東溪日記

聖読庸行

【東渓文庫】収録作品一覧表

国内

芥川龍之介「『私』小説論私見」

芥川龍之介「僕の瑞威から」よりレーニン

梶井基次郎「筧の話」

梶井基次郎「瀬戸内海の夜」

梶井基次郎「蒼穹」

梶井基次郎「鼠」

岩上順一「秋声とその流れ」

金史良「蛇」

高見順「文芸的雑談」より二篇

夏目漱石「思ひ出す事など」よりドストエフスキーの事

広津和郎「或る夜」

三木清「『汝自身を知れ』

室生犀星「亡霊は生きてゐる」

森鷗外「高瀬舟」

森鷗外「烈真具に題す」

横光利一「芭蕉と灰野」

横光利一「鞭」

 

 

国外

芥川・菊池共訳「不思議の国のアリス」(上)

芥川・菊池共訳「不思議の国のアリス」(中)

カント「プロレゴメナ」(1/16)

カント「プロレゴメナ」(2/16)

カント「プロレゴメナ」(3/16)

カント「プロレゴメナ」(4/16)

カント「プロレゴメナ」(5/16)

カント「プロレゴメナ」(6/16)

カント「プロレゴメナ」(7/16)

カント「プロレゴメナ」(8/16)

カント「プロレゴメナ」(9/16)

カント「プロレゴメナ」(10/16)

カント「プロレゴメナ」(11/16)

カント「プロレゴメナ」(12/16)

カント「プロレゴメナ」(13/16)

カント「プロレゴメナ」(14/16)

カント「プロレゴメナ」(15/16) 

カント「プロレゴメナ」(16/16)

プラトン「ソクラテスの弁明」(1/3)

プラトン「ソクラテスの弁明」(2/3)

プラトン「ソクラテスの弁明」(3/3)

ポー「黒猫」乱歩訳

言語センス

「いらえはなかった」が通じないとは思わなんだ。というより、通じない人はいくらもあろうが、知っているのが多数、いわんや読書家とあっては、と思っていたものが、これほどまでに理解を得られないとは。私のイメージする日本語と、周囲の人びとのそれとにどれだけ乖離があるのか恐ろしくなる。私の言葉はどこまで通じているのだろう。わけのわからぬ方言を話す人とでも思われているのではないか。

あるいは現代における「古めかしい日本語」は、呪術廻戦にでも登場する言葉になってしまったのかもわからない。古い日本語は通用せず、かといってカタカナ語も流行にしかならぬ現代。さっさと隠居してしまいたい気分になる。

【東渓文庫】芥川・菊池共訳「不思議の国のアリス」(中)

カロル著、芥川龍之介菊池寛共訳「アリス物語」

 

 

五 芋虫の忠告

 芋虫とアリスは、暫くの間黙り込んで見合つてゐました。しかしとうとう芋虫が口から水煙管をとつて、だるいねむさうな声で、アリスに話しかけました。

「お前さんは誰ですか。」と芋虫はまづ訊きました。

 けれどもこれは二人の会話(はなし)を、すらすら進めていくやうな、問ではありませんでした。アリスは少し恥づかしさうに答へました。「わたし――わたし今ではよく分らないのです。——といつても、今朝起きたときは、わたしが誰だつたかは、知つて居たのですが、それから何度も、いろいろ変つたに違ひないと思ふんです。」

「それはどういふことなのだ。」と芋虫はきびしく言ひました。「説明してみなさい。」

「わたし、説明なんて出来ないんです。」とアリスが言ひました。「だつてわたしはわたしでないのですから。ねえ。」

「さつぱり分らん。」と芋虫が言ひました。

「残念ながら、わたしにはそれをもつとはつきり、言ひ表はす事が出来ませんの。」とアリスは大層丁寧に答へました。「なぜなら、第一わたしには自分ながら、それが分つて居りませんの、そして一日の中に、いろいろと大きさが変るなんて、随分頭をまごつかせる事ですもの。」

「そんなことはない。」と芋虫は言ひました。

「ええ、そりやあなたは今までそんな事を、さういふものだとお感じになつた事は、ないかも知れませんけれど。」とアリスは言ひました。「でも、あなたが蛹になつたり——いつかはさうなるんでせう——それから蝶蝶にならなければならなくなつたら、少しは変にお思ひでせう、思はなくつて。」

「いいや、ちつとも。」と芋虫が言ひました。

「それぢや、あなたの感じがちがふのよ。」とアリスが言ひました。「わたしの知つて居る限りでは、それがとても変に感じられますの、私にとつて。」

「お前に?」と芋虫は馬鹿にしたやうに言ひました。「ぢやあお前は誰なのだ。」

 そこで会話が、又一番初めに戻つてしまひました。アリスは芋虫が、こんな風に大層短い言葉しか言はないので、ぢれつたくなりました。それで背のびをして、大層真面目になつて言ひました。「わたしはね、先づあなたが自分は誰であるか、名乗るべきだと思ひますわ。」

「何故?」と芋虫は言ひました。

 これでまた面倒な問題になりました。アリスはいい理由(わけ)を考へつきませんし、一方芋虫はひどく不愉快らしい様子でした。そこでアリスは向ふの方に歩いて行きました。

「戻つてこい。」と芋虫はアリスの後から呼びかけました。「わたしは少し大事な話があるのだ。」

 この言葉が幾分頼もしく聞えましたので、アリスは振り返つて、又戻つて来ました。

「おこるもんぢやないよ。」と芋虫が言ひました。

「それだけなの。」とアリスは、できるだけ怒りをのみこんでいひました。

「いいや。」と芋虫が言ひました。

 アリスは他に用がないものですから、待つてやつてもいいと思ひました。多分、何かいいことを聞かしてくれるのだらう、と思つたものですから。しばらくの間、芋虫は何にも言はないで、水煙管をプカプカふかしてゐました。けれども、とうとう芋虫は腕組をほどき、水煙管を、口から又とつて言ひました。「それでは、お前変つてると思ふのかい。」

「どうもさうらしいのですわ。」とアリスが言ひました。「わたし以前(まへ)のやうに、物を覚えられませんし——そして十分間と同じ大きさで居ないのです。」

「覚えられないつて、一体何を?」と芋虫が言ひました。

「ええ、わたし『ちひちやい蜜蜂どうして居る』を歌つて見ようと思つても、まるでちがつてしまふの。」とアリスは大層かなしさうな声で言ひました。

「『ウヰリアム父さん、年をとつた』をやつてごらん。」と芋虫が言ひました。

 アリスは腕を組んで始めました。

 

 「若い息子が云ふことにや

 『ウヰリアム父さん、年とつたな、

 お前の髪は真白だ。

 だのに始終逆立ちなぞして、——

 大丈夫なのかい、そんな年して。』

 ウヰリアム父さん答へるにや、

 『若い時にはその事を

 脳にわるいと案じたさ。

 だが今ぢや脳味噌もなし、

 それでわたしは何度もやるのよ。』

 若い息子が云ふことにや、

 『何しろ父さん年とつた。

 それによくもぶくぶく肥つたもんだ。

 だのに戸口ででんぐり返つたり、

 ありや一体何のつもりさ。』

 白髪頭を振りながら、

 ウヰリアム父さん云ふことにや、

 『若い時にやあ気をつけて

 せいぜいからだをしなやかにしてたよ。

 こんな膏薬まで使つてね——

 ——一箱五十銭のこの膏薬だ——。

 お前に一組買つてやらうか。』

 若い息子が云ふことにや、

 『お前は兎に角年よりだ。

 お前の顎はもう弱い。

 脂身より硬いものは向かぬ筈。

 だのに鵞鳥を骨ぐるみ、

 嘴までも食べちまつた。

 あれは何うして出来たのだい。』

 父さん息子に云ふことにや、

 『わしが若いときや法律好きで、

 何かと云へば女房と議論さ。

 お蔭で顎は千万人力。

 こんな年までこの通り。』

 若い息子の云ふことにや、

 『お前は年とつた。

 昔通りに目が確かだとは

 誰が本当と信じよう。

 だのにお前、

 鼻つ先で鰻を秤つたが

 何うしてあんなうまい事がやれたんだ。』

 父さん息子に云ふことにや、

 『わしは三度も返事した。

 もう沢山だ。

 こんな譫言に相槌うつて、

 大事な一日つぶしてなろか。

 さあさ出て行け、

 行かぬと階(はしご)から蹴落とすぞ』」

 

「間違つてるね。」と芋虫が言ひました。

「そりやみんなは合つてゐないやうねえ。」とアリスはビクビクして言ひました。「文句が少し変つたのだわ。」

「初めから終ひまで、違つて居るよ。」と芋虫はきつぱり言ひました。それからしばらく二人は黙り込んでしまひました。

 すると、芋虫が話しだしました。

「お前はどの位の大きさになりたいのだ。」

「まあ、わたしどの位の大きさつて、きまつてゐないわ。」とアリスはあわてて答へました。「ただ誰だつて、そんなに度度大きさが変るのは、嫌でせう。ねえ。」

「わしには分からんよ。」と芋虫は言ひました。アリスは何も言ひませんでした。今までこんなに、反対せられたことはありませんので、アリスは癪で堪りませんでした。

「今は満足して居るのかい?」と芋虫は言ひました。

「さうねえ、あなたさへ御迷惑でなかつたら、わたしもう少し大きくなりたいの。」とアリスが言ひました。「三寸なんてほんとに情ない背ですわ。」

「いや、それが大層いい背格好だよ。」と芋虫は背のびをしながら、怒つて言ひました。(芋虫も丁度三寸の背でしたから。)

「でも、わたし、この背には馴れてゐないんですの。」と可哀想なアリスは、哀れつぽい声で言ひました。そして心の中で、「この人がこんなに怒りつぽくなければいいんだが。」と思ひました。

「今にお前馴れてくるよ。」と芋虫は言つて、口に水煙管をくはへて、またふかし始めました。

 今度はアリスは芋虫が、又話しかけるまでヂツと待つて居ました。一二分たつたとき、芋虫は口から水煙管をとつて、一二度欠伸をして、身体を振ひました。それから蕈から下りて、草の中へ匍つていきました。行きながら、ただ芋虫は「一つの側は、お前の背を高くし、他の側は、お前の背を短くする。」と言ひました。

「何の一つの側なんだらう。何の他の側なんだらう。」とアリスは考へました。「蕈のだよ。」と芋虫は丁度、アリスが大声で尋ねでもしたかのやうに言ひました。そして直ぐ芋虫の姿は、見えなくなりました。

 アリスはしばらくの間、考へ込んで、ヂツと蕈を見て居ました。そして蕈の両側とは、どこなのか、知らうとしました。。けれども蕈はまん丸なものですから、これは大層むづかしい問題だと、いふことがわかりました。けれども、とうとうアリスは両腕をグルリと廻せるだけまはして、蕈の端を両手で、チヨツトかきとりました。

「さあどちらがどちらなのだらう。」とアリスは独語をいひました。そしてその結果をためして見るつもりで、右側を一寸かじつて見ました。と、いきなり顎の下をひどく打たれたやうな気がしました。それは顎が足にぶつかつたからでした。

 アリスは此の急な変り方に、すつかり驚いてしまひましたが、身体がドンドン縮まつていくものですから、少しもぐづぐづして居られませんでした。それでアリスは、早速別の端をかじることにとりかかりました。顎が足にしつかりとくつついて居るものですから、口をあく余裕なんか、ほとんどありません。しかし、とうとう何うにかあけて、やつとのことで、蕈の右の端を一口のみ込みました。

 

「ああ頭がやつと楽になつた。」とアリスは嬉しさうに言ひましたが、忽ちその声は、驚きの悲鳴に変つてしまひました。それもその筈です。アリスは自分の肩が、どこにあるのだか見えなくなつたのでした。アリスが下を向いて見ると、見えるものは、ばかに長い頸だけで、それはアリスのずつとずつと下に拡つてゐる、青い葉の間から、生えて居る茎のやうに見えてゐるのでした。

「一体あの青いものは何かしら。」とアリスは言ひました。「そしてわたし、肩は何処にいつたんでせう。まあ、わたしの可哀想な両手さん、わたし、どうしてお前を見られなくなつたんでせう。」とアリスは言ひながら、手を動かして見ましたが、ただ、遥か下の緑色の葉の一部が、微かに揺れたきりでした。

 何しろ、手の方を頭に届かせるなどといふ事は、とても出来さうもありませんでしたので、アリスは頭の方を手に届かせてみようとやつてみました。すると嬉しいことに、アリスの首は蛇のやうに、どつちにでもうまく曲る事が分りました。アリスはこれで格好よくまげくねらせ、そして青い葉の間に、その首を突込みかけました。——気づいて見ると、それは今まで歩いて居た森の樹の梢でした。——が丁度そのとき鋭いヒユーといふ音が、アリスの顔をかすめたので、あわてて後退りしました。大きな鳩がアリスの顔にぶつかつて、翼でアリスをひどく打ちました。

「やあ蛇!」と鳩は金切声で叫びました。

「わたし、蛇なんかぢやないわ。」とアリスは怒つて言ひました。「早くお退き!」

「蛇だつたら蛇だよ。」と鳩は繰返して言ひました。けれども、その声は前よりやさしい調子でした。それから、泣声で附け加へるのに、「いろいろとやつて見たが、どれもあいつには合はないやうだ。」

「お前さん一体何を言つて居るのだか、わたしにやちつとも分らない。」とアリスは言ひました。

「わたしは木の根にもやつて見たし、土手にも、垣根にもやつて見た。」と鳩はアリスに構はず言ひました。「けれどもあの蛇奴、あいつばかりはどうしても気を和げることができない。」

 アリスはますます分らなくなつて来ました。けれどもアリスは、鳩が言ひ終るまで、何を言つても無駄だと考へました。

「蛇の奴め、卵を孵すなんて、何でもないと思つてやがるらしい。」と鳩が言ひました。「少しは夜昼蛇の見張をしてゐなきやならん。まあ、わしは此の三週間と云ふものは、一睡もしないんだよ。」

「御困りのやうで気の毒ですわ。」とアリスは鳩の云ふことが、分りかけましたので言ひました。

「それでやつと今、森の一番高い木に、巣をかけたところだのに。」と鳩は言ひ続けて居る内に、泣き声になつてきました。「こんどこそは蛇にねらはれることがないと思つて居たのに、今度は空から、ニヨロニヨロ下るぢやないか。いまいましい、この蛇め。」

「だつてわたし、蛇でないと云ふのに。」とアリスは言ひました。「わたしは——わたしは、あの——。」

「ぢやあ、お前は何なのだ。」と鳩が言ひました。

「わしはお前が、何かたくらんでゐることを知つて居るよ。」

「わたしは——わたしは小さい娘ですわ。」とアリスは一日の中に、いろいろな形に変つたことを、思ひ出して一寸疑はしさうに言ひました。

「旨く言つてやがる。」と鳩はひどく馬鹿にして言ひました。「わしは今までに沢山の娘を見て居るが、こんな首をして居る女の子なんか、見たことがないよ。ちがふよ。ちがふよ。お前は蛇なんだ。さうぢやないと、言つて見たつて無駄だよ。今度は多分卵なんかの味は知りませんと云ふんだらう。」

「わたし卵の味は、知つて居るわ。」とアリスは大層正直な子供でしたから、言ひました。「だつて小さい娘だつて、蛇と同じ位に卵を食べてよ、さうでせう。」

「わたしには信じられないことだ。」と鳩が言ひました。「けれども、若しさうだとすると、それぢやまあ娘も蛇の類だなあ。わしはさう云ふより外はない。」

 鳩の言つたこの事は、アリスにとつては、全く新しい考へでしたから、アリスは一二分間黙り込んでしまひました。それをいい機会に鳩は話しつづけました。「おまへは卵を探して居るんだね。それにちがひあるまい。かうなりやお前が、小さい娘であらうが、蛇であらうが、わしにはどうでもよいのだ。」

「わたしにはそれがちつとも、何うでもよくない事なの。」とアリスはあわてていひました。「けれどわたし、卵なんか探してゐるんぢやないの。もし探したつて、お前の卵なんか欲しくはないわ。わたし生の鳩の卵なんか好きぢやないの。」

「ふん、それぢや、去(い)つてくれ。」と鳩は巣の中に入りながら、気むづかしい声で言ひました。アリスは出来るだけ、こごんで樹の下を、歩いていきました。何故ならアリスの首が枝にからみつくからでした。それでその度毎に時時止まつて、ほどいていかねばなりませんでした。しばらく経つて、アリスは両手に一本の蕈を、持つて居ることに気がつきましたから、大変気をつけて、初めに一つの側をかじり、それから別の側をかじつて、大きくなつたり、小さくなつたりして居るうちに、とうとうアリスはやつとあたり前の背になることができました。

 随分と永い間ほんとの大きさにならなかつたのですから、始めは全く奇妙でした。が、少し経つうちに、慣れて来て、いつもの様に独語をいひ始めました。「さあ、これでわたしのもくろみが、半分達しられたのだわ。あんなにいろいろ大きさが変つちや、やりきれないわ。一分間のうちに、どうなつていくのだかわからないのだもの。けれどもわたしはこれであたりまへの大きさになつたのだ。次にすることは、あの綺麗なお庭に入ることだわ。一体それには、どうすればいいのか知ら。」かう言ひましたとき、アリスは突然、広広とした場所に出ました。そこには四尺ばかりの小さい家が建つて居りました。「あすこに誰が住んで居るにしても。」とアリスは考へはじめました。「わたしがこの大きさのままで会ひに行つちやあ、悪いかもしれないわ。内の人達をすつかり驚かせてしまふわ。」さう言つてアリスは又蕈の右側を、少しかじり始めました。それで九寸ばかりの背になつたとき、はじめてその家に近寄つて行きました。

 

六 豚と胡椒

 一、二分の間、アリスは佇んで、その家を眺めながら、これから何をしようかと、思案して居ました。と、突然(だしぬけ)に仕着を着た取次の下男が、森から走つて出てきました。(アリスは此の男が仕着を、着て居るものですから、取次の下男だと思つたのでした。それでなくて顔だけで判断すると、魚だと言つたことでせう。)この男は指関節(ゆびふし)で戸をトントンと叩きました。するとやつぱり仕着せを着た、もう一人の下男が戸を開けて出て来ました。丸顔で蛙のやうに大きな目をした男でした。そしてこの下男達は、二人とも頭一面に縮れ生えた髪に、髪粉を付けて居りました。その人達の様子や何かすべてが、アリスには大変物珍しく、思はれてきましたので、もつといろいろ知り度くて、アリスは森から少し匍ひだして、耳をかたむけました。

 魚の下男は、脇にかかへて居た自分ほどの大きさの封筒をとりだして、もう一人の下男に渡しながら、おごそかな声で言ひました。「公爵夫人へ、女王様より、球打遊びの御招待」といひました。蛙の下男は、同じやうにおごそかな声で、ただ言葉の順序を一寸変へただけで、言ひました。「女王様より、公爵夫人へ球打遊びの御招待。」

 それから二人は大層腰を低くして御辞儀をしましたので、二人の髪の毛はもつれあつてしまひました。

 アリスは此の様子があまりをかしいので、吹き出したくなりましたものですから、聞えてはいけないと思つて森の中を走つて帰りました。少したつてアリスが覗いて見ると、魚の下男はゐなくなつてもう一人の下男が、玄関の側の地面に腰を下し、馬鹿げた顔をして、空を見つめて居ました。

 アリスはビクビクしながら、戸口まで行つて戸を叩きました。

「戸を叩く必要なんかないよ」とその下男が云ひました。「それには二つの理由がある。第一にわたしは、お前さんと同じ戸口の外に居る。第二に家の内側では大騒ぎをして居るから、誰もお前が戸を叩いたつて聞えやしないよ。」実際、家の内側では大層な物音がして居りました——たえず唸るやうな、くさみをするやうな音がして、時時皿か土瓶でも粉粉にこはれるやうに、ガラガラといふ物音が響いてゐました。

「それでは」とアリスが言ひました。「どうしたら家へ入れますでせうか。」

 下男はアリスの言ふことなんかには構はずに言ひつづけました。「二人の間に戸があるとすれば、戸を叩くのに何か考へがあるにちがひないさ。たとへばお前さんが戸の内側に居て、戸を叩くなら、わしはお前さんを外にだしてやることができるといふものだ。」かう云ひながらも始終下男は空を見て居りました。アリスは随分失礼なことだと思ひました。「かれども多分上の方を見ないでは居られないのだわ。」とアリスは独語をいひました。

「目が頭のてつぺんのところについて居るんだもの。でもとにかく尋ねたんだから、返事をしてくれてもよさそう(ママ)なものだわ。ねえ、どうしたらうちに入れるんでせう。」とアリスは大きな声で繰返して言ひました。

「わしは明日迄ここに坐つて居るよ——。」と下男は言ひました。

 この時家の戸があき、大きなお皿が下男の頭へ向つて、真直にとんできて、鼻を掠めて、その下男の後にある樹にあたつて、粉粉に壊れてしまひました。

「——それともその明くる日まで居るかも知れない。」と下男は何事もなかつたやうに同じ調子で言ひました。

「どうしたら入れるのでせうか。」とアリスは又大きな声で言ひました。

「お前はとにかく内に入りたいのだな。」と下男は言ひました。「それが第一の問題なんだらう。」勿論それに違ひありませんでした。けれどもアリスはさう言はれるのが嫌(きらひ)でした。「動物などのいふことはほんとに、いやになつてしまふわ。気ちがひにでもなりさうだわ。」とつぶやきました。

 下男はこれを好い機会だと思つて、調子を変へてまた言ひだしました。

「わしはここに、いつまでも、いつまでもズツと続けて坐つて居るよ」と言ひました。

「ではわたし、どうすればいいの。」とアリスが言ひました。

「お前の好きなことをすればいいよ。」と下男は言つて、口笛を吹き始めました。

「まあ、こんな人に何を言つても無駄だわ。」とアリスはあきらめたやうに言ひました。「この人は全くお馬鹿さんなのだわ。」かう言つてアリスは戸を開けて内に入つていきました。

 戸を開けると突きあたりは大きな台所でした。そして隅から隅まで煙で一杯になつてゐました。公爵夫人は台所の真中で赤ん坊に乳をやりながら、三本足の腰掛に坐つて居ました。料理番は火の前で身体をまげて、スープが一杯入つて居るらしい、大鍋をかきまはしてゐました。

「このスープにはキツト胡椒が入りすぎて居るのだわ。」とアリスはくしやみをしながら、できる丈け大きな声で言ひました。

 まつたくのところ、胡椒がひどくその空中にとんでゐるのでした。公爵夫人ですら時時くしやみをしました。そして赤ん坊は、ひつきりなしにくしやみをしたり、わあわあ泣いたりしてゐました。この台所の内でくしやみをしなかつた二人のものは、料理番と、竈のそばにすわつて耳から耳まで大きな口をして、ニヤニヤ笑つて居る大猫とだけでした。

「あの失礼ですが、」とアリスは自分から先づ話しだすのは、礼儀作法にかなつて居るかどうだか分らないものですから、少しおどおどしていひました。「何故あなたの猫はあんなにニヤニヤして居るのですか。」

「あれはチエシヤー猫なのだ。」と公爵夫人は言ひました。(チエシヤー猫はいつも知つて居るやうな顔をして居るのです。)「それがその理由なのさ。豚児(ぶたつこ)や。」

 アリスはこのおしまひの言葉が、あまり乱暴なので驚いてとび上りました。けれどもアリスは直ちに、それが赤ん坊に言ひかけたので、自分に向つて言つたのではないといふことが分りました。それで元気をだして又云ひ始めました。

「チエシヤー猫はいつもニコニコ笑つて居るものだ、と言ふことは知りませんでした。ほんとのところ、わたし猫が笑へるものだとは知りませんでした。」

「猫はみんな笑へるんだよ。」と公爵夫人は言ひました。「そして大抵の猫は知つてゐるよ。」

「わたし笑ふ猫を知りませんでしたの。」とアリスは夫人が話相手になつてくれたのが、嬉しくて大層叮嚀に言ひました。

「お前は何にも知つて居ないねえ。それはほんたうだよ。」と公爵夫人は言ひました。

 アリスは、どうもこの言葉つきが気に入りませんでした。そして何か外に新しい会話の題をひきだしたいと思ひました。アリスが何かの題にきめようと考へてゐますと、料理番の女はスープの大鍋を竈から下しました。そして直ちに自分の手の届くものを何でもとつて、公爵夫人と赤ん坊に向つて投げかけだしました。——初めに火箸を、それから小皿や大皿や平皿を雨のやうに投げつけました。公爵夫人は当つても平気ですましてゐました。そして赤ん坊は前からズツと泣き通しで居ましたから、何かあたつて痛いから泣くのか、少しも分りませんでした。

「まあ、どうか気をつけてして下さい。」とアリスは怖がつてあちらこちらを跳び廻りながら叫びました。「まあ、あの子の大切な鼻がとれるわ。」外れて大きな皿が赤ん坊の鼻をかすめて、もうすこしのことで、もいでしまふところでした。

「誰でも自分の仕事に気をつけてしさへすれば、」としやがれた声で、公爵夫人が言ひました。「世界はズツと早く廻つていくだらうよ。」

「それはためにならないでせう。」とアリスは自分の学問を示すのに、いい時だと思つて、大層喜んでいひました。「まあさうなると夜と昼とが、どうなることか考へてごらんなさい。御承知のやうに地球はおのが軸の上を廻るのに二十四時間かかるのですよ——。」

「おの(斧)だつて。」と公爵夫人が言ひました。「首をちよんぎつておしまひ。」

 アリスは料理番がほんとに、言はれた通りにするかどうか、心配さうにそつちをちらと見ました。けれども料理番は忙がしく、スープをかきまはしながら、何にも耳に入らないやうでした。それでアリスは又言ひつづけました。「二十四時間だと思ひますけれど、それとも十二時間だつたかしら、わたし——。」

「まあ、うるさいね。」と公爵夫人は言ひました。「わたし数字なんか嫌ひだよ。」かういつて、夫人は自分の赤ん坊に乳をやりはじめました。さうしながら子守唄のやうなものを唄つて、唄の終ひに赤ん坊をひどくゆりました。

男の子にはガミガミ言つてやれ、

  くしやみをしたら殴(ぶ)つてやれ。

人困らせにやるんだもの、

  せつつく事を知つてゐて、

合唱(これには赤ん坊も料理番も一緒でした)

ワウ、ワウ、ワウ、

 公爵夫人は次の歌の文句を唄ひながら、赤ん坊を荒荒しく高く上げたり落したりしました。

わたしの子供にはガミガミ言ひまする、

  くしやみをすれば殴ります。

気のむくだけ胡椒をば、

  充分嗅ぐことができるんだもの。

合唱 ワウ、ワウ、ワウ、

「おい、お前よければ少しお守をしておくれ。」と公爵夫人はアリスに言ひながら、赤ん坊を殴りつけました。「わたしはこれから出かけて、女王様との球打遊びの支度をしなければならないのだ。」と言つて室から急いで出ていきました。料理番はフライ鍋を夫人のうしろからぶつつけましたが、それはあたりませんでした。

 アリスは、やつとのことで赤ん坊をうけとりました。赤ん坊は奇妙な形をして居て、手足を八方にのばしました。「まるでひとでのやうだわ。」とアリスは考へました。アリスが抱きとりました時、赤ん坊は蒸気機関のやうに荒い鼻息をしてゐました。そして身体を二重(ふらへ)に折つてみたり、真直にのばしてみたりするので、初め一寸の間は、全くそれを抱いて居ることがアリスには精一杯のことでした。

 間もなく、アリスは赤ん坊をお守するよい方法を考へつきました。(それは赤ん坊を撚(よ)つて結び目のやうなものにして、それからほどけないやうに右耳と左足をしつかり抑へておくことでした。)かうやつてアリスは、赤ん坊を外に抱いてでました。「わたしが抱いてでなかつたら、この赤ん坊なんか一日か、二日のうちに殺されてしまふわ。それをすてて行くのは人殺をするやうなものだわ、」とアリスは考へました。アリスはこの終ひの言葉を大きな声で言ひました。すると赤ん坊は、返事に豚のやうにブウブウ言ひました。(このときには、くしやみは止めてゐました。)「ブウブウお言ひでない。」とアリスは言ひました。「そんなのチツトもいい話しぶりぢやないわ。」

 赤ん坊はまたブウブウ言ひました。アリスは赤ん坊が、どうかしたのではないかと思つて、大層心配さうに顔を見て居ました。たしかにそれは大変上を向いた鼻でした。鼻と云ふよりもむしろ嘴のやうでした。又その目は赤ん坊にしてはずゐぶん小さいものでした。それでアリスは全く赤ん坊の顔が嫌になつてしまひました。「でも此の子はすすり泣をしてゐたのかもしれないわ。」とアリスは考へて、涙がでてゐやしないかと、又赤ん坊の眼を見ました。

 涙なんか一つもありませんでした。「ねえ、坊やが豚にでもなるのなら、わたしはかまつてあげないわよ。いいかい。」とアリスは真面目くさつて言ひました。可哀さうな赤ん坊は、又しくしく泣きました。(又はブウブウいひました。これはどちらとも云ふことができませんでした。)それから二人はしばらくの間黙つて歩いていきました。

 アリスはそのときかう考へ始めました。「まあ、わたしうちに帰つたらこの子をどうしませう。」すると赤ん坊が又ひどく、ブウブウ泣き始めましたから、アリスは少少驚いて赤ん坊の顔を見ました。こん度は全く間違ひなし、それは豚にちがひありませんでした。それでアリスはこんなものを抱いて、この先きあるいていくのは、全く馬鹿らしいと思ひました。で、アリスはこの子を下におろしてやりました。するとヒヨコヒヨコと、森の中へ歩いていつたので、安心をしました。「あれが大きくなつたら、」とアリスは独語をいひだしました。「ずゐぶんみつともない子になるでせう。でも豚にすればきれいな方だわ。」さう言つて、アリスは自分の知つて居るうちで豚にしたら、よささうな子供のことを考へました。それからかう独語をいひだしました。「人の子と豚にかへる、ほんとに方法が分つて居るといいのだけれども——。」するとそのとき驚いた事に二、三尺離れた樹の枝にチエシヤー猫が坐つて居るのが見えました。

 猫はアリスの顔を見ても、ニヤニヤしてばかりゐました。素直な猫だとアリスは思ひました。けれども大層長い爪と、大きな歯を沢山もつて居るので、アリスはこりや丁寧にあしらはないと、いけないと思ひました。

「チエシヤーのニヤンちやん。」アリスはかう呼びかけて、猫が嫌ひはしないかと、少しおぢおぢしました。けれども猫は前より大きな口をあけて、ニヤニヤして居るばかりでした。まあ気に入つて居るらしいわ。」とアリスは考へて、言ひ続けました。「済みませんが、ここから行くにはどの道をいけばよろしいんでせう。」

「それは、お前さんの行きたいと思つて居るところできまるよ。」と猫はいひました。

「わたしどこでもかまはないのです。」とアリスは言ひました。

「それぢやどつちを行つても構はないさ。」と猫が言ひました。

「——どこかへ行けさへすれば。」とアリスは弁解(いひわけ)らしく言ひ加へました。

「まあ、お前ながいこと歩いて行きさへすれば、どこかに行けるよ。」と猫は言ひました。

 アリスはこの言葉が、もつともだと思ひましたので、今度は別の問をだしました。「この辺には、どんな人が住んで居るのでせうか。」

「あの方角には、」と猫は、右の前足をぐるぐる廻して言ひました。「お帽子屋(帽子屋と言つても帽子を売つたり作つたりする人のことではありません。アダ名の帽子屋です)が住んで居る。それからあの方角には、」と別の前足を動かして言ひました。「三月兎が住んで居る。どつちでも、気のむいた方へ行つてごらん。二人とも気違ひだよ。」

「けれどわたし、気違ひの人達のところなんかへ行きたくないわ。」とアリスは言ひました。

「だが、さうはいかないよ。ここではみんなが気違ひなんだ。わたしも気違ひだし、お前も気違ひなのだ。」と猫は言ひました。

「わたしが気違ひだといふことが、どうして分つて。」とアリスは言ひました。

「お前は気違ひに相違ないよ。」と猫が言ひました。

「それでなければ、こんなところへ来やしないよ。」

 アリスはそんなことで、気違ひだといふことにならないと思ひましたが、尚続けて言ひました。「それではお前が気違ひだといふことが、どうして分るの。」

「まづ第一に、」と猫は言ひました。「犬は気違ひではない。お前それを認めるかい。」

「さう思ふわ。」とアリスが言ひました。

「よろしい、それでは。」と猫は続けて言ひました。

「犬がおこると唸つて、嬉しいと尻尾をふることは、お前さん御承知だらう。ところでわたしは、嬉しいと唸るし、おこると尻尾をふるんだ。それだからわたしは気違ひなのだよ。」

「わたしは、そのことを唸るといはないで、ゴロゴロいふと言ひますわ。」とアリスが言ひました。

「どうとでもお言ひなさい。」と猫は言ひました。「お前さんは今日女王様と球打遊びをするのかい。」

「わたし球打が大好きなんだけれども、まだ招待をうけてゐないわ。」とアリスは言ひました。

「あそこでなら私に会へるよ。」さう言つたかと思ふと、猫は姿を消してしまひました。

 アリスはこれには、そんなに驚きませんでした。といふのも色色な珍らしい出来事には、もう馴れて居たからでした。それからアリスがまだやつぱり猫の居たところを見て居ますと、突然(だしぬけ)に又猫が姿をあらはしました。

「ついでのことだが、赤ん坊はどうなつたい。」と猫は言ひました。「私や訊くのを忘れさうだつたよ。」

「あの子は豚になつたよ。」とアリスは、猫がまるで、あたりまへに戻つて来たかのやうに、静かに答へました。

「うん、さうだらうと、わたしも思つて居た。」と猫は言つて、又姿を消してしまひました。

 アリスは猫が、また出てくるのかと思つて待つて居ましたが、もう出て来ませんでした。それからアリスは、三月兎の住んで居ると云ふ方角へ向つて歩いていきました。「わたし帽子屋には前にあつたことがあるわ。」とアリスは独語をいひました。「三月兎はきつと、とてもとても素敵に面白いと思ふわ。それに今は五月なんだから、さう気違ひじみてもゐないと思ふわ。——すくなくとも三月ほど気が変ぢやないでせう。」アリスはかう言つて上を見ました。すると又猫が樹の枝の上に坐つて居りました。

「お前はピツグ(豚)といつたのかい、フイツグ(無花果)といつたのかい。」と猫が言ひました。

「豚と言つたのだわ。」とアリスは答へました。

「そしてわたしお前がそんなに突然に現はれたり、消えたりなんかしないでくれればいいと思ふわ。わたしほんとに目がまはりさうよ。」

「よろしい。」と猫は言ひました。今度はそろりそろりとまづ尻尾の先から消えて、しまひにはニヤニヤ笑ひがのこりました。それはからだの外の部分が消えてしまつても、あとまで残つてゐました。

「まあ、わたし今までにニヤニヤ笑ひをしない猫は、幾度も見てゐるけれど、猫がゐなくてニヤニヤ笑ひだけなんて、初めて見たわ。これが生れて初めて見たふしぎなことだわ。」とアリスは言ひました。

 アリスがさう長くは歩かないうちに三月兎の家が見えてきました。アリスはこれがほんとの兎の家だと思ひました。なぜなら煙突は兎の耳のやうな形をしてゐましたし、屋根は兎の毛皮でふいてありましたからです。随分大きな家でしたから、アリスは蕈の左側をかじつて二尺位の背になつてからではないと、近づく気になれませんでした。その時ですらアリスはビクビクしながら家の方へ歩いていき、こんな独語をいひました。「何だかやつぱり兎もひどい気違ひかもしれないわ。わたし兎のかはりに帽子屋に会ひに行けばよかつたらしいわ。」

 

七 気違ひの茶話会

 家の前の樹の下に、一つのテーブルが置いてありました。そして三月兎とお帽子屋とがそれに向つて、お茶をのんで居りました。山鼠が二人の間に坐つたまま、グウグウ寝て居りました。すると前の二人は山鼠をクツシヨンにして肘をその上にのせ、その頭の上で話をして居ました。「山鼠は随分気持ちがわるいでせうねえ。」とアリスは考へました。「でもまあ、よくねて居るから何ともないだらうけれど。」

 テーブルは大きなのでしたが、三人はその隅つこの方にかたまつて坐つて居ました。アリスがやつて来たのを見ると、二人が、「席がない、席がない。」とどなりました。

「あいたところは沢山あるぢやないの。」とアリスは怒つてさう言つて、直ぐに、テーブルの隅にあつた、大きな安楽椅子に腰を下しました。

「葡萄酒をお上り。」と三月兎はすすめるやうにいひました。

 アリスはテーブルを見まはしましたが、お茶の外には葡萄酒なんかありませんでした。「葡萄酒なんか見あたらないわ。」とアリスは言ひました。

「少しもないよ。」と三月兎が言ひました。

「それでは、ないものをすすめるなんて失礼ぢやありませんか。」とアリスは怒つて言ひました。

「正体をうけないで坐るのは失礼ぢやないか。」と三月兎は言ひました。

「わたし、お前さんのテーブルとは知らなかつたのです。」とアリスは言ひました。「三人よりもつと多勢の為に置いてあるんぢやないの。」とアリスは言ひました。

「お前の髪は切らなければいけない。」とお帽子屋は言ひました。お帽子屋はしばらくの間、不思議さうな顔をして、アリスをヂツと見て居たのでした。それでこれがお帽子屋の最初の言葉でした。

「人の事、あんまり立ちいつていふもんぢやないわよ。」とアリスは少しきびしく言ひました。

「ずゐぶん失礼だわ。」

 お帽子屋はこれを聞いて目を大きくあけました。けれども、それからお帽子屋の言つたことは「烏は何故写字机に似て居るのだらうか。」といふことだけでした。

「さあ、これから面白くなつてくるわ。」とアリスは考へました。「みんなが謎をかけはじめたならうれしいわ——あたしきつと当てられるわ。」と大きな声でつけ加へました。

「お前がそれに答を見つけられるつていふつもりなのかい。」と三月兎が言ひました。

「さうだとも。」とアリスは言ひました。

「それではおまへの思つて居ることを言はなければならない。」と三月兎はつづけて言ひました。

「わたし言ひますわ。」とアリスはあわてて答へました。「すくなくとも——すくなくとも、わたしの言つてることを、わたしは思つて居るのですわ、——それは同じですわ、ねえ。」

「少しも同じぢやない。」とお帽子屋は言ひました。「それでは『わたしはわたしの食べて居るものを見てゐる』といふのと、『わたしの見てゐるものを、わたしは食べてゐる』といふのと同じことになると、お前は言はうといふのだねえ。」

 すると三月兎がそれに附け加へて言ひました。「それでは『わたしが手に入れたものを、わたしは好きだ』と言ふのと、『わたしはわたしの好きなものを手に入れた』と云ふのと同じだとお前は言はうといふのだねえ。」

 すると山鼠がそれにいひ加へました。それは眠つたままものを言つて居るやうに見えました。

「それでは、『わたしは、わたしがねてゐるとき呼吸をする』と云ふのと、『わたしは呼吸するとき、寝る』と云ふのと同じことになると、お前は言はうといふのだねえ。」

「お前さんにはそれは同じことだよ。」(山鼠はいつも寝て居るといふことからでて来たのです)とお帽子屋は言ひました。これで会話はおしまひになつて、みんなはしばらく黙つてしまひました。けれどもアリスは自分の知つて居る限りの鳥と、写字机のことをのこらず(といつってもさう沢山ではありませんでしたが)思ひ出して見ました。

 まづ口を切つたのはお帽子屋でした。「今日は何日(いくか)だい。」とアリスの方を向いて言ひました。お帽子屋はそれまでポケツトから、懐中時計をとりだして、不安さうに眺めたり、時時振つたり、それから耳許に持つていつたりしてゐました。

 アリスは一寸考へて、「四日です。」と言ひました。

「二日違つて居るよ。」とお帽子屋は溜息をついて言ひました。「それでわしは、バタは仕事に何の役にもたたないといつたのだ。」と怒つた顔で、三月兎を見ながら言ひました。

「ありやあ一番上等のバタだつたよ。と三月兎はおとなしく答へました。

「うん、だがパン屑もいくらか入つて居たよ。」とお帽子屋はぶつぶつ言ひました。「パン切ナイフなんか、入れてはいけなかつたんだよ。」

 三月兎は時計をだして、沈んだ顔をして見てゐました。それから時計を茶呑茶碗に入れてまた見ました。けれども最初の言葉通り、又、「ありや一番上等のバタだつたよ。ねえ。」と云ふよりほかにいい考へがでて来ませんでした。

 アリスは物珍らしく、兎を肩越しに見て居ました。

「何んて面白い時計でせう。」とアリスは言ひました。「何日かを示して、何時かを示さないのね。」

「ふん、そんな用があるもんか。」とお帽子屋はつぶやきました。「お前の時計は年が分るかい。」

「無論分りつこないわ。」とアリスはきつぱり答へました。「でもそれは随分永い間同じ年で、とまつてゐるからよ。」

「それは丁度わたしのと同じだ。」とお帽子屋がいひました。

 アリスはひどく、分らなくなつてしまひました。お帽子屋の言葉は何の意味もないやうにアリスには思へました。けれども、それはたしかに英語でした。「わたしあなたのいふことが、少しも分りませんわ。」と、できる丈叮嚀にアリスは言ひました。

「山鼠は又寝てしまつた。」とお帽子屋は言つて、その鼻の中に熱いお茶を注ぎ込みました。

 山鼠はいらいらした様に、頭をふりました。そして目を開けないで、かう言ひました。「無論さ、無論のことさ。そりやわたしが言はうとした通りだよ。」

「お前謎がとけたかい。」とお帽子屋はアリスの方を向きながら言ひました。

「いいえ、わたしやめたわ。」とアリスは言ひました。「答は何なの。」

「わたしには、チツとも考へつかないよ。」とお帽子屋は言ひました。

「わたしにも。」と三月兎は言ひました。

 アリスは、いやになつたものですから、溜息をつきました。

「お前さんたち、そんな答のない謎をかけて、時をむだにするより、もつとそれを、上手につかふ工夫がありさうなものだわ。」とアリスは言ひました。

「若しお前さんが、わたしと同じに、時と知り合なら、それをむだにするなんぞとはいはないだらう。それぢやなくて、あの人と云ふんだよ。」

「わたし、お前さんの云ふことが分らないわ。」とアリスは言ひました。

「無論わからないだらう。」とお帽子屋は、馬鹿にしたやうに、頭をつきだして言ひました。「多分お前は時に話しかけたことはないだらう。」

「恐らくないことよ。」とアリスは用心深く答へました。「けれどわたし音楽を稽古するとき、時をうつ(拍子をとる)ことを知つて居りますわ。」

「ああ、それで分つたよ。」とお帽子屋は言ひました。

「あいつは打たれるのをいやがるだらう。そこでお前があれと仲良くして居さへすれば、お前の好きなやうに時計を動かしてくれるよ。たとへて言へば、朝の九時が本を読みはじめる時間だとすると、お前は時にちよいと小さい声で合図するんだ。すると目(め)ばたきするうちに、針がまはるのだ。それで昼飯の一時半といふことになるんだ。」

三月兎は、すると小声で独ごとをいひました。「わしはそればかりのぞむのだ。」)

「それは素敵らしいわねえ。」とアリスは考へこんで言ひました。「でも、さうなると——それでお腹までへるといふことはないでせう。」

「多分初めはないだらう。」とお帽子屋は言ひました。「だがお前さへその気になりや、一時半に合す事が出来るやうになるさ。」

「それがお前さんのやり方なの。」とアリスは尋ねました。

 お帽子屋は悲しさうに頭をふりました。「わたしにはやれないよ。」と答へました。「わたし達はこの三月に、喧嘩をしたのだ。丁度あれが気違ひになるまへにさ——。」(とお茶の匙で三月兎を指ざしながら)——「ハートの女王主催の大音楽会があつた時だつたよ。それにわしも歌はなければならなかつたのだ。

  「ひらり、ひらり、小さな蝙蝠よ、

  お前は何を狙つて居るの。」

「お前はこの歌を知つて居るだらうねえ。」

「わたし聞いたやうよ。」とアリスがいひました。

「次はかうなんだ、ねえ。」とお帽子屋は歌ひつづけました。

  「世界の上を飛び廻り、

   まるでみ空の茶盆のやうだ。

    ひらり、ひらり——」

 そのとき山鼠が身体をふつて、睡りながらうたひました。「ひらり、ひらり、ひらり、ひらり——。」いつまでたうてもやめませんでしたから、みんなは抓つてやめさせました。

「さて、わしはまだ第一節を歌ひきらない中にだね。」とお帽子屋は話しだしました。「女王はどなりだしたんだ。『あの男は時を殺して居る。首を切つてしまへ』つて。」

「まあ、なんてひどい野蛮なのでせう。」とアリスは叫びました。

「それ以来ズツと、」とお帽子屋は悲しさうな声で言ひつづけました。

「あいつは、わたしの頼むことをしてくれないのだ。それでいつでも六時なのだよ。」

 それでアリスは、ハツキリと一つの考へが浮んできました。「それでここにこんなにお茶道具がならんで居るのですか。」と尋ねました。

「うん、さうなんだよ。」とお帽子屋は溜息をついて言ひました。「いつでもお茶の時刻なんだ。それで、お茶道具を洗ふ時間なんてないんだよ。」

「それぢやあお前さんは、いつもぐるぐる動きまはつて居るのねえ。」とアリスは言ひました。

「その通りだ。さうきまつてしまつたのだから。」とお帽子屋は言ひました。

「けれども、いつお前さんは初めにかへつていくの。」とアリスは元気をだして尋ねました。

「話の題を変へるといいなあ。」と三月兎はあくびをしながら、口を入れました。「わしはこの話にはあきてきたよ。若い御婦人に一つ話しだしてもらひたいよ。」

「わたし話なんか知らないことよ。」とアリスはこの申し出に一寸驚いて言ひました。

「それでは山鼠が話さなければいけない。」と二人が言ひました。「目をさませよ、山鼠」かう言つて二人はその横腹を両方からつねりました。

 山鼠はそろそろと目を開けました。「わしは寝入つてなぞゐやしないよ。」としやがれた細い声で言ひました。「わしはおまへ達が話してた言葉はいちいち聞いてゐたのだよ。」

「何か話を聞かせないか。」と三月兎は言ひました。

「さあ、どうぞ、お願ひします。」とアリスが頼みました。

「さあ早くやれよ。」とお帽子屋はつけ加へました。

「さうでないと、話がすまないうちにまた寝てしまふからなあ。」

「むかし、むかし三人の、小さい姉妹(きやうだい)がありました。」と、大急ぎで山鼠が話しだしました。「そしてその子たちの名前は、エルジーに、レーシーに、チリーといひました。三人は井戸の底にすんでゐました——。」

「その人達は何を食べて生きてゐたの。」とアリスはいひました。アリスはいつも食べたり飲んだりすることに大層興味を持つてゐました。

「その人たちは砂糖水をのんで生きてゐたよ。」と山鼠は少しの間考へて言ひました。

「それでは暮していけなかつたでせうねえ。」とアリスはやさしく言ひました。「病気になつたでせうねえ。」

「さうなんだよ。」と山鼠が言ひました。「大層わるかつたよ。」

 アリスは、こんな風変りなくらし方をしたら、どんなだらうかと一寸考へて見ましたが、あまり妙に思へたものですから、つづけて尋ねました。

「では、なぜその人達は井戸の底で暮してゐたの。」

「もつとお茶をお上り。」と三月兎はアリスに熱心にすすめました。

「わたしまだ何にも飲んでゐませんわ。」とアリスは怒つて言ひました。「それだから、もつとなんて飲みやうがないわ。」

「お前はもつと少しは飲めないと云ふんだらう。何にも飲まないより、もつと多く飲む方が大層楽だよ。」とお帽子屋がいひました。

「誰もお前さんの意見なんかききはしないよ。」とアリスが言ひました。

「さあ、人の事をたちいつて喋るのは誰だ。」とお帽子屋は得意になつてたづねました。

 アリスはこれに何と言つてよいか全く分りませんでした。それでアリスは自分でお茶とバタ附パンをとり、それから山鼠の方をむいて又、質ねました。「なぜ井戸の底に住んで居たの。」

 山鼠は又一、二分考へてから言ひました。「それは砂糖水の井戸だつたのだ。」

「そんなものはないわ。」とアリスは大層怒つて言ひだしました。お帽子屋と三月兎とは「シツ、シツ。」と言ひました。すると山鼠がふくれていひました。

「もしお前さんが礼をわきまへなければ、自分でそのお話のけりをつけた方がいいよ。」

「いいえ、どうか先を話して下さい。」とアリスは大層おとなしくいひました。「わたしもう口出しなんかしませんわ。一つ位そんな井戸があるかも知れないわね。」

「一つだつて。」と山鼠は怒つていひました。けれどもつづけていふことを承知しました。「さてこの三人の姉妹は——この三人の姉妹は、汲みだすことを覚えました。」

「何を汲みだしたの。」とアリスはさつきの約束を、スツカリ忘れて言ひました。

「砂糖水をだよ。」と山鼠は今度は、チツトも考へないで言ひました。

「わたしはきれいな、コツプが欲しい。」とお帽子屋が口を入れました。「みんな場所を変へようぢやないか。」

 お帽子屋はかう言ひながら動きだしました。山鼠があとにつづいていきました。アリスは少しいやいやながら、三月兎のゐた場所に坐りました。席をかへた事で得をしたのは、お帽子屋だけでした。アリスは前ゐたところよりズツト悪い場所でした。といふのは三月兎が、今しがたミルク壺を皿の上でひつくり返したからでした。

 アリスは山鼠を、おこらしてはいけないと思ひましたので、大層気をつけて話しだしました。

「けれども、わたし分らないわ。その人達はどこから、砂糖水を汲みだしたのでしやうねえ。」

「お前さん淡水(まみづ)は、淡水の井戸から汲みだすだらう。」とお帽子屋はいひました。「それぢや砂糖水は、砂糖水の井戸から汲めるわけぢやないか、——え! 馬鹿!」

「でもその人達は井戸の中にゐたんでせう。」とアリスは今お帽子屋はのいつた終ひの言葉には、気づかないやうな風をして、山鼠にむかつて言ひました。

「無論井戸の中にゐたのさ。」と山鼠はいひました。

 この返事は可哀想なアリスを、ますます分らなくさせたものですから、アリスはもう口を入れないで、しばらくの間山鼠に勝手にしやべらせてゐました。

「姉妹たちは、汲みだすことを覚えました。」と山鼠は大層睡たかつたものですから、欠伸をして目を擦りながら言ひました。

「いろんなものを汲みだしました。——Mの字のつくものは何んでも。」

「どうしてMの字のつくものを。」とアリスが言ひました。

「何故それではいけないといふのだ。」と三月兎が言ひました。

 アリスは黙つてしまひました。

 山鼠はこの時両眼をとぢて、コクリコクリと睡り始めました。けれどもお帽子屋につねられたのでキヤツと言つて目をさましました。そして言ひつづけました。「——先づMの字で始まつて居るものは、鼠わな(Mouse traps)、お月様(Moon)、もの覚え(Memory)、それから、どつさり(Muchness)、——それにお前も知つてゐる、似たり寄つたり(Much of Muchness)といふものをさ。お前今までに「似たり寄つたり」を汲みだすのを見たことがあるかい。」

「おや、おまへさん今、わたしにものを訊いたのねえ。」とアリスは全くこんがらがつていひました。「わたし知らないわ——。」

「それぢや、お前お話をしていけない。」とお帽子屋が言ひました。

 この失礼な言葉で、アリスはもう我慢ができなくなつてしまひました。で、すつかり怒つて、立ち上つて歩きだしました。山鼠は直に寝入つてしまひました。他のものはアリスの出ていくのには、気をとられてゐないやうでした。けれどもアリスは呼び返されるだらうと思つて、一、二度振り返つて見ました。一番しまひにふり返りましたとき、二人は山鼠を急須の中に入れようとしてゐました。

「とにかく、わたしはもう決して、あすこへいかないわ。」とアリスは森の中をテクテク歩きながら言ひました。「あんな馬鹿げた茶話会には、わたし生れて初めていつたわ。」

 丁度アリスが、かういひましたとき、気がついて見ると一本の樹に戸がついてゐて、その中に這入れるやうでした。「ずゐぶん珍らしいのね。」とアリスは考へました。「でも今日は何から何まで、珍らしづくめだもの。だからやつぱり又、直ぐ入つてみてもいいと思ふわ。」さういつてアリスは内へ入つていきました。

 又もやアリスは、長い広間の内にでました。そしてすぐ側にガラスのテーブルがありました。「さあ、今度はうまくやれさうだわ。」と独ごとを言ひながら、金の鍵を手にとつて、庭につづいて居る戸をあけました。それからアリスは、背が一尺位になるまで、蕈をかぢり始めました。(アリスは蕈をポケツトに入れてゐたのでした)。それから小さい廊下を通つていつて、そして——とうとう目の覚めるやうな花床や、涼しい泉水のある綺麗な庭にでていきました。

 

八 女王の球打場

 大きな薔薇の樹が、庭の入口の傍に植わつて居りました。その樹に咲いて居る花は白でした。けれども三人の庭師が、せつせとそれを赤く塗つて居りました。アリスは大層不思議に思つて、よく見るために側へと寄つていきました。アリスが三人のところへ間近に来ましたとき一人が、「おい、気をつけろい、五の野郎、こんなにおれに絵具をはねかすない。」

「どうともしやうがないさ。」と五は不機嫌さうに言ひました。「七の野郎がおれの肘をついたんだよ。」

 すると七が顔を上げて言ひました。「さうだらうよ、五の野郎、お前はいつも他人に罪をなすりやがる。」

「貴様余けいな口なんぞ利かない方がいいぜ。」と五がいひました。

「おれはつい昨日も女王様が、貴様を打首にしてもいい位だつておつしやるのを聞いたぞ。」

「何でだ。」と、一人の男が初めて言ひました。

「それはお前には用のないことだ、二の野郎。」と七がいひました。

「うんそれはあいつに用のあることだ。」と五がいひました。「それだからわしがあいつに話してやるよ——玉葱の代りにチユリツプの根を料理番に渡したからなんだ。」

 七は刷毛を投げだして、かういひ始めました。

「さてまあ、いろいろと、不公平な事のうちで——。」このとき七は、アリスが、そこに立つてヂツと見てゐるのを知つたものですから、急に言ひかけた言葉をのみ込みました。それで他のものも亦周りを見まはして、アリスの居るのに気がつきました。みんなは揃つて叮嚀にお辞儀をしました。

「あの一寸お尋ねしたいのですが。」とアリスは少しおどおどして言ひました。「どうしてこの薔薇を塗つていらつしやるんですか。」

 五と七は何にも言はないで、二の方を見ました。二が低い声で話しはじめました。「まあ、その理由と云ふのはねえお嬢さん、ここに赤い薔薇の樹を植ゑなければならなかつたのです。ところが間違へて白い樹を植ゑたのです。そのことを女王様に見つけられたら、わたし達はみんな打首になるのです。それでお分りでもありませうが、女王様がここへいらつしやらないうちに、一生懸命赤に塗つて居る次第なのです——。」このとき庭の向ふをキヨロキヨロ見て見た五が叫びだしました。「女王様だ、女王様だ。」すると三人の庭師は、直ちに、平伏してしまひました。多勢の人の足音がやつて来ました。アリスはぜひ女王を見たいと思つて、すぐ振り返りました。

 先づ初めに棒を持つてゐる、十人の兵士がやつて来ました。この兵士共は庭師と同じやうな恰好をして居ました。それは平べつたい長つぼそい形で、その角(すみ)から手や足がでてゐました。次に十人の廷臣たちがやつて来ました。この人達は全身ダイヤモンドで飾られてゐて、兵士達と同じに二列になつて歩いてきました。そのあとから王子たちが来ました。みんなで十人、二人づつ手をつないで、この小さい可愛らしい子供たちは、愉快さうにとんでやつて来るのでした。どれもみんなハートの形で飾られて居りました。次には賓客(おきやく)達で、大抵は王子様か女王様でしたが、アリスはその中に白兎が入つて居るのを見つけました。兎はあわてた、こせついた風で話をしながら、話の一つ一つにニコニコ笑つたりして、アリスには気づかない風でそばを通りすぎました。それからハートのヂヤツク(ママ)が王冠を朱の天鵞絨(ビロウド)の褥(しとね)の上にのせて持つていきました。そしてこの大行列の一番終りにハートの王様と女王とがやつてきました。

 アリスは三人の庭師のやうに、顔を地につけて平伏して居なければならないものかどうか、疑はしく思ひました。行列を見る場合そんな規則があるなどと聞いた覚えがありませんでした。「それに人人が行列が見えないほど顔を地につけて平伏して居ては行列をしたつて、何の役にもたたないぢやないの。」と考へました。それでアリスは自分の場所に立つて行列のくるのを待つてゐました。

 行列がアリスの方へやつて来ましたとき、みんな一人残らず立止つてアリスを見ました。すると女王はいかめしい顔をして言ひました。

「これは誰だ。」女王はハートのジヤツクにいつたのでしたが、この男はただお辞儀をしてニコニコ笑つて居るばかりでした。

「馬鹿!」と女王は我慢しきれない様に、頭をふりながらさう云つてから、アリスの方を向いて訊ねました。「お前の名は何といふのだい。」

「陛下、私の名前はアリスでございます。」と大層叮嚀にいひましたが、心の中ではかう思ひました。「まあ、この人達はつまり、カルタの一組にすぎないぢやないの、わたしこんな人達こはがるには及ばないわ。」

「それから、この者たちは誰だ。」と女王は薔薇の樹のグルリに、平伏して居る、三人の庭師を指さしながら言ひました。なぜなら、この男達は地に平伏して居るので、背中の印は外のカルタ仲間と同じですから、庭師だか、兵士だか、廷臣だか、自分たちの子供の中の三人だか分らないのでした。

「どうしてわたしに分りませうか。」とアリスはいつて、自分ながらさういひだした勇気に驚きました。「そんなことはわたしに係のない事でございます。」

 女王は怒つて真赤になりました。しばらくの間恐ろしい獣のやうな目をして睨んでゐましたが、金切声でどなり始めました。「あの女の子の首を切れ、切つてしまへ。」

「馬鹿ねえ。」とアリスは大層大きな声で、キツパリと言ひました。すると女王は黙り込んでしまひました。

 王様は女王の腕に手をかけて、おぢおぢしながら言ひました。「まあ、おまへ、考へてごらん。あれはねんねえに過ぎないよ。」

 女王は怒つて王様から顔をそむけて、ヂヤツクに言ひました。「あいつらを、ひつくり返せ。」

 ヂヤツクは大層用心深い片足で、言はれた通りにしました。

「おきろ。」と女王は金切声をはり上げて言ひました。すると三人の庭師は直にとび起きて、王様や女王様や、王子たちや其の外、誰にでもお辞儀をし始めました。

「もうお止め。」と女王は金切声でいひました。「おまへたちのすることを見て居ると、目がまはつてくる。」それから薔薇の樹の方を向いて、いひました。「お前たちはここで何をしてゐたのだい。」

「陛下のお気に召すやうに。」と二人は片膝をつきながら、恐れ入つた声でいひました。「わたしたちはあの——。」

「分つた。」と女王は薔薇の花を調べて見てから言ひました。「この男たちを打首にしろ。」それから行列は動き出しました。後にはこの不仕合せな庭師を死刑に処するために、三人の兵士が残りました。三人の庭師たちはアリスのところへ走つて来て助けを願ひました。

「お前たち打首になることはないわ。」とアリスは言つて、近くに置いてああつた大きな植木鉢の中に三人を入れてしまひました。三人の兵士たちは、しばらくの間、庭師を探しに歩きまはつてゐましたが、やがて落ちつきはらつて行列の後についていました。

「打首にしたか。」と女王が叫びました。

「仰せの通りに、首をはねましてございます。」と兵士たちは叫びかへしました。

「よろしい。」と女王は叫びました。「お前球打遊びができるか。」

 兵士たちは黙つてアリスの顔を見ました。——といふのは、この問は明らかにアリスに尋ねられたからでした。

「はい。」とアリスは大声でいひました。

「それではおいで。」と女王はどなりました。

 そこでアリスは、この次にはどんなことが起るだらうかと思つて、行列に加はりました。

「ええと、ええと、大層よい天気ですなあ。」とアリスのそばで、おどおどした声が言ひました。アリスは例の白兎のそばを歩いて居るのでした。兎は心配さうにアリスの顔をのぞき込んでゐました。

「大層よいのねえ。」とアリスが言ひました。「公爵夫人はどこにいらつしやるの。」

「シツ、シツ。」と兎はあわてて、小さい声でいひました。かう言ひながら兎は心配さうに一寸振り返りました。それから爪先立をして、アリスの耳に口をつけ、ささやきました。「夫人は死刑の宣告をうけたのです。」

「なんで。」とアリスは言ひました。

「あなたは『なんて気の毒な』といつたのですか。」と兎が訊ねました。「いいえ、さうぢやないわ。」とアリスは答へました。「わたし少しも気の毒には思ひませんわ。『なんで』とわたしはいつたのよ。」

「夫人は女王様の耳を打つたのでした。」——と兎はいひ始めました。アリスはキヤツ、キヤツと笑ひました。

「まあ、お静かに。」と兎は驚いていひました。

「女王様に聞えますよ! 公爵夫人はね、少し遅くなつて来たのです。すると女王様がおつしやるのに——。」

「みんな場所におつき。」と女王は雷のやうな声でいひました。家来たちは、ぶつかり合つてころびながら、そこいら中を駈けまはり始めました。けれども、一、二分のうちに場におちついて、それで遊戯が始まりました。

 アリスは、こんな珍らしい球打場は、生れて初めて見たと思ひました。それは、どこも畔や溝ばかりでした。球は生きた蝟(はりねずみ)で、棒は生きた紅鶴でした。そして兵士たちは、アーチをつくるのに、自分達の身体を二重に折つて、手と足とで立たなければなりませんでした。

 アリスが先づ一番むづかしいことだと思つたのは、紅鶴をあつかふことでした。アリスはそれの身体を丸めて、大層工合よく、足を下にさげて、脇の下にかかへることができました。けれども、アリスがそれの首を真直に旨くのばして、それの頭で蝟の球を打たうとする時になると、いつもぐなりとまがつてしまつて、ずゐぶん変な顔をしてアリスの顔をヂツと見るものですから、アリスはこれを見ると笑ひださないでは居られませんでした。アリスがその首を下にさげて又打ち始めますと、今度は蝟がころがらないで、のそのそ匍つていかうとしますので、全くいらだたしくなりました。その上、蝟を打ちださうとする方向には、一面に畔や溝があつて、それに二重に折れて輪をつくつて居る兵士は、いつも起き上つたり、方方歩きまはつたりしますので、アリスは間もなく、この球打遊はほんとに難しい遊戯だと定(き)めてしまひました。

 球打をする人達は、順番なんか待たず、始終喧嘩をして、蝟をとりあつて、一度に球打をしだしました。それで女王はすぐに怒つてしまつて、地団太をふみながら、どなりたてました。「あの男を打首にしろ。」とか「あの女を打首にしろ。」とか、一分間に一度位の割合で言つて居りました。

 アリスも大層心配になつてきました。アリスは、まだ女王とほんとに喧嘩だけはしませんでした。けれども、いつどうなるかも知れないことだと思つてゐました。「さうしたら、わたしどうなるだらう。」とアリスは考へました。「この国の人達は、打首をすることが大変好きらしいわね。だのに、生き残つてる人がゐるから、全く不思議だわ。」

 アリスは逃げ道をさがして、見つけられないで、逃げられるかどうかと考へてゐました。そのとき空中に妙な形をしたものが現はれました。初めのうちは何だかさつぱり見当がつきませんでしたけれども、一、二分の間ヂツと見て居ると、それがニヤニヤ笑ひの口だといふことが分りました。それでアリスは独語をいひました。「あれはチエシヤー猫だわ。これでわたし話相手ができたわ。」

「御機嫌如何ですか。」と物が言へるだけ口が出て来た時猫はいひました。

 アリスは猫の目がでてくるまで待つてゐました。それから分つたやうにうなづきました。「耳がでてくるまでは話をしても無駄だわ。すくなくとも片耳だけでも。」

 すぐに猫の頭がすつかり出て来ました。そこでアリスは紅鶴を下に置いて、自分の話を聞いてくれるものができたのを喜んで、球打の話をしだしました。猫は頭だけ見せれば十分だと思つて、それ以上には姿を現はしませんでした。

「みんなが正直に球打ちをして居るとは思へないわ。」とアリスは、不平らしい口付で話しだしました。「それにあの人達は無茶に喧嘩をするもんだから人のいふことなんかきこえやしないの——そしてこれといつて別に規則もないらしいのよ。まあ、もしあつても誰も守りはしないわ。——それに何から何まで生き物を使う(ママ)んですもの、その混雑といつたら考へもつかない位だわ。たとへていへば、わたしが次にくぐつていかねばならないアーチは球打場の向ふの端なんかを歩き廻つてゐるの。——そして今しがたもわたしが、女王の蝟を打たうとすると、私のが来るのを見つけてずんずん逃げていつてしまふといふ始末なの。」

「お前女王様は好きかい。」と猫は低い声でいひました。

「ちつとも。」とアリスが言ひました。「女王様は大変に——」といひかけると、女王がすぐアリスの後で、耳をかたむけてゐるのを見つけましたので「——きつと勝つでせう。だからおしまひまで勝負をやる必要なんかないわ。」と言ひました。

 女王はニコニコして通つていきました。

「お前は誰に話をして居るのだい。」と王様はアリスの傍へやつてきて言ひました。そして大層不思議さうに猫の頭を見ました。

「これは私の友達で——チエシヤ——猫ですの。」とアリスはいひました。

「御紹介しますわ。」

「わしはあれの顔つきがきらひだ。」と王様がいひました。「けれども望みとあれば、手にキツスをゆるしてやる。」

「あんまり望みでもありません。」と猫はいひました。

「小癪なことをいふな。」と王様は言ひました。「そんなにわしの顔を見るな。」王様はかう言ひながら、アリスのうしろへいきました。

「猫は王様の顔を見てもいいものです。」とアリスは言ひました。「わたしはある本で見たことがあります。でもどこだつたか覚えてゐません。」

「とにかく、あいつは取りのけなければいけない。」と王様は大層キツパリといつて、丁度そこを通りかけた女王に話しかけました。「ねえ、お前あの猫をとりのけてくれないか。」

 女王にはどんなむづかしい、又は易しい問題でもそれを定(き)めるには一つの方法しかありませんでした。それで「あいつを打首にしろ。」といつて見向きもしませんでした。

「わしは自分で首斬人をつれてくる。」と王様は熱心にいつて、駈けだしました。

 アリスは自分も戻つていつて、勝負がどんな様子だか見たいと思つてゐましたが、そのとき女王が怒つて、金切声を張り上げて居るのを聞きました。順番を間違へたといふ理由で、女王が三人に死刑の宣告を下したのでした。アリスは勝負が滅茶苦茶になつて、自分の順番だかどうだか分らないほどでしたから、様子を見て居るのがいやになつてきました。それで自分の蝟を探しにでかけていきました。

 蝟は外の蝟と争つてゐました。それをつかまへて他の蝟を打つのに至極いい時だと思ひましたが、今度は困つたことには、紅鶴がお庭の向ふへ行つて、樹の上にとび上らうとあせつて居るのが見えました。

 それで紅鶴をつかまへて帰つて来ますと、蝟の争ひはすんで居て、二匹ともどこかへ去つてしまつてゐました。「でも平気よ。アーチの兵士たちがこつち側にはゐなくなつてしまつたから。」

 そこでアリスは紅鶴をのがさないやうに、脇にしつかりかかへて、お友達と話をしに戻つていきました。

 アリスがチエシヤー猫の処に戻つていつて、驚きましたことには、猫のまはりに多勢の人があつまつてゐるのでした。首斬人と王様と女王との間に口喧嘩がおこつてゐて、三人が三人とも一緒にしやべりたててゐました。けれども他の者たちは黙りこんで、不愉快さうな顔をしてゐました。

 アリスの姿が見えると、三人はアリスにこの問題をきめてくれるやうにと頼むのでした。三人はアリスに自分の言分をくりかへしました。けれども、一緒に話すものですから、何をいつて居るのかよく分りませんでした。

 首斬人の言分は、首が身体についてゐなければ首を切ることはできない、それに今迄にそんなことはしたこともないし、又自分の様な年齢になつてから、そんなことをやり始めようとも思はないといふのでした。

 王様の言分といふのは、首のあるものの首をきることができないことはない、そしてこれは馬鹿げた話しではないといふのでした。

 女王の言分といふのは、今すぐできないやうなら、誰でもかまはず、みんなを打首にする、といふのでした。(このおしまひの言葉で、一同は至極ものものしい心配げな顔をしました。)

 アリスは外に何もいふべきことを思ひつかず、唯、「それは公爵夫人のものです、夫人に訊いて見た方がよろしいでせう。」とだけ言ひました。

「あの女は牢屋に入つて居る。」と女王は首斬人にいひました。「ここへ連れてこい。」それで首斬人は矢のやうにとんでいきました。

 猫の頭は首斬人が行つたときから、段段と消えはじめ、公爵夫人を連れてきたときには、すつかり見えなくなつてゐました。そこで王様と首斬人は、アチラコチラをドンドン走り廻つて猫を探しました。けれども他の人達は、又勝負をやりに立ちかへつていきました。

名作は原稿用紙何枚?

夏目漱石「こころ」は445枚

 

原稿用紙換算は古いと言われる。事実そうかもしれない。いやしかしどうだろう。改行や平仮名・漢字の差を無視したおおまかな基準とは言え、文量を感覚的に把握できるメリットはあるはずで、それによる諸作品の比較は、小説を見る目により一層の客観性を与えるのじゃないか。与えないでしょうか。知りません。トリマやってみます。枚数は概算ですから少しばかり(或は大いに)誤りがあるかもわかりませんが、まあ文学にそうまじめになってもいられませんので、どうか悪しからず。

 

1~10

梶井基次郎「蒼穹」     7枚

横光利一「神馬」      8枚

星新一「ボッコちゃん」   8枚

11~50

横光利一「蠅」           12枚

梶井基次郎檸檬」         13枚

芥川龍之介羅生門」        15枚

中島敦山月記」       16枚

森鷗外「高瀬舟」       23枚

鴨長明方丈記」       23枚

太宰治走れメロス」     26枚

ポー、乱歩訳「黒猫」     26枚

森鷗外舞姫」        42枚

国木田独歩「武蔵野」     42枚

夏目漱石夢十夜」      45枚

坂口安吾桜の森の満開の下」47枚

51~100

梶井基次郎城のある町にて」  54枚

横光利一「機械」          55枚

川端康成伊豆の踊子」       58枚

大江健三郎「死者の奢り」   74枚

太宰治「女生徒」       80枚

101~200

深沢七郎楢山節考」     103枚

丸谷才一「樹影譚」       104枚

宮沢賢治銀河鉄道の夜」   123枚

有島武郎「生れ出る悩み」   136枚

幸田露伴五重塔」      146枚

堀辰雄風立ちぬ」      155枚

永井荷風「濹東綺譚」     161枚

今村夏子「こちらあみ子」   161枚

小林多喜二蟹工船」     176枚

201~400

カミュ、窪田訳「異邦人」     210枚

夏目漱石「坊つちやん」      233枚

豊永浩平「月ぬ走いや、馬ぬ走い」251枚

太宰治津軽」          294枚

大江健三郎「芽むしり仔撃ち」   328枚

徳田秋声「あらくれ」       348枚

安部公房砂の女」        398枚

401~800

夏目漱石「こころ」       445枚

森鷗外渋江抽斎」       461枚

三島由紀夫金閣寺」      495枚

マッカーシーザ・ロード」      524枚

川端康成「山の音」       574枚

ハン・ガン「別れを告げない」  622枚

カミュ、宮崎訳「ペスト」       690枚

伊藤整「若い詩人の肖像」       708枚

尾崎紅葉金色夜叉」      731枚

801~1500

夏目漱石「吾輩ハ猫デアル」    846枚

村上春樹ノルウェイの森」    935枚

夏目漱石「明暗」         940枚

マルケス百年の孤独」      941枚

有島武郎或る女」        953枚

島尾敏雄「死の棘」       1004枚

佐藤究「テスカトリポカ」    1122枚

町田康「告白」           1421枚

1501~3000

谷崎潤一郎細雪」         1553枚

北杜夫「楡家の人びと」       1719枚

司馬遼太郎燃えよ剣」       1752枚

古川日出男「大きな森」       1904枚

村上春樹ねじまき鳥クロニクル」 2106枚

三島由紀夫豊饒の海」       2854枚

3001~

塩野七生ローマ人の物語」   12786枚

中里介山大菩薩峠」      13126枚

 

作家たち(五十音順)

安部公房箱男」           352枚

安部公房砂の女」          398枚

伊坂幸太郎ラッシュライフ」     700枚

伊坂幸太郎「オーデュボンの祈り」 762枚

今村夏子「こちらあみ子」       161枚

小川哲「地図と拳」        1112枚

幸田露伴五重塔」          146枚

佐藤春夫「田園の憂鬱」        209枚

太宰治走れメロス」          26枚

太宰治「女生徒」            80枚

太宰治津軽」           294枚

永井荷風「濹東綺譚」        161枚

夏目漱石文鳥」         28枚

夏目漱石「倫敦塔」          41枚

夏目漱石夢十夜」         45枚

夏目漱石二百十日」          96枚

夏目漱石「こころ」         445枚

夏目漱石「それから」        481枚

夏目漱石彼岸過迄」        529枚

夏目漱石「行人」          637枚

夏目漱石「吾輩ハ猫デアル」     846枚

夏目漱石「明暗」          940枚

マッカーシーザ・ロード」     524枚

マッカーシー「ブラッド~」     848枚

湊かなえ「告白」          467枚

村上春樹風の歌を聴け」       189枚

村上春樹ノルウェイの森」     935枚

村上春樹ねじまき鳥クロニクル」2016枚

森鷗外「普請中」         13枚

森鷗外高瀬舟」         23枚

森鷗外舞姫」          42枚

森鷗外渋江抽斎」         461枚

横光利一「神馬」           8枚

横光利一「蠅」          12枚

横光利一「機械」         55枚

横光利一「微笑」         68枚

横光利一「夜の靴」         299枚

横光利一「上海」          402枚

横光利一旅愁」        1587枚

 

トコロデこういうものを纏めていると、なんだか「国語ver. つくる会」でも発会したくなりますな。いつまでも羅生門にコダワることはありますまい。しかしいや、教科書掲載作は物語性(羅生門檸檬山月記)と時代性(舞姫、こころの先生の手紙)とで分れているようにも見える。ま、なにかメンドくさいあれこれがあるんでせう。知りません。眠いです。何より眼がかゆいのでこれで失礼します。

【東渓文庫】夏目漱石「思ひ出す事など」よりドストエフスキーの事

二十

 ツルゲニエフ以上の芸術家として、有力なる方面の尊敬を新たにしつつあるドストイエフスキーには、人の知る如く、子供の時分から癲癇の発作があつた。われ等日本人は癲癇と聞くと、ただ白い泡を聯想するに過ぎないが、西洋では古くこれを神聖なる疾と称(とな)へてゐた。此神聖なる疾に冒かされる時、或は其少し前に、ドストイエフスキーは普通の人が大音楽を聞いて始めて到り得るやうな一種微妙の快感に支配されたさうである。それは自己と外界との円満に調和した境地で、丁度天体の端から、無限の空間に足を滑らして落ちるやうな心持だとか聞いた。

「神聖なる疾」に罹つた事のない余は、不幸にして此年になるまで、さう云ふ趣に一瞬間も捕はれた記憶を有たない。ただ大吐血後五六日——経つか経たないうちに、時々一種の精神状態に陥つた。それからは毎日の様に同じ状態を繰り返した。遂には来ぬ先にそれを予期する様になつた。さうして自分とは縁の遠いドストイエフスキーの享けたと云ふ不可解の歓喜をひそかに想像して見た。それを想像するか思ひ出す程に、余の精神状態は尋常を飛び越えてゐたからである。ドクィンセイ(注:ド・クインシー)の細かに書き残した驚くべき阿片の世界も余の連想に上つた。けれども読者の心目を眩惑するに足る妖麗な彼の叙述が、鈍い色をした卑しむべき原料から人工的に生れたのだと思ふと、それを自分の精神状態に比較するのが急に厭になつた。

 余は当時十分と続けて人と話をする煩はしさを感じた。聲となつて耳に響く空気の波が心に伝つて、平らかな気分をことさらに騒(ざわ)つかせるやうに覚えた。口を閉ぢて黄金なりといふ古い言葉を思ひ出して、ただ仰向けに寝てゐた。難有い事に室の廂と、向うの三階の屋根の間に、青い空が見えた。其空が秋の露に洗はれつつ次第に高くなる次節であつた。余は黙つて此空を見詰めるのを日課の様にした。何事もない、又何物もない此大空は、其静かな影を傾むけて悉く余の心に映じた。さうして余の心にも何事もなかつた、又何物もなかつた。透明な二つのものがぴたりと合つた。合つて自分に残るのは、縹緲とでも形容して可い気分であつた。

 其内穏かな心の隅が、何時か薄く暈(ぼか)されて、其所を照す意識の色が微かになつた。すると、ヴエイルに似た靄が軽く前面に向つて万遍なく展びて来た。さうして総体の意識が何処も彼処(かしこ)も稀薄になつた。それは普通の夢の様に濃いものではなかつた。尋常の自覚の様に混雑したものでもなかつた。又其中間に横はる重い影でもなかつた。魂が身体に抜けると云つては既に語弊がある。霊が細かい神経の末端に迄行き亙つて、泥で出来た肉体の内部を、軽く清くすると共に、官能の実覚から杳(はる)かに遠からしめた状態であつた。余は余の周囲に何事が起りつつあるかを自覚した。同時に其自覚が窈窕として地の臭を帯びぬ一種特別のものであると云ふ事を知つた。床の下に水が廻つて、自然と畳が浮き出すやうに、余の心は己の宿る身体と共に、蒲団から浮き上がつた。より適当に云へば、腰と肩と頭に触れる堅い蒲団が何処かへ行つて仕舞つたのに、心と身体は元の位置に安く漂つて居た。発作前に起るドストイエフスキーの歓喜は、瞬刻のために十年もしくは終生の命を賭しても然るべき性質のものとか聞いてゐる。余のそれは左様に強烈のものではなかつた。寧ろ恍惚として幽かな趣を生活面の全部に軽く且つ深く印し去つたのみであつた。従つて余にはドストイエフスキーの受けた様な憂鬱性の反動が来なかつた。余は朝から屡此状態に入つた。午過にもよく此蕩漾を味つた。さうして覚めたときは何時でも其楽しい記憶を抱いて幸福の記念とした位であつた。

 ドストイエフスキーの享け得た境界は、生理上彼の病の将に至らんとする予言である。生を半に薄めた余の興致は、単に貧血の結果であつたらしい。

 仰臥人如唖。 黙然見大空。 大空雲不動。 終日杳相同。

二十一

 同じドストイエフスキーも亦死の門口迄引き摺られながら、辛うじて後戻りをする事の出来た幸福な人である。けれども彼の命を危めにかかつた災は、余の場合に於るが如き悪辣な病気ではなかつた。彼は人の手に作り上げられた法と云ふ器械の敵となつて、どんと心臓を打ち貫かれようとしたのである。

 彼は彼の倶楽部で時事を談じた。已むなくんば只一揆あるのみと叫んだ。さうして囚はれた。八ケ月の長い間薄暗い獄舎の日光に浴したのち、彼は蒼空の下に引き出されて、新たに刑壇の上に立つた。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度の霜に、襯衣(シヤツ)一枚の裸姿となつて、申渡の終るのを待つた。さうして銃殺に処すの一句を突然として鼓膜に受けた。「本当に殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、傍に立つ同囚に問うた言葉である。——白い手帛(はんけち)を合図に振つた。兵士は覘(ねらひ)を定めた銃口を下に伏せた。ドストイエフスキーは斯くして法律の捏ね丸めた熱い鉛の丸を呑まずに済んだのである。其代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した。

 彼の心は生から死に行き、死から又生に戻つて、一時間と経たぬうちに三たび鋭どい曲折を描いた。さうして其三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。其変化丈でも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然是から五分のうちに死ななければならないと云ふ時、既に死ぬと極つてから、猶余る五分の命を提(ひつさ)げて、将に来るべき死を迎へながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、更に突き当ると思つた死が、忽ちとんぼ返りを打つて、新たに生と名づけられる時、——余の如き神経質では此三象面(フェーゼス)の一つにすら堪へ得まいと思ふ。現にドストイエフスキーと運命を同じくした同囚の一人は、是がために其場で気が狂つて仕舞つた。

 夫にも拘はらず、回復期に向つた余は、病牀の上に寐ながら、屡ばドストイエフスキーの事を考へた。ことに彼が死の宣告から蘇へつた最後の一幕を眼に浮べた。——寒い空、新らしい刑壇、刑壇の上に立つ彼の姿、襯衣一枚の儘顫(ふる)へてゐる彼の姿、——悉く鮮やかな想像の鏡に映つた。独り彼が死刑を免かれたと自覚し得た咄嗟の表情が、何うしても判然映らなかつた。しかも余はただ此咄嗟の表情が見たい計に、凡ての画面を組み立てて居たのである。

 余は自然の手に罹つて死なうとした。現に少しの間死んでゐた。後から当時の記憶を呼び起した上、猶所々の穴へ、妻(さい)から聞いた顛末を埋めて、始めて全く出来上る構図を振り返つて見ると、所謂慄然と云ふ感じに打たれなければ已まなかつた。其恐ろしさに比例して、九仞に失つた命を一簣に取り留める嬉しさは又特別であつた。此死此生に伴ふ恐ろしさと嬉しさが紙の裏表の如く重なつたため、余は連想上常にドストイエフスキーを思ひ出したのである。

「もし最後の一節を欠いたなら、余は決して正気ではゐられなかつたらう」と彼自身が物語つてゐる。気が狂ふほどの緊張を幸ひに受けずと済んだ余には、彼の恐ろしさ嬉しさの程度を料り得ぬと云ふ方が寧ろ適当かも知れぬ。夫であればこそ、画竜点睛とも云ふべき肝心の刹那の表情が、何う想像しても漠として眼の前に描き出せないのだらう。運命の擒縦を感ずる点に於て、ドストイエフスキーと余とは、殆んど誌と散文ほどの相違がある。

 夫にも拘はらず、余は屡ばドストイエフスキーを想像して已まなかつた。さうして寒い空と、新らしい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、襯衣一枚で顫へてゐる彼の姿とを、根気よく描き去り描き来つて已まなかつた。

 今は此想像の鏡も何時となく曇つて来た。同時に、生き返つたわが嬉しさが日に日にわれを遠ざかつて行く。あの嬉しさが始終わが傍にあるならば、——ドストイエフスキーは自己の幸福に対して、生涯感謝する事を忘れぬ人であつた。

クマ

熊の殺処分への抗議が多いと聞く。私はそれ以上に抗議への批判を多く見かける。よかろう、それぞれの主張は分った。私は殺処分はやむを得ぬことと思うし、そう言ってきた。そもそもやむを得ないも何も、街中に熊があれば撃つ他あるまい。で、現在、事態は殺処分賛成派に傾いている。自衛隊が後方支援に入り、対応は本格化している。殺処分に賛成した我々は、「抗議している人々」を非難していれば官軍でいられるのであろうか?

それは余りにも都合がよすぎるであろう。人間のために熊を殺していることは事実である。そのことを無視して、ただ人間至上に盲進する人は、殺処分に抗議して役所に迷惑を働く人と何等変りない、思慮の足りない独善家である。「現実主義」とはバランスを検討する理性であろう。ただ事実の一面に裏付けられただけの言説が許されるのは、高校生までであるはずだ。いつもながら、「どっちもどっち」の様相である。

【東渓文庫】芥川・菊池共訳「不思議の国のアリス」(上)

カロル著、芥川龍之介菊池寛共訳「アリス物語」

 

 

 アリス物語は、英国のルウヰス・カロルと云ふ数学者の書いた有名な童話です。英国のヴヰクトリヤ女王がお読みになつて大変感心遊ばされ、此の作者の他の著作をもお求めになつて見たところ、それらはみんな数学書であつたと云ふ逸話さへ伝はつてゐます。「ピーターパン」などと併称され、英国の児童に最も人気のある童話です。日本の童話などとはまた違つた夢幻的な奇抜な奔放な味のある面白い物語です。

 かうした童話も、一冊だけでは本全集(注:「興文社 小学生全集」のこと)に入れねばならぬと思ひます。

 アリス物語には、「不思議国めぐり」と「鏡の国めぐり」と二つありますが、後者は紙数の都合で入れることが出来ませんでした。だが、前者の方がはるかに面白いのです。

 この「アリス物語」と「ピーターパン」とは、芥川龍之介氏の担任のもので、生前多少手をつけてゐてくれたものを、僕が後を引き受けて、完成したものです。故人の記念のため、これと「ピーターパン」とは共訳と云ふことにして置きました。

菊池寛

 

はしがき

 アリス物語は、一つの夢であります。読んでゐるうちに、児童の心を知らず知らず、夢の国へつれて行つてしまふ、物語であります。

 かうしたものも、本全集に、是非一冊だけは収録することが、必要であると思ひます。

 昭和二年十一月

菊池寛

 

アリス物語

一 兎の穴に落ちて

 アリスは姉様と一緒に、土手に登つてゐましたが、何にもすることがないので、すつかり厭(あ)き厭きして来ました。一二度姉様の読んで居た本を覗いて見ましたけれど、それには絵も、お話もありませんでした。「こんな御本、何になるのだらう。絵もお話もないなんて。」と、アリスは考へました。

 それでアリスは、暑さにからだがだらけて、睡くなつて来るのをおさへるために、出来るだけ一生懸命心の内で、一つ起き上つて花環(はなわ)を作る雛菊を摘みにでも行かうか、どうしようかと考へて居ました。するとその時、突然(だしぬけ)に桃色の目をした白兎が、アリスのすぐ傍を駈けていきました。

 しかし、これだけのことなら、別に大して吃驚(びつくり)するほどの事はありませんでした。又アリスはその時兎が独語(ひとりごと)に「おやおや大変、遅れてしまふ。」と言つたのを聞いても、「おや変だな。」とも思ひもしませんでした。(後でよく考へて見ると、このことは不思議なことに違ひなかつたのですが、その時は全く当りまへのやうに思つたのでした。)けれども兎がほんとに、チヨツキのポケツトから、懐中時計をとりだして、それを見てから、急いで走つていきましたとき、思はずアリスは飛起きました。何故といつてアリスは、兎がチヨツキを着てゐたり、それから時計をとりだすなんて、生れて初めて見たのだと云ふことに気がつきましたから。で、珍らしいこともあればあるものだと思つて、兎の後を追つて、野原を走つていきました。そして兎が丁度、生垣の下の大きな兎の穴の中に、入りこんだのをうまく見とどけました。

 すぐにアリスは兎の後をつけて、入つていきました。しかしその時は、後でどうして出るなんてことは、少しも考へて居ませんでした。

 兎の穴は、少し許りトンネルのやうに、真直に通つて居ましたが、それから急に、ずぶりと陥(すべ)り込みました。あまりだしぬけなものですから、アリスは自分の身を止めようと思ふ間もなく、ずるずると、その大層深い井戸のやうなところへと、落ち込んでいきました。

 井戸が大変深かつたためか、それともアリスの落ちて行くのが、ゆつくりだつたせゐか、兎に角、下りて行く間、アリスはあたりを見廻したり、これから先、どんな事が起るのかしらと、不審がつたりする暇が沢山ありました。先づ第一に、アリスは下を見て、どんなところへ来たのか、知らうとしましたけれど、余り暗いものですから、何にも見ることが、できませんでした。そこで、井戸の周囲を見ると、そこは、戸棚だの本棚だので、一杯でして、あちらこちらには、地図や絵が、釘にかけてありました。アリスが通りすがりに、一つの棚から壺を下すと、それには「橙の砂糖漬」と云ふ札が貼つてありましたが、アリスが残念に思ひましたことには、空つぽなのでした。アリスはその壺を、下にはふり込まうと思ひましたけれど、下に生物でも居たら殺す心配がありましたので、止めて落ちて行きながら、途中にある戸棚に、やつとそれを載つけました。

「まあ。」とアリスは独りで考へました。「こんな落ちかたをすれば、これからは二階から落つこちることなんか、平気の平左だわ。さうするとうちの人なんか、わたしをずゐぶん強いと思ふことでせうねえ。まあ、わたし屋根の頂辺(てつぺ)から落ちたつて何にも言やしないわ。」(これは実際ほんとでせう。と云ふのは屋根から落ちたら何にも言ふどころではありませんから。)

 下へ、下へ、下へ。一体どこまで落ちて行つても、限(きり)がないのぢやないか知ら。「もう何哩(マイル)位落ちて来たのかしら。」と、アリスは大きな声で言ひました。

「きつと、地球の真中近くに来かかつて居るに違ひないわ。ええと、たしか、四千哩下が、真中だつたけ――。」(ちやうどアリスは学校の課業でこんな風なことを習つたばかりでした。けれども誰も聞いてくれる人なんか居ませんでしたから、アリスの学問のあることを見せるに、大層良い機会ではありませんでしたけれども、矢張りそれを繰返すといふことは、よいお復習(さらひ)でした。)「さうだ、もう丁度その位の距離になるわ――けれど一体、わたしはどの辺の緯度と経度に居るのか知ら。」(アリスは緯度や軽度が、どんなものであるか少しも分つては居ないのでしたけれども、さう云ふ言葉は大層素晴らしいものだと思つたからでした。)

 そして直ぐ又、アリスは独語を続け始めました。「わたし地球を真直にぬけて落ちるのか知ら。逆立して歩いて居る人たちの間へ、ひよつこり出たら随分面白いだらうな。あれは反対人(アンテイパシイーズ)だわ(対蹠人(アンテイボデイーズ)とまちがへた)——(何だかその言葉が間違つて居る様でしたから、今度は誰も聞き手がないのをアリスは幸だと思ひました。)「けれど、わたしその人達に、その国の名は何といふのですかと、尋ねなければならないわ。もし奥様、この国はニユウジーランドですか、それともオーストラリヤですかつて。」(かう言ひながら、アリスは腰をかがめてお辞儀をしました。あなた方が宙を落ちて居るときに、お辞儀をすると、仮に思つてごらんなさい。そんなことができると思ひますか。)

「でも、そんな事訊いたら、向ふぢやわたしを何にも物を知らない娘だと思ふわ。いいえ、訊いたりなんかしちやいけない。多分どこかに書いてあるのが、見つかるに違ひないわ。」

 下へ、下へ、下へ。外にすることがありませんでしたから、また直にアリスは、お話を始めました。「デイナーは、今夜わたしが居ないので、ずゐぶん淋しがつてるでせうね。(デイナーは猫の名でした。)お茶の時に家の者が、牛乳をやることを忘れないでくれればいいけれど、ディナー、お前も今此処でわたしと一緒にゐてくれるんだと、いいんだけれどねえ。宙には鼠は居ないかも知れないが、蝙蝠なら捕へられるわ。蝙蝠は鼠によく似て居るのよ。けれど猫(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。」するとかう言つて居る時アリスは、少し睡くなりだしたので、夢心地でしやべり続けて居ました。「猫(キヤツト)は蝙蝠(バツト)を食べるか知ら。猫は蝙蝠を食べるか知ら。」そして時時「蝙蝠(バツト)は猫(キヤツト)を食べるか知ら。」と言ひました。アリスにはどちらの質問にも、答へができないのでしたから、どう言つても、大して変りはありませんでした。アリスはそのとき、うとうとと眠りに入(い)つた気がしましたが、その中デイナーと手をつないで歩いて居る夢を見て、大層まじめくさつて、こんな事を云つてゐました、「さあ、デイナー、ほんとのことをお言ひ、お前蝙蝠を食べたことがあつて。」このときアリスは、突然、枝だの、枯葉だの積んである上へと、どしんと落ちました。これで落ちるのもおしまひになりました。

 アリスは、少しの怪我もしませんでした。そしてすぐに起ち上つて、上の方を見ましたが、真暗でした。アリスの眼の前に長い道が、一つ通つて居りました。そしてやはり例の白兎が、急いで其処を下りて行くのが見えました。一分だつてぐづぐづして居られません。風のやうに、アリスは飛んで行きました。すると丁度兎が角を曲るとき、かう呟いたのが聞えました。

「おお耳よ、鬚よ。何と遅れたことだらう。」アリスは、兎が角を曲るまでは、直ぐその後に居たのでしたが、曲つてみると、もうその影も形もありませんでした。そしてアリスは、自分が今長つ細くて、天井の低い広間に居るのを知りました。そしてその広間は、屋根から下つて居る一列のラムプで照らされて居りました。

 広間の四方には、扉がありましたが、すつかり錠がかかつて居りました。そしてアリスは、あちこちの扉の処に行つて、開けようとして見ましたけれど、開きませんので、どうしたらまた外に出られるか知ら、と思ひながら、しをしをと真中の座に帰りました。と、不意にアリスは、小さい三本脚のテーブルにぶつかりました。それは全部硝子で出来てゐて、小さい金の鍵の外には、何にも載つて居りませんでした。アリスが先づ考へついたことは、この鍵は広間の扉のどれかに、合ふだらうといふことでしたが、まあ残念にも、どの穴も余り大き過ぎ、そして鍵が小さ過ぎて、とにかくどの扉も開けられませんでした。けれども二度目に広間を廻つたとき、以前(まへ)には気がつかなかつた低いカーテンに、目が留りました。カーテンの後には、約一尺五寸位の、小さい扉がありました。そこで小さい金の鍵を、穴に入れて見ますと、しつくり合ひましたので、もうアリスは大喜びでした。アリスは扉をあけました。すると、そこは鼠の穴位の、小さい出入口につづいて居りました。アリスが跪いて見ると、その出入口の向ふには、今まで見たことのない程の、立派な庭園がありました。アリスはどんなにこの暗い広間から出て、綺麗な花床の間をぶらついたり、冷たい泉の中を歩いたりしたかつたでせう。けれども、扉口(とぐち)から頭をだすことさへも、できないのでした。「わたしの頭がでたつて、肩が出なければ、何の役にも立たないわ。まあ望遠鏡のやうにのびたり、ちぢんだりできるといいんだけれども、初めのやり方さへ、どうすればいいのだかわかれば、あとはわたし出来ると思ふわ。」と可愛想なアリスは考へました。何故と云つて、いろいろ珍らしいことが、たつた今しがたまでぞくぞく起つたのですから。アリスはほんとに、できないものなんて、この世の中にはめつたにないものと、考へ始めたのです。

 この小さい扉の処にいつまでゐても、何の役にも立たないやうに思ひましたので、アリスは、テーブルの処へ戻つていきました。ひよつとして、テーブルの上にもう一つ鍵が載つてゐたら有難いのだが、でなければ望遠鏡のやうに、人間をちぢめる規則が書いてある本があれば、などと思ひながら、近づいてみました。すると、今度アリスがテーブルの上に見つけたものは、小さな瓶(かめ)でした。(「これは確かに前にやなかつたわ。」と、アリスは言ひました。)そしてその瓶の首には、大文字で綺麗に印刷された紙の札が貼つてあつて、それには「お飲みなさい」と書いてありました。

「お飲みなさい」と書いてあるのは、大層有難いことでしたが、悧巧なアリスは、あわてて、そんなことをしようとはしませんでした。「いいえ、わたし先づ初めにしらべて見なくちや、「毒薬」と書いてあるかどうか。」と、アリスは言ひました。何故ならば、アリスはこれまでに、火傷をしたり、怖ろしい獣に食はれたりした子供の、いろいろなお話や、又は其の他のいやなことの書いてあるお話を、読んで居ました。そしてこんな出来事は、みんなその子供がお友達から教へられた分り易い法則を、覚えて居なかつたからなのでした。その法則と云ふのは、たとへて言へば、赤い焼火箸を長く持つて居ると、火傷をするとか、ナイフで指を大層深く切れば、いつも血が出るのだと云ふことなのです。ところでアリスは「毒薬」と書いてある瓶(びん)の水を、沢山飲めば、遅かれ早かれきつと身体をこはすと云ふことを、決して忘れずに居りました。

 けれども、此の瓶には「毒薬」と書いてありませんでしたから、アリスは思ひ切つて、嘗めて見ました。すると、大層うまいものですから(それは桜桃(さくらんぼ)の饅頭だの、カスタードやパインアップルや七面鳥の焼肉や、トフヰー、それからバタ附パンなどを、混ぜ合せたやうな味でした。)アリスはすぐにすつかり飲んでしまひました。

 

「あら、何だか変な気がしてきた! わたし望遠鏡のやうにちぢまるに違ひないわ。」とアリスは呟きました。

 それは、実際その通りなのでした。アリスは今ではほんの一尺程しか丈がありませんでした。そして、アリスはこの大きさなら、小さな扉を通つて綺麗なお庭に行けると思つたものですから、アリスの顔は、ニコニコして居りました。けれども最初の中アリスは、自分はこれより小さくちぢむのぢやないかと知らと思つて、一寸の間様子を見て居りました。アリスにとつて、それは一寸気懸りな事でした。「なぜつて、ことによると、おしまひには、私は蝋燭みたいに消えてしまふんぢやないかしら。さうしたら一体何ういふ事になるのだらう。」と、独語を言つて居りました。そして、アリスは、蝋燭が燃えてしまつてからは、蝋燭の炎は、どんな風に見えるか知ら、といろいろ頭の中で骨を折つて考へてみました。それもその筈です。何しろアリスはそんな物を、今までに見た覚えがありませんでしたから、しばらくしてから、もう何も起らないのを知つて、アリスは直ぐに庭園へ出ることにしました。ところが、まあ可哀想にアリスは、戸口に行きましたとき、小さな金の鍵を忘れて居るのに、気がつきました。で、それを取りにテーブルの処へ引返しました。が、その時アリスは、鍵に手がとどかないのに気がつきました。しかもテーブルが硝子で出来て居るものですから、鍵はそのガラスを透かして、アリスに全くよく見えるのです。アリスはテーブルの脚の一本に攀じ上らうと、一生懸命にやつて見ましたけれど、つるつるしてゐて上れません。それで疲れ切つて、可哀想にもアリスは、坐り込んで泣き出しました。

「まあ、そんなに泣いたつて仕様がないぢやないの。」とアリスは一寸鋭い声で自分に云ひました。「たつた今お止め!」アリスは大抵、自分にかう云ふよい忠告をするのでした。(けれども滅多に従つたことはありませんでした。)時によると、自分の眼に涙が出る程、手きびしく自分を叱ることがありました。アリスが或時自分相手に、珠投げ遊びをやつて居りましたとき、自分が自分を騙したと云つて、耳打をくらはせたことがありました。何故つて、この変りものの子供は、自分を二人の人間のやうに取り扱ふのが、好きなのでした。「でも、今は二人の人間のやうに、振舞ふのは駄目だわ。」と、可哀想なアリスは考へました。「何故つて、一人の立派な人間だけの、振舞もできないんだもの。」

 不図、アリスはテーブルの下に、小さな硝子の箱があるのに目をつけました。それを明けると、中には、大層小さな菓子が入つて居て、それには乾葡萄で綺麗に「お食べなさい」と書いてありました。「え、食べるわ。」と、アリスは言ひました。「これを食べて、わたしがモツト大きくなるのなら、鍵に手が届くし、もつと小さくなれば、扉の下の隙間にもぐり込めるわ。どちらにしても、お庭に出られることになる。どつちになつたつて構やしないわ。」

 アリスは一寸食べました。そして心配になつて独語をいひました。「どつちかしら、どつちかしら。」さう言ひながら、どつちになるのだか知るために、頭の上に手を載せて居りましたが、驚いた事に、ちつとも変りが起らないのでした。真実のところ、人がお菓子を食べた時、そんな風に何も起らないのが当前なのですが、アリスは今何かすれば、変つたことが起るもののやうに、待ちうける癖がついてしまつたものですから、何でもあたり前通りになつて行くと、全く退屈で馬鹿らしく思ふのでした。

 そこでアリスは又、せつせと食べだして、間もなくすつかり食べてしまひました。

二 涙の池

「変ちきりん、変ちきりん。」とアリスは叫びました。(余り驚いたものですから、アリスはその時、もつと正しい言葉を使ふことを忘れてしまつたのでした。)「今度は世界一の大きな望遠鏡のやうに、むやみと伸びるわ。足さん、左様なら。」(何故つて、アリスが下を見ると、足は最(も)う見えなくなるほど、ズツと遠くへ行つて居りました。)「まあ、可哀想な足さん、誰がおまへに、これからは靴や靴下をはかせてくれるのか知ら。わたしにはできないと思ふわ。わたしお前と余り遠く離れ過ぎてしまつたら、面倒なんか見て上げられないわ。お前はお前で、出来るだけ旨くやつていかなければ駄目よ。——でもわたし間違ひなく親切にして上げなけりや。」とアリスは思ひました。「それでないと、わたしの歩きたい方へ歩いてくれなくなるから。さうねえ、わたしクリスマスの度毎に、新しい靴を買つて上げよう。」

 そこで、アリスはどういふ風に贈物をしようかと、独りでその方法を考へてみました。「配達屋さんに、持つて行つてもらはなきやならないわ。」とアリスは考へました。「自分の足に贈物をとどけるなんて、まあ何んなに滑稽だらう。その名宛ときたら、ずゐぶんヘンテコなものだわ。

   炉格子附近敷物町

    アリスの右足様

            アリスより

「まあ、なんてつまらないことを言つて居るのだらう。」

 丁度この時、アリスの頭が広間の天井にぶつかりました。実際アリスはこの時、九尺以上も背(せい)がのびてゐたのでした。アリスは早速小さな金の鍵をとり上げて、庭の戸口へと急いでいきました。

 可哀想に、アリスは、今では横に寝ころんで、片目で庭をのぞくのが関の山でした。ぬけだすことなど、ますますむづかしいことでした。それでアリスは坐り込んで又泣き始めました。

「お前恥づかしく思はないかい。」とアリスは言ひました。「お前のやうな大きな女の子が、こんなに泣くなんて。すぐと泣くのをお止め。」そのくせアリスは相変らず、何升となく涙を流しながら、泣きつづけました。それでとうとうアリスの身の廻りに、一つの大きな池ができて、四寸位の深さになりました。そして広間の半分位までとどいて行きました。

 しばらくすると、遠くでバタバタと小さな足音がするのを、アリスは聞きました。それで、アリスはあわてて目を拭いて、何が来たかと見つめました。それは例の白兎なのでした。片手に白のキツド皮の手袋をもち、片手には大きな扇子を持つて、立派な服を着て戻つて来たのでした。兎はぶつぶつ独語を云ひながら、大急ぎでピヨンピヨン跳んで来ました。「オオ、侯爵夫人、侯爵夫人、オオ、あの方を待たしたら、お怒りが大変だらうな。」

 アリスはもうその時すつかり困り切つて、誰でもよい、助けを頼まうと思つて居たところでした。それで兎がアリスの側へ近くやつて来ましたとき、低いビクビクした声で、「もしお願ひですが——」と言ひ始めました。兎はびつくりして、ひどく跳び上つて、そのはずみにキツドの手袋と扇子を落して、一生懸命暗闇の中へ、駈け出して行きました。

 アリスは扇子と手袋を、拾ひ上げました。広間の中が大層暑いものですから、アリスは、始終扇子で煽ぎながら、話つづけました。「まあ、まあ、今日は、何て珍らしいことばかりあるんだらう。昨日なんかは、何もかも、いつもと変りなかつたわ、わたし一晩の中に、別の者に変つてしまつたのか知ら。ええと、わたし今朝起きたとき、いつもと同じだつたか知ら、何だか少し違つた気持がして居たやうにも思へるけど。でもわたし、同じ人間でないとしたら、それぢやわたしは、一体誰だといふことが、問題になつてくるわ。アア、それは大変な考へ物だ。」それでアリスは、自分と同じ年頃の子供の中、誰と変つたのかと思つて、知つて居る子供達を、あれかこれかと考へてみました。

「わたしアダ(エイダ)でないことは確かよ。」とアリスは言ひました。「何故つて、あの方の髪は、長い捲毛だけれど、わたしのはちつとも捲毛でないんだもの、それかといつてわたしメーベルでもないわよ。だつてわたし、こんなに物識(ものしり)なのに、ほら、あの子はほんのぽつちしか物を識つてゐないぢやないの。それに、あの人はあの人で、わたしはわたしだわ――マア何だかすつかり分らなくなつて来た。ええと私、今まで知つてゐた事をちやんと知つてゐるか、試してみよう。四五の十二、四六の十三、それから四七の――おやおや、こんな割合ぢや二十にとどかないぢやないの。でも、九九なんか面白くないわ。地理をやりませう。ロンドンはパリーの都で、パリーはローマの都で、ローマは――だめだわ、みんな間違つて居るわ。わたしメーベルと変つてしまつたに違ひないわ。わたし「小さな鰐が――」を唄つて見よう。」さう言つて、アリスは両手を前垂の上で組合せて、丁度学校で本でも読むように、歌をくり返し始めました。けれどもアリスの声はしやがれた妙な声で、文句がいつものやうにでてきませんでした。

   小さい鰐がピカピカと、

    光る尻尾をうごかして、

   ナイルの水をかけまする、

    金の鱗の一枚づつに、

   さも嬉しげに歯をむいて、

    きちんと拡げる肢の爪、

   小さい魚を喜び迎へる、

    につこりやさしい顎開けて。

「これでは確かに文句が違つてるわ。」と可哀想にアリスは言ひました。そして、眼の中には涙を一杯ためて、又言ひつづけました。「わたしとうとう(ママ)メーベルになつたに違ひないわ。わたしこれからは、あの汚い小さい家に行つて暮さなければならないのかしら、そしておもちやなんて、ろくにありやしないのだ。そしてまあいつでも沢山御本を読まされるんだわ。いいえ、わたし決心しちまつた。若しわたしがメーベルになつたのなら、ここに坐つたままで居るわ。みんなが頭を下げて『さあ、こちらへお出で。』と言つても、言ふことを聞いてやらないわ。わたしは上を向いたきりで言つてやらう。『でもわたしは誰なのですか。それを先に言つて下さい。そしてわたしが好きな人になつて居たのだつたら、わたし行くわ。さうでないなら、わたし誰か他の人になるまで、ここに坐つたままで居るわ。』つて。——でも、ああ何て事だ。」アリスは急に涙をドツと出して泣き出しました。「みんなお辞儀をして来てくれるといいんだが。わたし此処に独りぼつちで居ることは、あきあきしてしまつたわ。」

 かう言つてアリスは、ふと自分の手を見ました。すると驚いた事には、喋つて居る内に、自分が兎の小さいキツドの白手袋をはめてしまつて居るのを知りました。「わたしどうしてこんなことができたのだらう。」とアリスは考へました。「わたし又小さくなつたに違ひないわ。」アリスは起ち上つて丈をはかりに、テーブルの処へと行きました。するとなるほど、思つた通りに二尺ばかりの背に、なつて居りました。そしてまだずんずん縮みかけて居りました。アリスは直ちに、これは扇子を持つて居るからだといふことに気がつきましたので、あわてて扇子を投げだして、身体がすつかり縮みこんでしまふのを、やつと免かれました。

「まあ、ほんとにあぶないところだつた。」と、アリスはこの急な変り方に、大層驚きながらも、自分の身体がまだなくなつてしまはなかつたのを、喜んで言ひました。「さあ、それぢやお庭に行かう。」アリスは大急ぎで、小さな扉口の処へ引返して来ました。ところが、おや! その戸は又、元通りに閉まつて、小さな金の鍵は前のやうに、ガラスのテーブルの上に載つてゐるではありませんか。「これでは前より悪くなつたことになるわ。」と可哀想な、この子は考へました。「わたしこんなに小さくなつたことなんか、決してありやしないわ。ほんとに、これぢやあんまりひどいわ。」

 かう言つたとき、思はずアリスはするつと、足を滑らしたものです。そして、そのままポチヤンと、顎まで塩水の中に入つてしまひました。初めアリスの頭に浮んだのは、自分がどこか海にでも落ちたのだらう、といふ考へでした。「さうだつたら、わたし汽車ででも帰れるわ。」と独語を言ひました。(アリスは生れてから一度海岸に行つたことがありました。それでアリスは、英国の海岸なら、何処に行つてもそこにはいろいろの遊泳(およぎ)の道具があつて、子供たちが気の鍬(くは)で砂を掘つたり、それから宿屋が一列に並んで居たり、その後の方には、停車場があるものだと、大体思ひこんで居りました。)けれども、間もなくアリスは、自分が先き程背の高さ九尺程もあつたときに流した涙の池に、落ちて居るのだと云ふことに気がつきました。

「わたし、こんなに泣かなければよかつたわ。」とアリスは何うかして、上らうと思つて、泳ぎまはりながら言ひました。「あんまり泣いたので、自分の涙で溺れるやうな罰をうけるんだわ。でも随分妙な事があるもんだ。兎に角、今日は何から何まで変てこなことだらけだわ。」

 丁度其の時、アリスは此の池で、自分から一寸離れたところで、何かが水をばちやばちややつてゐる音を聞きました。アリスは「何だらう。」と思つて、傍へズツと泳いでいきました。最初アリスはそれは海象(かいぞう)か河馬に違ひないと思つたものです。けれどもそれから自分が今では、どんなに小さくなつて居るかといふことを思ひだしました。それでアリスは直ぐに、それが自分と同じやうに、池の中に落ち込んだただの鼠なのだといふことが分りました。

「さうだ、この鼠に話しかけたら、何かの役に立つかも知れない。」と考へました。「何もかもここでは変つて居るんだから、鼠だつてお話ができるかも知れないわ。とにかくためしてみたつて、何の損にもならないんだから。」そこでアリスは言ひ始めました。「もし鼠よ、この池の出口を知つて居るの、わたし最う泳ぎ廻るのに、すつかり疲れちやつたの。もし鼠よ。」(アリスはもし鼠よと、かう言つて鼠に話しかけるのが正しいに違ひないと思ひました。何故つて今までに、こんなことをしたことがありませんでしたけれども、兄さんのラテン文法の文に「鼠が――鼠の——鼠に――鼠を――もし鼠よ。」と書いてあるのを思ひ出したのでした。)鼠はアリスの顔を穴のあく程見つめました。そして片方の可愛らしい目で、アリスに目くばせしたやうでしたが、何にもものは言ひませんでした。「多分英語が分らないんだわ。」とアリスは思ひました。「ウヰリアム大王と一緒に、渡つて来たフランスの鼠かも知れないわ。」(アリスがこんなをかしな考へ方をしたのも、一体歴史に就いてアリスは、何とか彼(かん)とか聞き齧つてはゐましたけれども、何が何年前に起つたのだと云ふやうな、明瞭(はつきり)した考へは持つてゐなかつたからです。)そこでアリスは、又言ひ始めました。「Ou est ma chatle?」(わたしの猫は、何処に居ますか。)これはアリスのフランス語の読本の最初に、あつた文章でした。すると突然鼠は池から跳び上り、その上まだおどろきで身体中を、震はせてゐるやうにみえました。「まあ、ごめんなさい。」と、アリスは可哀想な動物の気持を悪くしたと思つて、急いで言ひました。「わたしお前さんが猫をお好きでないといふことを、すつかり忘れて居ましたわ。」

「猫は好きでない。」と鼠は憤つた金切声で言ひました。「若し、お前さんがわたしだつたら、猫が好きになれるかい。」

「うん、さうなりや多分好きにならないわ。」とアリスは宥めるやうな声で言ひました。「おこらないでね、けれどわたし家(うち)のデイナーだけは、お前さんにだつて見せたい位よ。お前さん、デイナーを一目見た日にや、きつと猫が好きになるにきまつてるわ。それは可愛らしい、おとなしい猫なのよ。」と、アリスはぐづぐづ池の中を泳ぎ廻りながら、独語のやうに、話して居りました。「その猫は、暖炉の側でやさしい声でゴロゴロ云つたり、前足をなめたり、顔を洗つたりするのよ――それから子供のお守をさせるのに、優しくつてとてもいいの。——そして鼠をとることなんか、素敵に旨いのよ――あらつ、かんにんしてね。」とアリスはまた叫びました。何故なら、今度こそは鼠が身体中の毛を逆立てたので、もうすつかり怒らしてしまつたと感じたからです。「お前さんがいやなら、わたし猫達の話なんか止めませう。」

「わたし達だつて? ふん。」と鼠は尻尾の先まで、ぶるぶるふるはせていひました。「まるでわたしまでが、そんな話を一緒にやつてるやうに聞えるぢやないか。わたしの一家の者は、むかしから猫が大嫌ひだつたのだ。あんな汚らしい下等な賤しいものなんか、もう二度とあいつの名なんか聞かせて貰ひたくないもんだ。」

「ほんとにお聞かせしないわよ。」とアリスは大層あわてて、話の題を変へようとしました。「お前さんは――あの前さんは――好きかい――あの、犬は。」鼠は返事をしませんでした。それでアリスは、熱心に話つづけました。「家の近所に大層可愛らしい小さい犬が居るのよ。お前さんに見せて上げたいわ。」

「目の光つて居る小さいテリアなの。そしてまあ、こんなに長い茶色の捲毛をして居るのよ。そして何か投げてやると、すぐにとつてくるし、そして御馳走をせがむ時には、チンチンもするの。何でも、いろんなことをするのよ。——わたし半分位しか覚えて居ないわ。——その犬は百姓のよ――あんまり役に立つんで、その百姓は千円の価値があると言つて居るわ。そして鼠なんかすつかりかみ殺してしまふんだつて、——あら、また!」悲しい声でアリスは叫びました。「又怒らしてしまつたか知ら。」なぜなら、鼠は一生懸命アリスの側から、泳ぎ去らうとして、池中を騒騒しく掻きまはしたからです。

 そこでアリスはやさしく後から、呼びかけました。「もし、鼠さん、戻つていらつしやいよ。お前さんが嫌なら、猫の話も、犬の話もしませんから。」鼠はこれを聞いて振り返つて、静かにアリスの所に泳いで来ました。鼠の顔は全く青くなつてしまひました。(怒つてゐるのだとアリスは考へました。)鼠は低いオロオロ声でいひました。「向ふの岸に行きませう、あすこでわたしは身の上ばなしをしませう。さうすれば、何故わたしが猫や犬が嫌ひだかお分りになります。」

 丁度出かけるのによい時でした。何故といつて、池の中は、落ち込んだ鳥や獣でガヤガヤしはじめて居りましたから。鴨や、ドードー(昔印度洋の Mauritius に住んで居た大きな鳥)や、ローリー(一種の鸚鵡)だの、子鷲だの、いろいろな奇妙な動物が、集つて居りました。アリスが先になつて泳ぐと、みんな後から岸に泳いでいきました。

三 コーカスレースと長い話

 池の土手に集つたものは、ほんとに奇妙な格好をした者たちでした。——尾を引きずつた鳥だの、ベツタリと毛皮が身体にまきついて居る獣たちで、みんなずぶ濡れで、不機嫌な、不愉快らしい様子をして居りました。

 勿論、第一の問題になつたのは、どうして元通りに、身体を乾かすかといふことでした。みんなはこの事に就いて、相談を始めました。しばらくする中、アリスは、自分がこの者達と、馴れ馴れしく話をしてゐるといふ事が、全く当り前のことのやうに思はれました。まるで、皆と小さい時分から、知り合だつたかのやうに。で、実際アリスは、ローリーと随分長いこと議論をしましたので、とうとうローリーは不機嫌になつてしまつて、「わしはお前より年をとつてゐる。だからお前より、よく物を知つて居るに違ひないんだ。」と言ひました。しかしアリスは、ローリーの年がいくつだか知らないうちは、承知ができませんでした。ところがローリーは、自分の年を云ふことを、はつきりと断りましたので、議論はそれつきりになつてしまひました。

 最後に、仲間の中で、幾分幅の利くらしい鼠が言ひ出しました。「みなさん、坐つてわたしの云ふことを、聞いて下さい。わたしは直ぐに皆さんをよく乾かして上げます。」みんなは、一人残らず坐つて、大きな環をつくりました。そしてその真中には鼠が坐りました。アリスは心配さうに、鼠をヂツと見て居ました。何故なら、早く乾かしてもらはないと、ひどい風邪でも引きさうで、しやうがありませんでしたから。

「エヘン。」と鼠は、勿体ぶつた様子をしました。「皆さん初めてよろしいですか。これはわたしの知つて居るかぎりでは、一番干からびた面白くない話です。どうか皆さんお静かに――さて法王より許しを得たウヰリアム大王は、やがてイギリス人の帰順をうけたのであります。その時イギリス人は指導者を必要として居ました。そして専制と征服には、その当時馴らされて居りました。ヱドウヰンとモルカー、即ちマーシヤ及びノーザムブリアの両伯爵は――。」

「うふ。」とローリーは、身慄ひをして言ひました。

「一寸伺ひますが。」と鼠は顔をしかめながら、しかし叮嚀に「君は何か言ひましたか。」

「いいえ。」とローリーはあわてて答へました。

「わたしはまた、何か言はれたと思つたのでした。」と鼠は言ひました。「では、先をお話しませう。エドウヰンとモルカー、即ちマーシャ及びノーザムブリアの両伯爵は、王のための宣言をしました。愛国者であるカンタベリーの大僧正、スタイガンド(Stigand)ですらも、それを適当なことと知りました――。」

「何を見つけたつて?」と鴨が言ひました。(英語で今の「知りました。」といふ言葉は、普通「見つけた。」といふ意味に、使はれるものだからです。)

「それを知つたのだ。」と鼠は一寸おこつて答へました。「勿論のこと、君は『それ』が何のことだか知つて居るだらう。」

「わたしは自分で何か見つけるとき、『それ』が何であるか、よく分るんだよ。」と鴨が言ひました。「大抵のところ、それは蛙か、みみずなんだよ。それで問題はだね、大僧正が何を見つけたかといふことだ。」

 しかし鼠は、此の問にかまはないで、急いで話を続けました。「——エドガア・アスリングと一緒に、ウヰリアムに会つて、王冠を捧げることを、よいことだと知つたのでした。ウヰリアムの行ひは初めの中は穏かでした。けれども、ノルマン人の無礼な――、ねえ、どうです。お工合は。」と鼠はアリスの方を向いて言ひました。

「まだやつぱり、びしよびしよよ。」とアリスは悲しさうな声で言ひました。「そんな話なんか、ちつともわたしを乾かしてくれさうもないわ。」

「左様な、場合には。」とドードーは、偉さうな風をして、立ち上りながら言ひました。「わたしは此の会議を延ばすことを申し出ます。その理由は、一層有効なる救済法を、直ちに採用せんがためであります。」

「英語で言つてくれ。」と子鷲が言ひました。「わたしにや、今の長い言葉の意味が半分も分らないや。第一お前さんだつて分つて居さうもないね。」

 かう言つて子鷲は頭を下げ、うすら笑ひをかくしました。外の鳥たちは聞えるほど大きな声で笑ひました。

「わたしが言はうとしたことは。」とドードーは、怒つた声で言ひだしました。「われわれを乾かすためには、コーカスレースをやるのが一番いいといふことだつたのです。」

「コーカスレースつて、何のことですか。」とアリスが言ひました。そのことをアリスはひどく知りたいと思つた訳ではないのです。ただドードーが、あとは誰か他の者が、口を利くべきだとでも思つたやうに、一寸口をやすめたのに、誰も話しだす様子が、見えなかつたからなのです。

「ウン。」とドードーは言ひ出しました。「それを一番よく分るやうにする方法は、それをやつて見ることだ。」(みなさんの中、冬になつて、これをやつて見たいと思ふ人が、あるかも知れませんから、ドードーがやつて見せた通りを、お話する事にします。)

 まづドードーは、輪の形に競走場を仕切りました(「さうキチンとした輪の形でなくてもよい。」とドードーは言ひました。)それから仲間達を、仕切に沿うて、あちら、こちらに並べました。そして競走は「一・二・三よし。」の合図なんかなしで、みんな思ひ思ひの時に走り始め、好きなときに止めるのでした。それですから競走がいつ済んだかなどといふ事は、一寸分りませんでした。けれども皆が三十分かそこら走つて、もうすつかり身体が乾いてしまひました。そのとき、ドードーが急に「競走終り。」とどなりました。で、みんなはドードーの周りに集まつて、呼吸を切らせながら「だけど誰が勝つたんだ。」と訊きました。

 この問にはドードーは、よほど考へなければ返事をすることができませんでした。それで長い間一本の指を額にあてて、(これはシエークスピヤの画像で、みなさんがよく見る姿勢です。)坐りこんで居ました。其の間他のものは黙つて待つて居ました。やがてドードーは、やつとかう言ひました。

「みんなが勝つたんだ、だからみんなが賞品をもらふのだ。」

「では誰が賞品をくれるのですか。」とみんなは一斉に訊きました。

「うん、あの子だよ無論のこと。」とドードーは一本の指で、アリスを指さしながら言ひました。そしてみんなは、直ぐにアリスの周囲に集まつて、あちらからも、こちらからも「賞品を、賞品を。」とワアワア言ひました。

 アリスはどうしてよいか、考へがつきませんでした。で、困りきつた揚句、ポケツトに手を突込んで、ボンボンの入つた箱をひつぱり出しました。(幸ひにもそれには塩水が入つて居りませんでした。)そしてこれを賞品として、みんなに渡しました。丁度一人に一つづつありました。

「だがあの子だつて、賞品を貰はなければならないよ。ねえ。」と、鼠が言ひました。

「勿論さ。」とドードーは、大層真面目くさつて答へました。「外には何がポケツトに入つて居ますか。」とアリスの方を向きながら、鼠に言ひました。

「指貫だけ。」とアリスは悲しさうに言ひました。

「それをここへお渡し。」とドードーが言ひました。

 それからみんなは、最う一度アリスのぐるりに、集まつてきました。それからドードーは、おごそかに指貫をアリスに贈つて言ひました。「わたし達は、あなたがこの立派な指貫を、お受取り下さることをお願ひします。」この短い演説が終(す)むと、一同は拍手をしました。

 アリスはこの様子を、随分馬鹿らしいと思ひましたが、みんなが真面目くさつた顔をして居るものですから、笑ふことも出来ませんでしたし、それに何も云ふことを考へつきませんでしたから、ただ一寸お辞儀をしたきりで、出来るだけしかつめらしい顔をして、指貫を受取りました。

 さて、次にすることは、みんながボンボンを食ふことでした。このことはかなりの騒ぎを起して、ガヤガヤしました。何しろ大きな鳥はこれぢや味も分らないと言つて、ブツブツ不平を言ひますし、小さい鳥は喉につかへて、背中をたたいて貰ふ有様でした。けれどもやつとその騒ぎも終んで、みんなは車座に坐つて、鼠にもつとお話しをして呉れと頼みました。

「お前さんは、身の上話をするつて約束したでせう。」とアリスが言ひました。「そして――あの、ネの字とイの字が、何故嫌ひだかつていふことをね。」とアリスはまたおこられやしないかと思つて、小さい声で言ひました。

「わたしのお話は長い、そして悲しいものなんです。」と鼠はアリスの方を向いて、溜息をつきながら言ひました。

「全く長い尾だわ。」とアリスは、不審さうに、鼠の尻尾を見て言ひました。「けれどもそれが何故悲しいといふんですか。」(英語で「おはなし」といふ語は「尻尾」といふ言葉と音が同じに聞えるのです。)そして鼠がお話をする間も、アリスはその謎を一心に考へ解かうとしてゐました。ですからアリスの頭の中では、鼠のお話が一寸次のやうな風になりました。

   やま犬が、お家で

   会つた 鼠に

    いひました。

    「裁判遊びを二人

   でしようぢやないか。

    そしておれはおまへを

    訴へてやる――。」

    「うん、わたしは

    いやとは言はぬ。

    今朝はわしは

     仕事がないか

     ら裁判遊びを

     してもよい。

     と鼠が言ひ

      ました。

      「ねえ、君

   陪審官もない

    判事もない

     そんな裁判は

    息が切れてしま

    ふ「だらうて。」

    「なにわたしは

    判事にもなつ

     たり、陪審

      にもなつた

      りする。」

    と年をとつた

     ずるい犬

      は言ひまし

       た「わしが

        ひとりで裁判

         をやつて

          お前に

           死刑の

            宣告をしてやる。

「お前は聞いて居ないな。」と鼠はきびしい声で、アリスに言ひました。「お前は、何を考へて居るのだい。」

「ごめん遊ばせ。」とアリスは大層へり下つて申しました。「お前さんは、五番目の曲処(まがりめ)に来たんだつたねえ。」

「さうでない。」と鼠は強く大層怒つてどなりました。

「難問ね。」とアリスはいつも、自分を役に立てさせようと思つて、心配らしく周囲を見ながら言ひました。「まあ、わたしにその難問を、解く手伝ひをさせて下さいな。」

「わたしはそんなことは知らんよ。」と鼠は立ち上つて、歩きながら言ひました。「お前はこんなつまらないことを言つて、わしを馬鹿にしてゐる。」

「わたしそんなつもりではなかつたのよ。」とアリスは可哀想にも、言ひ訳をしました。「けれど、あなたはあんまり怒りつぽいわ。」

 鼠は答へる代りに唸つた許りでした。

「どうか戻つて来て、お話をすつかり済ませて下さい。」とアリスは後から、呼びかけました。そして外のものも、一緒に声を合せて言ひました。

「さうです、どうかさうして下さい。」けれども鼠は、がまんして居られないやうに、ただ首を振つただけで、前より足を早めて歩いて行きました。

「鼠君がここに留つてゐてくれないとは、全く残念なことだ。」とローリーは、鼠が見えなくなると、直ぐさま溜息をして言ひました。この時、年をとつた蟹が自分の娘の蟹に言ひました。「ねえ、お前、これを手本にして、決して怒るものぢやないよ。」

「言はなくつてもいいわよ。母さん。」と若い蟹は少し怒つて言ひました。

「牡蠣の我慢強いのを真似れば十分だわ。」

「家のデイナーがここに居ればよいんだけれど。」とアリスは大きな声で、別に誰に話しかけるともなしに言ひました。「デイナーなら、鼠をぢきに連れてかへるわ。」

「デイナーつて誰ですか、お聞かせいただけませんでせうか。」とローリーが言ひました。

 アリスは夢中になつて答へました。何しろこの秘蔵の猫の事ときたら、いつでも話したくて、むづむづしてゐるのですから。「デイナーつて云ふのは、家の猫ですわ。そして鼠をつかまへるのが、お前さん考へもつかない程に、随分上手なのよ。それにまあ鳥を追つかけるところなんか、本当に見せたいわ。鳥なぞ狙つたと思つてると、もう食べてしまつてゐる位よ。」

 このお話は、仲間に大変な騒ぎを起させました。鳥の中には、あわてて逃げだしたものもありました。年をとつたみそさざいは、注意深く、羽づくろひをしていひました。「わしはほんとに家に帰らなければならない。夜の空気は喉をいためていけない。」すると金絲鳥は、声をふるはしながら、子供たちに言ひました。

「さあお帰り、寝る時刻ですよ。」いろいろと口実を作つて、みんな去つてしまひました。それでアリスが独ぼつち遺されてしまひました。

「わたしデイナーの事なんか、言はなければよかつたわ。」と悲しい調子で独語を言ひました。「此処では誰もデイナーが嫌ひらしいわ。デイナーは確かに世界中で一番好い猫だと思ふんだけれど。まあ、わたしの可愛いデイナー、わたしまた、お飴に会へるかしら。」さう言つてアリスは、又泣き始めました。アリスは大層淋しくて心細くなつたからでした。けれどもしばらくすると、遠くの方から、又もぱたぱたといふ小さい足音が聞えてきました。アリスは事によつたら、鼠が機嫌をなほして、お話をスツカリ済ませに帰つて来たのではないかと思つて、熱心に上を見て居りました。

四 兎が蜥蜴(とかげ)のビルを送出す

 それは白兎でした。ノロノロと歩いて来ながら、まるで何か落し物でもしたやうに、周囲(まはり)を、ヂロヂロと見て居ました。そしてアリスは、兎が独で、次のやうにぶつぶつ言つて居るのを耳にしました。「侯爵夫人、侯爵夫人、まあ、わたしの足、まあ、わたしの毛皮と鬚、夫人はわたしをきつと死刑になさることだらう。わたしどこで落したんだらうかなあ。」アリスは直ぐに兎が、扇子と白いキツドの手袋を探して居るのだと考へました。そこで、親切気を出して、探してやりましたが、どこにも見当りません。——アリスが池の中で泳いでからは、すつかり何もかも変つてしまつたやうに見えました。ガラスのテーブルや、小さな扉のある例の大きな広間は、すつかり消えてなくなつてゐるのでした。

 アリスが探し廻つて居ます中、兎はすぐにアリスを見つけて怒つた声でどなりました。「おい、メーリー・アン、お前はここで何をして居るのだ。直ぐ家へ走つて帰つて、手袋と扇子を持つてこい。さあ早く。」

 アリスはこの言葉に驚いて、人違ひだと言訳をするひまもなく、兎の指ざした方へと、直ぐに走つて行きました。

「あの人、わたしを女中と思つたんだわ。」と、アリスは走りながら、独語を言ひました。「わたしが、誰だか分つたら、どんなに驚くことでせう。でも、手袋と扇子をとつて来てやつた方がいいわ――もし手袋と扇子が見つかるものならねえ。」かう言つて居るとき、アリスは小さいキチンとした家の前に出ました。その家の玄関の戸には、ピカピカする真鍮の名札に「W. Rabbit」と、彫りつけてありました。アリスは案内も乞はずに、あわてて二階へ上りました。それは手袋や扇子を見つけない中に、ほんたうのメーリー・アンに会つて、追ひ出されるといけないと思つたからでした。

「ずゐぶん妙ねえ。」とアリスは、独語をいひました。「兎のお使ひをするなんて。此の次にやデイナーがわたしを、お使ひに出すかも知れないわ。」かう言つてアリスは、これから先き起つて来ない事でもない、さういふ事を考へて居りました。

「アリス嬢さん、すぐいらつしやい。御散歩(ごさんぽ)のお支度をなさいませ。」「ばあや、直きに行つてよ、でもね、わたしデイナーが帰るまで、此の鼠の穴を見張りしてやる事にしたの。鼠が出ないやうにね。」——などとアリスはしやべり続けました。「だけれど、もしデイナーがうちの人達にこんなに用をいひ付けるやうになつたら、うちの人達はデイナーを内には、おかないでせうねえ。」

 この時アリスは、小綺麗な室に入つていきました。窓際にテーブルが、一つ置いてありました。その上には「アリスが望んだやうに」一本の扇子と小さい白のキツドの手袋が、二三対置いてありました。アリスは扇子と手袋を、とり上げて、室を出て行かうとしましたとき、鏡のそばにあつた小さな壜に、ふと目を留めました。今度は「お飲み下さい」と云ふ札は、貼つてありませんでしたが、それでも構はず栓を抜いて、唇にもつていきました。そして独語に「何かしら、面白いことがきつと起るのね、何か食べたり、飲んだりするといつも。だから今に此の壜のおかげで、どうなるか試してやらう。わたし元通りに大きくなりたいわ。こんなちつぽけなものになつて居ることなんか、あきあきしてしまつたんだもの。」そして実際その飲物は、力をあらはしました。しかもそれはアリスが思つたよりズツと早く、半分も飲んでしまはないうちに、アリスの頭は天井につかへてしまつて、首を曲げないと、折れてしまふほどになりました。アリスは、急いで壜を下に置き、独語をいひました。「もう沢山、——わたしこれ以上もう大きくなりたくないわ。これでは戸口を通つて出られやしない。——わたしこんなに飲まなければよかつた!」

 ああしかし、もう間に合ひませんでした。アリスはズンズン大きくなつて、間もなく、床に膝をつかなければなりませんでした。しかしもう、それでも窮屈になつてしまひましたから、片肘を戸口に支へて、片腕を頭にまきつけて、寝そべつてみました。ところがそれでもズンズン延びていきましたので、仕方なくアリスは、窓から片腕を出して、片足を煙突の中に入れて、独語をいひました。

「これぢやあとどうなつても、もう何にも仕様がないわ。一体わたしどうなることだらう。」

 ところが運よく、魔法の壜の効力は丁度此の時で、すつかり尽きたのでした。で、アリスはもうその上、大きくはなりませんでした。でも相変らず不便でした。そしてもう室から出て、いけさうにもないと思ひましたので、アリスはしみじみ、不幸(ふしあはせ)なことだと思ひました。

「おうちに居た時の方が、ずつと気が楽だつたわ。」と可哀想なアリスは思ひました。「大きくなつたり、小さくなつたり、なんかしないし、又、鼠や兎に用をいひつけられることなんかないから。わたし兎の穴に入らなければよかつたんだわ。でも――でも――こんな目に逢ふのも、一寸めづらしい事だわねえ。どうしてこんなことになつたのか知ら。わたし、いつそお伽噺を読んでも、そんな事があるなんて思つた事なんてないのに。それが今では、わたしがその中に入つて居るんだもの。きつとわたしのことを書いた本が、できると思ふわ。きつと。わたしが大きくなつたら、書いて見ようかしら。——でも、わたし今では大きくなつて居るのねえ。」と、悲しさうな声でアリスは云ひました。「兎に角ここではもう、これ以上大きくならうつたつて、なりやうがないわ。」

「でも、さうなれば。」とアリスは考へました。「わたしは今より決して年をとらないで、居られるんぢやないかしら。さうなら有難いわ。とにかく、決しておばあさんに、ならないなんて――でもさうすると――いつも御本を教はらなければならないのねえ。ああ、わたし、それは御免だわ。」

「まあ、馬鹿なアリス。」とアリスは自分で返事をしました。「どうしてお前こんなところで、勉強ができて? お前の居るだけがやつとなのに、教科書を置くところなんか何処にあるの!」

 かう云ふ風にアリスは、一人で、こつちの話手、あつちの話手になつてお話をして居ましたが、少し経つて外で声がしましたので、自分のお話を止めて、耳をすませました。

「メーリー・アン、メーリー・アン。」とその声は言ひました。「すぐにわたしの手袋を持つて来てくれ。」それからパタパタといふ小さい足音が、階段に聞えました。アリスは兎が自分を、さがしにやつてきたのだといふことを知りました。それでアリスは自分の身体が、今では兎の大きさの千倍程もあり、兎なんか怖がる理由はないなんていふことを、すつかり忘れてしまつて、家がゆらぐ程身ぶるひをしました。

 やがて兎が入口のところまで上つて来て、戸を開けようとしましたが、その戸は部屋の中の方へ押すやうになつて居て、アリスの肘が、それを強くつつぱつて居ましたので、開けようたつて駄目でした。このとき、アリスは「廻つて、窓から入らう。」と兎が言つて居るのを聞きました。

「それも駄目だわ。」と、アリスは考へました。しばらく待つて居ると、窓下に丁度兎が来たやうな足音が聞えましたので、アリスは、だしぬけに、手を出して一掴みしました。けれどもアリスは何もつかまへられないで、小さいキヤツと云ふ声と、ドタンと落ちた音と、ガラスの破壊れた音を聞きました。その音でアリスは、胡瓜の温室か何かの上に、兎が落ちたのだと考へました。

 すると怒つた声が聞えてきました。——それは兎の声でした。——「パツト、パツト。お前は何処に居るのだ。」するとこれまでに聞いたことのない声が「ここに居ますよ、御主人様、林檎の植付けをやつて居るんですよ。」と言ひました。

「何だ、林檎の植付けだつて。」と兎は怒つて言ひました。「さあ、ここへ来てわたしを、ここからだして呉れ。」(ガラスのこはれる音が又しました。)

「おい、パツト、窓のところにあるのは、あれは何んだい?」

「御主人様、あれは確に腕ですよ。」(その人は「う、うで」と腕のことを言ひました。)

「腕だつて? 馬鹿! あんな大きな腕があるかい。窓中一杯になつて居るぢやないか。」

「御主人様、全くさやうでございます。でも、なんと言つても腕でございます。」

「ウン、だが兎に角、此処には用がない。行つて出してしまへ。」

 それから長い間、シンと静まり返つてゐました。アリスは時時次のやうな囁き声をきくだけでした。「ほんとに、御主人様、実際嫌ですよ。全くのこと」——「わしの云ふ通りにしろ、この臆病者め!」そこでアリスはとうとう又手を延ばしだして、もう一度空をつかみました。今度は二つの小さいキヤツと云ふ声がして、ガラスの破壊れる音がまたしました。「まあ随分沢山胡瓜の温室があるらしいわねえ。」とアリスは考へました。「あの人達、今度は何するか知ら。わたしを窓から引張りだすつて、さうして呉れれば仕合せだわ、わたしはもうこれ以上、ここに居たくなんかないんだもの。」

 アリスは暫らくの間、待つて居ましたが、何にももう聞えませんでした。やがて小さな手押車の輪の音が、聞えて来ました。そして多勢(おほぜい)の声が、がやがや話合つて居るのが聞えました。アリスは、その言葉を聞き分けてみました。

「別の梯子は、どこにある。——一つしかありませんでした。ビルが一つもつて行つたんです。——ビル、ここへそれを持つて来い。——それをこの隅へ立てかけろ。——さうぢやない、先づしつかり一緒に縛りつけるんだ。——まだ半分にもとどかない。——まあ、これでも十分ですよ。そんなに口やかましく云はないで下さい。——おい、ビル。この縄をしつかりつかまへるんだ。——屋根は大丈夫かい。——そのブラブラの瓦に気つけろ。——やあ落ちかかつて来た。真逆様に(大きな音がしました)——これ、誰がしたんだ。——ビルらしいなあ。——誰が煙突を下りるのだい。——いやだ、おれはいやだ。——お前やれ。——そんなことはいやだよ。——ビルが下りなきやいけない。——おいビル、御主人がお前に下りろと云ふ、御言ひ付けだよ。」

「まあ、それではビルが、煙突を下りることになつたのねえ。」とアリスは独語をいひました。「まあ何もかも、ビルに押しつけるのねえ。わたしなら何をもらつたつて、ビルになりたくないわ。この炉はほんとに狭くるしいのねえ。でも、少し位なら、蹴られさうに思へるけれど。」

 アリスは煙突の下まで足をのばして、待つて居ると、やがて小さな動物が(それはどんな種類のものだか、分りませんでしたが)アリスのすぐ頭の上で、煙突の内側を引つかいたり、這ひまはつたりする音が聞えはじめました。その時アリスは「それがビルだな。」と独語をいつて、きつく蹴つてみました。そして次にどんな事が起るかと、待ち構へて居りました。

 最初にアリスの聞いた事は「や! ビルが出て来た」と云ふ大勢の声でした。それからは例の兎の声だけになつて「あいつをうけてやれ、そら垣根の傍にゐるお前が。」といひました。それから一寸静かになり、その中又ガヤガヤと声がしだしました。——あいつの頭を上にしてやれ。——さあ、ブランデーだ。——喉につかへさせないやうにしろ。——どうだい、おい。どうしたんだ。のこらず話して聞かせてくれ。」

 すると、小さな元気のないしはがれた声がしました。(「あれがビルだな。」とアリスは思ひました)「うん、どうもわからないんだ。——いや、もういいんだよ、ありがたう。もうよくなつたよ。——けれどわしはすつかり面喰つちまつたんで、お話ができないよ。——わしの覚えて居ることは、何かびつくり箱のやうなものが、わしにぶつかつて来て、わしは煙火(はなび)みたいに、うち上げられたつて事だけだ。」

「うん、そんな具合にとび出して来たつけ。」と、外(ほか)の者たちが言ひました。

「この家を焼き払つてしまはなければならん。」と兎の声が言ひました。それでアリスは出来るだけ大きな声で「そんな事したら、デイナーをけしかけてやるわよ。」と言ひました。

 すると、忽ちあたりがしんと静まりかへつてしまひました。アリスは独考へました。「皆達、今度は何んな事をするだらう。みんなが少し智慧があるなら、屋根でもめくるだらうが。」二三分の後みんなは再び動き廻りはじめました。そしてアリスは兎が「初めは車一杯でいいや。」と云ふのを聞きました。

「何を車一杯なんだらう。」とアリスは思ひました。けれども永くそれをいぶかつてゐる暇もなく、すぐと小砂利の雨が、窓からパラパラと入つて来ました。中にはアリスの顔に当るものもありました。「わたし止めさせて見せるから。」と、アリスは独語をいつて、大きな声でどなりました。「お前たち、そんなことをしない方が身のためだよ。」すると、すぐに又シンと静になつてしまひました。ふとアリスは砂利が床の上に落ちたまま、小さなお菓子に変つてゐるのに気付いて、びつくりしてしまひました。が、そのときアリスの頭に、愉快な考へが浮びました。「わたしこのお菓子を一つでも食べると、身体の大きさが、変るに違ひないわ。そしてこれ以上もう大きくはできまいから、きつと小さくなる方なんだわ。」

 そこでアリスはお菓子を一つのみこみました。すると直ぐさま小さくなり出したので、アリスは大喜びでした。入口を通れる位、小さくなると直ぐ様、アリスは家から駆け出しました。すると小さい獣や鳥が、ウヨウヨとして外で、アリスを待つて居るのでした。可哀想な小さい蜥蜴のビルがその真中にゐて、二匹の豚鼠(ギニアピツグ)に身体を支へられ、それに壜の中の何かをのませてもらつて居ました。アリスが出てくると、みんなは一斉にアリスめがけて詰めよせて来ました。しかしアリスは一生懸命馳けだして、直ぐにコンモリ繁つた森の中へ、避難してしまひました。

「まづわたしが、しなければならないことは。」とアリスは、森の中をブラブラ歩きながら、独語をいひました。「もと通りのほんとの大きさになることだわ。その次には、あの綺麗なお庭に行く道を見つけること。わたしこれが一番いいやりかただと思ふわ。」

 これは疑ひもなく、大層すぐれた、そしてやさしい計画のやうでした。ただむづかしいことは、アリスは、それをどう手をつけてよいか、少しも考へのないことでした。アリスが樹と樹の間を、キヨロキヨロして覗き見してゐますと、頭の上で小さい鋭い吠声がしますので、アリスはあわてて上を向いて見ました。すると大きな犬ころがアリスに触はらうとでもするやうに前足をそつと出し、大きな丸い目で、アリスを見下して居ました。

「まあかはいい犬だこと。」とアリスはやさしい声で言つて、一生懸命口笛を吹かうとしました。が、アリスはこの犬は御仲をへらして居るかも知れない、もしさうだといくら御機嫌をとつても、自分が食べられると思つて、内心びくびくして居ました。

 アリスは殆んど夢中で、小さな一本の棒を拾ひ、犬ころの方に突きだしました。すると犬ころはキヤンキヤン嬉しがつて、ただちに四足をそろへて宙にとび上つて、棒にとびかかり、噛み付きさうな風をしました。そのときアリスは、頭の上をとびこされないやうにと、大きな薊(あざみ)の後にかくれました。そしてアリスは向ふ側に出たとき、犬ころは棒にとびつきました。そしてそれを、つかまへようとして、でんぐり返りました。このときアリスは、この犬ころとふざけるのは、荷馬車ひきの馬と、遊んで居るやうなものだと思ふと、今にもその足の下に踏みつけられさうなので、また薊のぐるりをかけだしました。それから犬ころは棒切めがけて、何度も小攻撃をやりだし、その度に一寸進み出ては、ぐつと後退りして、その間たえずキヤンキヤン吠え立ててゐましたが、とうとう息をハアハアきらせ、口から舌をだらりとだし、大きな目を半分とぢて、ずつと向ふで坐りこんでしまひました。

 こりや逃げるのに、有難い仕合せとアリスは直ちに、駈けだしました。余り駈け過ぎたので、すつかりくたびれて、息が切れてしまひました。が、もうその時は犬ころの吠声は、遠くの方で、微かに聞えるだけになつてゐました。

「でもまあ、なんて可愛らしい犬ころだつたらう!」とアリスは一本の金鳳花に、よりかかつて休みながら、一枚の葉を扇子がはりにして、煽ぐのでした。「わたし、あたり前の背(せい)でさへあれば、いろんな芸をしこんでやるんだけれど。さうさう、わたし元通り、大きくならなければならないといふことを、すつかり忘れてゐたわ。——さうねえ――どうしたら大きくなれるんだらう。わたし何か飲むか食べるか、しなければならないと思ふわ。けれども『何を』といふことが大問題なんだわ。」

 たしかに、大問題は『何を』と云ふことでした。アリスは身のまはりの、花や草の葉を見まはして見ましたが、この場合、飲んだり食べたりしてよささうなものが、見つかりませんでした。

 アリスの近くに、大きな蕈(きのこ)が生えて居りました。それは丁度アリスの大きさ程でありました。アリスはその蕈の裏を見たり、両側から見たり、うしろへまはつて見たりしましたが、今度はその上に何があるか、見たくなつて来ました。

 アリスはつまさきで立つて、蕈の端から見ました。すると直ぐにアリスの目は、大きな青い芋虫の目にはたと、ぶつかりました。芋虫は頂辺に腕組みで坐つて静かに長い水煙管(みづぎせる)を吸つて、アリスにも又は外の何にも、少しも気をとめて居ない様子でした。