も人気のある童話です。日本の童話などとはまた違つた夢幻的な奇抜な奔放な味のある面白い物語です。

 かうした童話も、一冊だけでは本全集(注:「興文社 小学生全集」のこと)に入れねばならぬと思ひます。

 アリス物語には、「不思議国めぐり」と「鏡の国めぐり」と二つありますが、後者は紙数の都合で入れることが出来ませんでした。だが、前者の方がはるかに面白いのです。

 この「アリス物語」と「ピーターパン」とは、芥川龍之介氏の担任のもので、生前多少手をつけてゐてくれたものを、僕が後を引き受けて、完成したものです。故人の記念のため、これと「ピーターパン」とは共訳と云ふことにして置きました。

菊池寛

 

はしがき

 アリス物語は、一つの夢であります。読んでゐるうちに、児童の心を知らず知らず、夢の国へつれて行つてしまふ、物語であります。

 かうしたものも、本全集に、是非一冊だけは収録することが、必要であると思ひます。

 昭和二年十一月

菊池寛

 

アリス物語

一 兎の穴に落ちて

 アリスは姉様と一緒に、土手に登つてゐましたが、何にもすることがないので、すつかり厭(あ)き厭きして来ました。一二度姉様の読んで居た本を覗いて見ましたけれど、それには絵も、お話もありませんでした。「こんな御本、何になるのだらう。絵もお話もないなんて。」と、アリスは考へました。

 それでアリスは、暑さにからだがだらけて、睡くなつて来るのをおさへるために、出来るだけ一生懸命心の内で、一つ起き上つて花環(はなわ)を作る雛菊を摘みにでも行かうか、どうしようかと考へて居ました。するとその時、突然(だしぬけ)に桃色の目をした白兎が、アリスのすぐ傍を駈けていきました。

 しかし、これだけのことなら、別に大して吃驚(びつくり)するほどの事はありませんでした。又アリスはその時兎が独語(ひとりごと)に「おやおや大変、遅れてしまふ。」と言つたのを聞いても、「おや変だな。」とも思ひもしませんでした。(後でよく考へて見ると、このことは不思議なことに違ひなかつたのですが、その時は全く当りまへのやうに思つたのでした。)けれども兎がほんとに、チヨツキのポケツトから、懐中時計をとりだして、それを見てから、急いで走つていきましたとき、思はずアリスは飛起きました。何故といつてアリスは、兎がチヨツキを着てゐたり、それから時計をとりだすなんて、生れて初めて見たのだと云ふことに気がつきましたから。で、珍らしいこともあればあるものだと思つて、兎の後を追つて、野原を走つていきました。そして兎が丁度、生垣の下の大きな兎の穴の中に、入りこんだのをうまく見とどけました。

 すぐにアリスは兎の後をつけて、入つていきました。しかしその時は、後でどうして出るなんてことは、少しも考へて居ませんでした。

 兎の穴は、少し許りトンネルのやうに、真直に通つて居ましたが、それから急に、ずぶりと陥(すべ)り込みました。あまりだしぬけなものですから、アリスは自分の身を止めようと思ふ間もなく、ずるずると、その大層深い井戸のやうなところへと、落ち込んでいきました。

 井戸が大変深かつたためか、それともアリスの落ちて行くのが、ゆつくりだつたせゐか、兎に角、下りて行く間、アリスはあたりを見廻したり、これから先、どんな事が起るのかしらと、不審がつたりする暇が沢山ありました。先づ第一に、アリスは下を見て、どんなところへ来たのか、知らうとしましたけれど、余り暗いものですから、何にも見ることが、できませんでした。そこで、井戸の周囲を見ると、そこは、戸棚だの本棚だので、一杯でして、あちらこちらには、地図や絵が、釘にかけてありました。アリスが通りすがりに、一つの棚から壺を下すと、それには「橙の砂糖漬」と云ふ札が貼つてありましたが、アリスが残念に思ひましたことには、空つぽなのでした。アリスはその壺を、下にはふり込まうと思ひましたけれど、下に生物でも居たら殺す心配がありましたので、止めて落ちて行きながら、途中にある戸棚に、やつとそれを載つけました。

「まあ。」とアリスは独りで考へました。「こんな落ちかたをすれば、これからは二階から落つこちることなんか、平気の平左だわ。さうするとうちの人なんか、わたしをずゐぶん強いと思ふことでせうねえ。まあ、わたし屋根の頂辺(てつぺ)から落ちたつて何にも言やしないわ。」(これは実際ほんとでせう。と云ふのは屋根から落ちたら何にも言ふどころではありませんから。)

 下へ、下へ、下へ。一体どこまで落ちて行つても、限(きり)がないのぢやないか知ら。「もう何哩(マイル)位落ちて来たのかしら。」と、アリスは大きな声で言ひました。

「きつと、地球の真中近くに来かかつて居るに違ひないわ。ええと、たしか、四千哩下が、真中だつたけ――。」(ちやうどアリスは学校の課業でこんな風なことを習つたばかりでした。けれども誰も聞いてくれる人なんか居ませんでしたから、アリスの学問のあることを見せるに、大層良い機会ではありませんでしたけれども、矢張りそれを繰返すといふことは、よいお復習(さらひ)でした。)「さうだ、もう丁度その位の距離になるわ――けれど一体、わたしはどの辺の緯度と経度に居るのか知ら。」(アリスは緯度や軽度が、どんなものであるか少しも分つては居ないのでしたけれども、さう云ふ言葉は大層素晴らしいものだと思つたからでした。)

 そして直ぐ又、アリスは独語を続け始めました。「わたし地球を真直にぬけて落ちるのか知ら。逆立して歩いて居る人たちの間へ、ひよつこり出たら随分面白いだらうな。あれは反対人(アンテイパシイーズ)だわ(対蹠人(アンテイボデイーズ)とまちがへた)——(何だかその言葉が間違つて居る様でしたから、今度は誰も聞き手がないのをアリスは幸だと思ひました。)「けれど、わたしその人達に、その国の名は何といふのですかと、尋ねなければならないわ。もし奥様、この国はニユウジーランドですか、それともオーストラリヤですかつて。」(かう言ひながら、アリスは腰をかがめてお辞儀をしました。あなた方が宙を落ちて居るときに、お辞儀をすると、仮に思つてごらんなさい。そんなことができると思ひますか。)

「でも、そんな事訊いたら、向ふぢやわたしを何にも物を知らない娘だと思ふわ。いいえ、訊いたりなんかしちやいけない。多分どこかに書いてあるのが、見つかるに違ひないわ。」

 下へ、下へ、下へ。外にすることがありませんでしたから、また直にアリスは、お話を始めました。「デイナーは、今夜わたしが居ないので、ずゐぶん淋しがつてるでせうね。(デイナーは猫の名でした。)お茶の時に家の者が、牛乳をやることを忘れないでくれればいいけれど、ディナー、お前も今此処でわたしと一緒にゐてくれるんだと、いいんだけれどねえ。宙には鼠は居ないかも知れないが、蝙蝠なら捕へられるわ。蝙蝠は鼠によく似て居るのよ。けれど猫(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。」するとかう言つて居る時アリスは、少し睡くなりだしたので、夢心地でしやべり続けて居ました。「猫(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。猫は蝙蝠を食べるか知ら。」そして時時「蝙蝠(バツト)は猫(キヤツト)を食べるか知ら。」と言ひました。アリスにはどちらの質問にも、答へができないのでしたから、どう言つても、大して変りはありませんでした。アリスはそのとき、うとうとと眠りに入(い)つた気がしましたが、その中デイナーと手をつないで歩いて居る夢を見て、大層まじめくさつて、こんな事を云つてゐました、「さあ、デイナー、ほんとのことをお言ひ、お前蝙蝠を食べたことがあつて。」このときアリスは、突然、枝だの、枯葉だの積んである上へと、どしんと落ちました。これで落ちるのもおしまひになりました。

 アリスは、少しの怪我もしませんでした。そしてすぐに起ち上つて、上の方を見ましたが、真暗でした。アリスの眼の前に長い道が、一つ通つて居りました。そしてやはり例の白兎が、急いで其処を下りて行くのが見えました。一分だつてぐづぐづして居られません。風のやうに、アリスは飛んで行きました。すると丁度兎が角を曲るとき、かう呟いたのが聞えました。

「おお耳よ、鬚よ。何と遅れたことだらう。」アリスは、兎が角を曲るまでは、直ぐその後に居たのでしたが、曲つてみると、もうその影も形もありませんでした。そしてアリスは、自分が今長つ細くて、天井の低い広間に居るのを知りました。そしてその広間は、屋根から下つて居る一列のラムプで照らされて居りました。

 広間の四方には、扉がありましたが、すつかり錠がかかつて居りました。そしてアリスは、あちこちの扉の処に行つて、開けようとして見ましたけれど、開きませんので、どうしたらまた外に出られるか知ら、と思ひながら、しをしをと真中の座に帰りました。と、不意にアリスは、小さい三本脚のテーブルにぶつかりました。それは全部硝子で出来てゐて、小さい金の鍵の外には、何にも載つて居りませんでした。アリスが先づ考へついたことは、この鍵は広間の扉のどれかに、合ふだらうといふことでしたが、まあ残念にも、どの穴も余り大き過ぎ、そして鍵が小さ過ぎて、とにかくどの扉も開けられませんでした。けれども二度目に広間を廻つたとき、以前(まへ)には気がつかなかつた低いカーテンに、目が留りました。カーテンの後には、約一尺五寸位の、小さい扉がありました。そこで小さい金の鍵を、穴に入れて見ますと、しつくり合ひましたので、もうアリスは大喜びでした。アリスは扉をあけました。すると、そこは鼠の穴位の、小さい出入口につづいて居りました。アリスが跪いて見ると、その出入口の向ふには、今まで見たことのない程の、立派な庭園がありました。アリスはどんなにこの暗い広間から出て、綺麗な花床の間をぶらついたり、冷たい泉の中を歩いたりしたかつたでせう。けれども、扉口(とぐち)から頭をだすことさへも、できないのでした。「わたしの頭がでたつて、肩が出なければ、何の役にも立たないわ。まあ望遠鏡のやうにのびたり、ちぢんだりできるといいんだけれども、初めのやり方さへ、どうすればいいのだかわかれば、あとはわたし出来ると思ふわ。」と可愛想なアリスは考へました。何故と云つて、いろいろ珍らしいことが、たつた今しがたまでぞくぞく起つたのですから。アリスはほんとに、できないものなんて、この世の中にはめつたにないものと、考へ始めたのです。

 この小さい扉の処にいつまでゐても、何の役にも立たないやうに思ひましたので、アリスは、テーブルの処へ戻つていきました。ひよつとして、テーブルの上にもう一つ鍵が載つてゐたら有難いのだが、でなければ望遠鏡のやうに、人間をちぢめる規則が書いてある本があれば、などと思ひながら、近づいてみました。すると、今度アリスがテーブルの上に見つけたものは、小さな瓶(かめ)でした。(「これは確かに前にやなかつたわ。」と、アリスは言ひました。)そしてその瓶の首には、大文字で綺麗に印刷された紙の札が貼つてあつて、それには「お飲みなさい」と書いてありました。

「お飲みなさい」と書いてあるのは、大層有難いことでしたが、悧巧なアリスは、あわてて、そんなことをしようとはしませんでした。「いいえ、わたし先づ初めにしらべて見なくちや、「毒薬」と書いてあるかどうか。」と、アリスは言ひました。何故ならば、アリスはこれまでに、火傷をしたり、怖ろしい獣に食はれたりした子供の、いろいろなお話や、又は其の他のいやなことの書いてあるお話を、読んで居ました。そしてこんな出来事は、みんなその子供がお友達から教へられた分り易い法則を、覚えて居なかつたからなのでした。その法則と云ふのは、たとへて言へば、赤い焼火箸を長く持つて居ると、火傷をするとか、ナイフで指を大層深く切れば、いつも血が出るのだと云ふことなのです。ところでアリスは「毒薬」と書いてある瓶(びん)の水を、沢山飲めば、遅かれ早かれきつと身体をこはすと云ふことを、決して忘れずに居りました。

 けれども、此の瓶には「毒薬」と書いてありませんでしたから、アリスは思ひ切つて、嘗めて見ました。すると、大層うまいものですから(それは桜桃(さくらんぼ)の饅頭だの、カスタードやパインアップルや七面鳥の焼肉や、トフヰー、それからバタ附パンなどを、混ぜ合せたやうな味でした。)アリスはすぐにすつかり飲んでしまひました。

 

「あら、何だか変な気がしてきた! わたし望遠鏡のやうにちぢまるに違ひないわ。」とアリスは呟きました。

 それは、実際その通りなのでした。アリスは今ではほんの一尺程しか丈がありませんでした。そして、アリスはこの大きさなら、小さな扉を通つて綺麗なお庭に行けると思つたものですから、アリスの顔は、ニコニコして居りました。けれども最初の中アリスは、自分はこれより小さくちぢむのぢやないかと知らと思つて、一寸の間様子を見て居りました。アリスにとつて、それは一寸気懸りな事でした。「なぜつて、ことによると、おしまひには、私は蝋燭みたいに消えてしまふんぢやないかしら。さうしたら一体何ういふ事になるのだらう。」と、独語を言つて居りました。そして、アリスは、蝋燭が燃えてしまつてからは、蝋燭の炎は、どんな風に見えるか知ら、といろいろ頭の中で骨を折つて考へてみました。それもその筈です。何しろアリスはそんな物を、今までに見た覚えがありませんでしたから、しばらくしてから、もう何も起らないのを知つて、アリスは直ぐに庭園へ出ることにしました。ところが、まあ可哀想にアリスは、戸口に行きましたとき、小さな金の鍵を忘れて居るのに、気がつきました。で、それを取りにテーブルの処へ引返しました。が、その時アリスは、鍵に手がとどかないのに気がつきました。しかもテーブルが硝子で出来て居るものですから、鍵はそのガラスを透かして、アリスに全くよく見えるのです。アリスはテーブルの脚の一本に攀じ上らうと、一生懸命にやつて見ましたけれど、つるつるしてゐて上れません。それで疲れ切つて、可哀想にもアリスは、坐り込んで泣き出しました。

「まあ、そんなに泣いたつて仕様がないぢやないの。」とアリスは一寸鋭い声で自分に云ひました。「たつた今お止め!」アリスは大抵、自分にかう云ふよい忠告をするのでした。(けれども滅多に従つたことはありませんでした。)時によると、自分の眼に涙が出る程、手きびしく自分を叱ることがありました。アリスが或時自分相手に、珠投げ遊びをやつて居りましたとき、自分が自分を騙したと云つて、耳打をくらはせたことがありました。何故つて、この変りものの子供は、自分を二人の人間のやうに取り扱ふのが、好きなのでした。「でも、今は二人の人間のやうに、振舞ふのは駄目だわ。」と、可哀想なアリスは考へました。「何故つて、一人の立派な人間だけの、振舞もできないんだもの。」

 不図、アリスはテーブルの下に、小さな硝子の箱があるのに目をつけました。それを明けると、中には、大層小さな菓子が入つて居て、それには乾葡萄で綺麗に「お食べなさい」と書いてありました。「え、食べるわ。」と、アリスは言ひました。「これを食べて、わたしがモツト大きくなるのなら、鍵に手が届くし、もつと小さくなれば、扉の下の隙間にもぐり込めるわ。どちらにしても、お庭に出られることになる。どつちになつたつて構やしないわ。」

 アリスは一寸食べました。そして心配になつて独語をいひました。「どつちかしら、どつちかしら。」さう言ひながら、どつちになるのだか知るために、頭の上に手を載せて居りましたが、驚いた事に、ちつとも変りが起らないのでした。真実のところ、人がお菓子を食べた時、そんな風に何も起らないのが当前なのですが、アリスは今何かすれば、変つたことが起るもののやうに、待ちうける癖がついてしまつたものですから、何でもあたり前通りになつて行くと、全く退屈で馬鹿らしく思ふのでした。

 そこでアリスは又、せつせと食べだして、間もなくすつかり食べてしまひました。

二 涙の池

「変ちきりん、変ちきりん。」とアリスは叫びました。(余り驚いたものですから、アリスはその時、もつと正しい言葉を使ふことを忘れてしまつたのでした。)「今度は世界一の大きな望遠鏡のやうに、むやみと伸びるわ。足さん、左様なら。」(何故つて、アリスが下を見ると、足は最(も)う見えなくなるほど、ズツと遠くへ行つて居りました。)「まあ、可哀想な足さん、誰がおまへに、これからは靴や靴下をはかせてくれるのか知ら。わたしにはできないと思ふわ。わたしお前と余り遠く離れ過ぎてしまつたら、面倒なんか見て上げられないわ。お前はお前で、出来るだけ旨くやつていかなければ駄目よ。——でもわたし間違ひなく親切にして上げなけりや。」とアリスは思ひました。「それでないと、わたしの歩きたい方へ歩いてくれなくなるから。さうねえ、わたしクリスマスの度毎に、新しい靴を買つて上げよう。」

 そこで、アリスはどういふ風に贈物をしようかと、独りでその方法を考へてみました。「配達屋さんに、持つて行つてもらはなきやならないわ。」とアリスは考へました。「自分の足に贈物をとどけるなんて、まあ何んなに滑稽だらう。その名宛ときたら、ずゐぶんヘンテコなものだわ。

   炉格子附近敷物町

    アリスの右足様

            アリスより

「まあ、なんてつまらないことを言つて居るのだらう。」

 丁度この時、アリスの頭が広間の天井にぶつかりました。実際アリスはこの時、九尺以上も背(せい)がのびてゐたのでした。アリスは早速小さな金の鍵をとり上げて、庭の戸口へと急いでいきました。

 可哀想に、アリスは、今では横に寝ころんで、片目で庭をのぞくのが関の山でした。ぬけだすことなど、ますますむづかしいことでした。それでアリスは坐り込んで又泣き始めました。

「お前恥づかしく思はないかい。」とアリスは言ひました。「お前のやうな大きな女の子が、こんなに泣くなんて。すぐと泣くのをお止め。」そのくせアリスは相変らず、何升となく涙を流しながら、泣きつづけました。それでとうとうアリスの身の廻りに、一つの大きな池ができて、四寸位の深さになりました。そして広間の半分位までとどいて行きました。

 しばらくすると、遠くでバタバタと小さな足音がするのを、アリスは聞きました。それで、アリスはあわてて目を拭いて、何が来たかと見つめました。それは例の白兎なのでした。片手に白のキツド皮の手袋をもち、片手には大きな扇子を持つて、立派な服を着て戻つて来たのでした。兎はぶつぶつ独語を云ひながら、大急ぎでピヨンピヨン跳んで来ました。「オオ、侯爵夫人、侯爵夫人、オオ、あの方を待たしたら、お怒りが大変だらうな。」

 アリスはもうその時すつかり困り切つて、誰でもよい、助けを頼まうと思つて居たところでした。それで兎がアリスの側へ近くやつて来ましたとき、低いビクビクした声で、「もしお願ひですが——」と言ひ始めました。兎はびつくりして、ひどく跳び上つて、そのはずみにキツドの手袋と扇子を落して、一生懸命暗闇の中へ、駈け出して行きました。

 アリスは扇子と手袋を、拾ひ上げました。広間の中が大層暑いものですから、アリスは、始終扇子で煽ぎながら、話つづけました。「まあ、まあ、今日は、何て珍らしいことばかりあるんだらう。昨日なんかは、何もかも、いつもと変りなかつたわ、わたし一晩の中に、別の者に変つてしまつたのか知ら。ええと、わたし今朝起きたとき、いつもと同じだつたか知ら、何だか少し違つた気持がして居たやうにも思へるけど。でもわたし、同じ人間でないとしたら、それぢやわたしは、一体誰だといふことが、問題になつてくるわ。アア、それは大変な考へ物だ。」それでアリスは、自分と同じ年頃の子供の中、誰と変つたのかと思つて、知つて居る子供達を、あれかこれかと考へてみました。

「わたしアダ(エイダ)でないことは確かよ。」とアリスは言ひました。「何故つて、あの方の髪は、長い捲毛だけれど、わたしのはちつとも捲毛でないんだもの、それかといつてわたしメーベルでもないわよ。だつてわたし、こんなに物識(ものしり)なのに、ほら、あの子はほんのぽつちしか物を識つてゐないぢやないの。それに、あの人はあの人で、わたしはわたしだわ――マア何だかすつかり分らなくなつて来た。ええと私、今まで知つてゐた事をちやんと知つてゐるか、試してみよう。四五の十二、四六の十三、それから四七の――おやおや、こんな割合ぢや二十にとどかないぢやないの。でも、九九なんか面白くないわ。地理をやりませう。ロンドンはパリーの都で、パリーはローマの都で、ローマは――だめだわ、みんな間違つて居るわ。わたしメーベルと変つてしまつたに違ひないわ。わたし「小さな鰐が――」を唄つて見よう。」さう言つて、アリスは両手を前垂の上で組合せて、丁度学校で本でも読むように、歌をくり返し始めました。けれどもアリスの声はしやがれた妙な声で、文句がいつものやうにでてきませんでした。

   小さい鰐がピカピカと、

    光る尻尾をうごかして、

   ナイルの水をかけまする、

    金の鱗の一枚づつに、

   さも嬉しげに歯をむいて、

    きちんと拡げる肢の爪、

   小さい魚を喜び迎へる、

    につこりやさしい顎開けて。

「これでは確かに文句が違つてるわ。」と可哀想にアリスは言ひました。そして、眼の中には涙を一杯ためて、又言ひつづけました。「わたしとうとう(ママ)メーベルになつたに違ひないわ。わたしこれからは、あの汚い小さい家に行つて暮さなければならないのかしら、そしておもちやなんて、ろくにありやしないのだ。そしてまあいつでも沢山御本を読まされるんだわ。いいえ、わたし決心しちまつた。若しわたしがメーベルになつたのなら、ここに坐つたままで居るわ。みんなが頭を下げて『さあ、こちらへお出で。』と言つても、言ふことを聞いてやらないわ。わたしは上を向いたきりで言つてやらう。『でもわたしは誰なのですか。それを先に言つて下さい。そしてわたしが好きな人になつて居たのだつたら、わたし行くわ。さうでないなら、わたし誰か他の人になるまで、ここに坐つたままで居るわ。』つて。——でも、ああ何て事だ。」アリスは急に涙をドツと出して泣き出しました。「みんなお辞儀をして来てくれるといいんだが。わたし此処に独りぼつちで居ることは、あきあきしてしまつたわ。」

 かう言つてアリスは、ふと自分の手を見ました。すると驚いた事には、喋つて居る内に、自分が兎の小さいキツドの白手袋をはめてしまつて居るのを知りました。「わたしどうしてこんなことができたのだらう。」とアリスは考へました。「わたし又小さくなつたに違ひないわ。」アリスは起ち上つて丈をはかりに、テーブルの処へと行きました。するとなるほど、思つた通りに二尺ばかりの背に、なつて居りました。そしてまだずんずん縮みかけて居りました。アリスは直ちに、これは扇子を持つて居るからだといふことに気がつきましたので、あわてて扇子を投げだして、身体がすつかり縮みこんでしまふのを、やつと免かれました。

「まあ、ほんとにあぶないところだつた。」と、アリスはこの急な変り方に、大層驚きながらも、自分の身体がまだなくなつてしまはなかつたのを、喜んで言ひました。「さあ、それぢやお庭に行かう。」アリスは大急ぎで、小さな扉口の処へ引返して来ました。ところが、おや! その戸は又、元通りに閉まつて、小さな金の鍵は前のやうに、ガラスのテーブルの上に載つてゐるではありませんか。「これでは前より悪くなつたことになるわ。」と可哀想な、この子は考へました。「わたしこんなに小さくなつたことなんか、決してありやしないわ。ほんとに、これぢやあんまりひどいわ。」

 かう言つたとき、思はずアリスはするつと、足を滑らしたものです。そして、そのままポチヤンと、顎まで塩水の中に入つてしまひました。初めアリスの頭に浮んだのは、自分がどこか海にでも落ちたのだらう、といふ考へでした。「さうだつたら、わたし汽車ででも帰れるわ。」と独語を言ひました。(アリスは生れてから一度海岸に行つたことがありました。それでアリスは、英国の海岸なら、何処に行つてもそこにはいろいろの遊泳(およぎ)の道具があつて、子供たちが気の鍬(くは)で砂を掘つたり、それから宿屋が一列に並んで居たり、その後の方には、停車場があるものだと、大体思ひこんで居りました。)けれども、間もなくアリスは、自分が先き程背の高さ九尺程もあつたときに流した涙の池に、落ちて居るのだと云ふことに気がつきました。

「わたし、こんなに泣かなければよかつたわ。」とアリスは何うかして、上らうと思つて、泳ぎまはりながら言ひました。「あんまり泣いたので、自分の涙で溺れるやうな罰をうけるんだわ。でも随分妙な事があるもんだ。兎に角、今日は何から何まで変てこなことだらけだわ。」

 丁度其の時、アリスは此の池で、自分から一寸離れたところで、何かが水をばちやばちややつてゐる音を聞きました。アリスは「何だらう。」と思つて、傍へズツと泳いでいきました。最初アリスはそれは海象(かいぞう)か河馬に違ひないと思つたものです。けれどもそれから自分が今では、どんなに小さくなつて居るかといふことを思ひだしました。それでアリスは直ぐに、それが自分と同じやうに、池の中に落ち込んだただの鼠なのだといふことが分りました。

「さうだ、この鼠に話しかけたら、何かの役に立つかも知れない。」と考へました。「何もかもここでは変つて居るんだから、鼠だつてお話ができるかも知れないわ。とにかくためしてみたつて、何の損にもならないんだから。」そこでアリスは言ひ始めました。「もし鼠よ、この池の出口を知つて居るの、わたし最う泳ぎ廻るのに、すつかり疲れちやつたの。もし鼠よ。」(アリスはもし鼠よと、かう言つて鼠に話しかけるのが正しいに違ひないと思ひました。何故つて今までに、こんなことをしたことがありませんでしたけれども、兄さんのラテン文法の文に「鼠が――鼠の——鼠に――鼠を――もし鼠よ。」と書いてあるのを思ひ出したのでした。)鼠はアリスの顔を穴のあく程見つめました。そして片方の可愛らしい目で、アリスに目くばせしたやうでしたが、何にもものは言ひませんでした。「多分英語が分らないんだわ。」とアリスは思ひました。「ウヰリアム大王と一緒に、渡つて来たフランスの鼠かも知れないわ。」(アリスがこんなをかしな考へ方をしたのも、一体歴史に就いてアリスは、何とか彼(かん)とか聞き齧つてはゐましたけれども、何が何年前に起つたのだと云ふやうな、明瞭(はつきり)した考へは持つてゐなかつたからです。)そこでアリスは、又言ひ始めました。「Ou est ma chatle?」(わたしの猫は、何処に居ますか。)これはアリスのフランス語の読本の最初に、あつた文章でした。すると突然鼠は池から跳び上り、その上まだおどろきで身体中を、震はせてゐるやうにみえました。「まあ、ごめんなさい。」と、アリスは可哀想な動物の気持を悪くしたと思つて、急いで言ひました。「わたしお前さんが猫をお好きでないといふことを、すつかり忘れて居ましたわ。」

「猫は好きでない。」と鼠は憤つた金切声で言ひました。「若し、お前さんがわたしだつたら、猫が好きになれるかい。」

「うん、さうなりや多分好きにならないわ。」とアリスは宥めるやうな声で言ひました。「おこらないでね、けれどわたし家(うち)のデイナーだけは、お前さんにだつて見せたい位よ。お前さん、デイナーを一目見た日にや、きつと猫が好きになるにきまつてるわ。それは可愛らしい、おとなしい猫なのよ。」と、アリスはぐづぐづ池の中を泳ぎ廻りながら、独語のやうに、話して居りました。「その猫は、暖炉の側でやさしい声でゴロゴロ云つたり、前足をなめたり、顔を洗つたりするのよ――それから子供のお守をさせるのに、優しくつてとてもいいの。——そして鼠をとることなんか、素敵に旨いのよ――あらつ、かんにんしてね。」とアリスはまた叫びました。何故なら、今度こそは鼠が身体中の毛を逆立てたので、もうすつかり怒らしてしまつたと感じたからです。「お前さんがいやなら、わたし猫達の話なんか止めませう。」

「わたし達だつて? ふん。」と鼠は尻尾の先まで、ぶるぶるふるはせていひました。「まるでわたしまでが、そんな話を一緒にやつてるやうに聞えるぢやないか。わたしの一家の者は、むかしから猫が大嫌ひだつたのだ。あんな汚らしい下等な賤しいものなんか、もう二度とあいつの名なんか聞かせて貰ひたくないもんだ。」

「ほんとにお聞かせしないわよ。」とアリスは大層あわてて、話の題を変へようとしました。「お前さんは――あの前さんは――好きかい――あの、犬は。」鼠は返事をしませんでした。それでアリスは、熱心に話つづけました。「家の近所に大層可愛らしい小さい犬が居るのよ。お前さんに見せて上げたいわ。」

「目の光つて居る小さいテリアなの。そしてまあ、こんなに長い茶色の捲毛をして居るのよ。そして何か投げてやると、すぐにとつてくるし、そして御馳走をせがむ時には、チンチンもするの。何でも、いろんなことをするのよ。——わたし半分位しか覚えて居ないわ。——その犬は百姓のよ――あんまり役に立つんで、その百姓は千円の価値があると言つて居るわ。そして鼠なんかすつかりかみ殺してしまふんだつて、——あら、また!」悲しい声でアリスは叫びました。「又怒らしてしまつたか知ら。」なぜなら、鼠は一生懸命アリスの側から、泳ぎ去らうとして、池中を騒騒しく掻きまはしたからです。

 そこでアリスはやさしく後から、呼びかけました。「もし、鼠さん、戻つていらつしやいよ。お前さんが嫌なら、猫の話も、犬の話もしませんから。」鼠はこれを聞いて振り返つて、静かにアリスの所に泳いで来ました。鼠の顔は全く青くなつてしまひました。(怒つてゐるのだとアリスは考へました。)鼠は低いオロオロ声でいひました。「向ふの岸に行きませう、あすこでわたしは身の上ばなしをしませう。さうすれば、何故わたしが猫や犬が嫌ひだかお分りになります。」

 丁度出かけるのによい時でした。何故といつて、池の中は、落ち込んだ鳥や獣でガヤガヤしはじめて居りましたから。鴨や、ドードー(昔印度洋の Mauritius に住んで居た大きな鳥)や、ローリー(一種の鸚鵡)だの、子鷲だの、いろいろな奇妙な動物が、集つて居りました。アリスが先になつて泳ぐと、みんな後から岸に泳いでいきました。

三 コーカスレースと長い話

 池の土手に集つたものは、ほんとに奇妙な格好をした者たちでした。——尾を引きずつた鳥だの、ベツタリと毛皮が身体にまきついて居る獣たちで、みんなずぶ濡れで、不機嫌な、不愉快らしい様子をして居りました。

 勿論、第一の問題になつたのは、どうして元通りに、身体を乾かすかといふことでした。みんなはこの事に就いて、相談を始めました。しばらくする中、アリスは、自分がこの者達と、馴れ馴れしく話をしてゐるといふ事が、全く当り前のことのやうに思はれました。まるで、皆と小さい時分から、知り合だつたかのやうに。で、実際アリスは、ローリーと随分長いこと議論をしましたので、とうとうローリーは不機嫌になつてしまつて、「わしはお前より年をとつてゐる。だからお前より、よく物を知つて居るに違ひないんだ。」と言ひました。しかしアリスは、ローリーの年がいくつだか知らないうちは、承知ができませんでした。ところがローリーは、自分の年を云ふことを、はつきりと断りましたので、議論はそれつきりになつてしまひました。

 最後に、仲間の中で、幾分幅の利くらしい鼠が言ひ出しました。「みなさん、坐つてわたしの云ふことを、聞いて下さい。わたしは直ぐに皆さんをよく乾かして上げます。」みんなは、一人残らず坐つて、大きな環をつくりました。そしてその真中には鼠が坐りました。アリスは心配さうに、鼠をヂツと見て居ました。何故なら、早く乾かしてもらはないと、ひどい風邪でも引きさうで、しやうがありませんでしたから。

「エヘン。」と鼠は、勿体ぶつた様子をしました。「皆さん初めてよろしいですか。これはわたしの知つて居るかぎりでは、一番干からびた面白くない話です。どうか皆さんお静かに――さて法王より許しを得たウヰリアム大王は、やがてイギリス人の帰順をうけたのであります。その時イギリス人は指導者を必要として居ました。そして専制と征服には、その当時馴らされて居りました。ヱドウヰンとモルカー、即ちマーシヤ及びノーザムブリアの両伯爵は――。」

「うふ。」とローリーは、身慄ひをして言ひました。

「一寸伺ひますが。」と鼠は顔をしかめながら、しかし叮嚀に「君は何か言ひましたか。」

「いいえ。」とローリーはあわてて答へました。

「わたしはまた、何か言はれたと思つたのでした。」と鼠は言ひました。「では、先をお話しませう。エドウヰンとモルカー、即ちマーシャ及びノーザムブリアの両伯爵は、王のための宣言をしました。愛国者であるカンタベリーの大僧正、スタイガンド(Stigand)ですらも、それを適当なことと知りました――。」

「何を見つけたつて?」と鴨が言ひました。(英語で今の「知りました。」といふ言葉は、普通「見つけた。」といふ意味に、使はれるものだからです。)

「それを知つたのだ。」と鼠は一寸おこつて答へました。「勿論のこと、君は『それ』が何のことだか知つて居るだらう。」

「わたしは自分で何か見つけるとき、『それ』が何であるか、よく分るんだよ。」と鴨が言ひました。「大抵のところ、それは蛙か、みみずなんだよ。それで問題はだね、大僧正が何を見つけたかといふことだ。」

 しかし鼠は、此の問にかまはないで、急いで話を続けました。「——エドガア・アスリングと一緒に、ウヰリアムに会つて、王冠を捧げることを、よいことだと知つたのでした。ウヰリアムの行ひは初めの中は穏かでした。けれども、ノルマン人の無礼な――、ねえ、どうです。お工合は。」と鼠はアリスの方を向いて言ひました。

「まだやつぱり、びしよびしよよ。」とアリスは悲しさうな声で言ひました。「そんな話なんか、ちつともわたしを乾かしてくれさうもないわ。」

「左様な、場合には。」とドードーは、偉さうな風をして、立ち上りながら言ひました。「わたしは此の会議を延ばすことを申し出ます。その理由は、一層有効なる救済法を、直ちに採用せんがためであります。」

「英語で言つてくれ。」と子鷲が言ひました。「わたしにや、今の長い言葉の意味が半分も分らないや。第一お前さんだつて分つて居さうもないね。」

 かう言つて子鷲は頭を下げ、うすら笑ひをかくしました。外の鳥たちは聞えるほど大きな声で笑ひました。

「わたしが言はうとしたことは。」とドードーは、怒つた声で言ひだしました。「われわれを乾かすためには、コーカスレースをやるのが一番いいといふことだつたのです。」

「コーカスレースつて、何のことですか。」とアリスが言ひました。そのことをアリスはひどく知りたいと思つた訳ではないのです。ただドードーが、あとは誰か他の者が、口を利くべきだとでも思つたやうに、一寸口をやすめたのに、誰も話しだす様子が、見えなかつたからなのです。

「ウン。」とドードーは言ひ出しました。「それを一番よく分るやうにする方法は、それをやつて見ることだ。」(みなさんの中、冬になつて、これをやつて見たいと思ふ人が、あるかも知れませんから、ドードーがやつて見せた通りを、お話する事にします。)

 まづドードーは、輪の形に競走場を仕切りました(「さうキチンとした輪の形でなくてもよい。」とドードーは言ひました。)それから仲間達を、仕切に沿うて、あちら、こちらに並べました。そして競走は「一・二・三よし。」の合図なんかなしで、みんな思ひ思ひの時に走り始め、好きなときに止めるのでした。それですから競走がいつ済んだかなどといふ事は、一寸分りませんでした。けれども皆が三十分かそこら走つて、もうすつかり身体が乾いてしまひました。そのとき、ドードーが急に「競走終り。」とどなりました。で、みんなはドードーの周りに集まつて、呼吸を切らせながら「だけど誰が勝つたんだ。」と訊きました。

 この問にはドードーは、よほど考へなければ返事をすることができませんでした。それで長い間一本の指を額にあてて、(これはシエークスピヤの画像で、みなさんがよく見る姿勢です。)坐りこんで居ました。其の間他のものは黙つて待つて居ました。やがてドードーは、やつとかう言ひました。

「みんなが勝つたんだ、だからみんなが賞品をもらふのだ。」

「では誰が賞品をくれるのですか。」とみんなは一斉に訊きました。

「うん、あの子だよ無論のこと。」とドードーは一本の指で、アリスを指さしながら言ひました。そしてみんなは、直ぐにアリスの周囲に集まつて、あちらからも、こちらからも「賞品を、賞品を。」とワアワア言ひました。

 アリスはどうしてよいか、考へがつきませんでした。で、困りきつた揚句、ポケツトに手を突込んで、ボンボンの入つた箱をひつぱり出しました。(幸ひにもそれには塩水が入つて居りませんでした。)そしてこれを賞品として、みんなに渡しました。丁度一人に一つづつありました。

「だがあの子だつて、賞品を貰はなければならないよ。ねえ。」と、鼠が言ひました。

「勿論さ。」とドードーは、大層真面目くさつて答へました。「外には何がポケツトに入つて居ますか。」とアリスの方を向きながら、鼠に言ひました。

「指貫だけ。」とアリスは悲しさうに言ひました。

「それをここへお渡し。」とドードーが言ひました。

 それからみんなは、最う一度アリスのぐるりに、集まつてきました。それからドードーは、おごそかに指貫をアリスに贈つて言ひました。「わたし達は、あなたがこの立派な指貫を、お受取り下さることをお願ひします。」この短い演説が終(す)むと、一同は拍手をしました。

 アリスはこの様子を、随分馬鹿らしいと思ひましたが、みんなが真面目くさつた顔をして居るものですから、笑ふことも出来ませんでしたし、それに何も云ふことを考へつきませんでしたから、ただ一寸お辞儀をしたきりで、出来るだけしかつめらしい顔をして、指貫を受取りました。

 さて、次にすることは、みんながボンボンを食ふことでした。このことはかなりの騒ぎを起して、ガヤガヤしました。何しろ大きな鳥はこれぢや味も分らないと言つて、ブツブツ不平を言ひますし、小さい鳥は喉につかへて、背中をたたいて貰ふ有様でした。けれどもやつとその騒ぎも終んで、みんなは車座に坐つて、鼠にもつとお話しをして呉れと頼みました。

「お前さんは、身の上話をするつて約束したでせう。」とアリスが言ひました。「そして――あの、ネの字とイの字が、何故嫌ひだかつていふことをね。」とアリスはまたおこられやしないかと思つて、小さい声で言ひました。

「わたしのお話は長い、そして悲しいものなんです。」と鼠はアリスの方を向いて、溜息をつきながら言ひました。

「全く長い尾だわ。」とアリスは、不審さうに、鼠の尻尾を見て言ひました。「けれどもそれが何故悲しいといふんですか。」(英語で「おはなし」といふ語は「尻尾」といふ言葉と音が同じに聞えるのです。)そして鼠がお話をする間も、アリスはその謎を一心に考へ解かうとしてゐました。ですからアリスの頭の中では、鼠のお話が一寸次のやうな風になりました。

   やま犬が、お家で

   会つた 鼠に

    いひました。

    「裁判遊びを二人

   でしようぢやないか。

    そしておれはおまへを

    訴へてやる――。」

    「うん、わたしは

    いやとは言はぬ。

    今朝はわしは

     仕事がないか

     ら裁判遊びを

     してもよい。

     と鼠が言ひ

      ました。

      「ねえ、君

   陪審官もない

    判事もない

     そんな裁判は

    息が切れてしま

    ふ「だらうて。」

    「なにわたしは

    判事にもなつ

     たり、陪審

      にもなつた

      りする。」

    と年をとつた

     ずるい犬

      は言ひまし

       た「わしが

        ひとりで裁判

         をやつて

          お前に

           死刑の

            宣告をしてやる。

「お前は聞いて居ないな。」と鼠はきびしい声で、アリスに言ひました。「お前は、何を考へて居るのだい。」

「ごめん遊ばせ。」とアリスは大層へり下つて申しました。「お前さんは、五番目の曲処(まがりめ)に来たんだつたねえ。」

「さうでない。」と鼠は強く大層怒つてどなりました。

「難問ね。」とアリスはいつも、自分を役に立てさせようと思つて、心配らしく周囲を見ながら言ひました。「まあ、わたしにその難問を、解く手伝ひをさせて下さいな。」

「わたしはそんなことは知らんよ。」と鼠は立ち上つて、歩きながら言ひました。「お前はこんなつまらないことを言つて、わしを馬鹿にしてゐる。」

「わたしそんなつもりではなかつたのよ。」とアリスは可哀想にも、言ひ訳をしました。「けれど、あなたはあんまり怒りつぽいわ。」

 鼠は答へる代りに唸つた許りでした。

「どうか戻つて来て、お話をすつかり済ませて下さい。」とアリスは後から、呼びかけました。そして外のものも、一緒に声を合せて言ひました。

「さうです、どうかさうして下さい。」けれども鼠は、がまんして居られないやうに、ただ首を振つただけで、前より足を早めて歩いて行きました。

「鼠君がここに留つてゐてくれないとは、全く残念なことだ。」とローリーは、鼠が見えなくなると、直ぐさま溜息をして言ひました。この時、年をとつた蟹が自分の娘の蟹に言ひました。「ねえ、お前、これを手本にして、決して怒るものぢやないよ。」

「言はなくつてもいいわよ。母さん。」と若い蟹は少し怒つて言ひました。

「牡蠣の我慢強いのを真似れば十分だわ。」

「家のデイナーがここに居ればよいんだけれど。」とアリスは大きな声で、別に誰に話しかけるともなしに言ひました。「デイナーなら、鼠をぢきに連れてかへるわ。」

「デイナーつて誰ですか、お聞かせいただけませんでせうか。」とローリーが言ひました。

 アリスは夢中になつて答へました。何しろこの秘蔵の猫の事ときたら、いつでも話したくて、むづむづしてゐるのですから。「デイナーつて云ふのは、家の猫ですわ。そして鼠をつかまへるのが、お前さん考へもつかない程に、随分上手なのよ。それにまあ鳥を追つかけるところなんか、本当に見せたいわ。鳥なぞ狙つたと思つてると、もう食べてしまつてゐる位よ。」

 このお話は、仲間に大変な騒ぎを起させました。鳥の中には、あわてて逃げだしたものもありました。年をとつたみそさざいは、注意深く、羽づくろひをしていひました。「わしはほんとに家に帰らなければならない。夜の空気は喉をいためていけない。」すると金絲鳥は、声をふるはしながら、子供たちに言ひました。

「さあお帰り、寝る時刻ですよ。」いろいろと口実を作つて、みんな去つてしまひました。それでアリスが独ぼつち遺されてしまひました。

「わたしデイナーの事なんか、言はなければよかつたわ。」と悲しい調子で独語を言ひました。「此処では誰もデイナーが嫌ひらしいわ。デイナーは確かに世界中で一番好い猫だと思ふんだけれど。まあ、わたしの可愛いデイナー、わたしまた、お飴に会へるかしら。」さう言つてアリスは、又泣き始めました。アリスは大層淋しくて心細くなつたからでした。けれどもしばらくすると、遠くの方から、又もぱたぱたといふ小さい足音が聞えてきました。アリスは事によつたら、鼠が機嫌をなほして、お話をスツカリ済ませに帰つて来たのではないかと思つて、熱心に上を見て居りました。

四 兎が蜥蜴(とかげ)のビルを送出す

 それは白兎でした。ノロノロと歩いて来ながら、まるで何か落し物でもしたやうに、周囲(まはり)を、ヂロヂロと見て居ました。そしてアリスは、兎が独で、次のやうにぶつぶつ言つて居るのを耳にしました。「侯爵夫人、侯爵夫人、まあ、わたしの足、まあ、わたしの毛皮と鬚、夫人はわたしをきつと死刑になさることだらう。わたしどこで落したんだらうかなあ。」アリスは直ぐに兎が、扇子と白いキツドの手袋を探して居るのだと考へました。そこで、親切気を出して、探してやりましたが、どこにも見当りません。——アリスが池の中で泳いでからは、すつかり何もかも変つてしまつたやうに見えました。ガラスのテーブルや、小さな扉のある例の大きな広間は、すつかり消えてなくなつてゐるのでした。

 アリスが探し廻つて居ます中、兎はすぐにアリスを見つけて怒つた声でどなりました。「おい、メーリー・アン、お前はここで何をして居るのだ。直ぐ家へ走つて帰つて、手袋と扇子を持つてこい。さあ早く。」

 アリスはこの言葉に驚いて、人違ひだと言訳をするひまもなく、兎の指ざした方へと、直ぐに走つて行きました。

「あの人、わたしを女中と思つたんだわ。」と、アリスは走りながら、独語を言ひました。「わたしが、誰だか分つたら、どんなに驚くことでせう。でも、手袋と扇子をとつて来てやつた方がいいわ――もし手袋と扇子が見つかるものならねえ。」かう言つて居るとき、アリスは小さいキチンとした家の前に出ました。その家の玄関の戸には、ピカピカする真鍮の名札に「W. Rabbit」と、彫りつけてありました。アリスは案内も乞はずに、あわてて二階へ上りました。それは手袋や扇子を見つけない中に、ほんたうのメーリー・アンに会つて、追ひ出されるといけないと思つたからでした。

「ずゐぶん妙ねえ。」とアリスは、独語をいひました。「兎のお使ひをするなんて。此の次にやデイナーがわたしを、お使ひに出すかも知れないわ。」かう言つてアリスは、これから先き起つて来ない事でもない、さういふ事を考へて居りました。

「アリス嬢さん、すぐいらつしやい。御散歩(ごさんぽ)のお支度をなさいませ。」「ばあや、直きに行つてよ、でもね、わたしデイナーが帰るまで、此の鼠の穴を見張りしてやる事にしたの。鼠が出ないやうにね。」——などとアリスはしやべり続けました。「だけれど、もしデイナーがうちの人達にこんなに用をいひ付けるやうになつたら、うちの人達はデイナーを内には、おかないでせうねえ。」

 この時アリスは、小綺麗な室に入つていきました。窓際にテーブルが、一つ置いてありました。その上には「アリスが望んだやうに」一本の扇子と小さい白のキツドの手袋が、二三対置いてありました。アリスは扇子と手袋を、とり上げて、室を出て行かうとしましたとき、鏡のそばにあつた小さな壜に、ふと目を留めました。今度は「お飲み下さい」と云ふ札は、貼つてありませんでしたが、それでも構はず栓を抜いて、唇にもつていきました。そして独語に「何かしら、面白いことがきつと起るのね、何か食べたり、飲んだりするといつも。だから今に此の壜のおかげで、どうなるか試してやらう。わたし元通りに大きくなりたいわ。こんなちつぽけなものになつて居ることなんか、あきあきしてしまつたんだもの。」そして実際その飲物は、力をあらはしました。しかもそれはアリスが思つたよりズツと早く、半分も飲んでしまはないうちに、アリスの頭は天井につかへてしまつて、首を曲げないと、折れてしまふほどになりました。アリスは、急いで壜を下に置き、独語をいひました。「もう沢山、——わたしこれ以上もう大きくなりたくないわ。これでは戸口を通つて出られやしない。——わたしこんなに飲まなければよかつた!」

 ああしかし、もう間に合ひませんでした。アリスはズンズン大きくなつて、間もなく、床に膝をつかなければなりませんでした。しかしもう、それでも窮屈になつてしまひましたから、片肘を戸口に支へて、片腕を頭にまきつけて、寝そべつてみました。ところがそれでもズンズン延びていきましたので、仕方なくアリスは、窓から片腕を出して、片足を煙突の中に入れて、独語をいひました。

「これぢやあとどうなつても、もう何にも仕様がないわ。一体わたしどうなることだらう。」

 ところが運よく、魔法の壜の効力は丁度此の時で、すつかり尽きたのでした。で、アリスはもうその上、大きくはなりませんでした。でも相変らず不便でした。そしてもう室から出て、いけさうにもないと思ひましたので、アリスはしみじみ、不幸(ふしあはせ)なことだと思ひました。

「おうちに居た時の方が、ずつと気が楽だつたわ。」と可哀想なアリスは思ひました。「大きくなつたり、小さくなつたり、なんかしないし、又、鼠や兎に用をいひつけられることなんかないから。わたし兎の穴に入らなければよかつたんだわ。でも――でも――こんな目に逢ふのも、一寸めづらしい事だわねえ。どうしてこんなことになつたのか知ら。わたし、いつそお伽噺を読んでも、そんな事があるなんて思つた事なんてないのに。それが今では、わたしがその中に入つて居るんだもの。きつとわたしのことを書いた本が、できると思ふわ。きつと。わたしが大きくなつたら、書いて見ようかしら。——でも、わたし今では大きくなつて居るのねえ。」と、悲しさうな声でアリスは云ひました。「兎に角ここではもう、これ以上大きくならうつたつて、なりやうがないわ。」

「でも、さうなれば。」とアリスは考へました。「わたしは今より決して年をとらないで、居られるんぢやないかしら。さうなら有難いわ。とにかく、決しておばあさんに、ならないなんて――でもさうすると――いつも御本を教はらなければならないのねえ。ああ、わたし、それは御免だわ。」

「まあ、馬鹿なアリス。」とアリスは自分で返事をしました。「どうしてお前こんなところで、勉強ができて? お前の居るだけがやつとなのに、教科書を置くところなんか何処にあるの!」

 かう云ふ風にアリスは、一人で、こつちの話手、あつちの話手になつてお話をして居ましたが、少し経つて外で声がしましたので、自分のお話を止めて、耳をすませました。

「メーリー・アン、メーリー・アン。」とその声は言ひました。「すぐにわたしの手袋を持つて来てくれ。」それからパタパタといふ小さい足音が、階段に聞えました。アリスは兎が自分を、さがしにやつてきたのだといふことを知りました。それでアリスは自分の身体が、今では兎の大きさの千倍程もあり、兎なんか怖がる理由はないなんていふことを、すつかり忘れてしまつて、家がゆらぐ程身ぶるひをしました。

 やがて兎が入口のところまで上つて来て、戸を開けようとしましたが、その戸は部屋の中の方へ押すやうになつて居て、アリスの肘が、それを強くつつぱつて居ましたので、開けようたつて駄目でした。このとき、アリスは「廻つて、窓から入らう。」と兎が言つて居るのを聞きました。

「それも駄目だわ。」と、アリスは考へました。しばらく待つて居ると、窓下に丁度兎が来たやうな足音が聞えましたので、アリスは、だしぬけに、手を出して一掴みしました。けれどもアリスは何もつかまへられないで、小さいキヤツと云ふ声と、ドタンと落ちた音と、ガラスの破壊れた音を聞きました。その音でアリスは、胡瓜の温室か何かの上に、兎が落ちたのだと考へました。

 すると怒つた声が聞えてきました。——それは兎の声でした。——「パツト、パツト。お前は何処に居るのだ。」するとこれまでに聞いたことのない声が「ここに居ますよ、御主人様、林檎の植付けをやつて居るんですよ。」と言ひました。

「何だ、林檎の植付けだつて。」と兎は怒つて言ひました。「さあ、ここへ来てわたしを、ここからだして呉れ。」(ガラスのこはれる音が又しました。)

「おい、パツト、窓のところにあるのは、あれは何んだい?」

「御主人様、あれは確に腕ですよ。」(その人は「う、うで」と腕のことを言ひました。)

「腕だつて? 馬鹿! あんな大きな腕があるかい。窓中一杯になつて居るぢやないか。」

「御主人様、全くさやうでございます。でも、なんと言つても腕でございます。」

「ウン、だが兎に角、此処には用がない。行つて出してしまへ。」

 それから長い間、シンと静まり返つてゐました。アリスは時時次のやうな囁き声をきくだけでした。「ほんとに、御主人様、実際嫌ですよ。全くのこと」——「わしの云ふ通りにしろ、この臆病者め!」そこでアリスはとうとう又手を延ばしだして、もう一度空をつかみました。今度は二つの小さいキヤツと云ふ声がして、ガラスの破壊れる音がまたしました。「まあ随分沢山胡瓜の温室があるらしいわねえ。」とアリスは考へました。「あの人達、今度は何するか知ら。わたしを窓から引張りだすつて、さうして呉れれば仕合せだわ、わたしはもうこれ以上、ここに居たくなんかないんだもの。」

 アリスは暫らくの間、待つて居ましたが、何にももう聞えませんでした。やがて小さな手押車の輪の音が、聞えて来ました。そして多勢(おほぜい)の声が、がやがや話合つて居るのが聞えました。アリスは、その言葉を聞き分けてみました。

「別の梯子は、どこにある。——一つしかありませんでした。ビルが一つもつて行つたんです。——ビル、ここへそれを持つて来い。——それをこの隅へ立てかけろ。——さうぢやない、先づしつかり一緒に縛りつけるんだ。——まだ半分にもとどかない。——まあ、これでも十分ですよ。そんなに口やかましく云はないで下さい。——おい、ビル。この縄をしつかりつかまへるんだ。——屋根は大丈夫かい。——そのブラブラの瓦に気つけろ。——やあ落ちかかつて来た。真逆様に(大きな音がしました)——これ、誰がしたんだ。——ビルらしいなあ。——誰が煙突を下りるのだい。——いやだ、おれはいやだ。——お前やれ。——そんなことはいやだよ。——ビルが下りなきやいけない。——おいビル、御主人がお前に下りろと云ふ、御言ひ付けだよ。」

「まあ、それではビルが、煙突を下りることになつたのねえ。」とアリスは独語をいひました。「まあ何もかも、ビルに押しつけるのねえ。わたしなら何をもらつたつて、ビルになりたくないわ。この炉はほんとに狭くるしいのねえ。でも、少し位なら、蹴られさうに思へるけれど。」

 アリスは煙突の下まで足をのばして、待つて居ると、やがて小さな動物が(それはどんな種類のものだか、分りませんでしたが)アリスのすぐ頭の上で、煙突の内側を引つかいたり、這ひまはつたりする音が聞えはじめました。その時アリスは「それがビルだな。」と独語をいつて、きつく蹴つてみました。そして次にどんな事が起るかと、待ち構へて居りました。

 最初にアリスの聞いた事は「や! ビルが出て来た」と云ふ大勢の声でした。それからは例の兎の声だけになつて「あいつをうけてやれ、そら垣根の傍にゐるお前が。」といひました。それから一寸静かになり、その中又ガヤガヤと声がしだしました。——あいつの頭を上にしてやれ。——さあ、ブランデーだ。——喉につかへさせないやうにしろ。——どうだい、おい。どうしたんだ。のこらず話して聞かせてくれ。」

 すると、小さな元気のないしはがれた声がしました。(「あれがビルだな。」とアリスは思ひました)「うん、どうもわからないんだ。——いや、もういいんだよ、ありがたう。もうよくなつたよ。——けれどわしはすつかり面喰つちまつたんで、お話ができないよ。——わしの覚えて居ることは、何かびつくり箱のやうなものが、わしにぶつかつて来て、わしは煙火(はなび)みたいに、うち上げられたつて事だけだ。」

「うん、そんな具合にとび出して来たつけ。」と、外(ほか)の者たちが言ひました。

「この家を焼き払つてしまはなければならん。」と兎の声が言ひました。それでアリスは出来るだけ大きな声で「そんな事したら、デイナーをけしかけてやるわよ。」と言ひました。

 すると、忽ちあたりがしんと静まりかへつてしまひました。アリスは独考へました。「皆達、今度は何んな事をするだらう。みんなが少し智慧があるなら、屋根でもめくるだらうが。」二三分の後みんなは再び動き廻りはじめました。そしてアリスは兎が「初めは車一杯でいいや。」と云ふのを聞きました。

「何を車一杯なんだらう。」とアリスは思ひました。けれども永くそれをいぶかつてゐる暇もなく、すぐと小砂利の雨が、窓からパラパラと入つて来ました。中にはアリスの顔に当るものもありました。「わたし止めさせて見せるから。」と、アリスは独語をいつて、大きな声でどなりました。「お前たち、そんなことをしない方が身のためだよ。」すると、すぐに又シンと静になつてしまひました。ふとアリスは砂利が床の上に落ちたまま、小さなお菓子に変つてゐるのに気付いて、びつくりしてしまひました。が、そのときアリスの頭に、愉快な考へが浮びました。「わたしこのお菓子を一つでも食べると、身体の大きさが、変るに違ひないわ。そしてこれ以上もう大きくはできまいから、きつと小さくなる方なんだわ。」

 そこでアリスはお菓子を一つのみこみました。すると直ぐさま小さくなり出したので、アリスは大喜びでした。入口を通れる位、小さくなると直ぐ様、アリスは家から駆け出しました。すると小さい獣や鳥が、ウヨウヨとして外で、アリスを待つて居るのでした。可哀想な小さい蜥蜴のビルがその真中にゐて、二匹の豚鼠(ギニアピツグ)に身体を支へられ、それに壜の中の何かをのませてもらつて居ました。アリスが出てくると、みんなは一斉にアリスめがけて詰めよせて来ました。しかしアリスは一生懸命馳けだして、直ぐにコンモリ繁つた森の中へ、避難してしまひました。

「まづわたしが、しなければならないことは。」とアリスは、森の中をブラブラ歩きながら、独語をいひました。「もと通りのほんとの大きさになることだわ。その次には、あの綺麗なお庭に行く道を見つけること。わたしこれが一番いいやりかただと思ふわ。」

 これは疑ひもなく、大層すぐれた、そしてやさしい計画のやうでした。ただむづかしいことは、アリスは、それをどう手をつけてよいか、少しも考へのないことでした。アリスが樹と樹の間を、キヨロキヨロして覗き見してゐますと、頭の上で小さい鋭い吠声がしますので、アリスはあわてて上を向いて見ました。すると大きな犬ころがアリスに触はらうとでもするやうに前足をそつと出し、大きな丸い目で、アリスを見下して居ました。

「まあかはいい犬だこと。」とアリスはやさしい声で言つて、一生懸命口笛を吹かうとしました。が、アリスはこの犬は御仲をへらして居るかも知れない、もしさうだといくら御機嫌をとつても、自分が食べられると思つて、内心びくびくして居ました。

 アリスは殆んど夢中で、小さな一本の棒を拾ひ、犬ころの方に突きだしました。すると犬ころはキヤンキヤン嬉しがつて、ただちに四足をそろへて宙にとび上つて、棒にとびかかり、噛み付きさうな風をしました。そのときアリスは、頭の上をとびこされないやうにと、大きな薊(あざみ)の後にかくれました。そしてアリスは向ふ側に出たとき、犬ころは棒にとびつきました。そしてそれを、つかまへようとして、でんぐり返りました。このときアリスは、この犬ころとふざけるのは、荷馬車ひきの馬と、遊んで居るやうなものだと思ふと、今にもその足の下に踏みつけられさうなので、また薊のぐるりをかけだしました。それから犬ころは棒切めがけて、何度も小攻撃をやりだし、その度に一寸進み出ては、ぐつと後退りして、その間たえずキヤンキヤン吠え立ててゐましたが、とうとう息をハアハアきらせ、口から舌をだらりとだし、大きな目を半分とぢて、ずつと向ふで坐りこんでしまひました。

 こりや逃げるのに、有難い仕合せとアリスは直ちに、駈けだしました。余り駈け過ぎたので、すつかりくたびれて、息が切れてしまひました。が、もうその時は犬ころの吠声は、遠くの方で、微かに聞えるだけになつてゐました。

「でもまあ、なんて可愛らしい犬ころだつたらう!」とアリスは一本の金鳳花に、よりかかつて休みながら、一枚の葉を扇子がはりにして、煽ぐのでした。「わたし、あたり前の背(せい)でさへあれば、いろんな芸をしこんでやるんだけれど。さうさう、わたし元通り、大きくならなければならないといふことを、すつかり忘れてゐたわ。——さうねえ――どうしたら大きくなれるんだらう。わたし何か飲むか食べるか、しなければならないと思ふわ。けれども『何を』といふことが大問題なんだわ。」

 たしかに、大問題は『何を』と云ふことでした。アリスは身のまはりの、花や草の葉を見まはして見ましたが、この場合、飲んだり食べたりしてよささうなものが、見つかりませんでした。

 アリスの近くに、大きな蕈(きのこ)が生えて居りました。それは丁度アリスの大きさ程でありました。アリスはその蕈の裏を見たり、両側から見たり、うしろへまはつて見たりしましたが、今度はその上に何があるか、見たくなつて来ました。

 アリスはつまさきで立つて、蕈の端から見ました。すると直ぐにアリスの目は、大きな青い芋虫の目にはたと、ぶつかりました。芋虫は頂辺に腕組みで坐つて静かに長い水煙管(みづぎせる)を吸つて、アリスにも又は外の何にも、少しも気をとめて居ない様子でした。

 

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