カント著、桑木厳翼・天野貞祐訳「哲学序説」
先験的主要問題
第一編 如何にして純粋数学は可能なるか
六
さて茲に一個の広大にして而も実証されたる認識がある。其れは今でも已に驚く可き程の範囲を包括し、又今後無限に発展する望を有ち、全然必然的なる確実性換言すれば絶対的必然性を伴って居る。其故に是れは決して経験を根拠とするものではなくして理性の純粋な産物である、のみならず其上に徹頭徹尾綜合的である。一体斯る認識を全然先天的に成立させる事が如何にして人間の理性に可能なのであろうか。此能力は経験に基きもせず又基く事も出来ぬ故に、何等かの——深く隠れて居るが、然し其結果の端緒を勤勉に探求しさえすれば、結果によって知ることの出来る所の——先天的認識理由を前提して居るのではなかろうか。
七
我々は凡ての数学的認識が此特質〔絶対的必然性を有ししかも綜合的なること〕を有つことを発見する。数学的認識は其概念を直観(而も先天的なる即ち経験的に非ずして純粋なる直観)に於て現わさねばならぬ、此方法によらなければ数学は一歩も進むことは出来ぬ、即ち数学の判断は常に直観的である。之に反して哲学は単なる概念による推論的判断を以て満足し、其必然的教説は直観によって説明することは出来るが、決して直感から導き出すことは出来ない。数学の性質に関する此考察は、已にそれ丈けで数学を可能ならしめる最初にして最高なる制約を与えるのである。即ち数学には、其のすべての概念を、具体的にしかも先天的に現わす(よくいう言葉を以てすれば、組み立てる)この出来る或る純粋直観が根柢に存在しなければならぬ。若し我々が此純粋直観と斯るものの可能なることを明かにし得れば、純粋数学に於ける先天的総合判断と従って又此学自身とが如何にして可能なるかは、それによって自ら分ることである。何となれば経験的直観は我々が直観の対象から作った概念を直観自身の与える新しき賓辞によって経験に於て綜合的に拡張する事を用意に可能ならしめるが、純粋直観亦之と同様のことをなし得るからである。唯だ異る所は、後の場合に於ては綜合的判断が先天的に確実で必然的であるに反して、前の場合には後天的であって経験的に確実であるに過ぎぬことである。何故となれば、此はただ偶然的経験的直観に於て見出されるものを含み、彼は純粋経験に於て必然的に見出されねばならぬものを含むからである。というのは後の場合には、直観が先天的直観として一切の経験前に(即ち個々の知覚に先って)概念と不可分的に結合して居るからである。
八
然し斯うして進んで行くと、困難が減少するより寧ろ増加する様に思える。なぜならば、茲に——或物を先天的に直観する事が如何にして可能なるか、という問題が起って来るからである。直感とは客観の現存することに直接依存するところの表象である。其故に先天的根源的に直観する事は不可能に思える。というのは、其が不可能でないとすれば、直観は其の関係すべき客観が過去にも現在にも嘗て存在しないのに生じたものでなければならず、従って直観ではあり得ないからである。概念であると、其中の或もの(例えば量の概念、原因の概念等の如き唯だ客観一般の思惟のみを含む所のもの)は、我々が客観と直接に関係して居ずとも十分先天的に作り得るものであるが、此等の概念でさえ価値と意味とを得る為めには、或は具体的使用、換言すれば客観を我々に与うる所以たる直観に対する適用が必要である。然るに客観の直観が客観そのもの先き立つということが如何にして出来るであろうか。
九
我々の直観が物を其のあるがままに表象する類いのものならば、直観は先天的に成立せずして常に経験的であるのに相違ない。何となれば我々が客観其自身に含まるる所のものを知り得るのは、ただ其れが我々に対して現存し、与えられて居る場合にのみ限るからである。そうすると又現存する事物の直観が、如何にして物を其のあるがままに我々に認識させるか、ということが言うまでもなく不可解である。何となれば事物の性質が我々の表象能力に転移する事は不可能だからである。然し斯る認識の可能を認めても、其れは先天的に即ち客観の表象される前には成立せぬだろう。客観を表象すると云う事が無ければ我々の表象の客観に対する関係の理由が全く考えられない、従て表象は神授に帰せねばならぬであろう。其故に余の直観が対象の実在に先立ち、そして先天的認識として成立し得ることは、直観が余の主観に於て感性形式即ち主観中に一切の実在的印象に先立ちて存在し余が対象に感触せらるるを得る所以たる感性形式以外のものを含まぬという唯一の方法によってのみ可能である。何となれば感性の対象が感性の形式によってのみ直観され得る事は余が先天的に知る所であるからである。是れに依って、感性的直観の形式にのみ関する命題は、感性の対象に対して可能且つ妥当である、という結果を生ずる。しかも是れと同時に、先天的に可能なる直観は我々の感性の対象以外の物には決して関係し得ないと云うことになるのである。
十
かくて我々はただ感性的直観形式によってのみ先天的に物を直観し得る、然し我々は其によって客観を其のあるがままにではなく、それが我々に(我々の感官に)現われ得る様に認識するに過ぎない。而して先天的綜合判断が可能として承認せられ、或は実際さる判断に遭遇した場合に、其の可能が理会され予め決定されるべきならば此前提は絶対的に必要である。
さて空間と時間とは純粋数学に於て、必然的確実性を有する諸認識判断の基礎となる所の直観である。何となれば数学は凡ての概念を先ず直観に於て(純粋数学は純粋直観に於て)現わさねばならぬ、換言すれば概念が直観に於て組み立てられねばならぬ、此の事がなければ(というのは、数学は概念の分解によって分析的に行われるものではなくして綜合敵に行われ得るものである故)詳しくいえば、先天的綜合判断に対する材料を供給する唯一の根源たる純粋直観の欠如する間は数学は一歩も進む事は出来ぬからである。幾何学は空間の純粋直観を基礎とする。算術は数の概念を時間中に於ける単位の継時的添加によって成立せしめる。而して特に純粋力学は運動の概念を時間の表象によってのみ成立させ得るものである。然し二つの表象は単なる直観にすぎぬ、何となれば我々が物体並に其変化(運動)の経験的直観から一切の経験的なるもの(即感覚に属するもの)を除去する場合に、尚空間と時間とは残存するが故に、空間時間は先天的に経験的直観の基礎をなし、従って自らは決して除去される事の出来ぬものである所の純粋直観だからである。然し空間時間は先天的純粋直観であるということによって、次のことが証明せられる——空間時間は我々の感性の単なる形式であって、凡ての経験的直観(換言すれば実際に存在する対象の知覚)に先行しなければならぬ、而して此形式によって対象を先天的に認識することは可能であるが、然し其れは対象が我々に現わるるようにのみ認識するのであって、其をあるがままに認識するのでないことは言う迄もない。
十一
斯して此章の問題は解決されたのである。純粋数学は先天的綜合認識として感官の対象以外のものに関係せぬという事によってのみ可能である。感官の経験的直観の根柢には(空間時間の)純粋直観が先天的に存在して居る。而して空間時間が先験的直観の基礎をなる所以は、空間時間が感性の単なる形式に他ならぬものであって、対象の現実なる現象を実際初めて可能ならしめ、従って其れに先行するものなるが為めである。然し此先天的直観能力は、現象の質料(即ち現象中の感覚の部分)には関せずして、現象の形式たる空間時間にのみ関係する、というのは、感覚は現象の先験的要素を成すものだからである。空間時間は決して物自体其ものには属しない、却って感性に対する物自体の関係に属する規定である。若し少しでも之を疑う人があるならば、先天的に、従て物を全く知らぬ中に、即ち物が我々に与えられる前に、物の直観の性質を知り得ると考えることが如何にして出来るであろうか、余は之を知りたいと思う。而して此事は現に空間時間に於て見る所なのである。然しながら空間時間を以て感性の形式的条件に他ならぬものとし且つ対象を単なる現象と見做せば、現象の形式(即ち純粋直観)が我々自身によって(即ち先天的に)表象せらるるは勿論であるから、上に言ったことは全く之を理会し得るのである。
十二
証明と確証とのために少しく附け加えて置き度い。其れにはただ幾何学者の、普通にして而も是非共必要な手続を見るのが便利である。二つの円形が全く等しいこと(二つの円形が等しければ一方が全く他のものの上に重ねられ得る故)の証明は結局すべて二つのものが互に重なり合うという事に帰着する。此事は明かに、直接な直観に基く綜合的命題に他ならない、そして此直観は純粋に先天的に与えられねばならぬ、何者、若しそうでないとすればかの命題は必然的に確実に妥当なることは出来ないで、経験的確実性を有つに過ぎぬこととなるからである。其場合には——我々はいつでもそうである事を認める、そして数学の命題は我々の知覚の及ぶ範囲に丈け妥当なるものであると言い得るだけである。完全な空間(それ自身最早他の空間の境界ならざるもの)は三方位を有つ事、そして一般に空間が其以上の方位を有ち能わぬ事は、一点に於ては三直線以上が垂直に交わる事は出来ぬという命題に基いて居る。然し此命題は決して概念によって説明せられ得るものではなくて、直接に直観に基く、而も此命題は必然的に確実なるが故に其基く直観は先天的純粋直観でなければならぬ。一つの直線が無限に(In indefinitum)引かれること或は変化の一系列(例之、運動によって通過せられた空間)が無限に続けられる事が要求され得るのは空間時間の表象を前提として居る、そして此表象は其自身何者によっても制限されて居ない限りに於て、直観にのみ属し得るものである、何となれば其は決して概念からは推論され得ざるものであるから。それ故、先天的純粋直観が数学の基礎に存して居ることは事実である、先天的純粋直観は数学の綜合的にして而も必然的に妥当なる命題を可能にし、従って空間時間の概念の先験的演繹、同時にまた純粋数学の可能を明かならしむるものである。斯る演繹がなく又我々が「我々の感官に与えられ得るすべてのもの(外感に於ては空間中に、内感に於ては時間中に)其があるままではなくして我々に現れるように直観さるるのみである」事を承認しなければ純粋数学の可能は縦い認められても理会せられる事は出来ない。
十三
空間時間を以て物自体そのものに属する実在的性質なるかの如く考えざるを得ぬ人は、次の逆説に於て彼等の頭脳の鋭さを錬磨することが出来る、而して其を解決しようとする彼等の試みが成功しなかった時には、少くとも暫くは偏見を捨てて、空間時間を感性的直観の形式に過ぎざるものとすることを以て理由あるらしく思うように成るであろう。
二つの物があって、若し其が元来各自に於て夫れぞれ認められ得る所の凡ての部分に関して(量並に質に関する凡ての性質に関して)全く同一であるならば、其結果は一つの物が如何なる場合と関係とに於ても他物に置代えられる事が出来、此置換が何等認知すべき差異を惹き起さない筈である。又事実幾何学の平面図形に於ては其の通りである。然し種々の球面円形は内部的には完全に合致しても、一つを以て他の代りに置く事は全くで出来ない程な相違を其の外部的関係に於て示して居る。例えば、赤道の一つの弧を共通の底とする両半球上の二つの球面三角形は、辺並びに角に関して全く相等しくて、其の一が単独に而して完全に記載される時は、同時に他の物の記載に於て存せぬ様になって居る事が出来る。が、然しながら、一方を他の位置に(即ち反対せる半球上に)置く事は出来ない、二つの三角形の内部的相違が実に此に存するのである。而して此相違は悟性によって内部的のものとして示され得るものではなくして、空間に於ける外部的関係によってのみ明かとなるものである。余は次に日常生活からとる事の出来るもっと普通の場合を示して見ようと思う。
余の手或は余の耳に似て居て之れと凡ての点に於て等しいものを求めたならば鏡に於ける其像に越す物は何もあるまい。けれども余は鏡に写った手を其現物の位置に置く事は出来ぬ。何となれば若し此のものが右の手であると鏡の中のものは左である。又右の耳の像は左のもので決して前者に置き代える事は出来ぬからである。さて此には悟性の思惟し得る何等の内部的相違も存しないが、感官の教うる所では相違は内部的である。何となれば左手と右手とは相互に全く等しく又似て居るに拘らず、同じ限界内に入れる事は出来ず(彼等は合致する事は出来ない)一方の手の手袋は他の手に適用する事は出来ぬからである。然らばこれはどう解決すべきであろうか。此対象は物のあるがまま又は其れが恐らく純粋悟性に認識せられる通りの表象ではない、却って感性的直観即ち現象であって、其可能は物(物の自体は不可知である)の或他物(即ち我々の感性)に対する関係に基て居るのである。それで空間は此感性の外的直観形式である。そして凡ての空間の内的限定は此空間が其一部をなして居る全体の空間に対する外部的関係(外感に対する関係)の限定によってのみ可能である。換言すれば部分は全体によってのみ可能にせられる、部分が全体によって可能にせられるということは単なる悟性の対象としての物自体其ものに於ては決してないことで、単なる現象に於てのみあることなのである。是故に類似せるのみならず等しくして而も合致せざる物(例えば反対に巻かれた螺旋輪)を我々は如何なる概念によっても理会する事は出来ぬ、其を理会することは左右の手の関係によってのみ、即ち直観と関係してのみ為し得る所である。